
updated 3 April 2000
思いつき的研究史
内田 樹(うちだ・たつる)
1950年9月30日 東京生まれ。父はふつうのサラリーマン、母はふつうの専業主婦。兄はふつうの男の子。漫画ばかり読んでいることと虚弱である以外は、ふつうの子供。
1963年3月 大田区立東調布第三小学校卒業。四年生のときに地元の小学校で壮絶な「いじめ」にあって転校。転校先のこの小学校でのちにビジネス・パートナーとなる平川克美と会う。
1966年3月 大田区立矢口中学校卒業。中学二年のときに大阪の池田敏氏が主宰するSFFC(SF Fan's Club)に加盟。SFFCは全国の中学生をネットした不思議な地下組織。「ご禁制のSFを読む地下抵抗運動ごっこ」に興じる大阪の山本浩二、横浜の佐藤昇、 東京の松下正己ら「おそるべき子供たち」と知り合う。
1966年4月 東京都立日比谷高校入学。雑誌部に所属。この「超絶的生意気高校生クラブ」には、夭逝した新井啓右君、塩谷安男君(現・弁護士、洗足学園大学教授)、橋本昇二君(現・東京高裁判事)、小口勝司君(現・昭和大学教授)らの伝説的な秀才が集まっていた。彼らに対抗するには「過激さ」で勝負するしかないとすばやく見極めた私は、悪い上級生の感化もあって、たちまち札付きの「不良高校生」となる。
1968年3月 同校退学。「革命が起こるのにこうしちゃいられん」と学校をやめたのはいいけれど、世間の風は冷たく、しっぽを巻いて泣き泣き家にかえる。
1968年10月 大学入学資格検定合格。同級生より半年はやく高校を卒業したことになる。早速、くわえ煙草で日比谷にゆき、「高校生諸君、がんばっとるかね」とうそぶいて教師と生徒全員の顰蹙を買う。
1969年4月 駿台予備校入学。お隣の明治大学に打ち込まれる催涙ガスに涙ぐみながら連日麻雀。
1970年4月 東京大学教養学部文科III類入学。空手部と軽音研と歴史研究会とマルクス主義研究会に所属。空手部は酔っぱらってOBを殴って退部。軽音研はドラムが下手すぎて退部。歴研は備品の古文書を神田の古本屋にたたきうったのがばれて退部。マル研からは「プチブル的生活態度」が改められず放逐。
1972年4月 東京大学文学部フランス文学科進学。教養時代のフランス語はオールC。卒業までにせめてフランス語だけでも身につけようと仏文に進学したが、仏文科は「フランス語ができる学生たち」のための学科だったので、たちまち劣等生になり教室の片隅でしのび泣く日々。
1975年3月 同学科卒業。卒論はメルロー=ポンティ。指導教官は菅野昭正先生。菅野先生には91年の秋に映画館のトイレで会った。「あ、先生」と呼びかけたら「誰、君」と怪訝な顔をされた。(しくしく)少し前まで「日帝打倒」などと叫んでいた手前もあって卒業はしたものの就職などできるはずもなく、そのまま即プー。
卒業に際して「これからもずっとおともだちでいようね」と六人の学友と「蛍雪友の会」を結成。メンバーは故・久保山裕司(コピーライター)、伊藤茂敏(コスモ石油)、竹信悦夫(朝日新聞)、浜田雄治(在香港)、太田泰人(神奈川近代美術館学芸員)、行方正佳(中央信託銀行)。のちに澤田潔(コニカ)が参加。
1975年12月 合気道自由が丘道場入門。もともと武道は好きで、小学校中学校は剣道、予備校時代は空手、大学入学後も空手、少林寺拳法と道場を転々としたが、どれも長続きしない。自由が丘の家の近くの道場にふらっと入門したときも合気道が何だかまったく知らなかった。この道場で多田宏先生(合気会本部師範、イタリア合気会創設者)に出会い、直接その教えを受け、ついに自分が求めていたものを見つける。
1977年1月 株式会社アーバン・トランスレーション創立。勤め先がなければ自分で創ろうという「のび太」的発想のもとに小学校以来の親友、平川克美(この人も早稲田を出て、そのままプー)たちと翻訳会社をつくる。澁谷の道玄坂に開業。時代のニーズにあったのか、売り上げは毎月倍増、あっというまにビッグビジネスになってしまった。「なんだ、資本主義ってよい制度なんじゃないか」とふたりで「日帝打倒」を反省。
1977年4月 東京都立大学大学院人文科学研究科修士課程(フランス文学専攻)入学。同期は18世紀フランス思想の飯野和夫(現・名古屋大学教授)とロートレアモン研究の故・岸本浩。わたしがなぜ入学できたのかは謎。
入学後も大学院と会社経営の二足の草鞋。修士1年目は1科目しか単位がとれず育英会に奨学金打ち切りの通告を受ける。「この学生は優秀なのですが、貧困のため通学もままならぬのです」という始末書を野沢協先生に書いて頂いて救われる。(先生ありがとうございました)
1980年4月 同大学院博士課程進学。修士論文はモーリス・ブランショ。指導教官は故・足立和浩先生。先生の御指導はただひとこと「うん。これでいいんじゃない」だけであった。(合掌)
このときにブランショと影響関係のある哲学者としてはじめてエマニュエル・レヴィナスの名を知る。適当にカタログを見て、フランスに何冊か発注。たまたま手にとった『困難な自由』の最初のテクスト「倫理と精神」を読んで衝撃を受け、「この人についてゆこう」と決心。
1981年5月 日本フランス語フランス文学会(青山学院大学)でブランショとレヴィナスについての口頭発表。不評のうちに終わり「都立大学の博士課程在籍者の学会発表は学会誌に掲載されない」ジンクスをただしく継承して後代に伝える。(後輩のみなさんごめんね)
1982年4月 博士課程を単位取得できぬままに中退。東京都立大学人文学部助手(フランス文学専攻)に採用。なぜ採用されるに至ったかは謎。
1985年9月 レヴィナス先生の最初の訳書『困難な自由』を国文社から刊行。仕事を紹介してくれたのは足立先生(先生お世話になりました)。このとき国文社に入社早々の若手編集者中根邦之氏と知り合い、以後共同作業でいくつも訳書を出すことになる。
1987年9月 エマニュエル・レヴィナス先生にお目にかかる。後輩の松本雅弘君(現・鳥取大学助教授)のマラルメ聖地探訪ツアーのおともで渡仏。パリでレヴィナス先生をおたずねする。階段をのぼってゆくと先生は玄関の前で両手を拡げて迎えてくれた。このときにレヴィナス先生の思想は抽象的な理論ではなく、骨肉化した生き方なのだということを知り、(勝手に)「お師匠さま」と呼ぶことに決める。
1990年4月 神戸女学院大学文学部総合文化学科に助教授として採用される。それまで助手生活8年間にアプライした公募が30校余。その全部に落ちた。「こりゃもうだめかな」と転職を考えていたら神戸女学院大学が拾ってくれた。採用のために奔走してくださった先生方には一生足を向けては寝られない。神戸女学院大学は(身びいきでいうわけではありませんが)じつによい大学です。
1991年4月 社会人団体の神戸女学院合気道会と学生のクラブである神戸女学院大学合気道会の二団体を創設。1年目のクラブ紹介で「武道はこれからの女子大生の必須科目」とアピールしたら、なんと50名の一年生が入門。経験者が誰もおらず、ひとりで30人の初心者を教えた酷暑の夏合宿は「湯の郷温泉・地獄の合宿」として伝説化した。
1993年2月 合気道の理合を工夫するには正しい剣の運用について知る必要があると考え、居合を習うために夢想神伝重信流・福原康晴先生の道場に入門。
1994年 奈良県での講習会で波止成徳先生に杖道の初歩のてほどきを受ける。これが機縁となって神道夢想流・乙藤市蔵先生直門の鬼木正道先生に杖の指導をして頂くことになる。
1995年 英文学科の難波江和英先生との学術ユニット「おさわがせパネラーズ」を結成。旧知の異能者を招いてのシンポジウムを連続企画。これまでに呼んだのは松下正己(映画作家、批評家、SFFC以来のおともだち)、久田舜一郎(大倉流小鼓方)、山本浩二(画家・美術教育、彼もSFFC以来のおともだち)、平川克美、(アーバントランスレーション社長、小学校以来の親友)竹信悦夫(朝日イブニングニュース・デスク、蛍雪友の会以来のおともだち)、北之園明久(北之園クリニック院長、日比谷高校以来のおともだち。この人は私よりはるかに「過激」な高校生で、案の定、大学を壊して退学。その後サラリーマンをしていたはずが、いつのまに大阪でアトピーの専門クリニックなんかやってる変幻自在のひと)、小林昌廣(京都芸術短期大学講師・表象文化)
1996年5月 日本記号学会で「武道的身体」について口頭発表。このころから専門のエリアがだんだんこっち方面にシフト。
1996年8月 フランス語海外研修先のブザンソンで日本武道に興味をもつフランス青年と知り合い、三日にわたって合気道を指導。このブルーノ・シャルトン君がわたしのフランス人弟子第一号となる。(1号だけでに2号がいないけど)
1997年2月 伝統的な身体運用を基礎から学びなおすために、観世流の下川宜長先生に入門、仕舞と謡を習い始める。
1997年7月 合気道会のクラブ昇格(4月)に続いて、松田高志教授(教務部長、合気道参段)のお骨折りで学内岡田山ロッジ内に36畳の道場(練習室)が開設される。(ついに畳をかついで練習場を求めての流浪の旅もここに終わったのでした。)
1997年9月 ブザンソンで2回目の合気道講習。ブルーノ君の通っているガルシエ道場の青年たちに合気道を講習。
1997年10月 神戸女学院大学のワークショップ科目で「合気道の理論と実践」を開講。おそらく日本の大学で人文科学の正規科目で合気道を教えるのはこれが最初。一年生だけの科目だったが登録者はなんと110名。道場が狭いので、泣く泣く25名まで削る。(98年度の登録者は46名。)
1997年10月 初仕舞(紅葉狩)・初素謡(橋弁慶)の舞台を上田能楽堂で踏む。
1998年5月 全日本合気道演武大会出場の翌日、東京大学教養学部体育館に多田先生を迎えて、東京大学気錬会、早稲田大学合気道会とともに多田塾門下三大学合気道部ではじめての合同稽古を行う。
1998年10月 二度目の能舞台は湊川神社神能殿。仕舞「経正」。
1998年12月 早稲田大学合気道会を迎えて、はじめての関西での二大学合同稽古。主将原丈二君ほか早稲田の合気道会のみなさん、ありがとうございました。
1999年1月 神道夢想流・鬼木正道先生を神戸女学院にお招きして、大学研究所主催の専門研究会のかたちで「武術的身体とは何か」と題する講演と演武の会をもつ。内田は杖の演武で打太刀をさせて頂いた。参会者のうちに杖道の稽古希望者がおり、本学での杖道稽古について構想を立てる。
1999年2月 ブルーノ君が日本武者修行の旅に来る(はずだったが、パリでパスポートと財布を盗まれて、計画は水泡に帰す。うう気の毒。しかし、ブルーノ君、きみはたしかお巡りさんだったのでは・・・)
1999年2月 武道修行上の見解の相違により、福原先生の門下を離れる。
1999年2月 神戸女学院大学内に鬼木先生を招いて最初の杖道講習会。
1999年5月 第二回・三大学合同稽古会(早稲田大学)
1999年7月 師範に鬼木正道先生を迎えて、正式に神戸女学院大学杖道会が学内団体として発足。
1999年7月 小林昌廣先生、田川とも子先生、松田高志先生、飯田祐子先生と共同研究グループ「身体技法批評研究会」を設立。武道、舞踏を中心にあらゆる身体技法について、それを「技法として批評する方法」はありうるか、という問題をめぐって考察することにする。
1999年10月 仕舞『敦盛』で下川正謡会第三回目の舞台(湊川神社神能殿)。
1999年12月 松下正己との共著、わが愛するバカ映画へのオマージュ『映画は死んだ』いなほ書房より刊行。
2000年3月 神道夢想流杖道正道会、兵庫県剣道連盟に加盟承認され、正式発足。師範は鬼木正道先生。内田は会長。
2000年4月 難波江和英先生との共著『現代思想のパフォーマンス』(松柏社)刊行。6人の現代思想家の仕事とアイディアと「使い道」についての本。私の担当はバルト、レヴィ=ストロース、ラカン。買って。いいから。黙って。(倒置による強調)
2000年5月 全日本演武会出場の翌日、東大合気道気錬会の五月祭演武大会にて招待演武。「サバ目」二日酔い演武をのちにヴィデオで見ると、なんとなくするするとしていい感じ。
2001年3月 ホームページにかきまくった2メガバイトの原稿が本になる。『ためらいの倫理学』(冬弓舎)ウチダの初の単著。
2001年3月 合気道合宿中に右膝に疼痛が。外科に行ったら「半月板損傷、関節液だだ漏れ」で「武道家人生」の終わりの鐘が鳴る。哀号。
2001年5月3日、4日 神戸女学院合気道会・神戸女学院大学合気道部創立10周年。恩師多田宏先生、自由が丘の大先輩、奈良県支部長窪田育弘七段、早稲田大学合気道会師範、坪井威樹七段をゲストに、東大気錬会、早稲田大合気道会の道友諸氏をお迎えして、講習会ならびに演武会。懇親会は宝塚ホテルにて。ウチダの武道人生における最良の日々でありました。
2001年9月 ブザンソンにて三回目の合気道講習。いつものブルーノくんの他に現地青年たちと留学生たち(コッシー、ユリ、サトカッチ)も参加して、にぎやかなこと。
2001年12月 ライフワーク『レヴィナスと愛の現象学』(せりか書房)刊行。老師没して六年。墓前に捧げる「レヴィナス先生遺徳顕彰会会長」ウチダの壮絶なオマージュ。
2001年12月 葉柳先生、中村先生ご夫妻のお招きで、名古屋大学で「映画の構造分析」の集中講義。デタラメ映画解釈に歯止めがかからない。
現在のおしごと
神戸女学院大学文学部総合文化学科教授
株式会社アーバン・トランスレーション監査役(非常勤)
研究領域
フランス文学・フランス思想(レヴィナス、カミュ、ブランショ)
近現代フランス思想史(ユダヤ教思想、反ユダヤ主義)
身体技法論(武道論)
映画記号論
所属学会
日本フランス語フランス文学会、日仏哲学会、日本イスラエル文化研究会、
カミュ研究会、身体運動文化学会
允可された段位
合気道(合気会) 六段(98年1月)
全日本剣道連盟 居合道 三段(98年5月)
全日本剣道連盟 杖道 三段(01年6月)