おとぼけ映画批評

 

 

Vol. 6 (2000October-)

 

 

『ハルク』(Hulk by Ang Lee: Eric Bana, Jeniffer Connelly)

おっと、これもコミックスの映画化か。

アメリカ映画の幼児退行ももはやとどまるところを知らないな。

でも『ディアデビル』より少しましなのは、怒りとともに変身するハルク君が「化け物」であるということと、「化け物になって、怒りに身を任せていると、なんだか自由で、解放されたようで、すごく気持ちがいいんだ」と正直に告白するところ。

そういう「怪物」の正体が、「抑圧された記憶」に苦しむトラウマ少年(おいおいまたかよ)というのも定型通り。

しかし、さすがのウチダもいいかげん飽きたてきたなあ。ハリウッド映画に。

 

『ディアデビル』(Daredevil: by Mark Steven Johnson: Ben Affleck, Jennifer Garner, Colin Farrel, Michael Clarke Duncan)

アメコミ映画化シリーズ。

『スーパーマン』『バットマン』、『スパイダーマン』、『ハルク』までで、さすがに日本の観客の知っているネタは尽きたようである。

知ってました?『ディアデビル』?

ウチダは知らなかった。

昼間は盲目の正義派弁護士、夜は「勧善懲悪」のスーパーヒーローというこの説話原型がアメリカ映画には異常に多い。

つまり「人の目があるところでは」合法的に正義を実現すべくこれつとめ、「人目がなくなると」直接的に暴力行使をして「正義」を実現するのである。

『ソードフィッシュ』は裏FBIが潤沢な資金と練度の高い兵員を駆使して、世界中のテロリストを「テロ返し」するという話だった。

これこそはまさしくアメリカ国民の多くの偽らざる欲望だろう。

国連安保理とか総会決議とか国際協調とかの枠組みの中で「悪」を退治しようとするのが「昼間の正義派」のやり方である。もちろん、こんな手ぬるいやり方では「悪」は痛痒を感じることもなく繁昌するばかりである。

だから、「夜の正義派」の登場が懇請されるのである。

しかし、「夜の正義派」はしばしばその意図を誤解されて、メディアによって、あるいは彼がその生命身体を守ろうとして苦闘している当の愛する女性によってまで「血に飢えた暴力主義者」だと誤認されて憎まれる。

「彼ら」が、彼の真の善意と英雄性に気づくのは、いつでも正義の執行が終わったあとになってからなのである。

だから、今はどれほど憎まれようと誤解されようと、なによりもまず「正義の執行」が果たされねばならない。

 

「正義の味方」ディアデビル君には、残念ながら「正義」とは何かということの定義が彼一人に委ねられていることは「合法的」かという自省が欠けている。

彼が自分には「正義の暴力」と「不正な暴力」の違いを判定する能力があると彼はああも素朴に信じ込めるのは、「過去において不正なる暴力の被害者となった」というトラウマ的経験を彼が後生大事に抱え込んでいるからである。

自分は正義を体現しているという素朴な信憑と、その信憑を担保する「トラウマ的経験」。

おそらく、このチープでシンプルな物語をこれからもハリウッドは量産し続けることだろう。

 

 

Carne/Seul contre tous/Irrversible par Gaspar Noe: Philippe Nahon, Monica Bellucci, Vincent Cassel, Albert Dupontel)

 

食後にAVライブラリーから借りたギャスパー・ノエの『カルネ』(Carne)と『カノン』(Seul contre tous)を見る。

豚肉で満腹状態で見始めるべき映画ではなかったようである。

そ、それにしても、救いのない映画である。

フランスの「レッドネック」というか「プア・ホワイト」というか、要するにLa France profonde と呼ばれる社会階層(無知で暴力的で利己的で排外主義的なボンクラたち)の出口のないバカさが活写されている。

歴史が教えるところでは、この階層が19世紀末から大戦間期にかけて、フランスにおける反ユダヤ主義とファシズムの培養基となった。

主人公の肉屋が勤務していた畜殺場、パリ郊外のラ・ヴィレットは、かのモレス侯爵の組織した「世界最初のファシスト武装集団」モレス盟友団(Mores et ses amis) の根拠地である。

侯爵はここの屠殺人たちに紫色のシャツとソンブレロをかぶせてパリの街路を行進させ、パリのブルジョワたちははそれをこわごわとみつめながら、そこに漂う血と暴力の匂いにひそかに魅了されたのである(モード史の教えるところでは、このシーズンにモレス侯爵が着こなした「ヘビー・デューティなアウトドア志向のサファリ・ジャケット」は「モレス」という名前を冠されて、パリのブルジョワたちにもてはやされたそうである)。

ギャスパー・ノエはおそらくそのような歴史的事実を踏まえて、「ひとはどうやってファシストになるのか?」という古くて新しい政治的主題に挑んでいるようにウチダには思われた。

 

こうなったら「毒を食らわば皿までも」と、松下正己くんご推奨の『アレックス』(Irreversible)に挑戦。

うーむ。

教訓としてはですね・・・

(1)深夜に地下道を歩くのは止めましょう

(2)鼻っ柱は強いが喧嘩は弱い友だちとアブナイところには行かないほうがいいね

(3)人生の重大な決断は、酒、ドラッグなどを吸飲していないときにしましょう

(4)あまり「セックスの話」ばかりしていると、罰があたりまっせ

というくらいが重要度の順でしょうか。

なに?

ウチダには「アートっつうものが分かってない」と?

「映画は教訓を引き出すために見るもんじゃないぞ」と。

こうおっしゃるか。

いや、もっともですが、この映画を見て、「これからは真夜中にひとりで地下道を歩くのはやめよう」と思ったおかげで遭遇したかもしれないレイプを事前に回避することができた女性が世界に一人でもいれば、この映画は人類に「善きこと」を一つ贈ったとウチダは思うけどね。

アーティスティックでかっこいい映画であることより、そっちの方をウチダは評価する。

物語が人間の愚かさと邪悪さを描くことに少しでも意味があるとすれば、それは「人間の愚かさと邪悪さ」についての知見を広め、それを「どうやって回避するか」についてひとりひとりが真剣に考え始めることにある、とウチダは思う。

それが「物語」の人類学的な意味でもっとも起源的な機能なのではないのだろうか。

という点で、ギャスパー・ノエをウチダは高く評価するのである。

松下くんの評価軸とはぜんぜん違うけどさ。

ギャスパー・ノエくんは、さらに「人間の愚かさと邪悪さ」について深く追求するように。

カンヌでは地下道のレイプ・シーンで続々とジャーナリストが席を立って、抗議の意志を表示したそうであるが、そういう「良識ある」態度はモレス盟友団を見て見ぬふりをした1890年代のパリのブルジョワと変わらないぞ。

 

 

『キルビル』(Kill Bill by Quentin Tarantino: Uma Thurman, David Carradine,Lucy Liu, Daryl Hannah Vivica A. Fox,Michael Madsen, Michael Parks, 千葉真一, 栗山千明, Julie Dreyfus, Chia Hui Liu, 國村隼, 北村一輝, 麿赤児)

 

いやー、おどろきました。

映画の冒頭が

Dedicated to Fukasaku Kinji

で映画が終わって、クレジットのところで延々と梶芽衣子の『怨み節』が流れるんだよね。

バカな、バカな、バカな女の、うーらみー、ぶうううし。(これは梶芽衣子の『女囚さそり701号・怨み節』の主題歌)

信じられないよな。

横の女の子が連れの男の子に、映画が終わったあと「ねえ、これ日本の映画?」って聞いてたもん。

ウチダはたまたま先般、共同通信の依頼で『映画監督深作欣二』という本の書評のために、深作監督の全フィルモグラフィーを検索して、未見の代表作をTSUTAYAでチェックして見たばかりなので、この「深作オマージュ」にはちょっと感動しちゃいました。

全作『ジャッキー・ブラウン』でちょっと味噌をつけたタランティーノ、今回は、バカ全開、絶好調です。

しかし、タランティーノの「ニッポン1970年代サブカルチャー」への傾倒ははんぱじゃない。

ベースになっているのは、『修羅雪姫』(by 藤田敏八:釈由美子のリメイクじゃなくて、73年の梶芽衣子のやつね)、TVシリーズ『影の軍団』(by 深作欣二:なにしろ千葉ちゃんの役名は「服部半蔵」だし、「神に会ったら神を斬り・・・」というのもね)、『柳生一族の陰謀』(by 深作欣二:これは家光の首がころりと落ちるところ)『子連れ狼・三途の川の乳母車』(by 三隅研次:勝プロダクション。これはジュリー・ドレファスの腕がぴょんぴょんと切られるところ。もう全編、小池一夫オマージュ。ご存じのとおり、この映画をアメリカに持ち込んで、Shogun Assasin というシリーズ名でヒットさせたのは、「あの」ロジャー・コーマン。もちろん若きタランティーノは『子連れ狼』に熱狂したのだ)、『座頭市二段斬り』(by 井上昭:これはユマ・サーマンが途中で、両刀使って「座頭市」殺陣をやるところ)

もちろん『仁義なき戦い』も『極道の女たち』も『スケ番刑事』も『グリーン・ホーネット』も『フォクシー』も『バトルロワイヤル』も・・あらゆる先行作品から引用にあふれている。

最後の雪の庭での決闘シーンはユマ・サーマンが『死亡遊戯』のブルース・リーのジャンプスーツ、ルーシー・リュウが修羅雪姫。

よくやるよな。

だけどユマ・サーマンの原点はやっぱサリー・メイだろうな。

え?サリー・メイ知らない?

金髪のアメリカ女が、やくざになって、だんびら振り回す・・・

『らしゃめんお万』、知らない?

知らないか・・・ま、ふつう知らないよね。

そういう映画を見てる人間の方が問題だよな。むしろ。

しかし、とにかくこの映画をいちばん楽しめるのは、60−70年代にひたすら日本のゴミ映画、バカ映画を見てむなしく青春を過ごしたわが同時代人たちであることは贅言を要さない。

こんなところでしょんべん臭い映画館でむなしく過ごした青春の思い出がよみがえるとは・・・

タランティーノって、ほんとに「いい奴」だぜ。(泣)

 

 

『きゃっち・みー・いふ・ゆー・きゃん』(Catch me if you can: by Steven Spielberg: Leonardo DiCaprio, Tom Hanks, Christoper Walken, Martin Sheen)

天才詐欺師フランクくんは「形から入る」という原則に忠実だ。

医者に化けるときは『ドクター・キルデア』で、弁護士に化けるときは『ペリー・メイスン』でお勉強。

女の子をひっかけるテクは、『007/ゴールド・フィンガー』でお勉強。もちろん、ボンド・スーツにアストン・マーチン。偽名は「ミスター・フレミング」だ。

不思議な話だけれど、考えてみたら、アメリカで60年代に医者になろうと思った人のかなりの部分は『ベン・ケーシー』や『ドクター・キルデア』をみて、医者にあこがれたんだし、弁護士になる人のかなりの部分は『ペリー・メイスン』に触発されたというのは、まぎれもない事実なんだから、そういうTV番組での「定型的なふるまい方」が、現場に逆輸入されてしまうということは当然あったはずなのだ。

私は予言するが、あと何年かしたら、茶色のダウンジャケットを着て東京地検に出勤してくる検事がぜったい何人かいるはずである。

 

 

 

ひさしぶりに松下正己くんが投稿してきました!

『アレックス』(Irrevisible by Gaspar Noe: Monica Bellucci, Vincent Cassel, Albert Dupontel)

『カルネ』『カノン』に続くギャスパー・ノエの新作『アレックス』を見ました。これは必見。

物語は単純です。

アレックス(モニカ・ベルッチ)とマルキュス(ヴァンサン・カッセル)のカップルが、アレックスの元恋人でカッセルとも友人であるピエール(アルベール・デュポンテル)と三人でパーティに出掛ける。が、ささいなことでひとりパーティを抜け出して帰ろうとしたアレックスは、地下道でレイプされてしまう。それを知ったマルキュスとピエールはレイプ犯を探し、とあるゲイクラブを突き止める。しかし結局マルキュスは重傷を負い、ピエールは激昂して間違った男を殺してしまう。

ところが映画は、前作の主人公をからめながら、ゲイクラブからマルキュスが担架で運び出されピエールが逮捕されるシーンから始まります。

アメリカ映画『メメント』と同様、『アレックス』も、すべてのシークェンスが、時間軸を逆にして並べられているのです。ただ、『メメント』では謎の解明とそれに伴うどんでん返しのためのトリッキーな方法論だったものが、ここでは深く映画の感情に関わる重大な意味を担っています。

観客は、無気味な音響効果に彩られた、異常なまでに暴力的に揺れ動く暗い画像によってグロテスクな殺人行為を目撃し、揺れる手持ちカメラの画像によって昂奮したマルキュスが犯人を探す様子を眺め、地下通路の床でレイプされるアレックスの姿を今度はフィックスされた画面で延々9分間も凝視することを強制されます。

画面の揺れは徐々におさまり、パーティの場面、パーティへ向かう三人の地下鉄内の会話の場面、二人のベットでの場面と、時間を遡るにつれ、ワンショットワンシークェンスの映像とその色彩はより穏やかになっていきます。

アレックスがふと、「未来はもう決まっている」というような台詞を口にします。しかし彼女自身は、(既に観客がいやという程見せられた)自分を待ち受けているおぞましい運命を知る由もないのです。

映画の最後、公園の鮮やかな緑の芝生の上に寝そべって本を読む美しいアレックスの姿が、天地逆に映し出されます。ベートーヴェンの交響曲第7番第2楽章が始まります。カメラはそのまま上昇し、アレックスの周囲で走り回る子どもたちをフレームインさせながら、ぐるぐると回転します。回転する画面はやがて空に向き、真っ白になった画面がフリッカーを始めます。

脳神経に悪影響があるのでは、と本気で危惧し始めたころ、ようやくフリッカーがおさまり、「時はすべてを破壊する」という字幕が出て、映画は終わります。

(エンドクレジットは冒頭で表示済み)

出来事が逆に語られることによって、時間を遡るに従い、私たち観客の「未来の記憶」は重畳し、主人公たちへの投射=同一化はどんどん困難になっていきます。確かに「時はすべてを破壊する」のです。

映画の最後に至って、穏やかな表情で公園に寝そべるアレックスに同一化しようとする私たち観客に、あまりにも悲惨な彼女の運命が重くのしかかってきます。

映画の原題は『IRREVERSIBLE』。事態は確かに「不可逆的」であります。けれども、その悲惨な運命に抗って、「今」を生きるスクリーン上のアレックスは、圧倒的な輝きを放っているのです。

私たち観客の内に生じる耐えがたい二律背反、様々な極端な情動の励起の果てのこの感情的な混乱は、強烈な印象となって、いつまでも脳髄の片隅に残るに違いありません。

映画を愛する全ての人々に観ていただきたい、傑作です。

 

 

踊る大捜査線 The Movie 2 (本広克行監督:織田裕二、柳葉敏郎、深津絵里、いかりや長介、ユースケ・サンタマリア)

「哀しみの平成無責任男」

 TVシリーズで織田裕二君が演じた青島俊作君は、湾岸署の小市民的な同僚たち(今回も相変わらず快調)と、本庁のエリートたちとの出口のないコミュニケーション不全に爽やかな風穴をあける「へらへら刑事」であった。この青島刑事がかつて「無責任シリーズ」で植木等が演じた、何ものにも束縛されない「お気楽サラリーマン」の直系の後継者なのだということに、今回映画を見てはじめて気がついた。

 『ニッポン無責任時代』の植木等には、帰る故郷も、骨を埋める会社も、養うべき家族も、ご機嫌を伺う恋人も、兄弟仁義で結ばれた友人も、なんにもない。だからいかなる権力も誘惑も彼をコントロールすることができない。彼が求めるものはただ一つ。自由である。無責任男は高らかに笑い、振り向きもせずに歩き去る。

 TVシリーズの青島君にはそんな「平成の植木等」の面影が濃密に残っていた。(「都知事と同じ青島です」と名乗っていたのだから、その暗示に気づいておくべきだった)。

 青島刑事の自由は、無責任男と同じく、あらゆるしがらみと欲望からの解放に担保されていた。彼はいつも緑のコートに白いボタンダウンのシャツに赤いネクタイで歩いて出勤してくる。でも、彼が帰る先がどこなのか、私たちは知らない。家族がいるのかどうかも知らない。彼のラブ・ライフがどうなっているのかも知らない。(「チャンスがあれば・・・」というそぶりは見受けられるけれど、チャンスを作り出す気はまったくないみたいだ)。口にするのは煙草と缶コーヒーとカップラーメンだけ。

 この「私生活の完全な消去」を代償にして青島刑事はかろうじてその行動の自由を確保していたのである。年金やローンや家族のしがらみに呪縛された同僚たちに比べると、彼には失うものがなかった(少なくとも、彼が「失うかも知れないもの」は私たちには知らされていなかった)。

 でも、そんな「謎の自由人」青島君にも、いつのまにか「生活の澱」がこびりついてしまったようだ。それもしかたがない。室井管理官(柳葉敏郎)との確執も、恩田刑事(深津絵理)との進展のない恋ももう七年越しなんだから。

 青島君はもうかつてほど「謎」めいてはいない。彼の行動パターンがもう熟知されているからだ。彼がどんな破天荒な行動をしても、それは「いかにも青島君ならやりそうなこと」としてにこやかに受け流されてしまう。彼はもう「謎を蔵した自由人」ではなく、みんなが期待する通りのふるまいをする「あの青島君」なのだ。

 エンディングでの彼の笑顔は少し哀しげだ。それはおそらく彼があのチープで不毛な「お台場」に宿命的に釘付けにされ、そこから笑いながら立ち去ることを許されていないからである。(『キネマ旬報』9月下旬号)

 

 

『レッドドラゴン』(Red Dragon by Brett Ratner: Anthony Hopkins, Edward Norton, Ralph Feinnes, Harvey Keitel)

先般めでたく「映画史上最も怖いキャラクター」第一位に選ばれたアンソニー・ホプキンス演じるハンニバル・レクター博士にくらべると、肝心の殺人鬼ラルフ・フィアンズ君の異常さがかすんでしまう。

幼児期の虐待による解離性人格障害者がシリアル・キラーとなる、いう想定に、悪いけれど、ウチダはもう飽きた。

こういう映画を幼児期から浴びるように見続けているうちに、幼児期の虐待経験は猟奇殺人で解消するのが「政治的に正しいのだ」と思いこむような単純頭の犯罪者が大量発生してくるのではないだろうか?(すでに、そうなっているんじゃないの?)

アメリカの現実の方がアメリカの映画よりずっとコワイ。

『独立愚連隊』(1959年東宝・岡本喜八監督:佐藤允、雪村いずみ、中谷一郎、鶴田浩二、三船敏郎、南道郎)

芦屋のTSUTAYAがどういう基準で作品を並べているのかウチダには理解の外であるが、しぶめの選択も見受けられる。

まさか『独立愚連隊』がこんなところに隠れているとは思わなかった。

というわけで40年ぶりに再見。

佐藤允の涼しい三白眼と、きゅっとつり上がった口元がとってもチャーミング。

佐藤允はこのときの大久保軍曹役があるいは生涯ベストパフォーマンスかもしれない。

しかし、ひさしぶりに見ると、「戦争」とそれに付随する現象に対するタブーがこの40年間で非常に抑圧的になったことが実感される。いま、『独立愚連隊』をリメイクしたとすると、いくつかのシーンはカットされなければならないだろう。

(1)江原達怡たち独立愚連隊の古参兵たちの、ひじょうにふざけた服務態度(日本遺族会、隊友会、自民党国防族からのクレーム必至)

(2)中丸忠雄、南道郎ら中隊幹部の背任横領戦線逃亡(上に同じ)

(3)三船敏郎の発狂シーン(障害者人権団体からクレーム必至)

(4)中北千枝子の朝鮮人従軍慰安婦の「にほんのへいたいぱかあるよ」以下の民族差別的キャラ設定(韓国政府、北朝鮮政府、総連、民団、朝日新聞以下全メディアからの怒濤のクレーム必至)

(5)愚連隊兵士諸君によるたいへん痛快な八路軍500人の『ワイルドバンチ』的大虐殺(中国政府および各種人権団体、反戦団体からのクレーム必至)

というわけで、現在リメイクする場合には、独立愚連隊の登場シーンを全面カット(だって、出てくる全シーンでふざけちらしているんだから)、従軍慰安婦登場場面をすべてカット、中隊司令部の場面をカット、三船敏郎の登場シーンをカット、八路軍との戦闘場面をカット・・・ということで、中国娘と従軍「看護婦」とのあいだの恋のさやあてでおろおろする佐藤允が鶴田浩二の「兄弟仁義」によって、中国民衆のために強権にあらがう馬賊へ参加する、という物語に改作するほかないであろう。

しかし、こうやって改竄された『「政治的に正しい」独立愚連隊』はじつにハリウッド的なストーリーラインになるのにびっくり。

日本の戦後映画の抑圧は、まさしく「人権」と「政治的正しさ」にかかわる「アメリカン・スタンダード」の内面化として進行したのであったのである。

 

 

 

 

 

 

ヒラカワくんから初投稿。「シンクロ兄弟仁義」で結ばれたヒラカワくんとウチダくんは、こんなふうにいつでもおんなじようなことを考えているのだ。

『つきせぬ想い』

 

平川です。

いま、93年度の香港電影金像奬では最優秀作品・監督・主演女優・助演男優・助演女優・脚本の主要6部門を独占したという低予算香港映画「つきせぬ想い」を見たところです。

よい映画でした。

 

先日うちだくんも「猟奇的彼女」を誉めていましたが実はぼくも「猟奇的」を見て以来

韓国映画、中国映画、香港映画にはまっています。

ひとの笑顔やしぐさ、恋愛感情が生まれてくるまでの微妙な距離感、躊躇、息づかいや気持ちの揺れといった微細な感情や身体の動きが良く見えるのです。

それはディテールの作りこみとかストーリーの緻密さといった技術的なものとは別の水位の問題で何かが荷担しないと現れてこないようなものです。

 

ずっと、考えていたのだけれど、少し前の日本映画にあった何かがこれらの映画には残っていて、それが僕らを動かすのだと思っています。

「猟奇的彼女」

チャン・イーモウの「初恋のきたみち」でとっとことっとこ走るチャン・ツィイー、ホ・ジノの「八月のクリスマス」での井上揚水似の男優の静かな微笑み

じゃあ、その何かとは何なのか。

「貧しさ」だと思います。

85年のバブルを境にして日本映画から「貧しさ」というテーマが完全に消えました。

もちろん、ハリウッドはもっと前からそれを失っていました。

かっての「我が谷は緑なりき」なんてのを見るとまだ「貧しさ」がテーマになっていましたね。

もっといえば

貧しくても矜持をもって生きる

貧しくても楽しくやれる

貧しくても素敵な恋ができる

貧しくても人間を信じてゆける

これはその後のアメリカ映画や日本映画を見るにつけ、貧しくないと人間を駆り立てる差異は恐怖とバイオレンス、セックスといった刺激の量の多寡でしかなくなってくるのかと考えてしまいます。

貧しいっていいもんですね。

そんな意味でも橋本治さんの「貧乏は正しい」という洞察はまったく正しいですね。

是非見てください。

 

  

『猟奇的な彼女』 My Sassy Girl, 2001 by Quak Cho Yong: Chon Ji Hyong, Cha Te Hyong

鈴木晶先生も光安さんもヒラカワくんも、みんな一押しの『猟奇的な彼女』を見る。

これぞ、純愛映画の「王道」。

どきどき、わくわく、にこにこ、しくしくさせながら、何のケレンもなく、「予定調和のためのすれ違い」という永遠のワンパターンをみごとに踏襲している。

ウチダは、「永遠のワンパターン」には原則的にどんなものでも好意的であるが、これほどスマートな「ワンパターン」は珍しい。

女の子は『ティファニーで朝食を』でヘプバーンが演じたホリー・ゴライトリーのキャラに近く、こういう「少女版ファム・ファタル」は少しでも俗な感じがすると一瞬で興醒めなんだけれど、チョン・ジヒョンは俗っぽさと透明さのバランスが絶妙。

ふりまわされておろおろするチャ・テヒョン君も実にかわいい。

韓国映画はレベル高いなあ。必見。

と、テキトーな感想を書いてすませていたら、鈴木先生から「あれは死者を正しく鎮めることができなかったせいで、少女に呪いがかかる話ですよね」というご指摘を頂いた。

考えてみたら、その通り。

彼女があんなに「ヘンテコ」なのは、彼女が正しく弔うことのできなかったかつての恋人である死者に取り憑かれていて、新しい恋を禁じられていたからなのである。

結局、二年後の約束のときにも、彼は彼女に出会えないし、地下鉄の駅でもすれ違ってしまう。

死者の祟りだ。

では、なぜかくも執拗なる「祟り」が解けてハッピーエンディングを迎えることができたのか?

それを考えて、ウチダは不意に、あらゆるハッピーエンディング純愛映画に共通する「必殺のパターン」を発見したのである。

それは「セレンディピティ」あるいは「シンクロニシティ」と呼ばれるものである。

思いもかけない偶然の一致。それが「呪い」を解く鍵なのだ。

フロイトは『不気味なもの』の中で、偶然の一致のうちに私たちは私たちの自己決定を越える「運命の力」を見るという機制について語っていた。

たとえば、劇場のクロークでもらった札の番号と、たまたま乗った列車の座席番号とが一致していたりすると、私たちは「ぞっとする」。

そこに「不気味なものの回帰」を感じるからだ。

私は昔「不気味な」経験をしたことがある。

ある日予備校をさぼって映画を見に行った。『ローズマリーの赤ちゃん』というポランスキーの傑作ホラーである。

映画を見て、悪魔の子供である「赤ちゃん」の誕生日が、誰かの誕生日と同じであることを思い出した。

そのころ私が好きだった彼女の誕生日だった。

彼女は「魔女」とあだ名されていた。

ぞくぞくしてきて、映画館を出て昼間の光の中に歩み出したら、その日がほかならぬお二人の誕生日であることに気づいた。

気分が悪くなったので、家に帰って寝てしまった。

別にそれだけのことだが、同じ数字が三回続けて出ると、すごく「不気味」なのだ。

「呪い」や「祟り」は本質的に「回帰性のもの」である。

自動車にはねられかけたあとに、上から看板が落ちてきて、地下鉄のホームから転げ落ちそうになったあとに、ドライヤーで感電する・・・というふうに、「死にそうな経験」が回帰するから「呪い」なのである。

自動車にはねられかけたあとに、昇進の通知があり、地下鉄のホームから転げ落ちかけたあとに、祖母から遺産が転がり込んだというような場合は誰も「不気味」だとは言わない。「人生、苦あれば楽あり」と『水戸黄門』みたいな納得の仕方ができる。

であるから、「回帰性呪い」を解くためには、別種のものの「回帰」が解毒剤となるのはことの条理というものではあるまいか。

この「不条理なカップル」は最後に結ばれる。

それは彼が「死んだ彼」と「そっくり」(と映画の最初で母親が言っていたね)だからだ。

「同一人物が回帰する」。この「カウンター呪い」あるいは「メタ呪い」によって、死者の祟りは消え去るのである。

あらゆる純愛ドラマの出発点は「同一人物の回帰」から始まる。(電車の中で足を踏まれた女の子が、登校してみたら、転校生で、「おい、ヤマダの隣、あいてるだろ、君、そこにすわんなさい」というふうに展開・・・というのは学園ラブコメの常套手段だ)

短いインターバルをおいて、まったく別の状況で同一人物に「二度会う」ときに、私たちは運命がその人を私を結びつけているという確信を否定することができないように心理的に構造化されている。

私が『猟奇的な彼女』を見て「永遠のワンパターン」と思ったのは、この「回帰するものがふるう魔力」という人類学的におそらくもっともふるい信憑の上に恋のドラマが基礎づけられていたからである。

というわけで、文化人類学者もフロイディアンも必見の『猟奇的な彼女』でした。

 

 

 

ウッキーが大学院のレポート『映像記号論』で「スパイダーマン」について書いてくれたので、転載。

ウチダのバカ映画解釈学がどのように院生たちの思考回路を毒しているか、これで一目瞭然。(2003年5月)

『スパイダーマン』“SPIDER−MAN”(2002) 古橋右希

STAFF  監督…サム・ライミ

製作…イアン・ブライス、ローラ・ジスキン

CAST ピーター・パーカー/スパイダーマン…トビー・マグワイア

ノーマン・オズボーン/グリーン・ゴブリン…ウィレム・デフォー

メリー・ジェーン・ワトソン…キルスティン・ダンスト

ハリー・オズボーン…ジェームズ・フランコ

 

 

 

  ――――――――――――――――――――――――――――――――――― 

 

ハリー       「クモって環境に合わせて色を変えられるんだ」

メリー・ジェーン 「ほんと?」

ハリー       「ああ 自己防衛本能だ」

――――コロンビア大学自然科学部を見学していたピーターの友人ハリーとメリー・

ジェーンの会話

 

  ―――――――――――――――――――――――――――――――――――

 

 

0.

クモとはクモ網クモ目の節足動物の総称である。英語では、スパイダー(spider)と

なる。

この映画は、スパイダーとそれになる男(man)の話であり、画面には、主人公ピー

ターを中心とした世界(画像的レヴェル)と、画像には見えない世界(総括的レヴェ

ル)の二段階で展開される無意識が表出されている。前者は、男の子の無意識の兆候

として次々に現れる表だった象徴であり、後者は前者の分析とはまったく違った視点

からの何かだ。

今回は、メガネ、カメラ、クモの巣、ピーターの場所、父の存在、色をキーワード

に、この作品がマンガを題材にした娯楽映画でありながらも、裏には、別の発見があ

ることを見ていきたいと思う。

 

 

1.

 科学に関する強い興味があることとカメラのほかには、何の特技もないピーター

は、ある日、学校から見学に行った先の大学で、スーパースパイダーと呼ばれるクモ

に刺される。そのときから、彼はスパイダーマンに変身する。

ピーターは近眼のため、メガネをかけていて、それが外れる場面が二箇所ある。ひと

つは、スクールバスのなかで、生徒に足を引っ掛けられて転んだときだ。

ドジな彼は、まんまとその足に引っかかって転び、メガネが外れる。このとき、ピー

ターの目の前は、突如、ぼんやりしたものとなる。この「ぼんやり」感は、生活をよ

り良く進めるための道具としてあるものが意図せず外れたことで、それまで以上に何

もできない人間であることを表していることになる。また、ある種、男性的な能力の

不完全の現われを意味する。なぜなら、外部からの手助けがない限り、自らの力で

は、男性的な象徴 を制御できないからである。だから、ピーターは、転んだ後、す

ぐにメガネをかける。

もうひとつは、クモに刺された翌日、ピーターの視力、体力、反射神経、その他に向

上がみられたことで、メガネが必要なくなったときである。体力の向上に伴い、メガ

ネなしでも世界が見えるようになった彼は、このときから自らの力でメガネを外し、

その後は、一度もかけることがない。

趣味であるカメラを扱う場面も二つある。ひとつは、見学に行った先の大学の自然科

学部で、クモの入ったガラスケースを撮るふりをして、(幼い頃から淡い恋心を抱

く)メリー・ジェーンを撮影するときである 。このときの彼は、カメラがないとメ

リー・ジェーンに近づくこともできない。この事実は、メガネ同様、何かの力を借り

なければ、外部の世界と接触できないことを意味している。

もうひとつは、新聞社にスパイダーマンの写真を売りに行くときである。フォトグラ

ファーとわかるように、彼は首からカメラを提げ、写真のギャラを受け取る秘書(女

性)に対してもレンズをまっすぐに向けている。写真こそ撮らないが、その矛先(レ

ンズ)が女性に向いている様子から、ピーターは、外の女性と関わるときはいつもカ

メラが必要だということになる。また、単純な画像の段階から、ピーターの背中の位

置に観客の視点が来るように設定されているため、カメラのレンズが腰の辺りから

まっすぐに伸びて見える。それゆえ、これもまた、男根の象徴であるというふうに理

解できる。

 

 

2.

 物語のあらゆるところにクモの巣が仕掛けられている。スパイダーマンであるピー

ターが投げるクモの巣は当然のことながら、それ以外のところにも、クモの巣が散り

ばめられている。いや、実際には、ピーターが手から紡ぎだすクモの糸からできる巣

とはまた別のクモの巣であり、ピーター自身が導く仕掛けでもある。

 

@ フェンス

隣人メリー・ジェーンと、庭先で、ほぼ初めてくらいに落ち着いて会話ができたの

は、互いの家のフェンス越しのことである。隣家なので、柵があるのも当然だが、こ

れは明らかにピーターのメリー・ジェーンへの心理的距離の表れである。それも、斜

めにクロスされた鉄条の柵であるため、無味乾燥な印象を与える。

 

A プロレスのリングの柵

賞金3000ドル欲しさにピーターが出場したプロレスでは、リングの周りに鋼鉄の柵が

自動シャッターで下ろされる。これもまたクモの巣である。というのは、鉄の棒は、

等間隔で縦棒と横棒があり、リングの縄も横に張られていること、そして、縦に並ん

だ鋼鉄の柵とクロスした網に見えるからである。このような網(巣)のなかにピー

ター自身もいることは、自らが挑んだ挑戦とはいえ、力任せに闘う相手から逃げられ

ない事実とその実感から生まれ出た恐怖の表れである。

 

B 廃墟

 育ての親である伯父を殴り殺した車泥棒を追いかけるうち、ピーターは、鉄鋼だけ

が残る荒れ果てた建物の中に彼を追い込む。ここは、縦横にさまざまな方向から鉄の

棒が重なり合っている。この組み合わせもピーターが仕掛けたクモの巣であるかのよ

うだ。 

追い詰めた犯人は、結局壊れた水道管のパイプにけつまずき、高いビルの窓からよろ

めき落ちるが、その窓というのがまた、縦横に窓枠のしっかり入ったガラス張りであ

る。これもまた、ピーターのクモの巣である。引っかかった犯人はあえなく最期を迎

えるのは、クモの巣に引っかかったからである。

 

C ビルの屋上

ヒーローよりも悪の仲間となることをけしかけたゴブリンの一方的な話は、ビルの屋

上で行われている。気を失っていたスパイダーマンが目を覚ましてとき、もたれか

かっていたのは、ビルにある何らかの装置をカバーするための網目の上である。これ

は、おそらく鉄製である。ちょうどスパイダーマンの頭身だけが網目のところにあ

り、あとの身体は、網目のないところにもたれかかるようにして座っている。ゴブリ

ンは、誘惑しながら、その網目の上に乗り、スパイダーマンに忠告する。その姿は、

事実、上からものを言っているように見えるが、網目もまたクモの巣だとすれば、既

に彼は、スパイダーマンの術中で話をしていることになる。そのため、ゴブリンの話

は功を奏さない。

 

D レンガ造りの家と窓

夜道を歩くメリー・ジェーンを襲う暴漢は、スパイダーマンによって退治されるが、

何人かの暴漢のうち二人は、近くにあった建物(レンガ造り)の窓に頭をぶつけられ

る。この窓は、縦横に鉄の枠の入ったガラス窓である。また、レンガ造りの建物は、

コンクリートが流し込まれた部分は黒く見える。それはまるでクモの巣のようだ。こ

こに追い詰めた時点で、暴漢もまたスパーダーマンの領域に入ってしまっている 。

そのため、あえなく片付けられてしまうのである。

 

E 火事

火事のなかから女性の悲鳴が聞こえるため、現場に向かったスパイダーマンは、それ

がゴブリンの罠だと知ったとき、既に燃え盛るビルの最上階は火の海であった。柱や

縦横にバラバラに家のなった家具や置物の残骸のなかで、スパイダーマンはゴブリン

と戦うが、燃え残った柵や柱、隙間から見える赤い炎が渦巻く様子もまた、クモの巣

と見て取れる。呼び寄せたゴブリンは、自由な動きが取れず、結局ここでも決着がつ

かずにいることから、それもスパイダーマンのクモの巣であったと言えるだろう。

 

F 橋の上での対決

愛するメリー・ジェーンを助けるため、グリーン・ゴブリンに戦いに挑んだスパイ

ダーマンが向かった場所は、大きな橋の袂である。橋の中心部である道路の下には、

網目になった鉄の板や柵が幾重にも重ねられている。

グリーン・ゴブリンがメリー・ジェーンを連れさった場所が偶然にも橋だったのだ

、この柵をはじめとする編み目の鉄のせいで、これは、物語のなかではもっとも大

きなクモの巣に見える。だからこそ、この網にかかってしまったゴブリンは、スパイ

ダーマンを慕う地域住民の助けで、あと一歩のところで悔しがりながらも退くのであ

る。その意味で、地域住民までをも巻き込むくらい大きなクモの巣だったということ

になる。

 

G ツタ、レンガ、木々、材木

逃げ惑うゴブリンとの決着のシーンでは、これらのものが画面のあちこちに散らば

る、おそらく廃墟とみられる場所だ。ツタは、まっすぐには伸びず螺旋状で伸び、レ

ンガに巻きついている。木々は生い茂っているが、さほど大きなものはなく、画面の

近いものと遠いものからすれば、重なり合っているように見える。材木は、縦横に置

かれたままの状態であり、何かの資材でもあったのかと考えられる。これらもまたす

べて、クモの巣の発展系だ。加えて、スパイダーマン自らが紡ぎだすクモの巣の中に

飛び込んでしまったゴブリンは、最期を遂げるのである。

 以上の八つの項目である。ピーターを中心とした解釈では、これらのものを「コン

トロールできる精液」と見ることができないだろうか。これは、スパイダーマンとし

て作り出すクモの巣を撒き散らす様子を、「コントロールできない精液」とした場合

に対してである。

クモの巣を撒き散らすことが、男根を手に入れた男の子の喜びに似ていると解釈すれ

ば、喜び勇んで使うことは、まだうまくコントロールが追いつかないような状態であ

る。しかし、フェンスやリング、橋の柵、レンガなど、クモの巣に変わる物体が画面

上に大きくあるときは、コントロール統御も段々とされ、いかにして使うかを考える

大人になっていくのだというふうにみることができないだろうか。

 

 

3.

 ピーターが誰かと会ったり、自分自身の時間を過ごしたりするのに、いろいろな場

所が出てくる。ここでのポイントは、彼が会う人物の性別に関係している。男と会う

場合は密室であり、女と会う場合はそうではない部屋や場所が提供されている。これ

は、どういうわけだろうか。

まず、ピーターが男と会う場所は、伯父と伯母のいるダイニングルーム、ピーターの

部屋、伯父の車のなか、賞金をもらう部屋、NYの部屋(ピーターの部屋)、新聞社の

編集長室である。これらにはすべて、きちんとドアがあり、おそらく鍵も閉められる

部屋ばかりだ。そこだけの空間で単独で位置し、女性の立ち入りはほとんど見られな

い。例外的にダイニングルームは、女性であるはずの伯母がいる。しかし、ここは、

外の世界とつながる玄関の扉があり、隣のキッチンともつながっているといった、実

に開放的な仕組みになっているため、単独ではない場所であることが理由になる。

それでも特別な場合だけは、女性もこの場所に立ち入ることができる。画面上では、

ピーターの卒業式の日と感謝祭の日である。その日だけが、伯母やメリー・ジェーン

が男の領域に踏み入ることができる仕掛けになっている。それでも、ドアは開けられ

たままか、テーブルを囲む以外は、二人の女性は常に玄関に近いところにいるといっ

た具合だ。

一方、ピーターが女と会う場所というのは、空間を割り切るためのかっちりしたドア

のないところばかりである。メリー・ジェーンと話をしたのは、庭、道路、学校であ

り 、偶然の再会を果たしたのも外である 。夜道で出会うときも、暴漢から解放する

とき も外である。伯母についても、卒業の喜びを称えるのは式典会場であり、伯父

の死を悼むのは玄関先である。

ピーターの伯母の見舞いに来たメリー・ジェーンとドアのある病室で話をすることが

できるのは、ここが彼の場所ではないためだけのことである。そこは、入院している

患者、つまり、伯母の場所であるため、メリー・ジェーンは入ることができたのであ

る。

 以上、ピーターの場所は、性別が男であるものと会うときは単独の空間、女である

ものと会うときはそうでないところである。このような場所の限定については、男性

の母体回帰本能だろうか 。

 

 

4.

 ピーターにとって、父は不在である。第一の父は幼い頃に亡くした実父、第二の父

は車泥棒に襲われて死んでしまう伯父、第三の父は高校時代の友人ハリー・オズボー

ンの父のノーマン・オズボーンすなわちグリーン・ゴブリン である。いずれも結果

的に死んでしまうものばかりである。それはなぜなのだろうか。

また、伯父が死の直前にピーターに残したことば は、ピーターのその後の人生を左

右するほど、強烈な印象を与えている。決断のひとつに、彼はスパイダーマンとなる

ことを決めたことが挙げられる。それは、メリー・ジェーンから愛の告白を受けたと

きですら揺るがぬものとなっていたくらいだ。これもまた、なぜなのだろうか。車の

中で意見のすれ違ったままに生き別れた伯父のことばを、ピーターはその後もずっ

と、心に止めることになったのだろうか。考えようによっては、ニューヨーク滞在中

にも、友人の親として面倒を見てくれたノーマンの方が、現実的な意味では感謝して

もよさそうなものである。

これらの答えは、映画の中の色に関係する。

 

 

5.

 スパイダーマンのスーツは、赤と青と白と黒を使ったものである。グリーン・ゴブ

リンには、緑と黄色、メリー・ジェーンの髪は赤毛である。また、伯母の編んでいる

毛糸はグリーン系 のものである。

 これらの意味するものは、ずばり、アメリカの象徴である。いや、この映画自体が

実は、アメリカ合衆国という国自体のあり方(歴史)と大きく重なっていたのであ

る。

 

さて、ここからが総括的レヴェルの分析である。

これまでピーターを中心とした解釈で列挙してきたものはすべて、分析の視点を変え

ると、アメリカの象徴になる。

「メガネ」は植民時代の、「カメラ」はその時代の他国との交渉手段としての貿易や

植民地を手に入れた頃のアメリカである。星条旗の頃のアメリカである。

スパイダーマンの投げる「クモの巣」は、アメリカ自身が合衆国となり、自らの手で

世界へとつながりを広げる文明や経済を持ちえた頃のアメリカである。

「フェンス」や「窓ガラス」、「橋」、「レンガ」などは、それをさらに発展させ、

世界と入念な計算によって関わっていく頃の戦後のアメリカ合衆国である。

ピーターが誰かに会う場合、性別によって場所が違うことを、「男」が合衆国移民者

の祖先たちであり、「女」は合衆国が買い入れた奴隷と見ればどうだろう。単独の個

室では、移民者の本国と交渉し、うまく折り合いをつけることで、自らの地位を固め

ていく。どこかとつながりのある個室でないところ、多くはアフリカ大陸から奴隷を

買ってくることにはならないだろうか。

「父」は、イングランドやアイルランドなど、アメリカ合衆国に住む者たちや祖先が

移民してきた本国のことである。基本的にはそれらを守りながらも、「不在」は、そ

れらを亡き者として、自らが父となるための行為だ。そうして、「大いなる力は大い

なる責任を伴う」ということばを見出すとき、アメリカ合衆国は世界のリーダーとし

てあることを世界中に知らしめ、その任務を遂行するための立場にあるといった自負

があるとも解釈できる。ときにこれは、大きな誤解を招くようなことがあるにもかか

わらず。このような象徴は、映画の全編にわたり表出されている。

映画の最後の場面で、スパイダーマンがアメリカ合衆国国旗の横で市内を一望してい

る姿がある。これこそが、すべての証拠である。スパイダーマンこそがアメリカ合衆

国であり、そのほかの緑、黄色、赤を使ったものたちはみな、この色を国旗のなかに

使っている世界の国々のことを意味するのである。

だからこそ、一望しているのは、ニューヨーク市内ではなく、実は世界だと読み取れ

る。それゆえ、スパイダーマンのすべての行為は、アメリカの行為なのである。

 

 

6.

40年も前に連載開始されたコミックが、いまになってようやく映画化された。未だに

その人気が衰えずにいるのは、おもしろいことである。これは純粋に、アメリカ合衆

国という国に、40年間ずっと『スパイダーマン』があり続け、人気が失せていないこ

との証明でもあり、驚くべきことであり、すばらしいことである。しかし、そのこと

は、この作品以外のヒット作に恵まれなかったということでもある。

何も描けるマンガ家がいなかったということばかりが理由ではないだろう。現実的

で、具体的なことよりも、何か本質的な部分で、合衆国という国が、いまでも国がで

きた頃とあまり変わっていないのではないかと、想像してしまう。時代は流れても、

「環境に合わせて色を変える」ことはできても、その本質はどこも変わらないまま、

アメリカ合衆国は同じ考え方に固執しているのではなかろうか。

考えすぎだろうか。

 

 

『ロスト・ハイウェイ』(Lost Highway by David Lynch: Bill Pullman, Patricia Arquette, Balthazar Getty, Rbert Blake, Natasha Gregson Wagner, Gary Busey, Robert Loggia)

 

最初に見たのはもう3、4年前になる。

「おおおおお」と叫んだまま、ふやけた解釈を許さないその圧倒的な映画的リアリティの前に絶句する他なかった。

今回リンチの新作『マルホランド・ドライブ』を見て、二つ合わせると、何となく腑に落ちるところがあったので、それを書きとめておく。

 

ある「巨大な物語」の一部分しか私たちに与えられていないとき、その断片から「見えない世界」の深みと拡がりを想像して戦慄する、というのは私たちが物語を享受するときのひとつの定型である。

それは「神の視点」から一望俯瞰的に物語世界を一覧する場合の物語の享受のしかたとは別の意味で、やはり「ひとつの定型」と言ってよいだろう。

一般的には、凡庸なフィルムメーカーは「一望俯瞰的」な物語に固執し、怜悧なフィルムメーカーは「断片から全体を想像する」物語にこだわりを示す。

これは当然といえば当然で、「与えられた断片から、観客が『見えない世界』を想像する」という享受のしかたをする場合、その「見えない世界」は、観客ひとりひとりがおのれの「悪夢」のストックに手を突っ込んで、自前で創り上げるものだからだ。

ひとは「他人から聞かされた話」はなかなか信用しないが、「自分で作った話」はどれほどでたらめでも頭から信じ込んでしまう。映画の場合でも同じだ。

他人の「悪夢」は自分の「悪夢」ほどには怖くない。

いちばん怖い状況は、それが「怖い」ということが他者には共感されない種類の恐怖に取り憑かれることである(人々が「ホラー映画」を「みんなで」見るのはそのせいである。「共有された恐怖」は、単独で経験される「伝達不能の恐怖」に比べたら冗談のようなものだ)。

だからクレヴァーなフィルムメーカーは、あえて説明を省き、時間の流れを意図的に混乱させ、観客が自分で物語を作るように仕向ける(タランティーノや北野武がそうだ)。

 

デヴィッド・リンチもまた観客がもっとも恐怖しするのは「物語全体を整序するような情報の不足」であることを熟知している(あらゆるパニックは、「情報が不足」しているときに、人々がつねに「最悪の場合」を想像してしまうことから始まる)。

リンチは観客をパニックに誘い入れるために、まず最初に映画の登場人物たちをパニックに誘い入れる。

推理小説がそうであるように、観客は(同じく「情報の不足」に苦しんでいる)「探偵」役の登場人物に焦点化し、彼の「情報への渇望」を導きの糸として、物語の中を同じ足取りで進んでゆく。

『ロスト・ハイウェイ』でも、『マルホランド・ドライブ』でも、ある中心的人物の「アイデンティフィケーション」が物語の縦糸であることは変わらない。そして、その「身元調べ」のクライマックスにおいて、「探偵役」の登場人物その人が「失踪」してしまうというサスペンスの構造も酷似している。

私はリンチのTVシリーズの『ツイン・ピークス』は未見なのだが、もしこの説話構造にリンチにかなり以前からこだわりがあるとしたら、当然『ツイン・ピークス』ではFBI捜査官のカイル・マクラクランが犯人探しの決定的瞬間に「失踪」するという話型が採用されていることだろう。(あ、ちょっと愉しみになってきた。今晩TSUTAYAに行って借りて来よう)

観客をある人物に同調して映画的物語の中に踏み込ませたあと、その人物を「消して」、物語の中をあてどなく浮遊させること。リンチが採用しているサスペンスの法則はおそらくそういうものだ。

このサスペンスはたぶん「小説」では不可能だ。

「語り手」が「消える」ということは小説には許されないからだ。(「語り手」が順番に別人になる、ということは『藪の中』や『ろまん灯籠』などいくらも前例があるけれど)。

しかし、映画では物語を先に進めるために、「語り手」は必ずしも必要ではない。

「誰が見ているのか分からない視線」にたえず「ずれて」ゆきながら、映画は「語り手そのもの」、物語の秩序を支える最後のよりどころを「消す」という大業を使うことができる。

アイディアとしてはそれほどむずかしいものではない。

しかし、これを「娯楽映画」として実現するのはほとんど絶望的に困難である。

デヴィッド・リンチはそれを平然とやってのけた。

すごい。

 

 

 

『マルホランド・ドライブ』Mulholland Dr. by David Lynch : Naomi Watts, Laura Elena Harring, JustinTheroux

 

『ロスト・ハイウェイ』を「いつかきっちり解釈する」と予告しておきながら便々と数年が閲し、そうこうしているうちに『マルホランド・ドライブ』である。

この映画もまた『ロスト・ハイウェイ』とおなじく、初めから終わりまで一瞬も息が継げぬほどに緊張感があって、物語性が豊かで、娯楽作品として完成されていて、そして、いっさいの解釈をきっぱり拒絶している。

このまま映画が終わって欲しくない、一秒でも長く映画が続いて欲しいと念じながら、「どんな映画だったの?」と問われたら、喉がひからびて、ことばが出ない。

どのような無内容な映画からも「教訓」を引き出し、あらゆる不条理を条理のうちに回収することが私の知的「宿痾」であるが、そのウチダの病的解釈癖をもってしても、デヴィッド・リンチには歯が立たない。

すごい。

それでも、ただひとつだけ言えることがある。(しぶとい)

それはこれが「映画についての映画」であるということだ。

人間の宿命についての映画とか欲望についての映画とか愛についての映画とか革命についての映画とか戦争についての映画とか・・・そういう「・・・についての映画」であれば、私は解釈できる。

しかし、「映画についての映画」にはなかなか歯が立たない。

映画はその起源から、「メタ映画」への回路を持っていた。

野心的なフィルムメーカーたちはだから「映画についての映画」を撮るという誘惑に抗しきれない。

ビリー・ワイルダーの『サンセット大通り』、フェデエリコ・フェリーニの『8 1/2』、『インテルビスタ』、ジャン=リュック・ゴダールの『気違いピエロ』、ブライアン・デ・パルマの『ボディ・ダブル』、ポール=トーマス・アンダーソンの『ブギー・ナイツ』、クエンティン・タランティーノの『レザボア・ドッグス』、ジュゼッペ・トルナトーレの『ニュー・シネマ・パラダイス』、ジョン・ウォーターズの『セシル・B・デメンテッド』・・・いずれ北野武やマチュー・カソヴィッツやガイ・リッチーやブレット・ラトナーが「映画についての映画」を撮ることになるだろう。

映画は19世紀の終わりという「誕生日」を持っている。

それははじめ「現実についての映画」であった。

リュミエール兄弟の映画はホーム・ムーヴィーから始まった。それらは「すでに確固として現実的に存在するもの」(リュミエール工場、ルイ・リュミエール一家、ラ・シオタ駅を歩むマダム・リュミエール・・・そして技師たちが撮った世界の光景)についての証言であり記録であった。

ところが、100年経つと、映画そのものが「確固として現実に存在するもの」になってしまった。映画はもうどのような現実的レフェランスにも支えられなくても自立できる記号となったのである。

いかなるリアリティにも支えられなくてもリアルであるようなもの。

それが「映画についての映画」が映し出すものである。

それにいちばん近いものは「夢」だ。

映画は夢だ、と人々は言う。ハリウッドは「夢工場」だと人々は言う。

けれども、「夢」というのは英語でもフランス語でも日本語でもダブル・ミーニングのことばだ。

それは私たちが眠っているときには「現実だ」と思っているもののことであり、私たちが覚醒しているときには「非現実だ」と思っているもののことである。

これまで映画について「夢」ということばをつかうとき、私たちはおもに第二の語義でそれを用いていた。

しかし、「映画についての映画」を撮るフィルムメーカーたちは、その語の第一の語義を奪還しようとしているように私には思われる。

『マルホランド・ドライブ』は「悪夢のような映画」である。

映画の中である事件が起きる。そして、それが「現実の」出来事なのかどうかが「映画の中で」疑わしくなる。

私たちは「映画の中」が非現実であることを「知っている」。

ところが、その「非現実であるはずの映画」の中で「現実性を否定されたもの」については、それを収納するカテゴリーを私たちは持たないのである。

だって、そうでしょ?

「非現実である世界」において「その現実性を否定されたもの」は、私たちが「現実/非現実」という二分法になじんでいる限り、「現実」以外に存在する場所を持たない。

デヴィッド・リンチがやろうとしていることはまさにそれである。

デヴィッド・リンチはまず映画の中で、たっぷりと写実的に〈現実〉を描く。

その描写があまりにリアルなので、私たちは映画鑑賞者のつねとして、「これは〈現実〉だということにしよう。そのほうが映画を楽しめるからね」という手慣れた約束ごとにすぐなじんでしまう。

ところがリンチは、そのあとその「映画内的〈現実〉」がゆっくりと「映画内的に」条理を失い、輪郭が崩れ、しだいにその〈現実〉性を失うプロセスを私たちに経験させる。執拗に、いやになるほど執拗に。

すると、どういうことになるだろう。

「映画内的に〈現実〉であったこと」、それが「非現実」であるということを私たちは熟知している。だが、それが「非現実」であるということになったら、「それ」はどこに行けばよいのだろう?

「映画の中で『非現実』と断罪されたもの」は私たちの〈現実〉世界に「不法存在」する他ない。

なんという狡知。

「映画の中」はどんな荒唐無稽も許される「アナーキーな世界」であるはずだ。

だからこそ、私たちはそのような世界を愉悦し、享受してきたのだ。

ところが、その「アナーキーな世界」から、「何か」が「夢の世界での市民権」を剥奪されて「追放される」と、そのような「夢の難民」を受け容れることのできる「当事者」は立場上、鑑賞者である私たちしかいないのである。

映画は唐突に終わる。

映画の中から「何か」が追放されたのだ。

そうやって「映画内的世界」はその固有の秩序を回復したようである。

でも、その「何か」はどこにいったのだろう・・・。

デヴィッド・リンチは悪夢の構造を熟知している。

『ロスト・ハイウェイ』と『マルホランド・ドライブ』は必見。

 

 

『カンダハール』Kandahar by Mohsen Makhmalbaf : Niloufar Pazira, Hassan Tantai, Sadou Teymouri, Hoyatala Hakimi )

タリバーン政権下のアフガニスタンで自殺予告をした妹に会うためにカンダハールに密入国を企てるナダ在住のアフガン女性の悪夢のような旅。

私には政治的なメッセージはよく分からない。

でも、分かることもある。

それは「アフガニスタンの人は話がくどい」ということである。

同じことばを際限なく繰り返すうちに、それがある種の呪術性を帯びてくることがある。

この映画の中で、私がいちばん感じたのは、「同一の動作、同一のことばの反復」がもたらす存在論的な不快である。

「合わない義足」についての終わりのない抗議。「死者から盗んだ指輪」についての終わりのないセールストーク。

これは「怖い」。

ものすごく怖い。

人間の暴力性とは「同語反復」であり、人間の知性とは「前言撤回」のうちに存するということを、これほど執拗に主張した映画を私はかつて見たことがない。

 

 

『バルカン超特急』(The Lady Vanishes, by Alfred Hitchcock)

鈴木晶先生と共訳の「ラカン/ヒッチコック」の中にいろいろとヒッチコック映画が引用される。ミシェル・シオンくんが論じている『バルカン超特急』を未見であったので、この機会にビデオを拝見する。

実に面白い映画でありました。

「全員が犯人」という点ではアガサ・クリスティの『オリエント急行殺人事件』とよくにたアイディアであるが、それより1930年代のヨーロッパの国際政治の緊張感がよく現れている。

アメリカ・イギリス同盟vsドイツ・イタリア連合というかたちでドラマは展開し、「謎解き」合戦から最終的には銃撃戦にまで戦いはエスカレートする。

『カイエ・ドュ・シネマ』の論客、パスカル・ボニツェル、ミシェル・シヨンのお二人は、ともに、この図式を「新興の全体主義国家」と「退廃的なブルジョワ・デモクラシー」の対立の下に透けてみる、「近代ヨーロッパそのものの発する腐臭」を指摘しているが、私はそれだけではすこし単純じゃないかなという気がした。

主要な登場人物はイギリスの音楽学者ギルバート、アメリカの富豪の娘アイリス、イギリスの女性スパイ:ミス・フロイ(「失踪するレイディ」)、ドイツ人の医師、イタリア人の奇術師、ドイツの宣伝相夫人、イギリス人のドイツ側スパイ、不倫旅行中のイギリス人弁護士と有閑マダム、二人のクリケット選手。

この中で非常に重要な「狂言回し」を演じるのは実は英国紳士然とした二人のクリケット選手である。

彼らは冒頭のチロルのホテルの場面では雪崩による列車の停止によって、「イギリスの情勢」についての情報が途絶していることにいらいらしている。その緊張した面もちから私は、彼らが「クリケット選手に化けたイギリスの秘密情報員」ではないか、と一瞬疑う。

そして、別の客にかかってきた「ロンドンからの電話」に彼らは飛びつく。

そして、見知らぬ電話口の相手に向かって「いったい、そっちはどうなっているのだ」とせき込んで訊ねる。

「何の話だって?クリケットだよ!マンチェスターの試合結果はどうなったんだ。何知らない?ばかもん、それでもイギリス人か!」

ドイツによるズテーテン地方の併合と英仏の宥和政策の破綻。世界大戦が目前に予感されているときに、なんと、彼らの関心事はクリケットにしかない。

この「変な英国紳士」が実は物語のキーパーソンなのである。

彼らはやがてミス・フロイの失踪事件に巻き込まれる。

ミス・フロイなどという英国人女性はもともと列車に乗っていなかったと証言する人々の中にあって、彼らはたしかにミス・フロイを覚えていた。しかし、彼女を探し回るアイリスが、「見つからなければ、列車を止めて捜索してもらいます」というのを聞き咎めて、「これ以上列車が遅れたら、イギリスでの決勝戦に間に合わないぞ。困ったことになったな」と渋い顔をしている。

そこに来合わせたアイリスが「人が一人いなくなったのよ!クリケットみたいなこと(things like cricket)、どうだっていいじゃない」と放言するのに「かちーん」と来て、「では何もご協力できません」とつっぱねてしまうのである。

彼らにとっては、国際紛争も英国人女性の失踪事件も、クリケットの前には無価値なのである。

やがて事件はギルバートとアイリスの大活躍によってクライマックスを迎える。そのとき、二人の英国紳士は、生命の危機に際会しても、あいかわらず減らず口を叩き、ぶつくさいいながら、その沈着冷静で勇猛な戦いぶりによって、いきなり「男をあげる」。

ギルバートとアイリスは献身的な働きで、国際的陰謀を未然に防ぐ。

ミス・フロイは一身を犠牲にしても、人々を救おうとする。

二人の英国紳士は土壇場でのジョンブルのしぶとさをみせつける。

彼らと対照的にへろへろしているのは、「スキャンダルが法曹としての命取りになりそうなので、不倫相手のマダムとの別れ話をひそかに画策しているイギリス人弁護士」である。

彼は戦いのさなかに「銃ではなく、理性によって事態は収束するのである。話せば分かる」と宣言して、白旗をかかげて銃撃の中に出て行き、一発で撃ち殺されてしまう。

ここにはいろいろな「モチベーション」が示される。

愛国心あるいは使命感が政治的危機において人間に勇敢果断な行動をとらせる強い動機づけになること、これはミス・フロイとドイツ軍のスパイたちによって示される。(ただし、その行動が適切なものであったかどうかはとりあえず判定できない)

隣人への気遣い(アイリス)、惚れた女性への献身(ギルバート)が命がけの冒険のカタパルトになること、つまり「愛情」が人間の爆発的なエネルギー源になることは、この若い二人が示してくれる。

利己的動機に基づく理性的行動(弁護士)と金への執着(奇術師)は生き延びる上でほとんど何の役にも立たない。

そして最も不思議なのが、「クリケットのようなどうでもいいこと」に夢中になる人間が、危機的状況において、「クリケット以外のすべてのことに対する、ほとんど脱俗的な無執着」ゆえに、適切な判断と果断な行動を誤らない、という物語の設定である。

愛国心、愛、利己心、欲望、「クリケットへの執着」・・・さまざまな動機が交錯する中で、ほかのすべてがいわば「戦争機械」を前に進める「エンジン」として動くのに対し、それまでさまざまな現実の場面で彼らに「とんちんかん」な行動をとらせてきた「クリケット第一主義」が「戦争機械」の「コントロール」において効果的に機能する。

だって、彼らにとって「クリケット以外のこと」は女性の失踪であろうと、銃撃戦であろうと、スパイ騒ぎであろうと「どーでもいいこと」なのだからだ。

「どーでもいいこと」だからこそ、彼らは何に対しても「むきにならない」。

クライマックスの銃撃戦において、彼らの完全にリラックスした戦いぶりは印象的である。

ヒッチコックはこの「わしどーでもえーけんね紳士」を愛情を込めて描いている。

人間の中にはさまざまな水準の「エネルギーの水脈」がある。

どの深さにいちばん大量のエネルギーを埋蔵する水脈が眠っているか、それはひとりひとり違う。

それにピンポイントして、エネルギーを「リリース」すること、それがとても大切なことだ。

私はそれが「政治」ということの本質だと思う。

ヒッチコックはそのような意味ですぐれて政治的なフィルムメーカーである。

「何をきっかけにして、主人公はいきなり激しく果敢な行動にシフトしたか?」

そのような問いをもってヒッチコック映画を全部もう一度見なおしてみると、私たちは、ヒッチコックの「政治性」というものの輪郭に触れることが出来るのではないか。

というようなことを思わせた逸品でありました。

 

ひさしぶりにサッポロの「せをじ」くんからの投稿です。

論じるは『アメリ』と『千と千尋』。ではどーぞ。

 

 

『アメリ』(Amery by Jean-Pierre Jeunet)

アメリを見る。

インターネットの公式ページのコメントには,次のようなものがあった。

 

「幸福,独創性,優しさと詩情に満ちた2時間。魔法の魅力をもつ驚くべき作品」

                    Studio Magazine

「さわやかで,わかりやすく,晴れやかで,夢と詩情にあふれた美しいストーリー」

                    パリ市助役

「ほろりとさせながら,おかしくて,しかも驚きを誘う映画。日々の生活の忘れていた豊かさをしみじみと想い出させてくれる一本」  カルロス・ゴーン

                    

 映像の作りが面白い。

 のっけから登場するモンマルトルの銀蝿は,高速に羽を動かして静止した画面中を飛び回り,道路に止まり,その瞬間,通り過ぎる自動車のタイヤの下で,紅い塊に変わる。

 クジラという愛称の金魚は,飼い主家族に嫌気がさして,空中に身投げをし,小川に放たれても,落ち葉の流れゆく水中で停止し,雨粒の作り出す水面の波の広がりを通しながら,じっと飼い主を見上げる。この映像は,絶品である。

 その映像は,CGをはじめとする映像の技術を,スペクタクルという大げさなものではなく,また,ギャグという笑いを誘うものでもなく,エスプリに仕立てあげた。

 例えば,アメリとその恋人ニノがアメリの部屋のドア越しにたがいに相手の様子を窺うシーンがある。カメラは,部屋の内側のドアに耳を寄せるアメリに焦点を合わせながら,「壁をすり抜けて」90度移動し,部屋の外側のドアに耳を寄せるニノを映し出す。何ということもないシーンであるが,こんな所にも,ふたりの様子を自然に描き出す小さな魔法が使われている。

 音楽が,さりげなく,甘酸っぱい。

 全編を流れるアコーディオンの響きは,物憂げでありながら,それを現実として承認して生きていくパリの人々の息づかいを感じさせる。浅草にチンドンヤの物悲しいクラリネットの音色が合うように,パリにはアコーディオンがよく似合う。

 ストーリーは,あってなきがごとし。オムニバス調である。

 されど,一応は,恋愛物である。アメリの恋が実っていく過程が,オムニバスと同時並行して,語られていく。

 アメリは,人を幸せにする方法,人に復讐する方法を知っている。それがオムニバスになっている。

 最初の復讐は,嘘を言ってアメリの心を傷付けた隣人に対して,サッカーのテレビ中継のいいところを見るのを妨害するものである。

 最初の人を幸せにすることは,アメリの住んでいた下宿の40年前の住人に,その住人が隠し持っていた宝物を届けることである。

 丁稚をいじめる八百屋の主人に対する復讐の際には,アメリは,怪傑ゾロの心境になって,嫌がらせのあらゆる手段を講じる。

 下宿の女主人のために,30年前の夫の手紙を偽造する。

 持病の多い同僚には,過って膝にコーヒーをかけるという仕組まれた失態によって,恋のきっかけを作り出す。

 妻を亡くした父の新しい旅立ちのために,アメリは,父のお気に入りの小人の置物を盗み,スチュワーデスの友人に頼んで,ニューヨーク,カンボジアなどでその小人の記念写真を撮ってもらい,その写真を父に送る。

 アメリは,類いまれな想像力によって,これらの復讐をそして幸せを,人に送る。しかし,アメリは,自分の幸せをつかむことは,苦手だ。

 この作品には,心の優しい人が多く登場する。

 下宿の女主人,下宿の絵描きさん,八百屋の丁稚のリュシアン,そして,勤め先のカフェの女主人,カフェに通う売れない小説家,同じくスチュワーデス,アメリの下宿に40年前に住んでいた人,そしてニノ,みんな心の優しい人である。

 心の優しい人を浮き彫りにする敵役は,八百屋の主人,それにカフェに通って女給ジーナと売り子ジョルジェットを見張っているジョゼフくらいであろうか。

 さて,私も,キャッチ・コピーを作ろう。

「エスプリと魔法に満ちた人間賛歌。アメリの恋は,きっと,あなたにも幸せを運んでくれる。」

 そうそう,それでいい。公式のキャッチ・コピーは,それでいい。しかし・・・。

 アメリの日常生活を借りて,アメリの恋物語を借りて,監督ジャン・ピエール・ジュネは,次のようなメッセージを述べている。

 心の優しい人は,多かれ少なかれ,他の人の断定を,それが事実ではないとの疑いを抱いていたとしても,事実として受け入れてしまうことがある。それは,自然な心の働きであり,生きるための知恵でもある。なぜらば,その人にとって,その断定を事実として承認することはできないが,さりとて,その断定が事実ではないという証明を,あるいは,説得をすることは容易ではないからである。そして,その断定を否定すれば,その人との間で心理的な葛藤が発生する。その葛藤を避けるには,その断定に従って振る舞うしかない。

 アメリが物心ついて最初に出会った重大な断定は,退役軍医である父の「この子は,心臓が悪い。」という断定であった。アメリは,それが,単に父の前での診察において,動悸がしただけなのにと感じながら,その断定に従った振る舞いをすることになる。そして,アメリは,学校に行かず,他人との関係を結ぶことが苦手な少女になっていった。

 心の優しい人は,しばしば,傷つきやすく,他人との関係を結ぶことが苦手であり,失敗,失意,そして,失恋に親しい。パスカルも,ニーチェも,そして,寅さんも,そうであった。

 この作品の中で,ジャン・ピエール・ジュネ監督は,人生に失敗した心優しい二人の先輩を描き出す。

 一人は,下宿の絵描きさんである。

 他人との関係を結ぶことをおそれ,20年間も外出をしたことがない絵描きは,自分の骨がガラス細工のようにこわれやすくなってしまったと言う。そして,アメリに向かって言う。

 チャンスがきたら飛び込まなければいけない。今すぐ,ニノを追いかけて,つかまえなさい。そうしないと,私のようになってしまう。

 もう一人は,カフェに通う売れない小説家イポリットである。

 イポリットは言う。

 小説も失敗,人生も失敗。失敗につぐ失敗,書いては消し,書いては消し,人生は果てしなく書き直す未完の小説だ。

 アメリは,心の優しさから,他人との関係を結ぶことが苦手になり,しかし,心優しい絵描きの助け(トリック)を借りて,ニノと結ばれる。

 それは,心優しき人の人間賛歌である。

 しかし・・・,アメリは,40年前の私の記憶のゴミ箱を開いてしまった。

 心優しき人の別のストーリーを。

 それは,太宰治の描いた「葉ちゃん」である。

 「人間失格」の本文(はしがきの次に来る「第一の手記」)は,次のような文章から始まる。

「恥の多い生涯を送って来ました。自分には、人間の生活というものが、見当つかないのです。」

 そして,続く。

「そこで考え出したのは、道化でした。それは、自分の、人間に対する最後の求愛でした。自分は、人間を極度に恐れていながら、それでいて、人間を、どうしても思い切れなかったらしいのです。」

 そして,あとがきは,次の言葉で終わる。

「私たちの知っている葉ちゃんは、とても素直で、よく気がきいて、あれでお酒さえ飲まなければ、いいえ、飲んでも、……神様みたいないい子でした」

 アメリと葉ちゃん。ストーリーは,全く異なる。結末も違う。しかし,アメリは,私に葉ちゃんを思い出させてしまった。

 アメリ・・・それは,葉ちゃんとは随分違うが,葉ちゃんと同様に,心優しき人への贈り物である。

 

  

 

『千と千尋の神隠し』(by 宮崎駿)

 

 「千と千尋の神隠し」をDVDで見る。

 美しい映像である。

 不思議の世界である。

 そして,何よりも,暖かい。

 この作品の提示する現実的なテーマあるいは切り口は,「人は,契約の世界に生きる。」ということである。それは,この作品の多くの箇所に具体的に明示されている。この作品の序章が,引越しで転校することになったごく普通の女の子であり,どちらかといえば,ちょっとわがままな千尋が遭遇する不条理であるとすれば,この作品の第1章,実質的な物語は,千尋が湯婆の提示する契約書に署名することから始まる。

 人が契約の世界で生きるということは,働くということであり,他のために自分を捧げるということである。

 人が自分を捧げる相手方は,通常は「人」である。そして,人類は,長い歴史を経て,人が自分を捧げる相手方を「神」とする宗教システム,「国」とする国家システム,「会社」とする企業システムなどを作りあげてきた。

 人が自分を捧げる相手方が,「恋人」であれば恋愛物,「友人」であれば友情物,「家族」であれば家族愛物,「会社」であれば企業戦士物のストーリーに仕立てあがる。

 しかし,宮崎駿は,この作品において,自分を捧げる相手方として,「人」でもなく,「神」でもなく,「自然」でもない「妖怪」「八百万の神」を提示した。それは,宮崎駿の才能である。

 実を表現するのに,虚をもってし,虚を表現するのに,実(リアル)に迫る。この作品はアートの基本に忠実であり,その表現は,いつもながら精緻である。

 他との関係で,自分を誠実に捧げ,規律すること,それが,契約である。そして,それは,人が大人になるということを意味する。

 しかし,契約の世界は,「生もの」である人を,「機能」である人にしようとする。「生もの」である「千尋」は,契約の世界で,「機能」である「千」になり,誠実であればあるほど,「千尋」を喪失していく。湯婆が,魔法によって,そして,契約によって,「千尋」を「千」にすることの意味は,ここにある。

 人が子供であるとき,大人の契約の世界が見えない。しかし,いずれ,子供は大人になり,契約の世界に入る。そして,人が大人になるとき,契約の世界で,「生もの」である自分を喪失していく。

 しかし,「千尋」は,「千」になりきることはない。「千尋」は,魔法をかけられて豚になったお父さん・お母さんを人に戻してもらいたいという必死な願いから,湯婆との契約に基づいて「千」になる。「千」が「千尋」を忘れそうになるとき,「ハク」がそれを思い起こさせる。そして,契約の象徴である湯婆は,「千」が「千尋」を取り戻そうとすることを妨げながら,それでも,「千」が「千尋」を取り戻そうとするとき,それを暖かく是認する。

 人類は,秩序・契約という魔法によって,その全体の生存を維持してきた。しかし,人が,自然で飾らない必死の願いから,秩序・契約を破ろうとするとき,秩序・契約は,その人の切実な思いに自分を譲り,そして,人類は,新しい世界を形成してきた。

 人は,契約を守らなければならない。しかし,契約の相手方は,人である。人は,秩序を守らなければならない。しかし,秩序は,人のためにある。

 千と千尋。それは,これから契約の世界に入ろうとする人には,その心構えを,デジャヴーとして提示する。そして,契約の世界に入りきってしまった人には,契約の世界に入る前の自分を思い起こさせる。

 宮崎作品の主人公の女の子の原型は,ルパン三世・カリオストロの城に登場するクラリスである。風の谷のナウシカのナウシカ,天空の城ラピュタのシータ,となりのトトロのさつき,魔女の宅急便のキキ,もののけ姫のサン・・・みな,賢くて,可憐なかわいさがあり,優しく,努力家であり,危機にあっては並はずれた勇気を示す。それは,男の子が求める理想の女の子である。

 しかし,千尋は,賢くもなく,かわいくもなく,ちょっとわがままで,面倒なことは嫌がり,楽をしたがり,怖がりやの,ごく普通の女の子である。敢えて似た子を探すとすれば,トトロに出てきたメイちゃんであろうか。そして,この作品には,その千尋がぴったりの女の子である。この作品の主人公をクラリス・タイプにすることは,可能である。宮崎駿ファンには,その脚本を,そのイメージを,ほとんど瞬時に描きあげることができる。しかし・・・それは・・・美しすぎる。この作品は,その序章と終章の舞台が,まぎれもなく,この鬱陶しく,閉塞感すらある現代の日本であるだけに,その主人公は,やはり,千尋でなければならない。千尋であるからこそ,この作品の序章と終章が,物語にとどまらない現実味を帯び,引き締まったものとなる。

 千と千尋。それは,いずれも否定できないものである。

 ラストシーンの千尋には,千尋を失わずに千になることを引き受けようとする目の輝きがあった。

 

という「せをじ」くんのほんわか映画批評でした。

みなさまからの映画レビューもお待ちしてます。どんどん寄稿して下さいね。

 

 

『私を野球に連れてって』(Take me out to the ball game by Busby Berkeley

:Frank Sinatra,Esther Williams,Gene Kelly, Betty Garrett)

 

日本未公開のMGMミュージカル。

そうか、日本未公開だったんだ。

だから私たちはメジャー・リーグの球場で歌われる『私を野球に連れてって』という曲を知らないんだね。

どうして輸入しなかったんだろう。(同じシナトラ&ケリーコンビの『錨を上げて』も『踊る大紐育』も公開されているのに)

誰か知っていたら教えて下さいね。

これは、その後の「男性ばかりのスポーツチームに女性オーナーがやってきて、大騒ぎ」という『メジャー・リーグ』以下無数のエピゴーネン作品群の「先達」である。(そのさらに先達もあるのかもしれない)

アメリカ映画は、この「男ばかりの集団に、untouchable なポジションにある女性が一人やってくる」という話型が好きだ。

たぶん、西部開拓の時期(フロンティアでは、圧倒的に女性が少なかった)に東部から来た女性を数十倍の倍率で男たちが競い合い、牽制し合い、譲り合い、抜け駆けし合い、騙し合った経験を通じてアメリカ男性が受けたトラウマがこの種の説話の原型になっているのだろう。(だって、女性に選ばれた幸運な男以外、あとは全部「あぶれた」んだから、性的承認を受けることができなかった男たちのトラウマは深いはずだ)

トラウマを癒すためには、いろいろなやり方がある。

その一つは、「女が選ぶのはしょせんカス男だ」という「負け犬の遠吠え」

もう一つは、「あんな女は、どうせろくなもんじゃない」という「酸っぱい葡萄」。

この映画はちゃんとこの二つの定型的な治療法を採用している。

『私を野球に連れてって』では、男たちの中で「もっとも粗野で、もっとも無学で、もっとも強欲で、もっともスケベな男」が最後に「女をものにする」という話型が採用されている。

その場合は、「あぶれた男たち」は、「まあ、あいつなら仕方がないか」というかたちで自己説得することができる。そういう彼らもみんな「粗野で、無学で、強欲で、スケベ」なんだけれど、「あの男」ほどには徹底してなかった、ということなんだから。(自分たちはもう少し紳士的で、教養があって、淡泊なのである。)

もちろん、そういうマッチョでワイルドで男は「ものにした女」をそのうちゴミのように棄てて、また次の女に走るであろうことは火を見るより明らかである。

つまり、ワイルドなバカ男成功譚は、裏返しに言えば「男たちからちやほやされた女は絶対カスをつかんで不幸になる」失敗譚にもなっている。

「男たちをさんざん弄んだ女はいずれ罰を受けるであろう」というのは、女性嫌悪(ミソジニー)の定型的な説話構成である。

「女なんかろくなもんじゃない。大切なのは、男同士の友情さ」という「ホモソーシャル」的細部の映画の随所に横溢している。

フランク・シナトラとジーン・ケリーは映画の中で、執拗に「スキンシップ」を繰り返す。

誰が見ても、この二人は「ゲイのカップル」である。

でも、二人にまつわる定型的なヘテロセクシュアル話型の反復によって、彼らがゲイであることは前景化しない。

新しいオーナー、K・C・ヒギンス(エスター・ウィリアムス)は、「ウルヴス」というホモソーシャルな集団に間違って紛れ込んだために、ふさわしい「罰」を受けなければならない。

もちろん、それは「レイプ」されることである。

1949年の映画なので、いきなり性交する場面はない。

しかし、プールでの裸身や、ベランダへの侵入や、ダンスパーティやホテルの中庭でのめちゃくちゃディープで無法なキスシーンを見る限り、エスター・ウィリアムスにはその性的供物を効果的に保守する権能は与えられていない。

彼女がとりあえず貞操をキープしているのは、男たちが「自分の都合で(恋敵への遠慮やペナントレース終盤の緊張感から)ちょっとだけ我慢している」からだけなのである。

その気になったらあっという間にレイプされてしまうだろう、という女性の無防備さが映画では繰り返し暗示される。

何にしてもずいぶんな映画だなあ、とウチダは思った。

アメリカの男たちはアメリカの女性を深く憎悪している。

その憎しみは「圧倒的に女が少なかったせいで、生涯に一度もステディをもつことができなかった哀しいフロンティアの男たち」の集団的トラウマを癒すために「女なんて、なにさ」説話群が長期にわたって大量に流布したことが起源にあったのである。

そうか、そうだったのか。

この深い恨みに培養されたアメリカのミソジニーの伝統は一朝一夕では癒されないような気がする。

 

 

 

『ソードフィッシュ』(Sword fish by Dominic Sena:John Travolta, Halle Berry, Hugh Jackman, Don Sheald, Sam Shepard)

9.11テロでアメリカでは公開が中止になった映画がいくつかあるが、その一つ。

テロリストを退治するための資金を非合法的に入手するアメリカの秘密軍事組織の話なんだから、ストーリー上は「愛国主義的」でまったく問題はないはずなのだが、ヘリコプターからぶるさがったバスが高層ビルに衝突してガラスが砕け散るあたりの絵柄がアメリカ人のトラウマに触れたのかもしれない。

アメリカの「陰謀もの」の悪役は、久しくCIAが独占していたが、その後大統領が一手に引き受けるようになり、さらにDEAやその他の政府機関が順番に担当していたが、今回は、フーバー長官が創設した「裏FBI」が担当している。

この「裏FBI」というアイディアは悪くない。

政府情報をぜんぶ把握し、抜群の資金力と組織力を持ち、非合法活動なんでもありの「秘密軍事組織」があったら、アメリカの世界支配はどんなに便利になるだろう、というアメリカ国民の「邪悪な欲望」をそのまま映画にしてみました、という作品である。

私はこういう大衆の「邪悪な欲望」を恥ずかしげもなく剥き出しにする、という点においてハリウッド映画を高く評価するものである。

ひるがえって我が国の映画の中に、「大衆の邪悪な欲望」を恥ずかしげもなく、ためらいもなく、ストレートに映像化したものがあるだろうか?

日本のフィルムメーカーが映像化するのは、彼らの個人的な「邪悪な欲望」か、せいぜい都会のビンボーな若者の鬱屈や屈託した性欲くらいである。

日本国民の大多数の「口に出すことのできない邪悪な欲望」を奇想天外な物語をつうじて映像化する度胸があるフィルムメーカーは本当にレアである。(たぶん北野武と宮崎駿くらいではないのか)

ウチダとしては、『暴れん坊将軍』か『水戸黄門』の劇場版なんか、どうかなと思う。

これってどっちも「政府中枢に通じていて、恐るべき情報力と底なしの資金力と鉄壁の組織力をもつ秘密軍事組織が、気に入らないやつをかたっぱしからテロにかける」という話であるという点において『ソードフィッシュ』とまったく同じなんだよね。

あ、そうだ、いっそ『暴れん坊将軍vs水戸黄門』にしたら。

高倉健の水戸黄門、小林旭の暴れん坊将軍が、最後にそれぞれの秘密軍事組織の存亡を賭けて死闘を繰り広げる、というのはどうかね。

 

 

『AI』(Artificial Intelligence:AI, by Steven Spielberg: Haley Joel Osment, Jude Law, Frances O'connor, William Hurt)

ネタもとは『ピノキオ』じゃなくて、やっぱり『鉄腕アトム』でしょう。

スピルバーグはアニメ版の『鉄腕アトム』(アメリカでの放映タイトルはAstro Boy)を見て育っているはずだし。マンガだって読んでいる可能性はある。

アトムは天馬博士に「代理息子」として作り出されるが、「完全な子ども」であるがゆえに、「成長する」ことができず棄てられ、やがてサーカスの芸人にまで身を落とす。この説話パターンは『AI』でもそのまま踏襲されている。

「母探し」のエピソードも『アトム』のストーリーラインの一つではあったが、これほどまでにべたべたしたものではなかった。というのは、アトムには「身を棄てて世界を救う」という強烈な使命感があり、それがそのほかのすべての個人的情動を抑制しているからである。

「世界」とか「人類」とかいうのは幻想であり、象徴的なネットワーク内部においてしか意味をもたない。つまり、アトムは、ふつうの人間以上に「人間的幻想」に深く領されていたのである。

AIのデヴィッドくんには、もちろんそのような幻想には冒されていない。

だって、彼には抽象的思考ができないからだ。

彼に賦与された「人工知能」は「想像界」に固定されている。

だから彼にできることは二つしかない。

一つは母との全面的な合一。もう一つは鏡像破壊である。

デイヴィッドがホビー教授の研究所で「もう一人のデイヴィッド」に出会う場面は、私たちに非常につよい違和感をもたらす。(デイヴィッドは自分の「鏡像」を暴力的に叩きつぶす。)それは「どちらがほんものか」を決定するために覇権を競う鏡像たちの宿命だ。

たがいに鏡像関係にある想像界の人間たちのあいだの関係はこのようにきわめて不安定である。

エロスと攻撃性、それが想像界の本質だからである。

では、この物語でどのようにして「父」が介入してきて、デイヴィッドを「去勢」し、彼を象徴界へと導き、成熟のプロセスを完了させることになるのだろう。

代理父であるヘンリーも、生みの親であるホビー教授も、旅の友であるセックス・ロボットのジョーも、誰一人デイヴィッドに「父の名」と「父の否」を教えることができない。

最終的に、デイヴィッドと母との癒合を断ち切るために登場するのはなんと「エイリアン」なのである。

Alien すなわち「絶対的他者」が登場して、母親を「象徴的に」殺して、はじめてデイヴィッドは想像界から象徴界へのテイクオフを成し遂げることになる。

象徴界、それは実体としての「人間」がかき消えて、「人間の意味」だけが残存した「氷の世界」なのである。

というわけで、ハリウッド映画のつねとして、この作品もまた、哀しいほど簡単にラカン理論で説明できちゃうのでありました。

 

 

『ドラキュリア』Dracula 2000 by Patrick Lussier: Johnny Lee Miller, Justine Waddell, Gerard Butler, Christopher Plummer)

ドラキュラはユダであったという新解釈。

十字架と銀がきらいなのは、たしかにそれで説明がつくけれど、「ニンニク」は?「太陽」は?

 

 

『ヤマカシ』(Yamakasi by Ariel Zeitoun: 元気な移民たち)

パリのバンリューのHLM(Habitation a loyer modere,つまり「セメント長屋」)に住む、頭は悪いけど、元気いっぱいの移民の若者たちが「忍者ごっこ」に興じるお話。いかにもリュック・ベッソン好み。(『タクシー2』でも忍者を出してたしね)

でもヤマカシってどういう意味なんだろう。(副題は Les samourais du temps moderne つまり「現代のサムライ」)

若者たちは「日本には『七人の侍』が、アメリカには『荒野の七人』がいる。われわれは『フランスの七人のサムライ』だといばっていた。

リュック・ベッソンはそのつもりかもしれないけれど、黒澤明もジョン・スタージェスも「同列に論じていただきたくない」ときっぱりご遠慮されるのではないか。

 

 

『キス・オブ・ザ・ドラゴン』(Kiss of the dragon by Chirs Nahon: Jet Li, Bridget Fonda, Tcheky Karyo)

カンフー映画はついに30年目にして『燃えよドラゴン』に拮抗する作品を生み出した。

ブルース・リーのあと、『燃えよドラゴン』に匹敵する映画はもうできないのか思っていたが、リー・リンチェイ+リュック・ベッソン(シナリオ&プロデュース)が実現してくれた。

全編、ブルース・リーへのオマージュで満たされている。

単身警察署に乗り込むリーが道場で柔道着をつけた数十人の警官たちを叩き伏せる場面は『怒りの鉄拳』の道場殴り込みや『燃えよドラゴン』の地下工場での乱闘シーンを思わせずにはいない。

ファイティングポーズをとったあと、指で挑発的に「おいで、おいで」をする場面が何度も出てくるが、これもブルース・リーの特徴的な動きのひとつだった。

二本の箸で喉を突き刺すの元ネタは『ドラゴンへの道』で披露された割り箸手裏剣。

面白いのは「鍼」で人を眠らせたり殺したりする技。

アメリカの批評家は「意味がわからん」と書いていたが、これはもちろん仕掛人梅安。

リュック・ベッソンは「必殺仕掛人」まで見てたのである。(タランティーノといい、この世代のフィルムメーカーの日本のTVと映画に対する知識は恐ろしくディープだ)

しかし、リー・リンチェイのアクションが、これほどパリの街にマッチするとは思わなかった。すばらしい。

ウチダ絶賛の『ロミオ・マスト・ダイ』は興行的には失敗だったらしいけど、いい映画だった。

しかし、『キス・オブ・ザ・ドラゴン』はもっとよいぞ。

とりあえずのところ2002年度のウチダ的ベスト1。

すべてのボンクラ映画ファンは必見だ。

 

 

 

『ドリヴン』(Driven by Lenny Harlin: Sylvester Stallone, Burt Reynolds, Kip

Pardue, Stacy Edwards, Til Schweiger, Estella Warren )

 

レニー・ハーリンは『ダイ・ハード2』と『クリフハンガー』のときは「おお、期待の新人出現か」と思ったが、そのあと『カットスロート・アイランド』でがっくり、『ロングキス・グッドナイト』でちょっとリカバーしたかと思ったが、『ディープ・ブルー・シー』がやっぱりひどい出来で、『ドリヴン』において、ついに才能が完全に枯渇したことがあきらかとなった。

気の毒だが、この時期にシルヴェスター・スタローン(最悪)主演でカーレース(退屈)の映画を作るという企画に乗ること自体、「焼きが回った」証拠である。

しかし若い俳優たちはそれぞれがんばっていた。

ティル・シュワイガーは『ノッキング・オン・ヘヴンズ・ドア』で実に印象的な役を演じていたドイツの俳優。やはりハリウッドはちゃんとこういう人に目を付ける。

キプ・パルデューもなかなかよい。(とくにバカ眼鏡をかけているときがかわいい)

エステラ・ウォーレンは『猿の惑星』の出てきた新人女優である。演技は学芸会レヴェルだが、驚異的に「顔がでかい」。

エステラ・ウォーレンがスターになれるということは小顔ブームも終わったらしい。(なにしろ、ほっぺたが目鼻口のある部分のちょうど倍ある。それだけでも一見の価値あり)

造作はジーナ・デイヴィスにたいへんよく似ているから、あるいはレニー・ハーリンはこの手の顔が好きなのかもしれない。

この映画の唯一のとりえは(「強いて言えば」ですけど)ベッドシーンのダレ場がないことである。

しかし、あるいはこれも、エステラ・ウォーレンに岡惚れしたレニー・ハーリンが彼女の裸を観客に見せたくなかっただけかも知れない。そういえば、『ロングキス・グッドナイト』では執拗なまでにジーナ・デイヴィスに厚着させていたし。

最近「地獄みみ」を見ていないので知らないけれど、もしかするとレニー・ハーリンはジーナ・デイヴィスと別れて、エステラ・ウォーレンとくっついたのかもしれない。

うん、これは大いにありそうだ。

とすると、すべてのつじつまがあう。

つまり『ドリヴン』は「ホーム・ムーヴィー」だということなんですけど。

 

 

 

『ペパーミント・キャンディー』(監督:リ・チャンドン、出演:ソム・キュング)

哀しい映画だ。韓国映画は(三本しか見てないけど)、なぜかすべて「哀しい」映画ばかりである。

この三本の映画の登場人物に「愉快な人」「諧謔を弄する人」「内心を語らない人」は一人として存在しない。

感情の高揚は「怒る」か「泣く」かのいずれかである。

人間の深さは「怒りの深さ」と「哀しみの深さ」だけで定量される。

泣かず、怒らず、それでも厚みのある人格を描くのは韓国映画の風儀に合わないのかも知れない。

 

 

 

『昭和残侠伝・唐獅子牡丹』(監督:佐伯清 出演:高倉健、池部良、三田佳子、津川雅彦、水島道太郎、菅原謙二、芦田伸介)

 

『昭和残侠伝・血染めの唐獅子』(監督:マキノ雅弘、出演:高倉健、池部良、藤純子、津川雅彦、牧紀子、水島道太郎、金子信雄、河津清三郎)

 

『昭和残侠伝・人斬り唐獅子』(監督:山下耕作、出演:高倉健、池部良、片岡千恵蔵、小山明子、長谷川明男、寺島達夫、葉山良二、沼田曜一、須賀不二男、大木実)

 

『ホタル』を見たら、急に『昭和残侠伝』が見たくなった。

でも手もとにあるのは、TV放映したのをダビングしたやつだけ。画像も悪いしTV用にぶつ切れされている。完全版で見るべく、インターネットで『昭和残侠伝』全作品をDVDで入手しようとしたら、なんとDVDが出てない。VHSで三作品のみ。

おいおい、これはどういうことなの。

高倉健さんといったら、日本映画を代表する俳優でしょうが。

『昭和残侠伝』といったら、それぬきには1960年代を語ることができないといういうくらいに近代日本人のエートスに決定的な「刷り込み」を果たした作品群ではないか。(冗談ぬきで明治40年代の夏目漱石の作品群に匹敵すると私は思う。)

それがVHS三作品しか見ることができないとは。

東映はなにを考えているのか。

VHSの在庫がはけるまでDVDは出さないというセコイ算盤をはじいているのであろうが、そういうのはすごくよくないぞ。

とりあえず手に入る限りのものを購入して、三夜連続の『昭和残侠伝』大会。

劇場公開時にも見ているし、TV放映でも見ているはずだが、それでもほんとうによい映画である。

三作とも傑作だが、作品の完成度では、『人斬り唐獅子』が最高。

片岡千恵蔵の「剣の親分」の貫禄もため息が出るほどすばらしいが、剣一家の「寡黙な代貸」沼田曜一、皆川一家の「人情味ある代貸」葉山良二、東雲一家の「苦悩する代貸」池部良の、「三代貸」の内的葛藤が醸し出すほとんどシェークスピア的なドラマの深み。

禁欲的で、優しくて、荒れ狂うヒーロー花田秀次郎は高倉健の生涯最高の当たり役だ。

今回は私費での購入であったが、これを研究費で購入して、AVライブラリーに配架するとおそらく「ウチダ先生!公費でヤクザ映画を買うなんて、何考えてるんですか。見識を疑います」というようなことを言う教職員がいるかもしれない。

何にも分かっちゃいない。

『昭和残侠伝』は日本が世界に誇ることのできる数少ない映画の一つなのに。

 

 

『仁義なき戦い・広島死闘篇』(監督:深作欣二 出演:菅原文太、千葉真一、北大路欣也、山城新伍、名和広、成田三樹夫、小林旭、金子信雄、遠藤辰雄、小池朝男)

 

『仁義なき戦い・代理戦争』(監督:深作欣二 出演:菅原文太、小林旭、梅宮辰夫、成田三樹夫、山城新伍、渡瀬恒彦、川谷拓三、内田朝雄、田中邦衛)

 

『仁義なき戦い』全作品がDVDで出た。

とりあえずウチダのフェバリットである『広島死闘篇』と『代理戦争』を購入。

『広島死闘篇』は何と言っても千葉ちゃん演じるキチガイヤクザ大友勝利が最高。主人公である北大路欣也も菅原文太も千葉ちゃんの前では影が薄い。

無期懲役を食らったはずの大友の晩年はのちの作品では宍戸錠が演じているが、根が都会派の「エースのジョー」では残念ながら、若き日の千葉ちゃんの狂いぶりには遠く及ばない。

『代理戦争』は『仁義なき戦い』シリーズでウチダがいちばん買う一編である。

この作品はほとんど暴力シーンがない。ひたすら「ヤクザ外交」の壮絶なネゴシエーションと裏切りと内通とブラフだけが描かれる。成田三樹夫、小林旭、菅原文太、山城新伍、田中邦衛の五人の「山守組幹部」の腹の探り合いが骨格をなしている。舞台劇といってもいいほど圧倒的な量の台詞だけでドラマは展開する。

小林旭のベストパフォーマンスは『仁義なき戦い』だというとアキラファンは不満かもしれないけれど、ウチダは日活時代の脳天気な『渡り鳥シリーズ』や『銀座警察』シリーズよりは、『代理戦争』と『頂上作戦』の小林旭をはるかに買う。

とくに『頂上作戦』のラストシーン、雪の吹き込む裁判所の廊下で、裸足に雪駄、スーツにバーバリーのコートといういでたちの小林旭が菅原文太に「昌三、こんなん何年打たれたん」と語りかけるシーンは、わずか5年の(1969年から1974年のあいだに)『昭和残侠伝』の高倉健と池辺良の「幸福な道行き」の可能性が私たちの社会から決定的に失われたことを告げる感動的な映像であるとウチダは思う。(チョウ・ユン・ファが惚れ込んだのもうなずける。)

不思議なことだが、東映映画の「最後の輝き」である『仁義なき戦い』シリーズは「もっとも東映スターらしくない」都会派・菅原文太と「日活スター」小林旭と「大映の(ウチダの最愛の)バイプレイヤー」成田三樹夫によって担われたのである。

ウチダはいかなる抵抗に遭おうとも、高倉健全作品と『仁義なき戦い』全作品をAVライブラリーに入れる決意である。

学生諸君は刮目して見るべし。

これこそ20世紀末における「日本のおじさん的エートス」の原点なのだ。

 

 

 

『ジュラシックパーク3』(Jurassic Park III by Joe Johnston: Sam Neill,

William H. Macy, Tea Leoni)

 

『ハムナプトラ2』(The Mummy Returns by Stephen Sommers: Brendan Fraser,

Rachel Weisz, Arnold Vosloo, John Hannah)

 

『ジュラシックパーク』のような映画を撮りたかった、『インディ・ジョーンズ』のような映画を撮りたかったという気持はよく分かる。でも、誰もがスティーヴン・スピルバーグのような映画を撮れるわけではない。

「スピルバーグのような映画」を撮ろうと望んだ瞬間に、フィルムメーカーたちは「新しい興奮、新しい恐怖、新しい物語、新しい人間」を創り出すことを忘れてしまう。

同じ予算、同じ機材、同じスタッフ、同じ技術を駆使しながら、なぜ「スピルバーグになれない」のか、キミたちはよく反省するように。

 

 

 

『勇気あるもの』(Renaissance Man by Penny Marshall: Danny DeVito Gregory

Hines, Mark Wahlberg)

 

ウチダは「先生もの」に弱い。

別にウチダが先生とよばれる商売をしているので「先生もの」に弱いのではなく、むかしから弱いのである。

「先生!」と叫びながら子どもたちが先生めざして駆け寄ってくる場面をみると反射的にぼろぼろ泣いてしまうような子どもであったがゆえに、おそらく教師の道を選んだのであろう。

教えるものはそのまま学ぶものであり、教師自身が成長することなしには生徒を成長させることができない、という永遠の真理をまっすぐに描いている。

その意味ではよい映画である。

同時に、「文学はUSArmyにどんな貢献ができるか」というラディカルな主題を扱った「危険な映画」でもある。

この映画の結論は、文学は「よき兵士」を作り出す、というものである。

簡単には呑み込むことのできない結論だ。

しかし、考えさせられる知見でもある。

ウチダは「戦争は大嫌い」であるが、「軍隊はけっこう好き」の人である。

人を殺すことも殺されることも嫌いだが、殺す技術の訓練は好きである。大好きといってもよい。

それは「人を殺し殺される」という局面をつねに想定して生きるということが人間にとってとてもたいせつだな想像力の訓練だと思うからだ。

人間は壊れる、簡単に壊れる。私も簡単に壊れる。キミも簡単に壊れる。

私は人を殺すことができる。簡単にキミの命を奪い、キミの身体を引き裂くことができる。

そのようにとりかえしがつかないほどに脆弱でありかつ暴力的である存在として私たちはいる、ということを「殺す訓練」はつねに思い知らせてくれる。

逆説的なことだが「殺す訓練」は「生きる意味」についての省察に私たちは繰り返し差し向ける経験でもある。

だから軍隊に入ったバカ頭の若者たちが短期間にある種の「覚醒」を経験して「一人前」になる、というのは理にかなったことである。

それは人間は殺せる、恐ろしいほど簡単に殺せる、ということを身に染みて味わうからだ。自分が「壊れ物」であり、他者もまた「壊れ物」であるということを知るからだ。

いま吸っているこの空気が生涯最後の一息かもしれないし、いま味わっているビールが生涯最後のビールかもしれないという切迫の中で、人間ははじめて世界がどれほど愛おしいものであるかを知る。

その意味でウチダは軍隊の教育的効果というものを高く評価するものである。

もし「決して戦争をしない軍隊」というものがあったとすれば、私はそれを人類の最高の発明だと思うだろう。

あ、自衛隊がそうか。

 

 

 

 

『ハート・オブ・ウーマン』(What women want by Nancy Meyers:  Mel Gibson,Helen Hunt)

メル・ギブソンにはずれなし。

よい映画である。

フロイトが生涯かけて探求したのは「女は何を求めているか?」という問いであり、ついに答えを得ることないままに死んだという話が映画のなかに出てくるが、これはほんとうである。

ショシャーナ・フェルマンを引くまでもなく、女性は自分が何を求めているのかを、自分を主語にして語る言語を持っていない。だから、女性がほんとうに求めているものはそのつどすでに「トラウマ」としてしか語られず、ひとはそれに迂回的にしか接近することしかできないのである。

ところがなんとメル・ギブソンくんは、あのフロイト大先生すら知り得なかったことを知ってしまうのである。(ヘアドライヤーに感電して)

「女がほんとうに求めていること」(What women want) とは何か?

それは「女性がほんとうに求めているものに他者は迂回的にしか接近しえない」という事実を知っている他者と出会うことである」。

よい映画である。(でも邦題をなんとかしてね)

 

 

 

 

 

『ホタル』(降旗康男監督、高倉健、田中裕子、井川久佐志、奈良岡朋子、夏八木勲、小林稔侍)

高倉健にはずれなし。(ほんとだね)

例によって、高倉健の主人公は自分の内心を語る台詞をほとんど一つとして口にしない。言葉を発する前の、(あるいは発しようと思ったが止めるときの)、身体の中に流れ来たり去る無数の「思い」を、じっと立ったまま、うつむいたまま、あるいは遠景に目を逸らしたまま、黙したままで、「語る」。

口で語るのではないし、身体で語るというのでもない。

高倉健のオーラが映画全体を領しているのである。

言葉をもちいずに、これほど深く遠くへ届く言葉を語ることができる俳優の存在はほとんど奇跡である。

『ホタル』が終わったので、確認のために『昭和残侠伝・人斬り唐獅子』を見る。

やっぱり、むかしから健さんは健さんだ。

「ハナダ、ヒデジロウです。」

おおおお。

高倉健全作品という全集が出たら、ウチダは買うぞ。

 

 

 

 

『天使のくれた時間』(The Family Man by Brett Ratner: Nicolas Cage, Tea Leoni)

 

ニコラス・ケイジにはずれなし。

邦題はひどいが(ひどすぎる)よい映画である。

監督はジャッキー・チェンとクリス・タッカーのバカ映画『ラッシュ・アワー』シリーズの天才ブレット・ラトナー(まだ31歳!)

『ラッシュアワー』の軽快さでぐいぐいひっぱる、胸が熱くなるようなSFラブ・ロマンスである。(もりだくさんだなー)

多次元宇宙に入り込んで、「私がいまのようになっていなかったときの私」に出会って、生き方を考え直し、よい人になって現世に戻ってくる、というのはディケンズの『クリスマス・キャロル』以来、クリスマス物語の定番である。

日本では暮れになると『忠臣蔵』を映画化するが、アメリカでは暮れになると『クリスマス・キャロル』を映画化したくなる気分が国民的に蔓延するのであろう。(『恋はデジャブ』も多次元宇宙をさまよったあとに、やはりクリスマスの雪の中で、「ほんとうの私」を見出すという話であった。ほかにもきっとたくさんあるはずだ。誰か勘定してみて下さい。)

しかし、この手の映画はわかっちゃいるけどやめられない。

こうなるだろうと分かっていながら、みすみすその手にのせられて、ついにはうるうる泣き出してしまうのである。

うるうる。

何か言おうとして、言えなくて、口を半開きにして、呆然としているときのニコラス・ケイジの表情(この映画では20回くらい見ることが出来る)は、ほんとうにチャーミングだ。

よい映画である。(でも邦題を何とかしてね。まあ原題も「家庭人」だからね。これでは客は入らんわな)

 

 

 

 

 

『岸和田少年愚連隊−カオルちゃん最強伝説』(監督:宮坂武志 出演:竹内力、野村真美、鈴木希依子、山口祥行、古井榮一、池乃めだか、中山美保、伊佐山ひろ子、中場利一、布川敏和、田口トモロヲ)

 

中場利一の『岸和田少年愚連隊』は『本の雑誌』連載時から私の愛読書であり、単行本ももっているのだが、映画の方は吉本興業系の漫才タレントが出ているので、ちょっと敬遠して来た。

しかし、去年ご縁ができた『ミーツ』の江さんは岸和田のだんじりの若頭であり、中場さんは江さんの後輩。『ミーツ』にも爆笑連載エッセイを書いているという濃いご縁があることが発覚。今回は主演が漫才タレントではなく竹内力ということもあって、とりあえず借りてみたのである。

こここ、これは面白い。

『ティッカー』というゴミ映画は開巻10秒で駄作であることが分かったが、『カオルちゃん最強伝説』は開巻10秒で傑作であることが知れた。

最初に画面に出てくる役者が最初に何を言うかで、映画の緊張感の水準は決定されるのだが、この映画は「げふ」というコーラのげっぷから始まる。(それも二回も)そのあとは竹内力の「かー・・・・ぺっ」という唾吐き。(すごい水量なんだな、これが、毎度)

竹内力は『彼女が水着に着替えたら』のころは、織田裕二といっしょに湘南ナンパ少年役なんかしてたのに、『ミナミの帝王』で「わてもミナミのマンダだす。ちいと利子たこうおまっせ」でとんでもない人物造型に成功して、それ以来、完全に「たがのはずれた」俳優となってしまった。

カオルちゃんは、たしかナインティナイン版の『愚連隊』(見てないけど)では小林稔侍がやっていたと思うけど、中場利一の原作のイメージとはだいぶ違う。

というか原作をいくら読んでも、カオルちゃんについてだけはその姿が私にもイメージできなかった。原作ではカオルちゃんというのはこんなふうに記述されている。

 

「それほど怖い人である。たしか私より一回りほど年上ではあるが、オッサンなんて言おうもんなら『この口が言うたんかい』と上と下の唇を重ねて五寸釘をブスリと通したあと、唇が引き裂けるまで引きずり回されるであろう。

何十人が待ち受けるヤクザの事務所に、たった一人ダンプで突っ込み、全身ナマスのように切りきざまれても、毎日勝まで通い詰めた人である。今ではこの人が商店街を歩いていると、裏通りがヤクザで溢れると言われている。」

 

誤解を招く引用だが、以上はカオルちゃんではなく、イサミちゃんについての記述である。カオルちゃんはそのあとに登場。

 

「このイサミちゃんともう一人『カオルちゃん』と呼ばれる悪魔のような人がいて、カオルちゃんの場合はイサミちゃんが切りきざまれた事務所ぐらいなら、鼻歌を唄いながら素手で壊滅させるほど別格なのだ。一にカオル、二にイサミ、三、四がなくて、五にヤクザと言われるほどこのイサミちゃんも怖い人であることには間違いない。ただこの人の場合は、鬼のカオルに仏のイサミと言われる通り、普段から切れっぱなしのカオルちゃんとはかなり違い、話せば分かるタイプである。」(『岸和田少年愚連隊−血煙り純情篇』)

 

イサミちゃんは何となく想像できるが、カオルちゃんの人物像が分からない。

その長年の疑問が昨夜氷解した。

竹内力だったのである。

「切れっぱなし」の男というのは、なかなか造型がむずかしい役どころである。

ずっとガオガオほたえているだけでは、その「うるささ」にすぐ感覚が麻痺してしまう。

だから、ときどき「すっ」と鎮静して、その不安な静けさがつねにこちらの予測に先んじて「切れる」という絶妙の緩急が必要になるのである。

私の知る限り、これまで「切れっぱなしの男」の造型に成功した例は少ない。

思いだしつつ挙げるならば、『まむしの兄弟』の菅原文太、『仁義の墓場』の渡哲也、『仁義なき戦い・第二部』の千葉真一、『狂い咲きサンダーロード』の山田辰夫、『漂流街』の吉川晃司、など。この栄誉のリストにぜひ竹内力も付け加えなければならない。

竹内力のカオルちゃんは、中場利一の世界にみごとなリアリティを与えた。

異常に暴力的でありながら、熱い人間の血が流れている竹内力のカオルちゃんのおかげで、あとの個性がすべて際立ち、とてもよい映画に仕上がっている。

私はどういうわけか『ビー・バップ・ハイスクール』とか、『ろくでなしブルース』とか、『嗚呼、花の応援團』とか、学生服を着た子たちが乱闘を繰り返すというお話が大好きである。『ガキ帝国』もフェヴァリット・フィルムの一つだし。

どうしてなんだろう。私自身は物静かな秀才高校生だったのであるが。

 

 

 

 

『ザ・ギフト』(The gift by Sam Raimi, Kate Bachette, Keanu Reeves)

 

『エリザベス』でエリザベスだった人が超能力者で、『マトリックス』で超能力者だった人がバカ田舎もんの役。(キアヌさまはバカ田舎者の役がほんとにはまるなあ。たぶん、ほんとうにそういう人なんだろうけど)

でも、さすが『死霊のはらわた』のサム・ライミ、怖がらせ方がソフィスティケートされている。きっとこいつが「真犯人」なんだろうと思わせながら、そういう伏線をけっしてあざとく見せない。

主人公の目に見えるままに登場人物の像が少しずつ「歪む」。

出てくる人々は、主人公がその人に好感をもっているときには「柔らかい表情」になり、主人公が嫌悪を抱くと「汚い顔」になる。

だから観客は「神の視点」から登場人物たちを俯瞰することができない。

限定された視野からしか出来事が見えないことの焦燥感。私たちはそれを主人公と共有し、その情報の欠落が恐怖の培地になる。

矛盾した表現に聞こえるかも知れないけれど、ホラーの要諦は「節度」のうちにあるのだ。

 

 

 

『トラフィック』Traffic by Steven Soderbergh: Micheal Douglas, Benicio Del Toro)

ベニチオ・デル・トロがとっても、よい。

デル・トロくんがアカデミー賞をもらったときいて、わくわくして見て、「いつ出て来るんだろう」と楽しみにしていて、なかなか出てこなくて、それよりこのメキシコ人の刑事役のお兄ちゃんがすごく存在感あるなあ・・・こっちにアカデミー賞あげてもいいくらだぜと思っているうちにサングラスを外したら、それがベニチオ・デル・トロくんでした。

『ユージュアリー・サスペクト』で、「お、このあんちゃん、えーでないの」と思って「ツバつけて」おいたのに、『スナッチ』ではブラピに喰われて、ちょっとがっかりしたんだけれど、『トラフィック』では素晴らしかった。

それにつけても、自分の親が政府の麻薬対策本部長だというのに、すこすこヘロインなんかやって「おとなってやーね」とか言ってる女子高校生の知能の低さもひどいが、そんな娘に育て上げたうえに、そのバカ娘のために仕事を放り出す父親もとても政府中枢に置いてよいような知性があるとは思えない。

アメリカだとなれるのかな?

あと、松下君も言ってたけど、メキシコになるとフィルム黄色くするの、やめない?

見にくいよ。

それともアメリカの観客って、色変えないと、舞台が変わったこと分からないのかな。

 

 

『ティッカー』(Ticker

とりあえず現段階で2002年度の「ゴミ映画」ダントツNo.1。

はじまって10秒で「あ、こんなヴィデオ借りるんじゃなかった」と後悔したけど、まさかラスト15分を早送りするとは・・・

この映画の関係者は全員すみやかに映画界から退場するように。(デニス・ホッパーさんも出る映画少しは選びなよ)

 

 

『15ミニッツ』(15 Minutes)

アメリカの映画人のアメリカTV界に対する憎しみは深い。

そう言えば、ハリウッド映画に出てくる「ニュースキャスター」ってみんな最低の人間だな。

(『ダイ・ハード』から始まって)

 

 

『好き』

 

CM作ってる人が映画を撮ると、こういうふうになりますという見本みたいな映画。

 

 

『はつ恋』

かなわんなー。この「ほんとらしくなさ」。

とかいいながら田中麗奈の映画ってつい見ちゃうんだよね。

でも、『がんばっていきまっしょい』を超える作品に出会えない。

 

 

 

『デンゲキ』

 

『ロミオ・マスト・ダイ』の監督の次回作。

期待して見たんだけど・・・

期待に沿うことができなかったのは、リー・リンチェイとスティーヴン・セガールの身体運用能力の違いかな、やっぱり。

 

 

『アササン』Assassin(s) by Mathieu Kassovitz)

クエンティン・タランティーノ、スパイク・ジョンズ、マシュー・カソヴィッツ、北野武。この四人のフィルムメーカーの共通点は何でしょう。

四人とも監督兼俳優なんだけれど、その役どころがいつも「ふだんはでれでれしているくせに、わけのわからないきっかけで、いきなり暴走を始める」バカ男だ、というところですね。

おそらく「映画をつくる」ということの本質的なエートスがそのようなものだからではないでしょうか。

『アササン』は前作『憎しみ』に比べると、だいぶ緊張感が落ちます。それは悪いけど、ヴァンサン・カッセルとマシュー・カソヴィッツの「役者」としての「オーラ」の違いのせいなんです。ごめんね、マシュー。

 

『スナッチ』(Snatch by Guy Ritchie: Benicio Del Toro Dennis Farina, Vinnie

Jones, Brad Pitt, Rade Serbedzija, Jason Statham, Alan Ford)

 

二つ見たらガイ・リッチーの作風が分かった。だって『ロック、ストック・・・』とまるでおんなじ話なんだもん。

でも、面白いことはとにかく面白い。アラン・フォードの悪いギャングが最高。

ブラピも『12モンキーズ』『ファイトクラブ』『カリフォルニア』以来すっかりはまり役となった「キチガイ」役で光彩陸離。

 

 

『ベーゼ・モア』(Baise-moi by Coralie & Virginie Despentes:Raffaela Andersonm, Karen Lancaume)

 

『テレマ&ルイーズ』や『バンディッツ』とちょっと似た「女の子たちの逃亡ロードムービー」。

いかにもフランスの「バンリュー」的にざらついて、まるで救いがない。

「わしら、やたらムカついているけんね」というの主人公たちの気持はよく分かった。

たしかに君らにはムカつく権利がある。なにしろ、バカでブスでビンボーで性格が悪いんだからね。生きててもいいことがなにもないだろうと私も思う。早く死ねるといいね。

 

『セシル・B・デメンテッド』(Cecil B. DeMented by John Waters: Melannie Griffith, Stephen Dorff, Alicia Witt, そしてMink Stole, Ricki Lake, Patty Hearst &ドリームランダースのみなさん)

ジョン・ウォーターズ師匠の新作をようやくヴィデオで拝見。ツタヤの新作コーナーにVHSが一本だけぽこっと置いてあった。師匠って、あんま人気ないんすね、ツタヤ的には。

アンディ・ウォーホルやデヴィッド・リンチやサム・フラーやサム・ペキンパやウィリアム・キャッスルらのバカ映画作品をこよなく愛するボルチモアのバカ映画青少年たちが、ハリウッド女優を誘拐して、彼女を主演にしたメジャー映画資本攻撃のプロパガンダ映画をドキュメンタリーで撮影してゆく、という、話だけ聞いたらそれとわかる「パトリシア・ハースト」の映画版。

しかし、なんだね。自分自身の運命を変えたすさまじい事件のパロディ映画に嬉々として出演しないと癒されないほどにパティ・ハーストのトラウマは深いということなのであろうか。それともパティはウォーターズ師匠のお導きで骨の髄までバカとなり、これが自分の人生のパロディであることにも気づかずにけらけら笑っているのであろうか。(後者の可能性のほうがなんだか高そう)

本作のおかげで、ウォーターズ師匠的に許容できるのは、さきの大監督の作品以外は「ポルノ」と「カンフー」だけ。この世で師匠がいちばん嫌いなのが『パッチ・アダムス』と『フォレスト・ガンプ』だということが分かった。

師匠が何よりも憎むのは「小市民」のエゴイズムと排他性である。

そうか、師匠は「アメリカのルイス・ブニュエル」だったんだ。『ピンク・フラミンゴ』が『アンダルシアの犬』なら、『セシル・B・デメンテッド』は『銀河』なんだ。

おお、巨大な環が今繋がったぞ。

 

 

松下正己くんがひさしぶりに投稿してくれました。お題は『アヴァロン』

 

押井守の画期的ともいうべき作品『アヴァロン』を見ました。

といっても、押井守の名前がどの程度一般に認知されているのかわからないので、こういう書き出しは、あまり意味を成さないのかもしれません。

『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』『機動警察パトレイバー』そしてワチャウスキー兄弟の『マトリックス』に影響を与えた『GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊』をつくった押井守の、と言えば少しは判っていただけるかもしれません。何しろ押井初の実写映画なのですから。

映画の舞台は近未来の欧州のどこかの国。停滞した現実から逃避して、人々は、非合法の仮想戦闘ゲーム「Avalon」に熱中しています。そうした中のひとり、孤高の女戦士とも呼ばれるアッシュが主人公です。アッシュは仮想現実の中で激しい戦闘を繰り返しては、市街電車に乗って愛犬の待つ家に帰るという生活を続けています。アッシュは「Avalon」のフィールド「クラスA」を見事にクリアします。次のステップのためにゲームマスターは、パーティを組むことを提案しますが、ソロプレイを通しているアッシュは聞く耳をもちません。やがてアッシュは、幻のフィールド「クラススペシャルA」のうわさを聞きます。法外な経験値が得られるリセット不能のフィールドです。かつてアッシュがパーティを組んでいた男マーフィーは、そのフィールドで失敗し、今では廃人同様の姿になって病院に収容されているのです。アッシュがソロプレイにこだわるのも、それが理由です。

「クラススペシャルA」の情報を探すアッシュの身辺で、幾つもの不可解な出来事が起こり始めます。愛犬が失踪し、「クラスA」で自分を監視していたプレイヤービショップが現実のアッシュの部屋に姿を現します。やがてかつてパーティを組んだ男が手掛かりを示します。フィールド「クラスA」の中に潜む「ゴースト」、少女の姿をしたこの「ゴースト」こそが、「クラススペシャルA」への唯一のゲイトなのです。しかし失敗すれば廃人になってしまうことは避けられません。ビショップに導かれてアッシュはパーティを組み、再び、「クラスA」の戦闘に身を投じます。しかし迫り来る巨大戦車との激しい戦闘の中で、パーティは壊滅。ひとり生き残ったアッシュは、遂に青白く光る少女の姿を発見します。

『マトリックス』『イグジステンツ』『13F』『ダークシティ』『バーチャル・ウォーズ』など、仮想現実を主題とした映画は幾らでもありますが、そもそも映画それ自体が仮想現実の装置ともいえる訳ですから、観客に、映画内世界のリアリティと、その映画内世界における「もうひとつ」の映画内リアリティとしての仮想現実を、どのように相対的に実感させるのかが問題となります。(クローネンバーグの『イグジステンツ』は、そのお手本のような作品でした)

仮想現実はリアリティがあればあるだけ効果的ですが、それと対比される仮想現実の基礎としての(映画内の)「現実」も同様にリアリティが要求されるのです。そして勿論、この「現実」もまた、スクリーン上の仮想現実であることは言うまでもありません。

『アヴァロン』において、主人公アッシュの生きている停滞した世界、押井守がマグリットの『光の帝国』をイメージの基礎にしたという人の少ない暗い世界は、殆どモノクロームに近い独特の質感を持っています。ポーランドロケによって撮影された全ての画像が合成とデジタル処理を施され、色彩と質感は完璧にコントロールされています。明かりが窓から漏れる夜の建物の背後の空はダイナミックなグレーに輝く雲に覆われ、その前をオレンジ色の車内灯を光らせて路面電車が横切るといった具合。

セット、衣装、プレイ用のカードやヘッドギア等々、その美術も素晴らしく、統一したイメージでもって索漠としたアッシュの生きる世界のリアリティをつくりあげています。特にアッシュが自分の部屋で操作するコンピュータの、GUIではないテキストベースの画面づくりには、圧倒的なリアリティがあります。

古い街並の中で重量感抜群の戦車が人々を蹂躙し、最新鋭の戦闘へりが爆弾を投下するというゲーム内の戦闘は、ポーランド陸軍の協力を得てつくられました。ニューズリールと見紛うばかりの映像です。しかしその中で撃たれた人間はペラペラの紙状になって飛散し、爆発の炎には奥行きが欠如し、空中に巨大なmission completeの文字が出現したりするのです。

アッシュの生きている世界の独特なリアリティを基礎として、ゲーム『Avalon 』の世界も構築されているので、それぞれの世界の映像表現に明確な差異はありません。ここが、他の仮想現実を扱った映画との違いでありましょう。アッシュの世界もゲーム内世界も、撮影された映像の1カット1カットをマスキングし黒をのせ白をのせ、様々なデジタル加工がほどこした上で構成されています。静と動の違いはあれ、ふたつの世界は、どちらも同じような異世界の佇まいを見せます。われわれはアッシュの行動をトレースするうちに、次第にその異世界に馴染んで行くことになります。

アッシュは、「ゴースト」を追い詰めた末にようやく「クラススペシャルA」の世界に到達します。この、いわば究極の仮想現実の世界に直面したアッシュの困惑は、それまでアッシュと共に生き、アッシュと共にリアルなゲーム内世界で戦ってきたわれわれ自身の困惑でもあります。

ふたつの世界を生きてきたアッシュは困惑しながらも注意深く、今までのふたつの世界とは全く異なる「クラススペシャルA」の世界に足を踏み入れます。伝説のアーサー王最後の地といわれるアヴァロン。そこで彼女を待っていたのは一体何だったのか。

映画は、束の間われわれを別の世界に引き込む装置です。われわれはそこでほんの僅かの間だけ、別の世界を生きることになります。仮想現実を扱った映画では、別の世界の中にもうひとつ別の世界が存在することになります。しかしその映画内世界内世界を観客に明確に峻別させることができなければ、仮想現実は仮想現実ではなくなってしまう。

それは、もしかしたら、「もうひとつ」の現実なのかもしれません。

なるほど。ぜひ見にゆきます。でもなんとなく「ヴァーチャル・リアリティ」を描く物語群は、ある種の定型のうちにとりこまれているような気がするのですが・・・杞憂でしょうか?(内田)

 

『シベリア女収容所』(Tigress, by Jean Lafleur: Dyanne Thorne)

おおお、こんなバカ映画までDVD化されているのか。懐かしいなあ。ダイアン・ソーン姐さんではないか。みうら・じゅんが「ダイアン・ソーンはブルース・リーと同じくらい有名であった(私の中では)」というしみじみとしたコメントを寄せていたが、ほんとにそうだね。

DVDの普及のおかげで、このような「映画史のごみ箱」以外のどこにも行き場のないバカ映画が覆刻されてお手軽価格で買えるようになった。ありがたいことである。

さっそく拝見。

うーむ。間然するところがない。

ベニヤでつくったような強制収容所、死ぬほど安そうな俳優、ご都合主義のシナリオ、全編にみなぎるあまりにチープな「70年代テイスト」(『ブギー・ナイツ』がみごとに再現した世界だ)。

ダイアン・ソーンはそんな低予算環境に完全に調和しており、そこで水を得た魚のようにチャーミングだ。

 

『アンブレイカブル』(Unbreakable, by M. Night Shyamalan : Bruce Willis, Samuel L. Jackson)

監督お得意のどんでん返し。今回の「布石」は登場人物の名前。ブルース・ウィリスが「デイヴィッド」、サミュエル・L・ジャクソンが「イライジャ」。

お分かりだね。

そう、二人はDavid とElijah なのである。

ダビデは「メシア」、預言者エリヤは「メシアの到来を知らせる先駆け」である。

なるほど。そういうわけだったのか。ふむふむ。

『プルーフ・オブ・ライフ』(Proof of Life, by Taylor Hackford : Russel Crowe,

Meg Ryan)

メグ・ライアンはまるでかわいくなくなってしまったなあ。トム・ハンクスとエンパイア・ステートの屋上で出会った頃はすごく可愛かったのに。

メグ・ライアンがまったく共感できないキャラクターなので、ラッセル・クロウが人質救出に無償で身を投じる理由にリアリティが感じられない。

このストーリーラインに迫真性をもたせようと思ったら、メグ・ライアンはミス・キャストである。目を閉じて自転車をこいでトラックにはねられたところでメグ・ライアンの将来には不安を感じていたんだけれど・・・もうこの先私はメグ・ライアンの出る映画は見ないであろう。

『ゼ・セル』(The Cell by Tarsem Singh: Jennifer Lopez, Vincent D'Onofrio)

 

こういう映画はシリアル・キラーにどれくらいリアリティがあるかで厚みが決まってくる。

ヴィンセント・ドゥノフリーオは実に印象深い「キチガイ」役者。

『フルメタルジャケット』で教官を射殺してからトイレで自殺する新兵、『メン・イン・ブラック』でエイリアンに憑依されて主人公たちを襲う農夫、といえば「ああ、あの変な人」と思い出されることであろう。彼は実に達者な人で『エド・ウッド』ではオーソン・ウェルズ役で登場してもいるし、『フルメタル』のときは役作りのために40キロ太ったそうである。

私がこれまでいちばんお気に入りだったシリアル・キラー役者は『コピーキャット』のHarry Connick Jr. であるが(この人、本業はジャズでグラミー賞二回も貰ってるんだって。才能ある人はやはりどこかが輝いているね)それに匹敵する悪ぶりでした。

ストーリーは定型的だし、ジェニファー・ロペスの「聖母役」もちょっと苦しいけれど、衣装と撮影と美術は素晴らしかった。

『ヴァーティカル・リミット』(Vetical Limit by Martin Campbell: Chris

O'Donnell, Robin Tunney, Scot Glenn)

 

「ヤマちゃんさ、このホンのさ、『氷壁に閉じ込められた妹を救出にゆく兄』の兄妹愛ドラマって、悪くはないんだけど、もう少し、なんかインパクトないかな・・・」

「インパクトすか?」

「そう、やっぱさ、ただ山が高いとか雪崩がコワイてだけじゃさ、見る方も2時間もたないし・・」

「じゃ、22時間以内に救出にいかないと肺水腫で窒息死するというのはどうです?」

「いいね、ヤマちゃん、それだよ、サスペンスといったら時間との競争ですよ。でも、もう一つくらい、どきどきする要素入らない?」

「じゃあ氷壁を爆破するニトログリセリンが陽に当たると爆発するというのはどうです?」

「それいただき。ヤマちゃん。『恐怖の報酬』ね」

「それに主人公と同行する女性クライマーのロマンスもからめて」

「時間との競争の割には、ほのぼのシーンもいれるわけね。いいねいいね。なら、兄弟愛と従兄弟同士愛もついでに入れといて。あとさ、閉じ込められている側にもただ待ってるだけじゃなくてドラマ欲しいね」

「肺水腫の薬を取り合って殺し合いが始まることにしましょう」

「そこに復讐譚からめられない?」

「遭難しているやつが助けに行くガイドの妻を殺した真犯人ということにしておきましょう」

「国際政治のサスペンスもひと味欲しいなあ」

「印パ国境紛争を隠しネタに入れときましょう」

「ポリティカリー・コレクトネス的視点も入れたいな。評論家にいるじゃない、そういことばっか言うヤツ」

「主人公はヒマラヤの商業登頂に批判的なエコロジスト・カメラマンという設定にしましょう」

「マイノリティへの配慮も欲しいな」

「じゃ、ガイドはイスラム教徒ということにして、宗教論争ぽい会話もちょっと入れときますか」

「ヤマちゃん、これで完璧だよ」

「でも、これデタラメすぎません?どうして同じ高度にいるのに、一方は酸欠で死にかけていて、こっちは断崖にジャンプできるほど元気なんですか?どうしてさっきニトロが爆発したときは山半分がとこ吹っ飛んだのに、今度は、5メートル下にいる人間が無事なんですか?」

「堅いこと言いっこなしにしようよ、ヤマちゃん。8000メートル級の山に登ったやつなんか観客の中にいないいんだから。いいんだよ。どうせこんな映画見る客はみんなバカなんだから」

 

 

 

『欲望のあいまいな対象』(Cet obscur objet du desir, par Luis Bnuel: Fernando

Rey, Carole Bouquet, Angela Molina, Julien Bertheau)

 

封切りの時、私はまだ20代の若者だったので、妖艶なコンチータに振り回される主人公フェルナンド・レイの「老いらくの恋」の哀感はあまり切実なものとは思われず、ただげらげら大笑いしてすましていた。だが、そんなお気楽な青年もいつしか五十路を超えて死に方の心配をする年となった。おのずと映画の見え方も違ってくる。

「じじいは恋をしてもよいか?」「どういう条件ならば許されるのか?」

それがこの映画のつきつける困難な問いである。

身につまされる問いでもある。

ブニュエルの示す答えはなかなかリアルかつクールである。

「じじいといえども美しい娘に恋をする資格はある。」

ただひとつだけ条件がある。

それは「大金持ちであること」である。

はい、お疲れさまでした。

 

 

『英雄の条件』(Rules of Engagement, by William Friedkin: Tommy Lee Jones,

Samuel L. Jackson)

ハリウッド映画にはそれ以外のどんな国の映画にも見られない種類の屈折した批評性が備わっている場合がある。

それは、「制度を批判する反体制的言説が秘かにはらむ制度への加担を批判していると、くるりと回って現状肯定に堕すこともあるので、そのへんには気を付けたいものである」というようなことである。

ややこしくてすまない。

説明しよう。

まず「現状を批判する立場」というものがある。

「こんなことで日本はダメになってしまいます」とか「構造改革の急務であること」なんかはこれである。

しかし、これらは、そもそもが定型的な言説であり、これをサブシステムとして組み込んだかたちでシステム全体は安定的に機能している。

となると当然、少し賢いやつは、かかる「体制的なもの」と「反体制的なもの」の予定調和的な馴れ合いこそが「体制そのもの」なのだと批判するようになる。

この言説はとくに「一見、秩序紊乱的」と見られるようなタイプの言説の果たしているひそやかな秩序補完機能をきびしく断罪する。(「自民党政治の打破」を唱える小泉首相の「一見、秩序紊乱的」な発言が、自民党政治の延命に寄与していることを批判する朝日新聞の社説の類。)

しかし、その結果、「一見、壊乱的と見られるタイプの言説」への反体制性への信頼が損なわれてしまい、そのような批判を語っている当のご本人の反体制性さえ疑わしい目で見られるようになる。(「そういうことを言ってる朝日新聞自身が抑圧的な言説空間を権力的に統制してんじゃないの?」といった類の)

こういうことになる、体制を支えている「安定志向的なファクター」と「壊乱志向的なファクター」のバランスが崩れて、制度が過度に安定志向的になり、それはそれで社会全体の停滞と不活性化をもたらす。

それではまずいから、「一見秩序壊乱的であるようなファクターは、一応それなりに『なれあい』的にではあれ、多少秩序壊乱的にも機能しているわけだから、ま、あまり揚げ足とったりするのはやめて、それなりに怖がってみせるとか、まあ、いろいろ工夫しようじゃないの」という「大人の知恵」というものが語り出されることになるわけである。

つまり「多少ごちゃごちゃうるさいこと言う横紙破りがいたほうが、全体の『落としどころ』のおさまりがいいという場合も、あるわな」という竹下流調整術である。(ぜんぜん批評性がないなあ)

『英雄の条件』はそのような深い屈折をはらんだ映画である。

この映画の「悪役」は大統領補佐官である。

彼はイエーメンでの海兵隊の市民虐殺が国際世論に巻き起こした激しい非難にアメリカ合衆国が誠実に謝罪するためには、海兵隊指揮官を厳罰に処すことが必要である、と政治判断する。

どう考えても、アメリカ合衆国が自国の軍事行動の逸脱について、国際社会からの批判をかわし、信用を回復するためには誠意を尽くして謝罪するべきだというこの補佐官の高度の政治判断はたいへんに「まっとう」である。

この「まっとう」な政治判断に従って「トカゲのしっぽ切り」される海兵隊指揮官の「おれは、ちゃんと服務規程に従って戦闘行為をしたにすぎない」という弁明はたかだか個人の軍人的エートスとか内規の解釈問題にすぎない。

しかるに、映画の最後で、補佐官は敗北し、指揮官は名誉を回復するのである。

「ぜんぜん理解できんわ」と頭をかかえる方もおられるでしょうが、最初に言ったとおり、「ハリウッド映画にはそれ以外のどんな国の映画にも見られない種類の屈折した批評性が備わっている場合がある」ということで納得して頂きたいと思う。

監督もウィリアム・フリードキンだし。

 

 

 

『グリーン・デスティニィ』(臥虎蔵龍 Crouching Tiger Hidden Dragon, by Ang Lee: Chou Yung Fat, Michelle Yeoh, Chen Chang, Ziyi Zhang)

武侠映画がカンヌで絶賛され、アカデミー賞をもらうご時世になるとは、はじめてワイヤーワークを見て仰天した『蜀山奇伝』や『東方不敗』のころには想像もできなかった。

しかし、荒唐無稽なる武侠映画に一貫して好意的である私としては、この快挙をともに祝いたいと思う。

みどころは、ユエン・ウーピンのワイヤーワーク・カンフー。

特に、竹林での剣戟シーンは映画史上もっとも美しいアクションシーンといって過言でないであろう。

ユエン・ウーピンの「しなう身体の美しさ」へのこだわりは『マトリックス』で(のけぞって弾をよけるキアヌ・リーブスのアクションで)知ったけれど、この映画を見て、ユエン・ウーピンは人間の身体だけでなく、「しなうもの」すべてに美しさを感じる人であることが分かった。

白い霧の中に浮かぶ深い緑色の竹が、チョウ・ユン・ファの重みでゆっくりしなうシーンの素晴らしさだけで本作は映画史上にその名をとどめるであろう。

 

 

『小間使いの日記』(le Journal d'une femme de chambre, by Luis Bunuel: Janne

Moroe, Michel Piccoli)

ブニュエル作品はメキシコ時代のものが未見であるが、ヨーロッパに戻ってからあと作った映画では唯一未見であった『小間使いの日記』がDVDになったので見る。

どうでもよいような話といえばどうでもよいような話、頭もしっぽもないような物語であり、登場人物の誰一人にも感情移入できないのだが、それでも一瞬の気の緩みもないまま最初から最後まで一気に見せてしまうのがさすがブニュエル。

ずいぶん以前、ベルナール=アンリ・レヴィの『フランス・イデオロギー』を翻訳したときフランスの右翼思想について文献を集めて研究したことがあって、ウチダはフランスの反ユダヤ主義や王党派については比較的詳しいのであるが、「これがアクション・フランセーズのみなさんです」というのをヴィジュアルで拝見したのはこれが初である。

主人公の小間使いの愛人である御者のジョセフがアクション・フランセーズの非合法活動家(カムロ・デュ・ロワ)なのである。壁には『陸軍万歳』と大書してあり、軍人の写真が飾ってある。(誰だか特定できなかったが、ペタン?)最後はこいつの「シアップ万歳!」のシュプレヒコールで映画は終わる。(シアップというのは、大戦間期に警視総監をやっていたごりごりの反動右翼である。ドイツとの緊張を高めた「シアップ事件」を起こしたことで知られている。時期的にシュールレアリスト時代のブニュエルたちがパリで活動していたころの警視総監だから、ブルトンたちが悶着を起こした当の相手である可能性も高い。)

映画のラストはアクション・フランセーズがシェルブールでデモ行進をしているシーン。「La France aux francais」(フランスをフランス人に)という有名な反ユダヤ紙『リーブル・パロール』のキャッチコピーを横断幕に掲げて、ステッキをもったおっさんたちの行進を追って映画は終わる。私は『リーブル・パロール』の創刊者エドゥアール・ドリュモンについてけっこう長いこと研究していたので、なんだか感動してしまった。「おお、あのスローガンはこういうふうに使われたのね」

この映画を見ると、啓蒙思想と進歩の国フランスが「本質的に排他的な農村」(la France profonde) を醜悪な双子のように、おのれの暗部として、抱え込んでいることがよく分かる。そして、本質的にシティ・ボーイであったルイス・ブニュエルがもっとも憎んだのが、この「田舎ものの頭の悪さと欲の深さ」だということも。

 

 

『バーバレラ』(Barbarella, by Roger Vadim: Jane Fonda, John-Philip Law, Marcel Marceau, David "Blow-up" Hemmings)

 

1968年にリアルタイムで見たときには、「くっだらねー」と怒った記憶あるが、33年ぶりに見て「くっだらねー」と大笑いしてしまった。

よく大金をかけてこんなくだらない映画を作るものである。さすがラウレンティス。

いまはすっかり恐いオバサンになってしまったジェーン・フォンダが実に可愛く頭の悪い役を楽しげに演じており、タイトルバックではみごとなフルヌードを惜しげもなくご披露している。

ロジェ・ヴァディムの甘言に乗せられてこんな映画に出てしまったことはジェーン・フォンダ的には「一生の恥」であって、フォンダ家では30年来『バーバレラ』は禁句なんだろうと思う。

しかし一人の女優がそののち一生「恥の十字架」として背負っていかなければならなかったほどに「くだらない映画」というのはそうざらにあるものではない。その意味では映画史に残る逸品である。

 

 

 

『JSA』(JSA:Joint Security Area, by Chan-wook Park: Yeong-ae Lee, Kang-ho Song, Byung-hun Lee)

あと3日で封切り上映が終わるがらがらの三宮。客は私を入れて4人!ついに新記録。

繰り返し言うように、私は空いている映画館で映画を見るのが大好きであり、そのような環境で見た映画に対しては、好意的な批評をする傾向にある。

『JSA』はその私のえこひいきを差し引いても、よい映画であった。

南北朝鮮はぜひはやく統一を果たしていただきたいものである。銃からは、憎しみからは、何も生まれない。

この映画はもちろん北朝鮮では公開されるはずもないが、北朝鮮の人はこの映画を見て、どんなふうに感じるのであろうか。私はそれが知りたかった。

「けっ。韓国のプロパガンダ映画だぜ」とうち捨てるのであろうか、それとも、「統一は南北の悲願だよね」とともに泣くのであろうか。

劇中、「チョコパイ」を食べる場面がある。ちゃんと「チョコパイ」と商品名を言っていた ので、「ええ?なんで日本語が出てくるの?」と驚いたが、チョコパイはロッテの製品で、ロッテは韓国のメーカーだということを思い出した。それによく考えたら、「チョコパイ」は日本語じゃないんだ。

日本人も韓国人も朝鮮人も、みんなでチョコパイを食べて、仲良くしたいものだとつくづく思いました。

 

 

Locke, Stock and two smoking barrels, by Guy Ritchie: Jason Flemyng, Dexter Fletcher, Nick Moran, Jason Statham, Sting)

イギリスの若手監督ガイ・リッチー(まだ32歳)の劇場映画第二作。ロンドンのバカ不良青年たちの間抜けな日常を活写した痛快作。

「英国病」の余波か、「イギリスの若者=暗い、貧しい、パンク、ジャンキー、栄養状態悪い、頭悪い」という定型がひさしく全世界に浸透していた。

『トレイン・スポッティング』で、いいかげんこの定型にも飽きたなあと思っていたら、『ロック、ストック・・・』で「私たちはバカですが、それが何か問題でも?」ときっぱりと切り返されてしまった。

そう言われてしまっては、私としては「べつに問題ないです、はい」と答えるほかない。

この「バカで何が悪い」的な「明るい居直り」は、90年代終わりのジャーマン・ニュー・シネマ(『ラン・ローラ・ラン』、『ノッキング・オン・ヘブンズ・ドア』、『バンディッツ』)にも顕著に見られたし、リュック・ベッソンの『TAXI』シリーズにも濃厚だった。

私はかねてより、この「バカにだって幸福に生きる権利はあるぞ」主義的発想の淵源はジョン・ウォーターズ師匠にあると考えている。

この系譜は、本国ではポール・トーマス・アンダーソン(『ブギー・ナイツ』、『マグノリア』)が継承したが、ドイツ、フランス、イギリスにも道統を継ぐ若いフィルムメーカーの世代がけなげに育っていたのである。

ガイ・リッチーは映像的にはリチャード・レスター(『ナック』、『ア・ハード・デイズ・ナイト』)的なドキュメンタリー・タッチのわざと荒れた画像を採用しているが、本質的にはジョン・ウォーターズ派バカ映画の嫡流に位置していると私は見る。

この若い世代こそが21世紀の「シネマの保守本流」となるにちがいない。

刮目して見るべし。

 

 

『五条霊戦記』(監督:石井聰亙、出演:浅野忠信、隆大介、永瀬正敏)

石井聰亙の劇場デビュー作『狂い咲きサンダーロード』は映画史に残る快作であった。

だが、残念ながら以後のどの作品もこのデビュー作の鮮烈さに及ばない。

その理由が今回少しだけ分かった。

『サンダーロード』ではただ爆音と絶叫だけで成り立った劇である。その爆音と絶叫はほとんど官能的に美しかった。

しかし、それだけでは描けないものもある。

「ことば」の力でしかアクセスできない「劇的状況」というものもある。

その点で石井はほとんど致命的な弱点をかかえている。

それは「ことば」の「音質」に対する鈍感さである。

『爆裂都市』でもその弱点はなんとなく予感されていたのだが、その後の作品ではそれほどには目立たなかった。だが、『五条霊戦記』でそれがあらわに露呈した。

私はヴィデオを早送りするような失礼なことはほとんどしないのだけれど、この映画ではその操作を繰り返してしまった。

話がつまらないからではない。話はけっこう面白いのだ。だが、「声質の悪さ」に耐えられなかったのだ。

石井の映画では、登場人物たちは、誰もが最初から最後まで「同じトーン」「同じ語調」で語り続ける。彼らには発語する前の「ためらい」も、途中での語調の変化も、語のリズムや韻律も、それに支配されて「言うつもりがなかったことまで語ってしまう」意識と言語の逆転の経験も・・・そういうものが欠落している。

俳優たちは、ただ、決められた台詞を、ト書きに示された感情をこめて(「不安げに」「怒り狂いながら」「泣き叫びつつ」「脅すように」・・・)単調に繰り返すばかりである。

私が「不快」を感じたのは、単に録音が悪く、俳優のアーティキュレーションが悪いせいで台詞が聞き取りにくいという意味ではない。(もちろん、ひどく聞き取りにくい。)

台詞の語り方そのものの「異常なまでの単調さ」が違和感をもたらしたからである。

『ユメの銀河』のように登場人物全員がつぶやくように語る映画では、その違和感はそれほど際立たない。しかし、『五条霊戦記』では隆大介と永瀬正敏はほとんど全編、ある種の感情に取りつかれて(怒り、いらだち、哀しみ、絶望などなど)、そのつど絶叫している。

そして私にはその「絶叫」がただの騒音にしか聞こえなかったのである。

そのせいで、途中から私は二人が出てくるたびに反射的にヴィデオを早送りすることになった。(三人の主要登場人物のうちの二人を早送りするわけであるから、これは忙しい。)

人間が何かに感動したり、何かを決意したり、何かを失ったりしたときに、それは必ず身体的な変化として徴候化する。

いちばん際だった変化を示すのが「声」である。

声の「肌理」が変化する。

石井はそのことをどう思っているのだろう。

この映画では、登場人物たちのどのような「内面の変化」も「声質の変化」をもたらさない。感情が激すると音量が上がるだけである。

ふだん私たちは、「お早う、いい天気ですね」というような単純なメッセージを交わすだけで、相手が自分にたいしてどんな気持を抱いているかを知ることができる。

マーシャル・マクルーハンは「メディアはメッセージである」と言った。

同じ頃に、グレゴリー・ベイトソンは「声はメタ・メッセージである」と言った。

同じ頃に、ロラン・バルトは「記号が何を意味するかを決定するもうひとつ次数の高い記号の審級」を「メタ・言語」と呼んだ。

同じ頃に、エマニュエル・レヴィナスは「意味作用(シニフィカシオン)から意味生成(シニフィアンス)への移行」について語っていた。

これらの考想はだいたい同じことを指し示している。

それは、私たちがコミュニケーションの現場で第一次的に接触するのは「メッセージの内容」ではなく、「メッセージの物質性」だということである。そして、その「物質性」が「内容」をどう解読すべきかを指示するのである。

「メッセージの読解の仕方を指示するメッセージ」のことを「メタ・メッセージ」と言う。コミュニケーションにおいて私たちがまず受信しようと感受性を高めるのは、「メタ・メッセージ」に対してである。

まなざし、表情、みぶり、そして声の肌理、速さ、息づかい、深み・・・

べつに難しい話をしているのではない。ごく単純なことだ。

「聞き取りにくい声」で語られるコトバから私たちが受け取る第一次的なメッセージは「私の言うことは聞かなくてもいいよ」である。「これはにあなたに聞かれるために発されているコトバではないからだ」

『サンダーロード』はそのような映画であった。

「これはおまえたちが見る映画ではない」と映画は宣言していた。その決然とした拒否の姿勢に観客はうちのめされた。

『サンダーロード』は何かを拒絶するみぶりのもつ官能性を描いた映画だったから、そのとき技術と主題はみごとに融合したのである。

だが、『五条霊戦記』はもう少し複雑な人間たちのドラマを描こうとしていたはずである。

だとすれば、登場人物の意識の不意の変化や、欲望の布置の変化や、身体性の変化を描くためには、単調な絶叫だけではいかにも足りない。もっと複雑な「音声の物質性」をコントロールできなければ、人々の心の中で起きている事件を描き出し、説得力のある仕方で観客に伝えることはできないだろう。

そのためには、どのような録音技術を用い、どのようなアーティキュレーションで、どのような息づかいで、どのような表情で、どのような身体運用で、「声」を表現するか、という技術的な課題が立てられなければならないはずである。

だが、石井はそのような問いにはほとんど関心を示していない。少なくとも私にはそう思えた。

それとも石井聰亙は「これはおまえたちが見る映画ではない」というメッセージをいまだに発信し続けているのだろうか。だとすれば、この映画の作り方は正しい。

しかし、商業映画として「見られないための映画」を作り続けるフィルムメーカーとは何ものなのだろう。

 

 

『ワット・ライズ・ビニース』(What lies beneath, by Robert Zemeckis: Harrison

Ford, Michelle Pfeiffer)

『五条霊戦記』との対比的で言えば、この映画は「声の肌理の変化」だけでサスペンスを構築した映画であるというふうにも言える。

ハリソン・フォードは「声がいい」。

どういう種類の声かというと「人を安心させる声」「私はこの場の状況を全部理解していますから、ま、私に任せておきなさいといわんばかりの声」である。

深く静かで暖かみのあるバスで、興奮したときや、激高したときでさえ、擦過音や破裂音で濁らない。

おそらくアメリカのビジネス・シーンにおいて、エグゼクティヴの声として、もっとも好まれそうなのがハリソン・フォードの声である。(現に、トム・クランシーの「ジャック・ライアン・シリーズ」でのハリソン・フォードは、CIAの腕利き分析官からスタートしてCIA副長官、ついには大統領にまで出世してゆく。)

だから私たち観客はハリソン・フォードにあの声で語りかけられると、そこに「秩序と理性と問題解決への道」が保証されているような「錯覚」に陥る。

そうやって、私たちは彼の演じるスペンサー博士の妻クレア(ミシェル・ファイファー)とともに彼を信じ続ける。

状況証拠が彼を信じることをどれほど困難にしても、なお私たちは依然として「さらなるどんでん返しがあって、実はすべては冤罪事件ないし妻の幻覚」というような一筋の可能性にすがりつく。

スペンサー博士がバスタブから妻を覗き込みながら、犬の頭をなでて別れを告げるシーンに至ってもまだ、その声は快い音を響かせ、笑顔はひとを安心させる魔力を保っている。

「私を殺そうとしている人間」の声の美しさに魅了されるというような倒錯的事態が人間の身には起こる。

そうやって、私たちは映画の最後ですべてを失ってしまう。ラストシーンで私たちの手元に残ったのは、「性格の悪い女の怨霊は性格が悪い」という自明の理と、才能も若さも愛情も全てを失ってしまった中年女の展望のない未来だけである。

そう考えてみると、「ハンニバル・レクター博士」をハリソン・フォードがやったってよかったんだ。これは意外にグッド・キャスティングだったかも。

 

 

『ロミー&ミシェル』(Romy and Michele's High School Reunion by David Mirkin:

Mira Sorvino, Lisa Kudrow)

映画にはいろいろなサブジャンルがある、という話を昨日書いたけれど、そういえば「同窓会(リユニオン)もの」というのもあるね。

高校卒業後、10年ぶり20年ぶりに故郷の街に集まってくる中年男女。

かつてのフットボールのスター選手はビール腹をゆらす田舎オヤジとなり、学園のクイーンは「ただのおばさん」になり果て、勉強ばかりしていてバカにされたガリ勉少年はせこい保険屋、気のいい兄ちゃんは街の自動車修理工場。そして、主人公(何のとりえもなかったバカ高校生だったはずだが)だけが、場違いに輝いていて、みんなから「お前はこの街のスケールを超えるやつだったよ」とほめそやされて、かつての憧れの美女から愛を告白されたりするのである。

この手の映画がやまのように作られている、ということは、アメリカが基本的に「田舎」だということを意味している。

アメリカの「田舎」ハイスクールには厳然たる身分制がある。(このへんの知識は『映画秘宝』およびウェイン町山氏からのご教示)

カーストの最上位にいるのが、「Jocks and Queens」。

男はアメフット選手で、女はチアリーダーという体育会系。男はスポーツ奨学金でとにかく大学にはゆくが、結局故郷に戻ってきて家業を継ぎ、かつてのプロム・クイーンとはやばやと結婚して、田舎の共和党オヤジになる。

妻になる「元プロム・クイーン=チア・リーダー=金髪バカ美女性格最悪知能指数測定不能」はハイスクール・ホラーものでは「一番先に惨殺される」ことになっているから分かるね。(『ロミー&ミシェル』ではビリー&クリスティー)

カーストの第二列にいるのが、「The Brains」。

ガリ勉くん。勉強で奨学金をとって大学にゆき、田舎からオサラバしようと思っている点ではもっとも上昇志向の強い人たち。ただ近視の度が進んでいるのと、筋肉がぜんぜんないので、高校時代は不遇。(『ロミー』ではサンディ)

カースト下層にいるのが「The Geeks」(ボンクラ)。

田舎脱出志向はあるが、スポーツも勉強もやる気なし。自分のことをちょっと才能があると思っているが、誰も認めてくれない。上昇志向はあるが向上心がない。

もちろん、映画作家の過半は「ボンクラ」出身であるので、あらゆるハイスクール映画は最終的にこの「ボンクラ」が名声と恋を手に入れることになっている。(ロミー&ミシェルはもちろんこの階層。)

そのさらに下層にいるのが「The Goth」。

「ゴスはゴス以外のすべてのグループから迫害される。将来性ゼロ」男は黒いトレンチコートを着て、「切れる」と自動小銃を乱射する。女性は『バッファロー66』のクリスチーナ・リッチを想像すればよいね。(『ロミー』ではヘザーがこれ。)

だから「リユニオンもの」映画では、当然このカーストが「根底から覆る」カタルシスにドラマのすべては凝縮される。「同窓会下克上」である。

しかし、そのような定型的な物語が量産されているということは、逆に言えば、どれほどこのカースト制度が転覆不可能、盤石不動のものであるかを証明している。

ケーブルTVのFOXでは『キング・オブ・ザ・ヒル』というくらーいアニメを放映している。

町山氏によると、アメリカの99%は田舎であり、ほとんどのアメリカ人にとって「都会生活」は幻想である。摩天楼を生涯一度もみることなしに生まれた町から一歩も出ないで死ぬアメリカ人は山のようにいる。彼らにとってハリウッド映画は完全に「ヴァーチャル」な世界の物語である。

そのような「ホワイト・トラッシュ」のリアルな生活(「日曜の午後に四畳半ほどの芝を刈って、その芝の輝きに見ほれながら、自分で焼いたバーベキューをサカナにビールを飲んでご満悦」)を描いたアニメが『キング・オブ・ザ・ヒル』である。暗いなー。(「ホワイトトラッシュ」の「等身大」(?)の生活を描いたアニメというと『ザ・シンプソンズ』もそうだな。)

ハリウッド映画の奇想天外さを支えているのは、実はアメリカ大衆の「あまりにも定型的な人生」に対するフラストレーションなのだ。

それにしても、この「下克上映画」そのものを貫徹する非情なまでの「田舎蔑視・貧乏蔑視・人種差別・女性差別」のすさまじさ。

主人公たちにとって「成功」とは、「クールな仕事とみばえのよい男と細身の肉体」を手に入れることに尽くされる。そして、すべての決定的局面を「色気」だけで乗り切ってゆくことになるのである。

「権力をもつ男性」の性欲を刺激することによってしか状況を突破できない主人公たちのキャラクター設定を私は「差別的」というよりほとんど「犯罪的」だと思う。

それなのに、DCDのカバーのコピーは「ポップでおしゃれ、とびきりかっこいい青春ムービー登場!マジにかっこいい生き方ってなんだろう?自分らしさにこだわるすべてのあなたにお贈りします!」だと。

この映画を見て「わ、これこそマジにかっこいい生き方だわ」と思ったあなた。悪いけど、あなたの将来は暗い。とても、暗い。それはウチダが保証してあげる。

 

 『ファイナル・デスティネーション』(Final destination by James Wong: Devon Sawa, Ali Larter)

修学旅行でパリ行きの飛行機に乗った高校生が、飛行機が墜落する夢を見て、気分が悪くなって離陸直前に飛行機を降りる。そのとき飛行機を降りた7人を残して、飛行機は離陸直後に空中爆発する。

残った7人は「ほんとうは死ぬはずだった」のに、偶然生き残ってしまったわけである。

かくして「死神の残業」が始まる・・・

『スクリーム』とか『ラストサマー』とか『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』とか、アメリカ映画には「学生映画もの」というサブ・ジャンルがある。

大学の映画学科の学生が卒業制作で「いかにも作りそうな」映画である。

出演者は無名の高校生や大学生たち。場所は、何にもない田舎町。その「普通の高校生」たちの身に、不条理に「出来事」がふりかかる。その意味が分からないまま、一人一人無気味な死に方をし始める。主人公は「出来事の意味」を解読しようとして、ついに恐るべき秘密を知ることになる・・・

まあ、だいたいこういうプロットである。

CGなし、ヌードなし、銃撃戦なし、血糊少々、主な武器は「刃物系」、壊れるものはガラス窓止まり(めったなことでは車は爆発しない)。

『ファイナル・デスティネーション』はまさしく「学生映画の黄金のワンパターン」を踏襲した映画である。

ウチダは、「これまで誰もやったことがない試み」も好きであるが、こういう「きっちりすみずみまで定型通り」という映画も好きである。

定型には「定型のよさ」というものがある。

それは、「もう観客もあらかた分かってるんだから」、省略できるところは徹底的に省略してよい、ということである。

だから、「説明的シーン」というものがほとんどない。「ダレ場」がないから、テンポがよい。「アイディア勝負」だけに集中できる。

ここでは、「殺し方」に工夫のあとが見られた。(バスでどん、パソコンのディスプレーがバン、金属片がぴゅん。)「いきなり」型「じわじわ」型「おっと意外な」型、とシナリオ段階で映画小僧たちがわいわい議論したあとが窺える。

ラストシーンも「お約束」通り。

予定調和のヨロコビがじわじわと身にしみる「C級映画」の佳作です。

 

今日のゲストライターは毛利さんです。ネタはジョン・ウオーターズ先生の新作『セシル・B』。ではどーぞ。 

内田先生へ

今日はとても良い天気で、下川正謡会も大成功したのではないかと思います。

観に行きたかったのですが、さすがに遠すぎました。

「セシル・B・ザ・シネマ・ウォーズ」の映画評書きました。

名前も出してください。

ええ 覚悟を決めたのです。

でもHPにふさわしくなければこの映画評は出さなくて構いません。

普段はこんなことは言えないはずなのに、

文章を書くというのは不思議な行為なのですね。

でも作品にあわせて・・・というのは半分嘘で、

きちんとしたものがどうしても書けなかったのです。

『セシル・B・ザ・シネマ・ウォーズ』(Cecil B. DeMented by John Waters: Stephen Dorff. Melanie Griffith)

「アホアホマーン!」

♪ふぁっふぁっふぁーっ ふぁふぁっふぁーっ・・・♪

その昔アーティスト坂本龍一は、更なる隙のない全方位型セレブへと進化を遂げるべく、ダウンタウンの松本人志に厄落としをしてもらいました。

今回ジョン・ウォーターズ監督に厄落としをしてもらうセレブリティは、ハリウッド女優メラニー・グリフィス。

「2番(1番はキャスリーン・ターナー)、不肖わたくしメラニー・グリフィス、アホアホウーマンやらしていただきます! 押忍!」

そういう映画です。

どういう映画なの? 

メラニー・グリフィス演ずる放漫なハリウッド女優ハニーは、主演作『ある幸福』の慈善プレミア上映会会場で映画狂集団〈スプロケット・ホールズ〉にさらわれ、映画ジャック・映画『狂える美女』の主役に仕立てられます。

パトリシア・ハースト事件のパロディでもあるのですが、

ひょっとしたらパトリシア&ジョンの暴露映画かもしれません。

「いやあ、私洗脳されてたなんて言われてるけど、あんときはあれでまんざらでもなかったのよ。楽しかったわぁ・・・さ、みんな!こんな私を笑って笑って!私も笑うから!あははあはあは・・・とほほのほ。」

最初はいやいやだったハニーですが、いろいろあってどんどんあっちのほうへ崩れてゆきます。

『パッチ・アダムス完全版』なる外道映画の上映を阻止せんとする一行!

「アカデミー賞落選女優よ」

ハニーの事情なんてそっちのけで罵る家族客の群れ・・・怖い!

「次のセリフは?」

髪を撫で付けて必死に動揺を取り繕うハニー!

「もう仲間だ 考えろ」

さっきまで無理やり台本読ませてたくせに!

「・・・(ピンポーン)!ファミリーは検閲の卑語よ」

♪愚かなハニー お前が悪いのよ 私は仕方なく言っただけ♪

ハニー、魂の叫び。でも誰にも聞こえやしない。

だって見えないものは存在しないんだもん☆

「聞いたかいリンダ?」 

「ええ聞いたわビル!」

「火蓋はきって落とされた!」 

「オトしたのは誰?」  

「「ハニー!!」」

ハモる二人。

「撃て!」

「ヤれ!」

「「ポップコーンでシューッ!!シューッ!!シューッ!!」」

またハモる二人。 

「Wow!」

「Yes!」

「「That’s America!! Gyaaaaaaaah!!」」

もうなにがなんだかわかりません。

そんな二人は出てきませんが、とにかくそういう映画です。

アカデミー賞の授賞式で脱糞ならぬ産卵をかましたビョークにもひけをとらぬその傾きっぷりや善し!

お笑いはイバラの道なのだそうです。

天然ボケの人は己の天然を自覚してはならないそうです。

悪趣味もまた然り。

やりすぎず、躊躇せず、慢心せず、日本刀の上を歩くような峻厳さをもって臨まなければ。

すべって血まみれになっても、それはそれで ・・・ぉ ぃ ι ぃ 。

なぜ、日本刀の上を?なんて野暮なことは言いっこなしです。

ジョン・ウォーターズ、まだまだ若いものには負けません。

より激しく、よりひげを細く、

洗練された喉越しの悪趣味を極める所存です。

 

 

 

『インビジブル』(Hollow Man by Paul Verhoeven: Elizabeth Sue, Kevin Bacon, Josh Brolin)

原題は「透明人間」ではなくて「中身からっぽ人間」。

そう、この映画は「透明人間」の話ではなく、「中身からっぽ人間」の話なのである。邦題もぜひ「スカスカ人間」あたりにして欲しかった。

それにしてもポール・ヴァーホーヴェン、性格の悪い人間を描かせるとほんとうに上手。

この映画でいちばん性悪なのは、もちろんケヴィン・ベーコンの「スカスカ人間」であるが、主演のエリザベス・シューもどうかと思う。

だって、仮にも昔の恋人で、つい2日前までいっしょに仕事をしていた研究チームのリーダーが狂い出したからといって、いきなり「火炎放射器」で焼くか?「地獄に堕ちろ」といって火炎渦巻く地下に蹴り落とすか?

そんなに簡単に「気持ちの切り替え」ができちゃうの?ねえ?

 

 

『スペース・カウボーイ』(Space Cowboys, by Clint Eastwood: Clint Eastwood, Tommy Lee Jones, Donald Sutherland, James Garner)

デヴィド・リンチの『ストレート・ストーリー』の評に、私は「ハリウッドは『老人映画』という新しいジャンルを手に入れた」と書いた。

この新しいジャンルを「エンターテインメント」として最初に成功させるのは誰だろうと思っていたら、やはり、というかクリント・イーストウッドであった。

考えてみると、クリント・イーストウッドはすでに老人映画として『許されざる者』、『シークレット・サービス』、『目撃』とこの10年間手堅い成功を収めてきた。(ただし、『トゥルー・クライム』では「邪念の多い老人」という「一回ひねり」を試みて失敗。)

今回の『スペースカウボーイズ』はイーストウッド自身が監督した、先行する「老人映画」群の中でもっとも成功した『許されざる者』の話型を再び取り上げた。

つまり「老人の抵抗」ではなく、「老人たちの抵抗」の話型である。

その能力をアンダーレイトされた孤独な老人が、「若い連中に一泡ふかせる」ために「一仕事」する、という話型はどことなく「哀愁」が漂う。

しかし、「老人たち」が集まって、「むかしに帰ってバカ騒ぎ」をする、という話になると、そこには何かしら「少年の輝き」のようなものがきらめく。

『許されざる者』ではチームを組む相手がモーガン・フリーマンなので、ちょっと「コンビ」としては重かった。

しかし、今度は『ローリング・サンダー』のジョニー、『M*A*S*H』のホークアイ、そして”マーヴェリック”という異常にフットワークのよい「おじさんたち」とのコンビである。(そう言えば、ジョニーは『ローリングサンダー』の戦友チャールズ・レイン少佐(ウィリアム・ディヴェイン)とこの映画で再会を果たしていた。おひさしぶりだす)

「バカ騒ぎ」向きのキャラ大集合である。

『七人の侍』以来の「チームもの」の定跡(前半の「メンバー集め」のエピソードと、中盤の「集団訓練」のエピソードと、最後の「仲間の死」のエピソード)を律儀に踏まえた、たいへんに完成度の高い、爽快感のある作品に仕上げた。

ただし、『スペース・カウボーイズ』が「本歌取り」したのは『七人の侍』ではなくて、『ライト・スタッフ』(1983)である。

『ライト・スタッフ』は宇宙をめざす五人の空軍パイロットのお話であった。(サム・シェパード、スコット・グレン、エド・ハリス、デニス・クエイド、フレッド・ウォード)

『スペース・カウボーイズ』でも、四人の老人宇宙飛行士が「the Ripe Stuff」(「熟れすぎスタッフ」)とメディアにあだ名されて、すっかり人気ものになる、というエピソードが利かされている。つまり、『スペース・カウボーイズ』は「あれから35年後の『ライトスタッフ』たち」なのである。

クリント・イーストウッドは『目撃』(Absolute Power, 1997) でそのスコット・グレンとエド・ハリスと共演して「老け方勝負」をしている。

こう考えると、『ライト・スタッフ』を「老人映画」で、という構想は97年段階でクリント・イーストウッドの中でかたちを取りつつあった、と考えてよいだろう。

クリント・イーストウッドが『スペースカウボーイズ』で実証したのは、これまで作られたすべての名作映画はもう一度「老人映画」としてリメイク可能であるということである。

ジェームス・ボンドの「老人ヴァージョン」が可能なことは『ザ・ロック』と『エントラップメント』で実証済みである。(後者は失敗作だけど)

ウチダ個人としてはジェームス・コバーンが生きているうちに、『荒野の七人』の老人版が見たい。クリント・イーストウッドさん、お願いします。

 

 

『鉄十字章』Cross of Iron, by Sam Peckinpah: James Coburn, Maxmilian

Schell, James Mason、1977)

ロシア戦線の悪夢のような後退戦を「ドイツ軍の側から」描いた映画があれば見たいものだと前に書いたことがあるが、ちゃんとそういう映画を撮った人がいた。

知らなかった。

誰あろう、サム・ペキンパーである。

邦題が『戦争のはらわた』(いくらなんでもこれはひどい)というものだったので、私はペキンパー作品と知りつつ公開時には足を向けなかった。このようなよい映画を20年も知らずに見落としていたのは千載の悔。この邦題をつけた配給会社のバカ野郎に猛省を求めたい。

ロシア戦線でほんとうはどんなことが起こったのか、戦後のドイツの歴史家たちは、それについて沈黙を守っていた。「スターリンの軍隊」がそこでどれほどの暴虐を行ったか、ドイツの兵士たちがどれほどの悪戦に耐えたか、それは「連合軍=善/ヒトラー=悪」という単純な図式に則して物語を構築する限り、決して前景化しないし、されてはならない主題であった。

「ロシア戦線でほんとうに起こったこと」を究明する、それが80年代のドイツ「歴史家論争」のひとつの重要な主題であった。それは学術論争のかたちをとって展開したが、左翼知識人の猛然たる反撃にであった。

ドイツ人たちには「義のない戦い」で犬死した兵士たちを弔う「権利」がない。ドイツの人々はそう言い聞かされてきた。

だから、この空しく死んだ「兵士たち」を、物語の水準で鎮魂する「喪の作業」のためには、アメリカの監督とアメリカの俳優が必要だったのである。

英語を話すドイツ兵たちが主役である、この「ねじれた」戦争映画には、まぎれもなく、空しく死んだドイツとロシアの兵士たちへの、静かな鎮魂の思いが込められている。

兵士は死ぬ。ほとんど必ず死ぬ。ただ、その死に方には「まっとうな死に方」と「救いのない死に方」の違いがある。それを隔てる境界線はほとんど見えないくらいにぼんやりしている。けれども、その「境界線」を見誤らないことに命をかける以外に、「義のない戦争」で命をかけるに値するどんな目的が他にあるというのだろう。

ジェームス・コバーン(掛け値なしに生涯最高のパフォーマンス)演じるシュタイナー伍長は、そのこと「だけ」に戦う目的を凝集させることで、義のない後退戦をはいずって戦う日々にひとかけらほどの「意味」を見出そうとする。

戦争に大義あり、と言うことはたやすい。それは安手のプロパガンダ映画になるだろう。

戦争に意味はない、と言うこともたやすい。それは安手の反戦映画になるだろう。

戦争は無意味である。だが、そこで死ぬ人間は「自分の死が無意味だ」ということを受け容れるわけにはゆかない、といういちばん「あたりまえの事実」を語ることがいちばんむずかしい。

この映画はそれに成功した希有の例である。

 

 

『ブリット』(Bullitt by Peter Yates: Steve McQueen, Jacqueline Bisset, Robert Vaughn,Don Gordon, Rober Duvall, Simon Oakland)

1968年のスティーヴ・マックイーン全盛期の刑事アクション映画。

よい時代であった。

刑事はあくまで刑事らしく、主人公が捜査の過程で出会う人たちはみんな自分の仕事を淡々とこなし、同僚は以心伝心で、上司は権限は部下に任せて責任は引き受ける。恋人はあくまでやさしく、事件は無事に解決し、ワルモノは最後にちゃんと殺される。

これを予定調和のオハナシと笑うことはたやすい。

しかし、私はそうは思わない。

ブリットはかなり危険な「綱渡り」をしている。

しかし、それにもかかわらず彼が少しもあわてず、騒がず、のんびりしていられるのは、彼が有能だから(だけ)ではない。

同僚が彼に劣らず有能で、上司が有能で、医師が有能で、現場の警官が有能だからである。みんながきちんと「プロの仕事」をするから、主人公は(車の運転以外には)特段の「超人的」な能力を発揮しなくても、することだけしていれば、ちゃんと犯人はつかまるのである。

私はこういう映画が見たかった。

全員が十分に有能であるために、誰かが一人だけ突出して有能である必要がないような、素晴らしい「チーム」のメンバーであることの快感。そういうものをハリウッド映画はもう何年も描いてこなかった。

主人公の刑事はつねに例外的に有能であり、そのせいで、同僚に足をひっぱられ、上司に押さえ込まれ、犯人に狙われ、家族に嫌われる。

そんな話はもう飽きた。

 

 

『60セコンド』(Gone in Sixty seconds by Dominic Sena: Nicolas Cage, Robert Duvall, Delroy Lindo)

ニコラス・ケイジが指先をぶるぶるさせて「OK.Let's go」という予告編をみて、「おお、かっこいい」と思って借りたが、かっこいいのはそのシーンだけだった。

でも、ニコラス・ケイジほど「かっこつけてるだけのバカ」にリアリティと親近感を与えられる俳優はレアだ。その点はほんとうにすばらしい。

 

『キッド』The Kid by Jon Tarteltaub: Bruce Willis, Lily Tomlin)

藤子・F・不二雄先生お得意の「むかしの私に会ってしまった」タイムパラドクスもの。

もちろん藤子先生のつくるお話のほうが100倍も面白い。途中で飽きてしまったが、それでも最後まで見られたのは、リリー・トムリンの献身的な演技の手柄。

映画をつまらなくした最大の原因は子役のミスキャスト。

あのデブガキがどうしたって、ブルース・ウィリスになるわけない。こういうのって「どれくらいそっくりの子役を探してくるか」というところで半分決まってしまうんだから。(『ラスト・エンペラー』のジョン・ローンの青年時代なんて、本人が特殊メイクしたのかと思うほどそっくりだった。手間を惜しむなよ、こういうところで。)

 

『夕陽のガンマン』(For a few dollars more, by Sergio Leone: Clint Eastwood, Lee Van Cleef, Gian-Maria Volonte)

『荒野の用心棒』に続く、レオーネ=イーストウッドの「マカロニ・ウェスタン」第二弾。1965年製作。DVDで買ったので、さっそく拝見。

TVで何度も放映していたけれど全編ノーカット版を見たのはこれがはじめてだ。

(1)登場人物がじつによく煙草を吸う。(これはハンフリー・ボガードの映画を見てもそう思う。ヘビースモーカーである私がみても、煙で息が詰まりそう)

(2)ジャン=マリア・ヴォロンテのやたら汗びっとりのアップが暑苦しい。変な回想シーンも変。(でもこの「大芝居」私は好き)

(3)リー=ヴァン・クリーフのハゲかたがとってもチャーミング。青い目もきれい。

(4)当時は「残酷西部劇」と言われていたけれど、今見るとぜんぜんおとなしい。血もあんまり出ないし。撃たれても痛くなさそう。

(5)死体を数えながらクリント・イーストウッドが「えーと、こいつで5000ドル、7000ドル、おお、こいつも死んだか、10000ドル」と足し算してゆくラストシーンがとっても素敵。この場面はTV放映のときはつねにカットされていた。

 

 

 

『NYPD15分署』(The Corruptor, by James Foley: Cho Yun Fat, Mark Wahlberg)

NY市警チャイナタウン分署の汚職警官(チョウ・ユン・ファ)とそれを内偵する内務捜査官(マーク・ウォールバーグくん)の友情と葛藤のドラマ。

マーク・ウォールバーグくんは『ブギー・ナイツ』以来、すっかり売れっ子であるが、今回も『スリー・キングス』同様、「自分が何をやっているんだかよく分からなくなってしまった」「何が正しくて何が悪いのか判断停止に陥ってしまった」アメリカの若い世代の当惑をみごとに演じている。

『NYPD15分署』の中で、マーク君は、あらゆる登場人物たちから(同僚から、中国人マフィアから、FBIから)こづき回されるが、そのすべての質問に彼は「知らない」「分からない」という答だけで応じる。

チョウ・ユン・ファ刑事がマーク君に命じるのは「自分で考えるな、おれのいうことをそのまま繰り返せ」というだけである。

そして結局マーク君はその教えに従うことにする。

『ブギー・ナイツ』でも『パーフェクト・ストーム』でも『スリー・キングス』でも、マークくんは、いつでも最終的には「何考えてるんだか、よくわかんないけど、隣にいて、ぼくのことをどやしつけるけど、なんだか優しそうなこの『おじさん』(バート・レイノルズ、ジョージ・クルーニー、チョウ・ユン・ファ)についていこう」という結論に達する。

この「おじさん」たちがマーク君の「ソーシャライザー」である。

この「おじさん」たちはみんな「汚れて」いる。(エロ映画監督、欲かき船長、火事場泥棒、汚職刑事)

けれども、この「汚れたおじさん」たちのばかばかしいほどひたむきな生き方の中には一貫した何かがある。

それは「人間がチームをつくって何かをするときにだいじなことは、『何をするか』ではなく、『チームである』こと、そのものなのだ」という教えである。

「おじさん」と組んで仕事をする意味は、「おじさん」から仕事についてのスキルや情報を獲得することではなく、「ぼくのおじさん」を持つ、という事実そのもののうちにある。そのことを「おじさん」たちはマーク君に教えるのである。

この映画でのマーク君の「おじさん」は中国人の汚職刑事である。(戸籍上の「父」も登場するけれど、彼はいかなる意味でもソーシャライザーとして機能していない。)

血縁においても、文化的バックグラウンドにおいても、価値観においても、何一つ共有するところのないこの人物を「知っていると想定される主体」に擬すことでマーク君は生き残り、成熟への階段を昇り始める。

アメリカ社会はフロイトがまるで分かっていないと私はかつて『ゴーストバスターズ』を論じた折りに書いたことがある。

その断定は撤回せねばなるまい。

建国200年余、ようやく、マーク・ウォールバーグというキャラクターを得て、アメリカ社会は「エディプス」という概念のとばぐちにさしかかったからである。

顧みるに、わが国の映画に「父」として機能するような「おじさん」が映像化されなくなって久しい。(「寅さん」の甥っこはぜんぜん成熟できずに相変わらず世界の「果樹園めぐり」をして「何言ってんだか」とせせら笑われているけれど、あれはまあ「おじさん」のほうに問題があったみたいだし)

記憶をたどっても、『姿三四郎』の矢野正五郎先生(大河内傳次郎)と、あの「悪いおじさんたち」(中村伸郎、佐分利信、北龍二)くらいしか思いつかない。(それにつけても黒澤明と小津安二郎の偉大さよ。)

 

 

『醜聞(スキャンダル)』(監督:黒澤明、出演:三船敏郎、志村喬、山口淑子)

1950年、ということは私が生まれた年の映画である。

私が生まれた頃の東京の街は(かすかな記憶にあるとおり)、道が広く、空が広く、空気が透明だった。昭和30年代まで、東京の空は目線の先にあった。(いまは見上げないと見えない。)

この時代に暮らしていた人はずいぶん「すっきりした」気分だったんだろうと思う。

帝都はその5年前に破壊され尽くして、廃墟から「まったく新しい社会」が生まれつつあった。そんな時代の「エートス」が横溢する映画。

子どもらしい子ども(桂木洋子)と、大人らしい大人(この映画では「絶滅した明治人」、青山杉作と高堂國典を同時に見ることができる)、そして「青年」が主人公の時代である。

あれから50年経って、みんな絶滅した。

とくにその喪失が悔やまれるのは「青年」という社会集団である。

すばやい行動力、生硬なロジック、純粋な信念、多感な感受性。それなりの社会的立場を獲得していながら、その立場にまだなじむことができずにいる。「子どもと大人の中間」にいて、ある意味でその両方の「美味しいところ」だけを取った生き物である「青年」は、おそらく明治30年代に『三四郎』や『青年』とともに出現し、石原裕次郎が石坂洋次郎的世界を逃れて「ボス」になったころに絶滅した。

この映画のなかの魅力あるもの(青年、「気骨ある明治人」、清純な少女、美しい山河、涼やかな東京)はすべて消え去った。そして、この映画のなかの「邪悪なもの」(正義派をきどったジャーナリズムと拝金主義)だけはいまだに繁昌している。

 

 

『スリー・キングス』(Three Kings by David O. Russell: George Clooney, Mark Wahlberg, Ice Cube, Spike Jonze)

おや、『マルコビッチの穴』のスパイク君がこんどは「ボンクラ二等兵」役で出ている。器用な人だ。クエンティン・タランティーノもそうだけれど、すぐれた監督は「ボンクラ役」に異彩を発揮するようである。

湾岸戦争停戦後にフセインがクエートから盗み出した金塊をさらに強奪しようという悪いアメリカ兵たちの話。

「誰と戦争しているのかよく分からない」「誰が正義で誰が悪なのかよく分からない」「どうしたらいいかよく分からない」というアメリカ軍兵士の「本音」をそのまま描いて、「湾岸戦争」がどういう戦争だったのか「いまでもよく分からない」でいるアメリカの「ふつうのひと」の「とほほ」な感じが伝わってくるたいへん「困った映画」であった。

アメリカの戦争映画は、「アメリカ正しい」か「アメリカ悪い」か、どちらかの視点からしか描かれてこなかった。それは「政治的立場を決然と表明することが倫理的・知的卓越性の指標である」というアメリカ的なエートスにフィルムメーカーたちもまた領されていたからである。

けれどもこの映画には「アメリカが正しいことをしているんだか悪いことをしているんだか、おいらにはわかんないよ」という素朴な「本音」が語られている。

「すみません、よくわかりません」という無能の告白のは、アメリカ社会においては「倫理的・知的劣等性」のしるしである。それをあえて表明するというのは「ボケナスとよばれようと、ボンクラとよばれようと、おいらはおいらだい。」と言う「ボンクラ主義派」(ジョン・ウォーターズ先生を教祖、ポール・トーマス・アンダーソンを若頭とするフィルムメーカーのみなさん)が社会的に一定の支持層を獲得しつつあるということであると私は見る。

『スリー・キングス』のなかでいちばん重要な場面は、イラク兵の捕虜になったマーク・”ダーク・ディグラー”・ウオルバーグくんが拷問されながら「湾岸戦争の意義」について問われるシーンである。

「えーと、なんで戦争してるかってゆーとだなー・・・・きみたちがワルモノだからだよ・・じゃないかなあ。だと思うけど・・ちがってたらごめんね」

そして解放されたあとに救出した少佐(ジョージ・クルーニー)から渡された銃で、拷問者を撃とうとして撃てないで呆然として立ちつくすマーク君の当惑ぶり。

彼は「すべてを水に流してアメリカもイラクもみんな仲良くしようよ」というような非暴力主義者にいきなり改心したわけではない。

彼を拷問したイラク兵が憎い。でもその憎しみの起源にはアメリカ軍の暴力がある。どこかで誰かが「憎しみ」を停止させないと、この暴力の応酬には終わりがない。でも、どうして最後に「ババ」をひくのが「おれ」なわけ?なんで?なんで撃っちゃいけないの?ああ、わかんねーよ。でも撃てねーよ。しくしく。

それでいいのだよマーク君。

もし暴力をどこかで停止させることができるものがあるとしたら、それはみごとに整合的な非暴力の思想ではなく、暴力をふるうことをロジカルに求められる現場で、なんだかわからないけど「立ちつくしてしまう」君の柔弱さ以外にはないのだ。それはすこしも恥ずかしいことではないと私は思うよ。

 

 

『ロミオ・マスト・ダイ』(Romeo must die by Andrjev Bartkowiak: Jet Li, Aaliyah, Russell Wong)

監督はポーランド出身のカメラマン(これが初監督作品)。主演は中国人、舞台はアメリカ、敵役は黒人。

すばらしい。ウチダ的には五つ星。今年いままで見た映画のベスト1。

ストーリー単純。キャスティング絶妙。アクションてんこもり。下心不可視。まさに批評家の想像力に挑戦するような映画である。この映画の面白さをどう伝えることができるか。うー、むずかしい。

『リーサル・ウェポン4』で撮影監督をしたバートコヴィアック(て読むのかな、わかんないや)はおそらくそのときに魅せられたリー・リンチェイの身体の動きのすばらしさとその童顔からにじむ人間的魅力を最大限に映像化するためにこの映画をつくったのだろうと思う。つまり映画そのものがdedicated to Jet Li というような映画である。

中国人と黒人だけしか出てこないアメリカ映画。

その俳優たちが全員、じつにひとりひとり魅力的である。

とくに黒人ギャング役のデルロイ・リンド(アイザック)、イザイヤ・ワシントン(マック)、アンソニー・アンダーソン(モーリス)。中国人ギャング、カイ役のラッセル・ウォン(『ザ・ハッカー』では日本人になっていたけど)がとてもよかった。

オススメです。

お、次回作 Exit wounds はスティーヴン・セガール主演か。今回の黒人ギャングのみなさんがぞろぞろご出演のようである。 楽しみ。

 

 

『丸子びっちの穴』(Being John Malkovich, by Spike Jonze: John Malkovich, John Cusack, Cameron Diaz, Catherine Keener)

松下くんご推奨の『丸子びっちの穴』、ようやく拝見。

なんだかジョン・キューザックに似てるけど(もっとバカそう)な男優と、なんだかキャメンロン・ディアスに似てるけど(もっとブス)な女優が出てきてだらけた芝居をしているので、「なんか、ギャラの安そうな映画だなあ」と思っていたら、ご本人たちでした。(最近これ多いけど、最後のエンド・ロールを見るまでほんとに気がつかなかった。)

考えて見れば、これはなかなか高度な「裏技」である。

ギャラが高くて、自己主張の強そうな俳優たちを、「そのへんの安い大部屋役者のように」安手に使うというのは、ある意味でたいへんな「贅沢」であり、ある意味ではずいぶんと意地の悪い態度である。

この映画では「チャリ坊」も本人役で登場。

「チャリ坊はほんまあほや」というハリウッド人たち哄笑が聞こえてくるようであった。

「『マルコビッチの穴』でのお、チャリ坊、カトチャンヅラつけとったで。あっほやで、ほんまに」

悪女役のキャサリン・キーナーはすべてのベッドシーンで「乳首を見せない」でかつはげしく性交しているふうを装うという点にきわだった演技力を発揮していた。(それが気になって、ストーリーに集中できなかった。)

とにかくあらゆる意味で「変な映画」であった。

ウチダ的には、「7階半」というアイディアが大好き。

メインになっている「他人の無意識に入り込む」というアイディアそのものは、高橋留美子の『うる星やつら』(面堂君の無意識はしょっちゅう友引高校のクラスメートによって蹂躙されていた)や桑田乃梨子の『恐ろしくて言えない』ですでにおなじみなので、「それ、少女漫画では定番だよ」という感じがしなくもなかった。

スパイク・ジョンズという監督の映画は他に見たことがないけれど(『マルコビッチ』の前作はおやおやなんとビョークのミュージック・クリップ)次回作にも期待。

 

 

『シャンハイヌーン』(Shanghai Noon, by Tom Dey: Jackie Chen, Owen Wilson, Lucy Liu、宇崎竜童)

伝統的に西部劇映画には「黒人のカウボーイ」と「中国人の町の人」が出てこないが、これは史実に反している、ということが最近いろいろなところで指摘されている。実際には、アメリカの牛追いの相当数は黒人であったし、西部の町には中国からの移民のみなさんがわんさか暮らしていた。

フロンティアを開拓したのは「ワスプ」である、という「物語」は、20世紀に入ってからハリウッドが作り出した「嘘」の一つである。

黒人のカウボーイという役を前景化したのはクリント・イーストウッドの『許されざる者』がたぶん最初だろう。イーストウッド君は、いつもスマートだ。

当然にも、そればかりじゃないよ、中国人だってアメリカの西部開拓の主人公のひとりなんだからね、ということが当然「ポリティカリー・コレクトネス」の文脈で語られ始めることになる。

その先鞭をつけたのがリー・リンチェイの Once upon a time in China and America (1997)。黄飛鴻(ウォン・フェイ・フォン)がアメリカ西部に渡って、西部の街で劣悪な労働条件で酷使される同胞のために「よいインディアン」たちとともに「アメリカ人」と戦う、というたいへんに反植民地主義的でコレクトな映画であった。(サルーンで中国人の洗濯屋が激しい人種差別を受ける場面がなまなましく印象的だったが、ツイ・"トニー谷"・ハークにもいろいろとアメリカに対するルサンチマンがあるのであろう。)

というわけで香港映画の次なる文化的標的はアメリカである。

「中国人はアメリカ人に屈服しないぞ」

というメッセージはおそらくアジア・マーケットには強くアピールすることであろう。商売人のジャッキー・チェンがこのアイディアを逃すはずはない。

だが、単なる二匹目の泥鰌で「武道の達人が西部で大活躍」というだけでは曲がない。

そこでジャッキーが考えたのが、伝統的西部劇というジャンルそのものの「嘘」を笑い飛ばす「大パロディ大会」。

ネタもとは二つ。一つは「武道の達人(三船敏郎)が気のいいアウトロー(チャールズ・ブロンソン)とコンビで大活躍」という『レッドサン』。ストーリーをまるごと頂いた他、キャラクター設定や、「並んでお風呂に入る場面」などそこらじゅうからパクリ。

もう一つは『明日に向かって撃て』。

これはオーウェン・ウィルソンという「若い頃のロバート・レッドフォードと芸風がそっくり」の俳優をみつけてきた時点で、成功は約束された。

「ちょっと三枚目のはいったサンダンス・キッド」という美味しい役をオーソン君が快演。主役のジャッキーをしっかり喰ってしまった。

ラストシーンの「ワン・ツー・スリー」を「どっちが言うか」というあたりや、逆光の中をメキシコ風の中庭に飛び出して行く場面とかは、『明日に向かって撃て』へのちょっとじーんとくる「お笑いオマージュ」となっている。

たしかにコレクトな「中国人のための西部劇」というものを作ろうとしたら、これではまずいだろうと思う。でも、その種の映画ならそのうちウォン・カーウァイかジョン・ウーがチョウ・ユン・ファ主演で作ってくれるだろうから、それに任せておけばよい。

ジャッキーの仕事は、「中国人のつくったお笑い西部劇」という「搦め手」からの攻めだ。それはそれでよい仕事だぞ、と私は思う。

がんばれジャッキー。次は「中国人の武道の達人が南北戦争で大活躍」などというのはどうかね。

 

 

『X−men』(by Brian Singer: Patrick Stewart, Hugh Jackson)

 

何も言うことはない。見るだけ時間の無駄。語るだけ時間の無駄。

 

 

『TAXI−2』(by Gerard Krawczyk: Samy Naceri, Frederic Diefenthal, Emma

Sjoberg)

快作『TAXI』の続編。主人公のマルセイユ男ダニエルを快演するサミ・ナスリ君はフランス映画ではこれまでぜったい主役を張ることができなかった「低学歴、低所得、アフリカ系、反権力的」なフランス版「レッドネック」タイプ。

左のこめかみから頭頂部にかけて走る「刀傷」ハゲも「ジダン」のネーム入りサッカー・シャツも白塗りのプジョーのバカ仕様も実に「頭悪そう」でチャーミングだ。

今回笑いものにされるのは「日本の防衛庁長官」と「忍者テロリスト」。

そういえばちょうどこの映画を撮っていたときって、「フランスにおける日本年」だったんだよね。(「日本におけるフランス年」というのもあったけど、みんな知らなかったでしょ。)

しかし、これを「反日映画」というふうに見てはいけない。

なにしろ、この映画の中では、「車を速く走らせること」以外のすべては「無意味」なんだから。(いちばん嘲弄されているのは、フランスの警察と軍隊。)

「頭悪いことは素晴らしい」というのがこの映画が力強く発信するメッセージだ。

その意味ではこれは「フランス発」、「フランス初」のボンクラ映画である。

がんばれサミー。『TAXI3』でまた会おうね。

 

 

 

『ホワイトアウト』(監督:知らない人、出演:織田裕二、松嶋菜々子、佐藤浩市)

織田裕二が深雪の中をラッセルしながら松嶋菜々子をしんどそうにかかえて歩いていたけれど、あれが椎間板ヘルニアの遠因であったと私は思う。

 

『パトリオット』the Patriot, by Roland Emmerich, Mel Gibson, Heath Ledger, Joely Richardson, Jason Isaacs)

 

「メル・ギブソンにはずれなし」。

私は三回も泣いてしまった。

エメリッヒの映画は『スターゲイト』、『ユニバーサル・ソルジャー』、『インディペンデンス・デイ』、『ゴジラ』と全部「スカ」であったが、今回は主演がメル・ギブソンだからよい映画になった。

もしも主演がカート・ラッセルやビル・プルマンであったら典型的「ゴミ映画」になっており、私は途中で眠ってしまったであろう。だから、私の感動はぜんぜん監督の手柄ではない、ということをエメリッヒ君はよく肝に銘じておくように。

それにしても、室内シーンは『バリー・リンドン』、戦闘シーンは『プライベート・ライアン』、並木道を馬が走ってくるところは『風と共に去りぬ』とまあエメリッヒもほんとに「ぱくり」がお上手。

 

『マグノリア』(Magnolia, by Paul Thomas Anderson: Tom Cruise, John C.Reilly, Julienne Moore, Philip Seymour Hoffman, William H.Macy, Jason Robards)

 

『ブギー・ナイツ』のポール・トーマス・アンダーソン監督(まだ30歳!)の次回作。というわけで、『ブギー・ナイツ』のボケナスたちがぞろぞろと再登場。

キャスティングの趣味が実にいい。

ジョン・C・ライリーのお巡りさん、フィリップ・シーモア・ホフマンの看護人、ウィリアム・メイシー(『ファーゴ』のバカ男)の「元クイズ少年」、トム・クルーズの「セックス教祖」(英語ではmtoivational speaker というらしいね。彼の『誘惑しておし倒せ』の原題は "Seduce and Destroy")そして、瀕死の病人にジェイソン・"ハメット"・ロバーズ。(なんかジェイソン・ロバーズに似てる人だなあ、でももうジェイソン・ロバーズなんてとっくに死んでるだろうしなあ、と思っていたらご本人でした。失礼しました。「ジェイソン・ロバーズとベン・ジョンソン」て、「最後のカウボーイ」なんですよ。ウチダ的には)

お話はグリーンベリーヒルで起きた強盗殺人でつかまった三人の死刑囚の名前が「グリーン」と「ベリー」と「ヒル」だった。こんなことって信じられます?という問いかけからはじまる。

元ネタはロバート・リプリーの『Believe It or Not』。

「うそのような本当の話」を集大成したもので、アメリカではケーブルTVでRipley's Believe It or Not という番組がいま大人気だそうである。(by ウェイン町山『アメリカ横断TVガイド』)

とにかくまったく関係のなさそうないくつもの話題をコラージュして3時間、果てしなく拡散する物語を、どうやってまとめるんだ?という観客の不安を、最後に「***の*」(ひえー!)で締めくくるポール・トーマス・アンダーソンの「底の抜け方」に脱帽。

アメリカ映画の明日は君のものだ、ポール。

 

『ダンサー・イン・ザ・ダーク』

松下君がぼろくそに批判し、投稿のMさんが最大限の賛辞を贈る、評価まっぷたつの『ダンサー』。ウチダとしても、一応何かコメントせずばなるまいとて、膝が痛くてお稽古を休んだのをいいことに、その足で三宮の映画館へ。

あと二日で終わりなので、映画館はがらがら。(数えたら7人)

私は「ロードショー打ち切り寸前のがらがらの映画館」で映画を見るのが大好きである。

封切り初日でがらがらの映画館はさらに好きである。

というのは、私は「列を作る」ことが死ぬほど嫌いだからである。

これはもう病気に近い。

東京ディズニーランドというところには一生行かないはずであったが、私の決意を聞いた友人が「それではるんちゃんがかわいそう」と言って、タダ券を二枚くれたことがある。娘のためにやむなく、雨の降る週日を狙って行ったが、それでも「二度と行くまい」と決意を新たにしただけに終わった。

大阪にUSJなるものができたようだが、「10万円あげるから行って下さい」とオッファーされても私にはきっぱり断る自信がある。(50万円までつりあげられたら多少心が動くかも知れないが、それ以下ではきっぱり「ノー」である。)

というわけで、私は「がらがらの映画館」で見た映画については、すでにその段階できわめて好意的になる傾向にある。(いままでロードショーで見て観客数がいちばん少なかったのは『私をシャグしたスパイ』(6人)、第二位は『マーズ・アタックス』(8人)。『ダンサー』は栄えある第二位に入れ替え。前二作品に対する私の固着は人も知るところである。)

というわけで、私はかなり友好的な態度でスクリーンを前にした。

それに加えて「松下正己の酷評」というものがある。

「期待は失望の母」というが、「酷評は『思いがけない発見』の母」でもある。

この映画の「ダメなところ」についてはすでに情報がゆきわたっており、あとはその「ダメさ加減」を確認する作業と、「思いがけない発見」を探すだけでよい。

知的負荷がきわめて少ない。

というわけで、私はきわめて「お気楽」な姿勢で開演のブザーを待ったのである。

まず手持ちカメラで「船酔い」するというのをわくわくして待っていたら、ほんとうに酔ってしまって、まず一票。

その次にデヴィッド・モースが出ているので、また一票。(私は「根は悪い人なんだけど善良に見える」役に異彩を発揮する俳優が大好き。ゲイリー・ビジーとデヴィッド・モースはその双璧。)

その次にカトリーヌ・ドヌーヴの「そっくりさん」が出ているので、すかさず一票。

「いやー。世の中には似た人がいるもんだね。なんていう女優さんだろう。要チェック」とすっかり「お気に入り」のブックマークをつけてエンドロールを見たら、なんとご本人!

「ええええ。だってドヌーブって58歳だぜ。」

どうみても33くらいにしか見えない。

『シェルブールの雨傘』から37年経って、まだ「美女」役でミュージカルに出るなんて、偉すぎる。

とりあえず、映画の途中で(まだドヌーヴであることを知らない段階で)モース君とドヌーヴ(そっくりさん)にアカデミー助演賞を個人的に授与。

主演のビョークさんは、ちょっと「憑き物」がつきすぎで、ウチダ的にはパス。(でも、「憑き物がつきすぎ」の役なんだから、キャスティングとしては最高だろう。)

作品的にはどうか、というと、「ワーキングクラスの不条理な日常(ぜったい井原西鶴の『諸国噺』にこれと同じ話があると私は思う)を描いたドキュメンタリー」を「ミュージカル処理」したという発想の大胆さに一票。

繰り返し書いているように、私は「これまで誰もやったことがないこと」を映画にする無謀さにはつねに好意的である。

音楽的には「趣味が違うの。ごめんね」

ダンス的には「ダメ」。(このコレオグラフィーには才能が感じられない。ミュージカルシーンがもっと「ぐわー」と盛り上がれば、物語の不条理性なんかみんな忘れて楽しめたと思う。問題はカメラワークよりもダンスする身体に「輝き」がないこと、踊るスペースがあまりに狭苦しいこと。『ウェストサイド』だって物語的には暗いけれど、ダンスする身体の輝きがすべてを忘れさせてくれる。もし監督が本気で「ミュージカル」を作りたかったのなら、ダンスの素晴らしさについてもっと意識的になるべきだ。)

物語的には「好き」。(「ドキュメンタリー・タッチの嘘」というのは私のもっとも好む「嘘」の形態の一つである。)

あとは、セルマの「失明」が進行するとともに少しずつ(観客に悟られない程度に)映像の鮮度が落ちていって、「空想」になったとたんに「クリアーカットな映像」になる、という「わざ」(これはアイディアとしては大好き)をもう少し効果的に使ってほしかった、ということくらいかな。

「映画とは何か?」という問いの意識の鮮明さははっきり伝わってきたし、企図した冒険もかなり成功していると私は思う。

映画のあと、エレベーターでいっしょになったカップルの女の子は

「これさ、落ち込んでいるときには絶対見ない方がいいね」

とつぶやいていた。

だから、映画を見て「ハイ・スピリッツ」になりたい人にはお薦めできない。

それからビデオで見るのもお薦めできない。(もしビデオで見ていたら、私もたぶん途中で止めていただろう。)「その世界」に身体ごと入り込むことではじめて映画に同調できる仕掛けの映画なんだから。(「あらすじ」だけ読んだら、普通の人はぜったい見たがらないと私は思う。)

 

 

      

えびちゃんの「おとぼけ・助っ人・映画批評」

本家ウチダが「映画見ても何も感じない症候群」に罹患しておりますので、しばらく各界の助っ人のみなさまにご寄稿をお願いします。

まずはえびちゃんによる「回路」「ブラザー」「アンブレイカブル」「リトル・ダンサー」

それにしてもひどい題名だね、「リトル・ダンサー」だと。原題はまさか違うでしょ・・・ええとMDB で調べると・・・Billy Elliot じゃない。なんだんだよ、この無意味な英語題名は。Unbreakable もちょっと意味不明だな。列車事故で生き残った人の話だというから、「ダイ・ハード」ってことかな?あ、そうか、ブルース・ウィリスだからね。あれも『死なない刑事』でよかったのにね。

あ、そうだ突発的に提案です。

「わけのわかんない題名の映画に正しい題名をつける」プロジェクトをただいま発足させました。「『正しい』題名をみただけで、その映画がどの映画だかぴたりと当たる」ようなレイザー・シャープなご提言をお待ちします。

では、まず不肖ウチダが率先してひとつ

『バカ男女、バンコク沖で、はっぱらりらり』

『ドイツ語未修者全員溺死』

『シャルウイダンス vs トラック野郎』

お分かりですね。上から『ザ・ビーチ』、『U−571』、『どら平太』。

投稿を待つ!

ではえびちゃんどーぞ。

 

 

『回路』(http://www.kairo-movie.net/)(監督:黒沢清 出演:加藤晴彦、麻生久美子、小雪、武田真治、松尾政寿(まつおまさとし)、有坂来瞳(ありさかくるめ)、役所広司 他)

死んだ人の魂が増えすぎた結果、インターネットを通じて「こちらの世界」に溢れ出て、生きている人間に取憑いて幽霊にしてしまう(?)、という不思議なお話。

これだけ書いただけで、すでにだいぶ無理な話であることがわかる。

が、実際には結構コワかった。

なんだかストーリーもよくわからないのに、「追いかけられ」たり、「知らない人にじっと見られ」たり、「ぐちゃっ」とか「ふうううっ」などという音がすると、それはそれでコワかったりする。

今回、最もコワかったシーンは、冒頭、留守だと思って友人宅に勝手に上がりこみフロッピーを探している主人公の女性の後ろで、ビニール・カーテン越しに、影がふぅっと「立ちあがる」ところ。(なぜ部屋の中に半透明のビニール・カーテンなんか引くのだ!)、アレはコワかった。「ぷうううん」という効果音も大変「効果的」で。

後から冷静になって思い返せば、ストーリーライン上、それほど重要なシーンではなかったのだが、「これからコワイ映画が始まるゾ」という私の期待と、「何が起こるかわからないゾ」という未確定な状態と、「ぷうううん」という不安定な音が絶妙にマッチした瞬間であったのだろう。非常にヤな感じだった。

また、加藤晴彦くんを襲う幽霊は、『リング』の貞子と同じ撮り方でスクリーンに近づいてきた。そのせいで、私は『リング』を思い出して、パニックに陥ってしまった。ザザッと画面をぶらせながら、その度に着実に「コチラ」に近づいてくる、アレである。2度目でもやっぱりコワかった。

こんな風に不必要なまでにコワガリの私ではあるが、ところが今回、初めてホラーで笑ってしまった。

それは、物語のラストに近いシーンで、加藤晴彦くんが文字通り幽霊と「接触」する、上記『リング』シーンの直後なのだが、その時の加藤くんの顔を見てのことであった。それがどんな顔だったかは、皆さん、劇場にてご確認ください。

いずれにしても、ホラーで笑えるなんて、わたくし史上初の快挙である。

加藤くん、いいゾー!

来瞳ちゃんも好演。

 

 

『BROTHER』(http://www.office-kitano.co.jp/brother/)(監督・脚本:北野 武 出演:ビートたけし、オマー・エプス、真木 蔵人、加藤 雅也、大杉 漣、寺島 進、石橋 凌、渡 哲也

北野監督の映画を見るのは、これが初めて。

想像通り、非常に「真面目な」映画だった。

「真面目な映画」は、それを鑑賞する側にも、ある種の緊張が強いられる。

冒頭のシーンで、斜めに設定したカメラアングルに、ビートたけしが映っている。それを見て「お、たけしだ。アハハ、アイツ何やってんねん、くそ真面目な顔して」と笑ってはいけない深刻さがある。私達一般テレビッ子が、彼を見た途端に作動させてしまう自動笑顔装置を作動させないように、カメラはしばし視線を斜に構え、その後、ゆっくりと角度を変えて、通常の視点へと回復する。

一体、私達は何に対して粛然たる気分でいるのか?

私はこの映画を見ながら、「アニキであり続けることの難しさ」を改めて感じていた。

この話を見てもわかるように、「アニキ」は、いわば偶発的に現れるもの、である。

(この映画の中で、アニキは弟との血のつながりすら怪しい。)あるいは、そのように自然発生した人物に対して、親しみ込めて呼ぶのが「アニキ」であり、それ以外の偶発的でない理由によって現れた者を、私達はしばしば「独裁者」「成りあがり」ひいては「父」などと呼ぶのである。

「アニキ」は自然発生する。しかし、皮肉なことに「アニキであり続けること」は、「アニキになること」とは同義ではない。

『BROTHER』の中のアニキは鞄一つからはじめたのだった。そして、少しずつ「大切なもの」「守りたいもの」を増やしていった。それらの数がまだほんの数えるほどであった頃、その状態は「幸せ」であった、と言っても良いのだろう。しかしまた、(不幸なことに)「幸せ」とは、世間から孤立してあるものではないらしいのだ。

例えばこう言ったら良いだろうか。

僕はA子ちゃんが好きだ。A子ちゃんが死んでいなくなったら寂しいから彼女のことを守りたい。それにA子ちゃんが悲しまないようにもしてあげたい。ところでA子ちゃんはお母さんのことが好きだ。お母さんが死んだらA子ちゃんは悲しむだろう。だから僕はA子ちゃんのお母さんのことも守りたい。

こうして、「幸せ領域」の境界線が押し広げられていく。

最初は少しずつ。そして唐突に劇的に。

そしてそれは結果として、他人の「領域」を侵犯することになるのだ。弟をカモにしていた麻薬売人をアニキが殴った瞬間から、「領域拡大」のトリガーは既に引かれていた。その後の顛末は、衆人が予想した通りである。

短絡的に、「だから私達は鞄一つくらいで生きていくべきなのだ」と言う教訓を得ることもできるだろう。または、「私達が守れるものは、所詮鞄一つくらいのものだ」と、遠慮勝ちに言ってみることも可能だ。そしてきっとそれはある程度正しい。

ただ、そんなことは実は始めからみんなわかっていたのではないか? 組織からはじき出されて、単身アメリカへ渡って弟を頼った兄を、偶発的に「アニキ」になった彼が「アニキ」でい続けようとしたことを、誰が責めることができるだろうか?

『BROTHER』には、奇をてらった演出も、不自然な展開も、どんでん返しも何もない。

売人を殴ったときから、もうアニキが死ぬことは大方予感できているのだ。

不可抗力的に死ぬとわかっている人をただただ見守るというのは、なにか、末期の患者を看取るように切ないものがある。あるいは、葬式の後、死んでしまった故人の人生を反芻するときの遣り切れなさにも似ている。私達が粛々としてしまうのは、ソレに対して「誰にもどうしようもできない」ということを暗黙のうちに理解してしまっているからなのだろう。そしてまた、その現実を、他でもない、自分達自身が(鞄を手渡されたデニーのように)生きていかなければならないということを教えられるからなのだろう。

そろそろバカでハッピーでラッキーな映画を観たくなってきましたよ。

 

 

 

『UNBREAKABLE』(http://www.movies.co.jp/unbreakable/)(監督:M.ナイト・シャマラン 出演:ブルース・ウィリス、サミュエル・L・ジャクソン)

「バカでハッピーでラッキーな映画」が見たかったのだけれど、これは...、うーん、「(地味だけど)知的」な映画。

『シックス・センス』(っていうか、『The Sixth Sense』。)で一躍有名になったM.ナイト・シャマラン監督の第2弾。

いかにも2作目という感じで、『シックス・センス』のウリであった、「意外なオチ」路線はそのままに、ストーリーをもうちょっと地味に、芸を細かくしたような感じ。

推理小説の新しい形、とでも言ったらいいのか、今までになかった映画の楽しみ方を提示してくれたという点では、高く評価されていいと思うのだけれど、なんかもうちょっと派手に演出してくれてもよかったよ? と思ったり。だって、あんまりにも地味な「ヒーロー誕生物語」なんだもの。何でもかんでも実直にやればいいってもんじゃないわ。

 

 

 

 

『リトル・ダンサー』(http://www.herald.co.jp/movies/little-dancer/)(監督:スティーヴン・ダルドリー 脚本:リー・ホール 出演:ジェイミー・ベル(ビリー)、ジュリー・ウォルターズ(バレエの先生)、ゲアリー・ルイス(パパ)、ーン・ヘイウッド(お兄ちゃん)、ステュアート・ウェルズ(マイケル))

う、、うわーーーん。

号泣しちゃいました。

上映後、慌ててトイレに駆込んで、同じように目を真っ赤にしたお姉ちゃんと目が合うのは、なんだかとても照れくさいものです。

11歳のビリー・エリオットが、ある日ふとしたことでクラシック・バレエに目覚め、そのまま引きずり込まれるようにバレーに夢中になっていく。しかし、炭坑閉鎖の危機に直面している貧乏田舎町の暗澹たる空気の中、周りがそれを理解してくれるハズもなく...。

ビリーの屈託のない笑顔、泣きそうな顔、恍惚で半開きになる口、おばあちゃんの夢見るようなステップ、怯えた毎日、サヨナラの抱擁、お父さんの朴訥で垢抜けない言葉使い、怒鳴り声、笑い声、涙で真っ赤になった目、お兄ちゃんの偏見、モノを投げつけるときの殺気、苛立ち、女装するマイケルの、びっくりするくらい可愛らしくて真剣な瞳、ふるえる頬、棒のようにただただ長いだけの足、先生のたばこの煙、煩悶、精一杯大人ぶってみせる娘の、考えうる限りの誘惑、嫉妬......、

登場人物一人一人が、精一杯自分の「役割」を生きていて、それでもやっぱりビリーのことが好きで、という彼らのコモゴモの表情が、それはもう健気で。(あ、また泣いてしまう...。)

とても良い映画でした。

 

 

投稿者の多い「おとぼけ映画批評」今回は、松下くんの酷評に反論しての『ダンサー・イン・ザ・ダーク』擁護論の登場です。

『ダンサー・イン・ザ・ダーク』(番外編)

内田先生はじめまして。いつもHPを楽しく拝見させていただいている者です。

名前は伏せさせてください。申し訳ありません。

今回初めてメールを送ろうと思ったのは、映画「ダンサー・イン・ザ・ダーク」の弁護をしたいと思ったからです。

勝手な推測ながら「せおじ」さんも同じ思いでいたのではないかと思います。ただそのように直に主張することは松下さんの立場をなくしてしまうものだとの配慮があったのではないかと思いました。

ラース・フォントリアー監督は、噂を聞く限りでは「ツインピークス」や「セブン」を一足飛びで飛び越えていそうなスーパーサイコドラマ「キングダム」や(本国デンマークでは視聴率50%を超えたそうです)、「白昼素っ裸で白痴を演じ、一般市民を揶揄、翻弄することを目的としたヒッピーのようなパフォーマー集団”イディオッツ”、ある日メンバーの一人が脱退し、それを知ったリーダーは団員達にある試練を課す・・・」などという挿入部の解説を読んだだけでもけっこう毛だらけ猫はいだらけの飛んでモンペな内容であろうと想起させられる映画「イディオッツ」を製作している監督ですので、いろいろ白い目で見られることも多いだろうし、今回の映画が本当のところ何を言及しているのかわからないですし、本当はバカにされているだけなのかもしれないのですが、(彼はインタビューで、美女と野獣のような甘いラブストーリーの話のたねにあげ、「まったく素晴らしいよ!」というような感想を述べていました。)

僕自身はこの映画に悪意はないのではないかと思いました。

むしろ社会不適応な人間に花を持たせてくれた心優しい人なのではないかとさえ思いました。

HPの批評内では

「他の選択肢が幾つもあったはずなのに、セルマはあえて死刑の道を選んだ」

とありますが、僕はあの状況下では手を尽くしても死刑は免れなかっただろうし、お金とビルの名誉を守りきれたのは奇跡に近いと思いました。

特に裁判のシーンで、彼女が憧れる往年のミュージカルスターの証言によって窮地に立たされた際の空想シーンで

「ちっとも構わなかったよ君が夢に酔いしれていても私のミュージカルでいつでも君を受けとめてあげたね」

と歌い踊るシーンでは涙がにじみました。

内田先生にも機会があればぜひこの映画を観てほしいと思います。

監督はインタビュー等で

「殉教者なら死なねばならない」

「生きることは虚しいと日に10回は考えるよ。だがセルマのように信念を貫けたなら、この世になにか意味を残せたなら」

「ビョークはいつも『神聖なる力』とは言わず『神秘的な力』について語っていたが、もしそれがあるとするならこの映画で私と彼女がともに仕事をしたことがそうであろうと思う。この映画の脚本を書いたとき、私は彼女を知らなかった。だが出来あがった映画の中で、彼女はセルマであり、セルマは彼女であった。素晴らしい輝きだったと思う。」

「この映画を見た人は結末をけして明かさないでください。この映画を愛するあなたにこそ、よろしくお願いします。」

といっていました。

またビョークは

「今回の映画が出来てから9ヶ月私は一切プロモーションをしなかったけど、それはこの映画を製作した際のクリエイティブなプロセスを大切にしたかったからなの。それはラースも同じだと思うわ。でも配給の人達が騒ぎだしたの。とても予算を費やしたから。スタッフから拾い集めた話から脚色したゴシップをばら撒いて、プロモーション代わりにしたの。だからインタビューに応じることにしたの。」

「映画を作っているときはセルマを愛しいと思う気持ち、彼女を守りたいという気持ちだったわ」

「最初脚本を読んだときは大泣きしたわ。彼女を母親のように包んであげたい気持ちだった」

「ラースの実家で二人で歌詞を考えたわ。」

「彼(ラース)は孤高の人よ」

「彼をもちろん愛しているわ(親愛の意味で)。それはもう彼にも何度も言っているわ」

と語っていました。

著作権等の問題があるかと思われたのですが、個人的なメールなので構わないだろうと思い、ミュージカルの歌詞と脚本の冒頭にあった監督が書いたと思われる文章「THE SELMA MANIFESTO セルマ宣言」を送ります。

あと映画の感想としてとある掲示板に書いたものも添付します。

言いまわしが奇妙なのは誰かに向けて話すには恨みがましいもので恥ずかしかったからです。

書いた後、掲示板に書きこむにはあまりにもネタばれであったことに気づきあせりました。

ちなみに歌詞にあるCvaldaとはチェコ語で「とっても幸せ」という意味だそうです。

映画の話ばかりせずに、HPの内容についてなども語るべきなのですが、もういうことなどないほどに満ち足りています。

「監督へのインタビュー」

(掲示板への書き込み分は、ちょっと文脈がわかりにくかったので、割愛させていただきました。すみませんね)

              

 

 

次々と論客参入の「おとぼけ映画批評」。今日ご登場はウチダの旧友「せをじ君」です。

『ジャンヌ・ダルク』The Messenger: the Story of Joan of Arc by Luc Besson, Milla Jovovich, Dustin Hoffman, Faye Dunaway, John Malkovich)

 

1999年の作品である。

女優ミラの演ずるジャンヌは、美しく、そして、哀しい。

男優ダスティン・ホフマンの演ずる僧侶は、厳しく、そして、最後には、優しい。

この二人の演ずる「幻想」は、その他の者の演ずる「現実」に押しつぶされる。ジャンヌは、その「幻想」に殉じた。

人は、「ジャンヌ・ダルク」と聞いて、何を求めるのか。

フランスをイギリスの占領から解放した英雄的女性、オルレアンでの奇跡的な勝利そしてパリ等での敗北、悲劇的結末、そして、何と言っても「奇跡」だ。

「ジャンヌ・ダルク」は、映画監督にとって、好個の素材である。誰でも知っている悲劇的英雄、そして、大スペクタクルならではの戦闘シーン、劇的なストーリー展開。映画監督にとって、こんなに便利な素材はない。自らが何も考えることなく、歴史そのものに、そして、多くの人があらかじめ抱いているイメージそのものに従って、制作すればいい。そして、観客は、「奇跡」を追い求め、映画監督は、映像の持つリアリティによって、観客に「奇跡」を与えることができる。興行成績は、間違いなしだ。

映画は、「奇跡」を容易に作り出せる。『ベンハー』だけではない。『スーパーマン』も『バットマン』も、『フィフス・エレメント』も、皆、観客の求める「奇跡」に迎合する。観客が映画に求めるひかえめな欲求が、「非日常」であるとすれば、その最大の欲求は、「奇跡」である。

だが、監督ベッソンは、この映画で、何よりも、「奇跡」を否定した。

ベッソンがこの映画を制作するにあたって自ら課した条件は、現実主義である。あくまでも、歴史の中で、現実にあった事実を前提として、イギリスとフランスとの戦争を、フランス国王を、ジャンヌを、それを取り巻く貴族、僧侶、軍人、兵士、庶民を、そして、その思惑、情念、計略、陰謀を描くことであり、「奇跡」を起こさないことである。

ベッソンは、ジャンヌがオレルアンでの奇跡的な勝利を得る過程を、人々の思惑や感情、そしてそれが、ある偶然の重なり合いから集合したときに生まれる予期しない大きなエネルギーによって説明し、描き切ろうとする。ベッソンは、それゆえに、フランス国王、将軍、僧侶等の登場人物を、実際には神や迷信を当然に信じていたであろう15世紀の人々のようにではなく、それらのものを全く信じていない現代人のように描く。

しかし、ベッソンが描きたかったことは、現実主義では、もちろんない。ベッソンは、現実主義の視点から、「奇跡」を否定し、奇跡的な勝利を合理的に説明し、登場人物を現代人のように合理主義者に描くことによって、ジャンヌの「幻想」を際だたせたかったのである。

ジャンヌが公衆の面前で最後の異端審問にかけられ、ビショップから、「これに署名すれば、君は自由になれる。」といわれ、ジャンヌが署名したとき、ダスティン・ホフマンの演ずる幻想の中の僧侶が現れる。そして、その僧侶は、ジャンヌに言う。

「お前は、今、His existence(神の存在)を否定する紙に署名したんだぞ。お前にとっては、所詮、He(神)は、嘘であり、幻想なんだな。お前は、さっき、神よ私を見捨てたのですかと言ったな。だが、結局、Him(神)を見捨てたのは、お前だ。」と決め付ける。それは、挑発だ。ジャンヌは、興奮して、ビショップに「私は字が読めない。署名した紙を戻せ。」と叫ぶ。

ジャンヌは、火刑に付される直前の牢屋の中で、ダスティン・ホフマンの演ずる幻想の中の僧侶と対話する。そして、その対話の中で、自分が、神のために戦ったのではなく、復讐心と絶望から戦ったことを、自分が、自己中心的で、頑迷で、狂っていたことを素直に認める。幻想の中の僧侶は、それを聞いて、「心の準備はできたんだな。いいだろう。」と言う。そして、ジャンヌの頭に手をかざして、祝福する。翌日、ジャンヌは、火刑に処せられる。

ダスティン・ホフマンの演ずる僧侶、それは、もちろん、神である。悪魔だと解釈する人もいた。しかし、私は、神と解釈する。

神は、「奇跡」を行わない。神は、現実に何らの証拠を残さない。しかし、神の徴を見、神の言葉を信じ、奇跡を行おうとする者に、現実の力を与える。ただし、その者が、他の者に対し、その者が神の徴を見たことを証明することを許さない。それゆえに、その者が、他の者から、神の徴を見たことを否定されたときであっても、神は、その者を救おうとはしない。にもかかわらず、その者が、神を信ずるとき、神は、その者を祝福する。

観客が求める映画は、神の「奇跡」を映像で示す。ベッソンは、これを厳しく拒絶した。神は「奇跡」を行わない。神は「幻想」の中にしか存在しない。しかし、神は、証明不可能な「幻想」の中に厳然と存在する。ベッソンが、とりあえず描きたかったことは、これである。

このような切り口の「神の存在証明」は、このままでは、ありきたりのキリスト教至上主義であり、西欧中心主義思想であり、陳腐な手品と、さして変わらない。それは、「奇跡」を、全くの恥じらいもなく映像に示す多くの映画と五十歩百歩である。

しかし、ベッソンの「ジャンヌ・ダルク」は、さわやかであり、後味が悪くない。

その理由は、ジャンヌの見たものは、姉を惨殺し、陵辱し、権力を握り、人を支配し、殺すことまで正当化する「現実」に耐え難く、許せなくなったジャンヌの心が見た「幻想」であり、その「幻想」は、「神」ではなく、「本当の優しさ」であっても差し支えがないからである。

The man whom Gods loved.

私は、この映画を見て、かつて読んだこういう表題の本を思い出した。それは、1811年に生まれ、わずか21歳で生を終えたフランスの天才数学者ガロアの伝記であった。

              

 

『アメリカン・ビューティ』American Beauty by Sam Mendes : Kevin Spacy, Annette Bening, Thora Birch, Wes Bentley, Mena Suvari )

ものに動じないフジイ君がめずらしくレビューで絶賛していた。(「『アメリカン・ビューティ』をビデオで観た。とてもよかった。近頃は心が寛くなって、何でも面白く観るのだが(…少し嘘)、『ガメラ3』より『007/ワールド・イズ・ノット・イナフ』より『ファイトクラブ』よりよい映画と思う。次の日まで、世界の空気を身近に覚え、彼や彼女を愛し愛されるのがこの世の我が身と隔絶されていることが切ない感じなんて久しぶりだ。」)

比較されている映画がどういう基準で選ばれているのかよく分からないが(なにしろ「不詳の弟子」だからね)、フジイくんが「面白い」というなら、そうとう「変な」映画であることは間違いない。さっそくビデオ屋へ。

いやー。これは面白い。

実に「後味のよい」映画である。

「アメリカの郊外の中産階級家庭の崩壊ドラマ」というのには、もうまったく食傷していたのだけれど、『アメリカン・ビューティ』は、その裏を掻いた「裏の方のかゆいところに」手が届く、実にウェルメイドな映画であった。

出てくる人たちが全員(松下正己風にいうと)「感情移入できない」最低のキャラクター設定なのだが、物語が進行するにつれて、その「全員」に対していつのまにか控え目な好意がだんだんわき上がってくるというつくりが、とてもよい。

いちばん素敵なのは、主人公のレスター・バーナム(ケヴィン・スペイシー)。

この「いいとこなしの最低の中年男」が、「わしもーどーでもえーけんね」と居直ると同時にいきなり輝き出す世界の逆転のしかたが素晴らしい。

もちろん、バカ娘も、バカ娘の恋人の変態少年も、その父親の変態オヤジも、バカ娘の親友のウルトラバカ娘も、みんな最後には「なんだ、けっこういいやつなんじゃん」というふうに心を温めてくれるのであるが、(例外はバカ妻だけ。アメリカのフィルムメーカーたちの「アメリカン・ウーマン」に対する憎しみは海溝のように深い)やはりレスターおやじの「切れ方」の鮮やかさが圧巻である。

出てくる人たちはみんな「郊外の中産階級において範例的な生き方」に対してそれぞれの仕方で抵抗を試みる。

USマリーンの大佐の息子はドラッグの売人になることで、サラリーマンの娘は両親を軽蔑することで、その友人はセックスマシーンとなることで、欲求不満妻は浮気をして「戦う女」になることで、マリーンの大佐はゲイをカムアウトすることで・・・

しかし、それらの「逸脱」はじつはすべてあらかじめ定型化されている。

彼らはそれぞれの仕方で定型から脱しようとして、実は「カタログ」で通販するように「逸脱」のできあいのモデルを選んでいるにすぎない。

その中で、レスターおやじの逸脱だけが、かろうじて「定型」をまぬかれている。

それは、他の全員が与えられた選択肢の中から「未来」をを選ぶのに対して、彼だけは「私はほんとうは何を欲望していたのか」という起源への問いにむかって時間を遡行しはじめるからである。

少年のころ、生まれて始めて自分が灼けつくような欲望を感じたのは何だったろう?

その欲望の原点にまで立ち戻り、そのとき生成状態にあった欲望の輪郭をとらえなおすところから、もう一度生きなおすこと。

これはずいぶんまっとうな考え方だ。

だから、彼はハンバーガーショップで働き、70年型のファイヤーバードを買い、マリワナを吸い、70年代のロックを聴き、自分の肉体が生命で躍動していたときの感覚を取り戻そうとする。

でもそれは単なる「若返り」願望ではない。

なぜなら、その過去への退行によって、彼は幼児化するのではなく、逆に、おのれの「老いと死」を受け容れることができるまでに「成熟」を果たすからである。

この映画の中で、彼だけが「老いと死」を受け容れる段階に達することができる。

彼だけが死を受け容れることができる。

ほとんど笑顔で。

あとの人々は誰も「いま」死ぬことができない。

「やり残したこと」が多すぎるからだ。

この映画のテーマは『市民ケーン』と同じだ。

それは、人は死ぬためには、自分の欲望の原点にまでいちど戻らなければならない、ということである。

ケーンにとっての「Rose bud(ばらのつぼみ)」は、レスター・バーナムにとって「70年型ファイヤーバード」であり、16歳の美少女である。(だから、彼は映画の中で、そのどちらにも「乗る」ことがない。なぜなら、それは何の実体もない、「欲望の純粋記号」だからだ。)

人は死ぬとき、自分の欲望の原点に立ち戻る。

そして、自分の欲望の純粋な起源に出会って、「生と死の秘密」を知る。

彼の決して満たされることのなかった欲望の追求のプロセスそのものが、欲望充足の無限の延期こそが、彼の欲望の真正なあり方だったのだ、ということを。

欲望の不充足に苦しみ、もがき続けた人生のすべての時間こそが、もっとも深い充足のときだったということを。

ありがとうぼくの人生、ありがとうぼくの人生を彩ったすべてのアメリカの美しきものたち。

ぼくはすごくハッピーだった。

だから、微笑みながら死ねる。

「アメリカの美」とは、アメリカ人が死ぬ瞬間に思い出すもののことである。

なんて、いい映画なんだ。

 

『男たちの挽歌』英雄本色、監督:ジョン・ウー、出演:チョウ・ユン・ファ、ティ・ロン、レスリー・チャン、1986)

チョウ・ユン・ファが公開当時の『シティロード』誌のインタビューで、映画の中で爪楊枝をくわえる癖は日活映画の小林旭へのオマージュだと語っていたのを思い出した。

DVDにも最近のチョウ・ユン・ファのインタビューのおまけがついている。

あいかわらずにこやかな「亜州影帝」は日本映画が1970年に入って活気を失ってしまったことを残念がっていた。

意外だったのは、いっしょに仕事をしてみたい日本人映画人としてまっさきに挙げたのが「もう物故者ですけど」と断りつつ「トラサン」だったこと。

渥美清とチョウ・ユン・ファか・・・見たかったなあ。

ほかに彼が名前を挙げたのは「クロサワ」と「タカクラケン」でした。

チョウ・ユン・ファを見て感じるのは、この人がほんとうに「暖かいエネルギーを放射できる人」だということ。

映画の中で凶暴な「マーク」君を演じているときも、彼の香港の街に対する、やくざな渡世に対する、友人たちに対する切ないような「愛」が全身から発信されている。

その愛の温度ゆえに、映画の中に点景される「どうでもいいようなもの」に彼が触れるたびに、それが「生命」を持って震え始める。煙草も、ブランデーグラスも、サングラスも、コートも、バラの花も、屋台の安スナックも、もちろん銃も。

ほんとうに優れた俳優は、くだらないメロドラマを感動巨編にできるだけではない。

彼らは無生物に生命を吹き込むことだってできるのだ。

 

  

『クッキー・フォーチュン』(Cookie's fortune, by Robert Altman,: Glenn Close, Julianne Moore, Liv Tyler, Chirs O'donnell, Charles S.Dutton)

ロバート・アルトマンて何考えて映画撮ってるのか、よく分からない。

何度か出てくる「なまずのシチュウ」というのがすごく気になった。美味しいのかなあ。

 

  

『鉄男』(監督:塚本晋也、出演:田口トモロヲ、藤原京、叶岡伸、六平直政、石橋蓮司、1989)

鉄になった男の話。痛そう。

 

  

『蘇る金狼』(監督:村川透、出演:松田優作、成田三樹夫、風吹ジュン、佐藤慶、千葉真一、岸田森、1979)

松田優作の芝居がどれほど木村拓哉に深い影響を与えたか分かった。

松田優作死してもその「風儀」は残ったということである。がんばれキムタク。

 

  

『自由の幻想』(Le fantome de la liberte, by Luis Bnuel; Adriana Asti, Julien Bertheau, Jean-Claude Brialy, Monica Vitti, Michel Piccoli)

DVDでまとめて5枚ブニュエルが来た。『自由の幻想』『ブルジョワジーの秘かな愉しみ』、『銀河』、『小間使いの日記』、『欲望のあいまいな対象』である。『小間使い』のみ未見。毎晩ブニュエル漬けとなる。

何も考えないでけらけら笑ってみてると、ほんとに楽しいブニュエル映画。

私が好きなのは、警視総監のところに死んだ妹から電話がかかってくる話。

「やまなし・おちなし・いみなし」。

ブニュエル先生こそ「やおいの帝王」だ。

 

  

『ブルジョワジーの秘かな愉しみ』(Le charme discret de la bourgeoisie, by Luis Bunuel: Fernando Rey, Paul Frankeur, Dephine Seyrig, Bulle Ogier, Jean-Pierre Cassel)

さあ食べようと思うと、なかなかご飯が食べられない、さあやろうと思うとそのたびに邪魔がはいって、なかなかセックスができない、という「悪夢」の構造が繰り返される。たしか筒井康隆にも同じ趣向の短編があったけど、これ好き。

フェルナンド・レイ演じるミランダ国大使の徹底したワルぶりが実に爽快。

 

  

特別寄稿・松下正己 

評判の『ダンサー・イン・ザ・ダーク』を観てきました。

(以下の文章でこの映画のラストに言及しています。まだ観ていない人は、是非映画を御覧の上お読みください)

最近は、そのシステマティックなところが気に入って、ワーナーマイカル系のシネマコンプレックスによく足を運ぶのですが、この日も大混雑の「ワーナーマイカル新百合が丘」にやってきました。席がちょっと心配だったのですが、無事中央やや前寄りというなかなかのポジションの席を確保することができました。(この映画館では、混雑しそうな映画は、全席指定となってしまうのです) 満員の劇場内を見回して驚いたのは、若い観客に混じって中年あるいは老年の観客が、かなり多数いたことです。われわれも中年のカップルですから人のことは言えないのでありますが、映画の性質から考えてかなり異様な感じを受けてしまいました。

さて映画ですが、実は私はラース・フォン・トリアーの作品を一本も観ていないのです。この映画を観て、私はもうこの監督の映画は二度と観ることはないであろうと確信しました。

一観客として、私はこの映画が大嫌いです。

映画の感想は以上でおしまいです。しかし映画の自己言及性について考える上で、この映画は非常に重要な意味を持っていると思われるのです。

東欧からの移民であるセルマは工場で働きながら一人息子を育てています。遺伝による疾患で、既に盲目になりかけているセルマは、同様の疾患でやがては盲目になるであろう息子の手術代のために金をためています。しかし親切にしてくれている隣家の主人に金を奪われ、結果としてその男を殺してしまいます。

ひたすら不幸のどん底の落ちて行くセルマを描いたこの映画は、しかしひとことで言って「メタ・ミュージカル」であります。

「アイスランドの歌姫」ビョークが演じる主人公のセルマは、地方の劇団で『サウンド・オブ・ミュージック』のマリア役として稽古を繰り返し、勤務先の工場の同僚と古いミュージカル映画を観に行き、セルマに心を寄せる男とミュージカルについて語りあいます(彼の意見では役者が突然踊り出すミュージカルなんて不自然きわまりないということになります)。

そして、辛い自分の境遇をつかの間忘れるために、セルマはミュージカルを夢想し、それがそのまま画面上でのミュージカルシーンとなって展開するのです。

だから従来のミュージカル映画とは異なり、セルマが精神的に追い詰められたとき、それまでのクロースアップ主体の不安定な手持ちカメラの映像は、突然複雑なショット構成のミュージカルとなってしまいます。ミスをした工場で、苦悩する線路脇で、窮地に立たされた法廷で、唐突にミュージカルシーンは始まります。自分が殺した男も生き返ってセルマと踊ります。こうしたミュージカルのシーンが観客にとって楽しい訳がない。

フレッド・アステアもジュディ・ガーランドもジーン・ケリーもデビー・レイノルズも、皆、楽しくて、その気持ちが歌や踊りとなるのです。ミュージカルシーンは、いずれもその映画内世界の感情が昇華したものです(『シェルブールの雨傘』も例外ではない)。しかしこの映画に於けるミュージカルシーンはそうではありません。歌い踊るセルマは、映画の中のセルマとはかけ離れた存在です。セルマの人生に楽しいことなど何一つないのだから。

それを証明するかのように、デジタルビデオカメラ100台を同時に回したというこの映画のミュージカルシーンは、かつて観たこともない異様なものでした。カメラを意識せずに動き回るダンサーたちの動きを無数のショットに分解した、支離滅裂な映像は、かろうじてビョークの音楽によってつなぎとめられているかのようで、観ていて少しも楽しくないのです。

つまりこの映画は、ミュージカルという不自然な映画表現の形式を批判的に踏襲し、そうすることによって映画と音楽との新しい融合のスタイルを呈示したといえるのではないでしょうか。そしてその試みは、それ自体としては成功しているように思えます。

セルマは殺人の罪で死刑を宣告されます。他の選択肢が幾つもあったはずなのに、セルマはあえて死刑の道を選んだのです。既に困難であった投射=同一化がここで決定的に不可能になります。

映画の終盤、恐怖のあまり独房から絞首台への道を踏み出すことのできないセルマを励まして、女看守が足でリズムをとります。セルマはそのステップに合わせて踊り始め、刑務所内の通路はミュージカルシーンへと変貌します。何というおぞましさでありましょう。

映画館では多くの観客がすすり泣いているようです。一観客である私にはそれが理解できませんでした。ディズニーの『美女と野獣』のラストではあふれる涙を止めることができなかったけれど、この映画のラストでは私はただひたすらこの作劇のあざとさを感じるだけしかできませんでした。

首にロープを巻かれ処刑の準備が整ったところで、セルマは必死に、張り裂けるような声で歌を歌います。床の落とし戸が開き、唐突に歌が途切れ、絞首刑が執行されます。私は、かつてこれほどまでに対象を突き放したラストシーンを知りません。

セルマは、エリナー・リグビーよりも救われない存在です。だがそれは、そうなるべくしてそうなったのです。ロープでぶらさがるセルマの死体に、われわれが与えられることばは、何もありません。

うーむ。なんだか見たくない映画ですねえ。あまりにつまらなかったので思わず映画評のペンをとってしまったという松下君の怒りがふつふつと伝わってくるレビューでした。

次は海老ちゃんです。これもけっこう辛辣。

 

  

『バトル・ロワイアル』(http://www.battle-royale.com/)(監督:深作欣二 原作:高見広春 出演:ビートたけし、藤原竜也、前田亜季、安藤政信、山本太郎、柴咲コウ、栗山千明 他

どうも「おやじくさい」というか「説教くさい」映画だと思ったら、監督の深作欣二は現在なんと70歳なのだそうだ。

70歳にして、安藤政信を、栗山千明を、前田亜季を起用しようと思うなんて、それだけでもスゴイ!と感心したりもするけれど、だからと言って70歳の男性が撮る映画はおしなべて「説教くさい」というわけでもないだろう。

では、どこが「くさい」のか。

まず、「若々しさ」「美しいもの」に対する過剰な肩入れがある。

『バトル・ロワイアル』では、42人の中学生のクラスメイト達が、お互いを殺し合わなければ生き残れないという、非常に特殊な状況に身を置かれ、それぞれが否応なく自分の生き方(というよりは「死にざま」か)について考えさせられることとなる。

生徒たちは、あるものは自殺し、あるものは頭脳を働かせ、あるものは団結して、自分の「最期」を選び取っていくのだが、あの映画を見ていると、やはり圧倒的に「派手」で「クール」なのは、殺しまくる桐山和雄(キッズリターン安藤政信)と相馬光子(ポンズダブルホワイト柴咲コウ)なのである。

カップルがしんみり首を吊ったり、飛び降りたりする様子は、中学生のクセにまるで老人のように「枯れて」見えるし、団結して灯台に閉じこもっている女生徒達は、逆にとても子供じみていて、下手な文化祭の演劇でも見せられているようにテンポがぎこちない。そんなチンタラしたワキの甘い生徒達を一蹴する桐山や相馬は、圧倒的に美しくて力強くてかっこいい。

ただ、私自身は「強いものが勝つ」「美しいものが勝つ」という定式を、今更あんな風に分かりやすく示されてしまっても、正直、ちょっとシラケてしまう。そして最後に「愛が勝つ」というのもどうかと思う。ギャグだとしても笑えない。期待のビートたけしにしても、最初の危険なオーラはうやむやとどこかへ行ってしまい、最後は「絵なんて描いてんじゃないぞ」と言いたくなるくらい、「いい人」になってしまった。こんな半端な先生に、相馬がビビって逃げ出すなんて、全然わからない。

台詞を画面に書いて出すのも、あの場合失敗だろう。『エヴァンゲリオン』のように、ストップ&ゴーを繰り返すのが趣向の映画ならオッケーなのだが、BRのように、3日間を駆抜けるような印象を与えたいであろう映像の場合、半端なストップをかけると、本当に話が止まってしまう。しかも提示されるメッセージはどれも、今時誰も言わないような「青春きらめきワード」ばかりだから尚更である。(ただし、過多にストレスをかけられた人間が、舞台での台詞のようにぎこちなく、ある意味流暢に、言い古された言葉を語ってしまう、ということは実際にあるだろう。機械的に身体を制御する(古典的なルールに則って会話を促すとか)ことにより、ストレスは軽減できることは確かにある。だから、その意味では、灯台に篭もっていた女子生徒たちの非常に「ドラマチック」な演技が、実は、今回の出演者の中では結構ハマッていたのではないかと思う。)

あの映画を冷静に考えると、深作さんという監督は、若者の未来に期待する、すごく「いい人」なんだろうと思う。けれど、あまりにも美しく、理想的な中学生を撮ってしまったために、私などは「おしつけがましさ」を感じるのだろう。

中学生というのは、文字通り青春の時代である。

青くて、春で、相当かっこ悪くて、頭の方も中途半端で完成していない(「頭が悪い」と言っているわけでは、もちろんない)。その上、個々人の能力差が最も顕著な時代でもある。そこでは「愛」も「力」も「美」も、まだ規定的な力を持たない。そこが中学生時代のスゴイところで、グロテスクで、パワフルで、へんてこで、甘美なところだ。大人がもし本当に恐れるものがあるとすれば、それは、その安定しないエネルギーこそが対象となるのだろう。

だから、私が『バトル・ロワイアル』を観て最も緊張したのは、冒頭のテレビ中継シーンからの数十分ほど、眠らされた生徒達が起き出して、ゲームの内容を知る辺りまでであった。そこではまだまだ中学生の可能性がグルグルしていた。

しかしその後、ドラマは「青春映画」のように爽やかに進んでいってしまい、監督は若者にエールを送りつづける。ただ、「若者の可能性」というものが、「愛」や「力」や「美」ではないところにあると思う私には、それが見当違いのエールに思えるのだ。

もちろん疑いがないわけではない。実は70歳まで生きると、私のようなやっかみにも似た感情は霧消して、「若者よ、君たちはすばらしい。どんな逆境にも負けず夢と希望を持って生きるのだ」という温かいまなざしが持てるようになるのかもしれない。まだまだということか。

 

  

『狗神』

四国の憑き物(狗神)スジの家に産まれた女性の物語。

紙を漉く工房、母屋の造りや家具が美しい。ロケーションも良いのだが、これは四国ではなく、どうやら岐阜や栃木の借景らしかった。

深い山間、長い廊下、障子に当たるほの暗い電灯を見ているうちに、昔、「暗闇」や「隅っこ」に怯えていたときの感覚を思い出した。子供の頃、「何か」がとても恐くて、布団にちぢこまって寝ていた。手や足を出していると、そこから「何か」に食いつかれそうで、ひきずり落とされそうで、それを思うと恐くて仕方がなかったのだ。明け方までまんじりしなかったこともあった。

もちろんその「何か」は今でも恐いのだが、昔より感性が鈍磨したのであろう、あの頃のような痺れるような感覚を、日常的に感じることは少なくなった。残念ながら、今は人間の方がもっと恐い。

ただ、想像力をかきたてる「恐さ」というのは、たいした演出をしなくても実はそこいらにあるものだと思う。下手に小細工をしなくても、電灯が不意に消える、暗闇に何か蠢くような予感がする、扉が少し開いている、部屋の向こうから微かに声のようなものが聞こえる...。それだけで、私達の心臓は「何か」を期待し、鼓動を速める。

『狗神』のセットでは、その「何か」を感じさせる暗度と空間がうまく出来ていた。

だから、無理にパソコンのディスプレイから蛆虫を出してみたり、老婆を真っ黒なミイラのようにして死なせ、お化け屋敷のようなトリックを使う必要はなかったのだ。

もう1歩のところで、あざとさの方が勝ってしまった。残念。

 

  

『弟切草』

ゲーム→小説→映画 と、メディアを変えて売れた(?)お話。

小説同様、何も言いたくないくらいヒドイ代物でした。

 

次は『アタックナンバーハーフ』(タイのオカマ映画らしいです)を観ますよ!

それでは。

はい、海老ちゃんありがとうございました。次回も期待しております。

 

   

『ブラザー』(監督:北野武、出演:ビートたけし、真木蔵人、Omar Epps、加藤雅也、大杉漣、寺島進、石橋凌、渡哲也)

北野武の映画はストーリーラインについての徹底的な「省略」と、あるキャラクターを「掘り下げる」ためのあきらかにストーリーラインと無関係な長回しが混じり合っている。

ストーリーをたらたら説明すると登場人物はただの「将棋の駒」になってしまう。

人物を丁寧に描き込むとストーリーは停滞する。

そのバランスをとることに多くの映画監督は工夫をこらしたけれど、北野の「省略」の徹底性には誰も達していない。

どうして、こんなに説明を省略できるかというと、それは北野の映画がいつも同じストーリーしか語らないからである。

ストーリーは簡単。それは「暴力は最終的に制御不能である。暴力が一時的に停止した状態はけっこう気持ちがいい。でもすぐにそれも終わり、一人を残してみんな死ぬ」ということである。

「人間と暴力」というストーリーの骨格が決まっているのだから、ディテールなんか、観客が適当に想像すればいいのである。

観客が想像的に物語を補わないと話についていけないという仕方で北野は観客を物語のうちに共犯的に巻き込んで行くのである。

「長回し」は観客が「物語を補作する」ために与えられた時間である。

もちろん、そこでも説明は何もされない。(ダイスをする場面、寺島進がバスケットをやる場面、唐突に渡哲也が説教する場面)

その断片的映像をつなぎあわせて、観客は一人一人「ブラザー」の世界を構築する。

ほんとに、頭のいい人だ。

 

  

学生さんからの寄稿です。たまにはこういう「直球」もいいよね。

『バトルロワイヤル』(監督:深作欣二 原作:高見広春 出演:ビートたけし、藤原竜也、前田亜季、安藤政信、山本太郎、柴咲コウ、栗山千明 他

先生、こんばんは。

“バトルロワイヤル”は、血とか怖かったですけど、

いい映画でした。

中学生が殺しあっている画をさんざん見といて、いい映画と言うのも変な感じがしますが、最後の辺は、結構さわやかでした。

子どもが、やたらと犯罪を犯すようになって、世の中がダメになって、大人が子どもを恐れるようになった結果、「バトルロワイヤル」という法律ができたみたいなんですけど、権力で押さえつけるとなると、大人は強いですね。

と言うか、ここでは、大人は権力でしか子どもに勝てなかった。

それじゃ、何も良くならないのに。

大人を怒らせると怖いぞ!みたいな感じなんでしょうか。

でも、登場人物の中の大人は、精神的にすごく弱かったです。

その代表だった、ビートたけしさんは、大切な人を守ろうとして、途中までは守れてたんですけど、最後にその人を守ったのは生徒でした。

生徒を、男女に分けて見ると、男の子は結構協力してがんばってましたけど、女の子はすぐヒステリックになって仲間割れしてました。

だめですねぇ、女の子って。怖いなぁ。でも、実際、そういうところがあるような気がするので、当たってるなぁと思いました。

この映画に、どんなメッセージが含まれているのか、

よくわからないのですが、見終った瞬間は、人を信じることは大切だなぁと思いました。

信じられないから、友だちを殺してしまったりしたのだと思うのです。なんか、友情があまりにもはかなかったので、寂しくなりました。

あぁ、でも、これが現実じゃなくて良かったです。

あんな怖い目に遭いたくないですし。たぶん、私だったら殺されるのも、殺すのも嫌だし、気持ち悪くなって、海に飛び込むかなぁと思います。

ところで、私は、平日の2時40分から上演のものを

見に行ったのですが、高校生が結構見に来ていました。

あれ、学校は・・・?という感じでしたが、あの人たちは、どういう気持ちで見に来て、何を感じて帰ったのかなぁと思いました。高校生と、大学生だったら、感じることが違ってそうなので、聞けたらおもしろいだろうなと思ったのですが、

聞く勇気はなく、聞きませんでしたけど。

ということでした。

増本 紗知子

 

はい、増本さん、ありがとうございました。いいですね、映画を見て教訓が「人を信じることは大切だ」というのが。こういう言葉がさらりと出るというのはほんとうにいいですね。先生にはなかなか言えません。

  

『彼岸花』(監督:小津安二郎、出演:佐分利信、田中絹代、山本富士子、有馬稲子、浪花千栄子、久我美子、桑野みゆき、佐田啓二、高橋貞二、中村伸郎、北竜二、笠智衆、ほか小津組のみなさん)

贅沢な映画。この豪華な女優たち。山本富士子、有馬稲子、久我美子、桑野みゆき。画面がかわるごとに次々と当代の美女たちが登場する。

この映画では山本富士子と浪花千栄子演じる京都の佐々木親子の関西弁がすばらしく魅力的だ。そして、高橋貞二の東京の軽やかな不良学生言葉、中村伸郎や菅原通済の歯切れ良い東京弁、笠智衆のくぐもった声、佐田啓二の無機的な声、そして「地獄の底から響いてくる」と形容された佐分利信の粘つく声。それらの音声が輻輳して、交響楽のようなソノリテを織り上げている。

小津映画というと人々は必ず笠智衆と原節子をあげて、佐分利信についてはあまり論じる人がいない。でも、私は大好きである。『戸田家の兄妹』、『お茶漬けの味』、『秋日和』そして『彼岸花』。どれでも佐分利信は「日本の古典的家父長の成熟と幼児性」をみごとに演じていた。

いま、このような重厚で威圧的な家父長は私たちの社会からはほぼ絶滅した。かれらを告発し、追撃し、ついに絶滅に追い込んだのはまぎれもなく私たちの世代である。もう私たちの社会には家父長などというものは存在しない。

そして、アメリカ野牛やモアを絶滅したあとになって人々が後悔したように、私たちもまた何かを二度と蘇ることのできないほど徹底的に破壊してしまったことを悔やみ始めている。少なくとも私は悔やみ始めている。

 

 

『若き勇者たち』(1984)(Red Dawn, by John Miliu: Patrick Swayze,C.Thomas Howell, Chrlie Sheen, Lea Thompson, Ben Johnson, Harry Dean Stanton)

 

ジョン・ミリアスの右翼反動SF映画。

SF映画はほおっておくと簡単に右翼反動プロパガンダになってしまう(『スター・ウォーズ』とか『スター・シップ・トゥルーパーズ』とか)

たぶん、それ以外の設定があまりに非現実的なので、共同体組織への忠誠心とか、家族愛とか、男女の分業みたいなものまで非現実的なものにしてしまうと、登場人物に感情移入することがむずかしくなってしまうので、とりあえず「コア」になる感情生活については過剰に定型的あるいは現状肯定的に描くことになるからだろう。

逆に言えば、どれほどコンサバティヴなモラルを掲げていようとも、SFという免罪符さえ用意しておけば、文句のつけようがない、ということでもある。

ま、それはいずれの機会に論じるとして。

私はかつて次のように書いたことがある。

「アメリカは他国の軍隊に踏み込まれた経験がほとんどない。独立戦争のときはまだアメリカがなかった。南北戦争は「内戦」である。19世紀にはメキシコ、スペインと戦争して植民地を拡大したが、いずれも戦闘は国境外で行われた。アメリカの正規軍が「他国」の軍隊に自国国境内で戦闘に負けた経験は(私たちが知る限り)二回しかない。一度はシッティング・ブル率いるスー族に、一度は真珠湾で日本軍に。ただし、インディアンは帰順すべき「準」アメリカ国民として観念されていたし、真珠湾は暴力的に併合して「準」州になったばかりの遠いハワイ島での出来事であった。

自国の領土を他国の軍隊が闊歩するのを見るという経験をしたことがないこの国の人々は、軍事介入という論件をアメリカを「主語」にして考えることにあまりにも慣れているせいで、アメリカを「目的語」にした軍事介入状況というものをうまく想像することができない。これはおそらくアメリカに固有の「想像力の欠落」のかたちである。」(『戦争論の構造』)

この偉そうな断言は撤回しなくてはならない。

アメリカ人にもちゃんとそういう想像をする人はいたのである。

ジョン・ミリアスの『若き勇者たち』は、ソ連とキューバとニカラグアの兵士たちがアメリカに侵入してきて、中西部を占領したときワイオミングあたりで暴虐の限りを尽くす占領軍と戦って死んでいった若きゲリラ兵たちの物語である。

1984年というのがどういう時代だったか、私にはもうあまりはっきりした記憶がないが、(育児にいそがしかったんだよ)おそらくアメリカのホワイト・トラッシュ(貧乏バカ白人)のあいだに蓄積した(ベトナム戦争敗戦後の)ある種のフラストレーションが右翼的なかたちで噴出した時代だったような気がする。(たぶんレーガン政権時代だ)

「反戦平和ってあんたらいうけどさ、そりゃいいよ、平和がいちばん。でもさ徴兵でひっぱられて戦争行く身になってよ。殺さないと生きて帰れないんだぜ。『ピース』なんて言ってらんねんだから」という、それまであまり表だっては口にされなかったリアルな言葉がベトナム帰還兵たちから語られ始めたころのことではなかっただろうか。

『ランボー2』とか『ハートブレーク・リッジ』とか『プラトーン』とかは彼ら帰還兵たちのルサンチマンを癒すための映画という側面もあった。

『若き勇者たち』もまた、ホワイトトラッシュ・レッドネック低所得層白人のベトナム戦争後のフラストレーションに対する一種の「癒し」の映画である。

この映画にしつこくでてくるもの:

きたない野球帽をかぶったおやじ、銃、フットボールをやるボンクラ少年、銃、知能指数測定不能の金髪ガール、銃、アウトドアグッズ、銃、ジャンク・フード、戦車、ピックアップトラック、銃、馬、煙草、銃。

このアメリカ映画にまったく出てこないもの:

都市、セダン、スカートをはいた知的な女の子、メガネをかけた男の子、ロック・ミュージック、コンピュータ、書物、黒人。

「しつこく出てくるもの」より、「画面から排除されたもの」のリストを作る方がこの映画の狙いを的確に示せる。

つまりこの映画は巷間言われるような反ソ・プロパガンダ映画ではなく、アメリカ国内における「都会的なもの・知的なもの・非白人的なもの」つまりホワイト・トラッシュ的感受性から見て「非アメリカ的なもの」(映画的に言えば「ルーカス=スピルバーグ的なもの」「ウディ・アレン的なもの」「スパイク・リー的なもの」)一般に対する憎しみを映像化した(より正確には「映像化しないことによって表象した」映画なのである。

8人の若者が主人公であるこの青春映画には「キスシーン」と「音楽演奏ないし聴取シーン」が一度も出てこない。

私は映画をみながら、この青年ゲリラたち生き延びてアメリカを彼ら風に再建しても私はちっともうれしくないなあ、と思った。

アメリカはディープだ。

 

 

『ブキー・ナイツ』(Buggie Nights by Paul Thomas Anderson; Mark Wahlberg,Bart Reynolds,その他、ボンクラのみなさん)

『映画秘宝』イチオシの『ブギー・ナイツ』。

いやー。おもしろかった。

この映画をどのようなジャンルにカテゴライズするべきかというのはなかなか難問である。

私としては、ずばり「ボンクラ映画」と名づけたい。

「ボンクラ映画」は「バカ映画」とは違う。

「バカ映画」では作り手には何のメッセージもない。(だからこそ無数の無意識的表象が画面いっぱいに散乱しているのだ。)

一方、「ボンクラ映画」は明確なメッセージをもっており、フィルム・メーカーは画面のあらゆる細部にまでゆきとどいた視線を注いでいる。

「ボンクラ映画」のメッセージとは、かのマルクスの『共産党宣言』にも比すべき壮大なものである。

それは「万国のボンクラのみなさん。お元気ですか!」である。

「ボンクラ映画」とは世界中のボンクラに連帯の挨拶を送る映画である。

いいなあ。

どのような分野の作品でも、メッセージの「宛先」がはっきりしているものが私は好きだ。

「ボンクラ」というのは、上昇志向はあるが向上心がなく、金は欲しいが稼ぐ努力は惜しく、世間をなめきっているがそれ以上に世間に軽んじられている人たち(そう、私たち)のことである。

私自身、そのような人々に対して熱い連帯の思いを抱いている。

それゆえ私があらゆるメディアを通じて発信しているメッセージは「ボンクラにだってハッピーに生きる権利はあるぞバカヤロ」に尽きると言って過言ではない。

ボンクラは人が持っているもの(プール付きの家とか、コルベットとか、自分がリードヴォーカル担当のロックバンドとか、空手のブラックベルトとか)はすごく欲しがるくせに、そのために世間並みの努力をすることは決然と拒否するのである。

めんどくさいからね。

それゆえにボンクラたちはなかなか幸せになれないのである。

そこがボンクラのボンクラたるゆえんである。

でも「プール付きの家等々」を手に入れるために、できあいの方法(一流企業への就職とか金融商品の研究とか血の滲むようなレッスンとか)をとる人間たちよりも、なんとか「それ以外の、もっと楽な方法で」欲しいものを手に入れようとする人間たちの方に私は好感を抱く。

人間社会というのは、結局、そういうボンクラたちのおかげで、少しずつ住み良くなっているのではないかと思うからである。

だって、そうでしょ?

電気洗濯機とか電卓とか飛行機とか思いついた人たちって、要するに「今よりもっと楽に・・・をしたい」という横着な気分に動機づけられていたのではないだろうか。

みんながみんな勤勉に、その時点で「正しい」とされている欲望充足方法に精励していたら、おそらく人類は原始時代から一歩も進歩してこなかったのではないだろうか。

石を投げてマンモスを狩猟しているときには、人々は「すぐれた猟師になるためには、投擲用の上腕二頭筋を鍛えることが正しい生き方である」というふうに考えていたであろう。そのときに「あー、めんどくせーな、筋トレなんて。なんか楽してマンモス殺す方法ないかなあ」と考えたボンクラが、槍とか弓矢とか落とし穴とかを考え出したのではないだろうか。

歩くのが面倒な人が馬車や自動車や飛行機を発明し、計算するのが面倒な人が算盤をつくり、電卓をつくり、コンピュータをつくったのではないだろうか。

ボンクラは、えてしてそういう「楽して・・・できる」ものをつくったりすることにはついては異常に勤勉なのである。

うちのお兄ちゃんや平川君はスーパーリッチな会社経営者であるが、彼らが成功したのはひとえに「うるせー上司とかめんどくせー業界の約束事とか抜きで好き勝手に金儲けしたい」一心からであった、と私はにらんでいる。

彼らが「上司や取引先にゴマをすらずに出世する方法」の考案に熱中するときの集中力は、「上司や取引先にゴマをすって出世する」人たちがセコく立ち回るときの集中力よりあきらかに高い。

私はそのような人々を称して「ボンクラ」と敬愛し、彼らこそが人類の進歩を担ってきたのである、と考えている。

『ペッカー』といい『ブギー・ナイツ』といい、ボンクラ映画の秀作を連発するアメリカ社会の底力はやはりあなどりがたいものがある。

日本には植木等の「無責任シリーズ」という「ボンクラ映画」の大傑作が存在するのであるが、それに続くものが見当たらない。(マンガでは本宮ひろしの『男一匹ガキ大将』が代表作。小説では矢作俊彦『マイク・ハマーに伝言』、椎名誠『哀愁の街に霧が降るのだ』、村上龍『テニスボーイの憂鬱』なんかがあるね)

そうなると、やはり一介の「ボンクラ思想家」として私もがんばらねば、と決意を新たにしたのであります。

『ブギー・ナイツ』はそのように万国のボンクラたちに生きる勇気を与えるよい映画です。みんな見てね。(たぶん本学のAVセンターでは「貸し出し禁止」のXレイテッドだろうけど。)

 

 

 

『ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ』(Buena Vista Social Clube by Wim Wenders; Ry Cooder, Ibrahim Ferre, Ruben Gonzalez, Compay Segundo,ほか、キューバのキュートなおじさん、おばさんたち)

 

別にあらたまって告白するほどのことでもないが、私はライ・クーダーに「はまった」ことがある。1989年の夏から冬にかけてのことである。

その年の春、私は離婚し、非常にワイルドでコンニャロな精神状態であった。

いまの私からは想像もしがたいことであるが、私は授業中に私語をする学生の額にチョークを投げつけ、自由が丘駅頭で酔漢を殴り倒し、その他悪いことをいろいろしたのである。

そのとき、すさみきった私の心にぴしぴしとしみたの音楽はライ・クーダーと薬師丸ひろ子であった。(なんという取り合わせであろうか)

ライ・クーダーの『チキン・スキン・ミュージック』(「鳥肌音楽」なんだね、よく考えたら)のAlways Lift Him Up の間奏のギターと薬師丸ひろ子の『元気を出して』の出だしの「涙なーどー見せない強気なあなたを、そんなにー悲しませたひとはだれなの」 を聴くと反射的に涙が出てくる、というきわめてブルージーかつ竹内まりあ的な精神状態に私はいたのである。(想像するのがいささか困難であろうが)

そこで私は当時出ている限りのライ・クーダーのアルバムを買い揃え、毎晩深酒をしながら聴いていた。

というわけで、ライ・クーダーは私にとってはいつ聴いても「胸キュン」の音なのである。

そのライ・クーダーがプロデュースの映画ということになると、やはり「買い」である。

案の定、ライ・クーダーの好きな音楽は私の心にもしみる音楽であった。

最初の曲「チャン・チャン」が映画そのものの主題歌というやくどころなのだが、これがまさにライ・クーダーがいかにも好きそうな曲想であった。つまり、もしいま私が離婚直後でワイルドでグルーミーな精神状態であったら、骨までどっぷりとはまりそうな音楽だ、ということである。(さいわい私はいまはマイルドな精神状態なので、るんちゃんを相手に「うーん、なかなかキューバの音楽はリズムが複雑でいいね」などと村上龍みたいな批評を口にしてすませていられるのである。)

でも、いま人生が非常に辛いあなたはこの映画を見て熱い涙を流すことでしょう。

とてもよい映画である。

ヴィム・ヴェンダースが「アートっぽい」小技を使わなければもっといい映画になったであろうが、贅沢は言うまい。

 

 

 

 

『時をかける少女』(監督:大林宣彦 出演:原田知世、高柳良一、尾美としのり)

この映画は1983年に封切初日に見た。当時、私は薬師丸ひろ子のファンであったので、彼女の映画はちゃんと映画館まで見に行ったのである。だから、おめあては松田優作と共演の『探偵物語』であり、大林の映画は私にとっては「併映作品」だった。

しかし、満員の映画館で、最後に原田知世のアップ(この世のものとは思えぬほどかわいかった)とともにフェイドアウトしたとき、映画館には割れんばかりの拍手が鳴り響いたのである。(『探偵物語』には誰も拍手しなかった。)

映画館で自然発生的な拍手がわきあがるのを聞いたのは、60年代末の東映やくざ映画黄金期の高倉健以来である。

それほどによい映画である。

大林の新旧「尾道三部作」の中では『転校生』と『時をかける少女』が群を抜いて素晴らしい。

DVDには「ふろく」で大林監督のインタビューもついていた。その中で、監督はわずか28日間しかなかったこの映画の撮影期間中に、スタッフ全員が原田知世という少女が大好きになって、「この少女のいちばん美しい瞬間をフィルムに収めよう」という情熱を共有したことが映画の成功の原因だろうと語っていた。

映画は主演の少女女優が中学を卒業して、高校に入学するまでの1月たらずの休暇のあいだに撮影された。

忘れられやすいことだが、映画もまた演劇と同じく「一回的な出会い」の記録である。

「もう子どもではなく、まだ大人ではない少女のほんの一瞬のきらめき」はいまフィルムに定着しなければ永遠に失われるだろうというある種の切迫感が、俳優たちにもスタッフたちにも共有されていた。その切迫感が「いまの一瞬は、最初で最後の一瞬である」という「時の移ろい」という映画の主題そのものとみごとな重奏をなしとげたのである。

原田知世はこの初主演映画で女優として頂点をきわめ、それ以後二度とスクリーンの上でこのようなオーラを示すことがなかった。高柳良一は大学を出たあと俳優をやめて角川書店に入社し、いしかわ・じゅんの担当編集者になった。

私が映画館で感じたあの身を捩るような「切なさ」は、この少年少女たちの輝きがつかのまのものであることを観客たちは直観していたからだということが17年経ってから分かった。

 

 

『グリーンマイル』(Green Mile by Frank Darabont; Tom Hanks, David Morse, Micheal Clarke Dunkan as Joe Coffey)

これもまた「時の流れ」を主題にした映画である。

老人となった主人公がまず画面に現れ、過去を回想し、ふたたび老人の現在に戻って物語が終わる、という構成は定型的なものだが、私はこの種の定型に弱い。

トム・ハンクスは年とともにだんだん不機嫌なおじさんになってきて、いつも痔疾か尿道炎を患っているようなたてじわを眉間に寄せているが、その「さえない中年のおっさんのぱっとしない公務員生活」もまた、その65年後から回想すると、輝く、かけがえのない時間であったことがわかる。優しい妻がおり、頼もしい友人がおり、人情の機微に通じた上司がおり、心優しい死刑囚たちがいた彼のあの時間は、もう帰ってこない。

ジョン・コーフィは粛然と死を選ぶ。

「私を死なせることで、ボスは私に親切な行いをしてるんです」と無実の死刑囚であり、神の使いであるコーフィは告げる。

「私はもうこの世界の残酷さに耐えられないんです。」

私たちは凡人だから、死ぬことは不幸で、生き残ることが幸福だと考える。

しかし、必ずしもそうではないのだ。

移ろい消え去ったひとを回想して生きるほかないものにとって、「思い出」は酸のように心を蝕み続ける。

そして、不思議なことに「思い出によって心を蝕まれる経験」ほど甘美な哀しみもまたないのである。

だから、私たちはそのような物語を繰り返し飽くことなく語り続けるのである。

 

 

『ワイルド・ワイルド・ウェスト』(Wild Wild West, by Barry Sonnenfeld, Will Smith, Kevin Kline, Kenneth Branagh, Salma Hyek)

「ね、面白いでしょ(笑)。このジョーク、大笑いでしょ?(爆)」

というような「自分で自分のギャグをおかしがる」精神傾向を私は「(笑)的メンタリティ」と名付けている。これがある種のサービス精神の発露であることは分かるのだけれど、私は(笑)という字をみるたびに、なんだか気分が萎える。

悪口を言う気力さえ湧かない映画であった。

 

 

 

『ペッカー』(Pecker by John Waters: Edward Furlong, Christina Ricci)

ジョン・ウオーターズ師匠の98年度作品。『クライ・ベイビー』に続くボルチモア賛歌シリーズ。今度のヒーローは『T2』でジョン・コナー少年だった子役スター、エドワード・ファーロング君。エディはまだ23歳なんだけれど、14歳でハリウッドスターに仲間入りし、すでに人生の辛酸と栄光を同時に味わい尽くしているかのように深い「くま」が目を彩っている。

その「すでに人生に疲れた少年」エディと「不機嫌な天使」クリスチーナを得てウオーターズ師匠が描き出す「天才」と「家族愛」と「地域社会」の物語。

いいなあ。ウオーターズ先生のつくるお話は。

なんの努力もしないボケナス天才カメラ小僧ペッカー君が、理解ある家族に深く愛され、「地域社会」の人気者となり、かつニューヨーク・アート界の期待の新人として賞讃されるのである。

ここには彼の才能に嫉妬する人間も、才能を認めない人間も、有名人になった友人を利用しようとする人間も、誰一人出てこない。

ボルチモアの人は、みんないい人なのである。

それだけの話なのに、どうしてこんなに面白いんだろう。

ジョン・ウオーターズ先生は、おそらくほんとうに深く傷ついたことのある人なのだろうと思う。だからこそ、どのようにして人が癒されるのかを熟知しているのである。

それは「バカでもハッピー」という一語に尽くされる。

彼はその拡大家族・ドリームランダースの輪を世界に広げ、「バカでもゴミでもオケラでも」みんなハッピーに生きる権利があるんだよ、という福音を今日も伝え続けている。

先生、おれ、ついていきますよ。

レヴィナス先生亡きあと、私がついていくべき導師は師匠しかいないっす。

 

 

『エグジヅテンス』(eXistenZ, by David Cronenberg; Jennifer Jason-Leigh, Jude Law, Willem Dafoe)

『クラッシュ』で「おお、都会派ちょっとエッチ系不条理映画作家に転身か?」と思わせたクローネンバーグ。やはりもどってきました古巣の「内蔵感覚」に。

ほんとに好きなんだね。人間のお腹に穴を開けて、そこに何か変なものを差し込むのが。

とにかく全編にわたって「身体に穴をあける」「そこに何かをねじこむ/何かをえぐり出す」「内臓を切り開く/飛び散る」という場面が繰り返される。

「バイオ・ポート」というアイディア、ほんとはおれがいちばん先にやりたかったんだよ、とクローネンバーグは思っていたのだろう。でも頭にジャックを突き刺して、脊髄からダイレクトにサイバー・ワールドへ、というアイディアはウィリアム・ギブソン(『ニューロマンサー』)がたぶん元祖で、映画では『JM』、『マトリックス』が(そういえばどちらもキアヌさまが)脊髄やらこめかみやらに穴をあける話は先取りしてしまった。

バイオ・ポートはもちろん「疑似ワギナ」である。

変な機械で脊髄に穴を開けて、そこに「夢の世界」に接続するファリックな「棒」が突っ込まれて羽化登仙するのである。

最初にアレグラを撃つ「動物の骨でできた銃の歯の弾丸」。銃はもちろんファロスの、「抜けた歯」は去勢の象徴である。テッドは中華料理屋で「自分の歯を抜いて、銃を装填する」。つまり、自分を去勢して、機械をファロス化するのである。その「骨でできた銃」は、彼の脊髄にウィレム・デフォーが穴を開けるときに使う「棒状の器具」、最後にポートに突っ込まれる爆弾と同じ機能を果たしている。

つまり、この映画の中で男性はくりかえし去勢され、くりかえしワギナを開口し、くりかえし犯されるのである。

うーむ。デヴィッド。君の欲望のおぼろげな輪郭がようやく私にも分かったてきたよ。

要するに、身体に「疑似ワギナ」を開けて、そこに異物を挿入して、変な気分になって、最後に「どかん」と破裂して内臓を撒き散らしながら死にたいんだね。

まあ、よろしい。好きにしなさい。

 

 

『ドニー・イェン:COOL』(殺殺人、跳跳舞 By Donnie Yen)

たしか『映画秘宝』で誰かがブルース・リー、ジャッキー・チェン、リー・リンチェイにつづく香港クンフー映画最後のヒーローはドニー・イェンだ、と書いていた。どんなアクションをするひとだろうと想像をたくましくしつつもお目にかかる機会がなかったが、ついにDVDをゲット。さっそく見る。

おおおっと。ドニー・イェンて段田安則顔。「くるり」の岸田君にも少し似ている。どこかでみたなとおもっていたら、『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・チャイナII:天地大乱』でめちゃくちゃつよい宦官役をしていた人であった。

うーん、悪くないんだけどね。華がないね、ちょっと。ごめんね。好感のもてる俳優さんではあるんだけれど。

 

  

『パーフェクト・ストーム』the Perfect Storm, by Wolfgang Petersen; George Clooney, Mark Wahlberg)

暴風雨で欲をかいた漁船が沈むお話。

教訓:「いのちあってのものだね。」

   「後悔先に立たず。」

以上。

 

 

『ボーンコレクター』Bone Collecter by Phillipe Noyce; Denzel Washington, Angelina Jolie)

全身麻痺の犯罪学者が、いわくありげな女性警官を「手足」に使って、シリアル・キラーを退治する話。犯人と捜査の邪魔をする警官がワスプで、あと「よいひと」は全員マイノリティという映画。

「ワスプ=極悪人または激バカ」「レッドネック系=バカ悪人」「イタリア系=小悪ないしバカ善人」「ブラザー=スマート&タフ」「マイノリティ系女性=インテリ&セクシー」

というようなエスニック・グループによる役割分布が進行しているようであります。(こら分かりやすくてえーわ)

それにしてもデンゼル・ワシントンの売れ方のすごいこと。同時期に『マーシャル・ロー』と『ハリケーン』とこれと三本同時公開。

これはつまり「スマート&タフ」役ができるブラザー系男優が彼くらいしかいない(もう少し老けててもいいのであればモーガン・フリーマン)という需給の事情がありそうだ。ウィル・スミスやロレンス・フィッシュバーンにはちょっと「学者」の役はできないからね。

 

  

『イル・ポスティーノ』 (Il Postino, by Micheal Radford; Philippe Noiret, Massiomo Troisi)

ハリウッド映画ばかりみていると、ときどきそれ以外の「言語音」が聴きたくなる。

というわけで「ロシア映画」と「イタリア映画」のLDを借りてきた。

イタリア語はよい言葉である。むかしエックス・アン・プロヴァンスの夏期講習に行ったとき(私が行ったわけではなく、ジロー君が行ったのに、私は用もなくついていって、ごろごろ本を読んだり映画を見たりしていたのであるが)講習生のなかにイタリア娘たちがいた。

天使のように美しい少女たちであったが、人々は「イタリア娘は15歳くらいがいちばんきれいで、20歳ではもう貫禄の大年増で、30すぎると、もう樽みたいになるんだよね」と不吉な予言を繰り返していた。ま、それはさておき。

私は彼女たちが呼び交わすイタリア語の音色にほとんど身体的な快感を感じたものである。南仏の夏の夕暮れの涼風の中で一人の少女が叫んだ「オ・カピート」の響きは25年経ったいまでも私の記憶に残っている。

もし当時の大学にイタリア語が第二外国語で選択できれば、きっと私はイタリア語を履修して、イタリア文学科に進学し、「イタリア語のよくできる学生」として愉快な学生生活をおくり、その後「イタリア語のよくできる大学の先生」として胸を張って誇らしげに人生を送れたような気がする。

「オルボワール・マドマゼル・・・うんたらかんたらシルブプレ」より「チャオチャオ・バンビーノ!ぺんらぺらぺらペル・ファヴォーレ!!」の方がぜったい私には向いていたと思う。

惜しいことをした。

というわけで、失われたイタリア語との出会いを惜しみつつ、『イル・ポスティーノ』を見る。

よい映画である。

ここに込められた教訓のすべてに私は同意する。

(1)恋をすると男は身の程知らずになり、それが彼を成長させる。

(2)詩人(にかぎらず文学を志すもの)は女性にたいへん人気がある。

(3)なにごとによらず師匠というのはありがたいものである。

(4)政治にかかわるとあまりいいことがない。

(5)美しいもの、かけがえのないものはかならず失われる。

主演のマッシーモ君は、病をおしてこの映画に出演し、クランクアップ後に心臓病で死んだ。だからこの映画のすべては「失われてゆく美しい時間」への彼のすがりつくような視線のうちに凝縮されている。

死にゆくものが、世界に贈るメッセージは、どんなときにも美しい。

 

『セレブリティ』(監督・ウディ・アレン、出演・ケネス・ブラナー、ジュディ・デイヴィス、ウィノナ・ライダー、レオナルド・ディカプリオさま他)

 

アレン君はいったい何が言いたいのであろうか。

いや、これは愚問であった。

主題やメッセージを問うのはまことに詮無いことである。

ケネス・ブラナー君はデビューのころは才気走っていて、私はけっこう期待していたのだけれど、『相続人』といい本作といい、ほんとに「だめ中年」役者になってしまった。ぜんぜん魅力がない。もちろん魅力のない中年男の役なんだから、それでいいのかも知れないけれど、オーラがまったくなくて、画面に彼が出てくると、どっと緊張感がなくなる、というのが寂しい。

その点、やはりディカプリオさまはすごい。

こういう恥ずかしい「セルフ・パロディ」をばしばしやって、それがとってもチャーミングというのが「時分の花」の手柄というものであろう。

『クイック&デッド』のときも「わーいバカ映画だあ」とひとり遊びまくっていたけれど、こんどもウディ・アレンの世界をひとりで喰い散らかしていた。素敵だ。

しかし、それでも私はあえてウディ・アレン君に問いたい。

「君さ、セックス以外になにか興味あることってないの?」

ね、もう止めない。この手のはなし。

こんなのより、ひたすら仕事だけをするひとのはなしとか、人間的向上に邁進するひとのはなしとか、武道に精進するひとのはなしとかのほうが私は見たい。

 

 

『ザ・ハッカー』(Takedown, by Joe Chapelle: Skeet Ulrich, Russel Wong, Tom Berenger)

伝説的ハッカー、ケヴィン・ミトニックと彼をあぶり出したハッカー対策のプロ、下村努のあいだの死闘の映画化。

『ザ・インターネット』とか『エネミー・オブ・アメリカ』とかいうサイバー・クライム・フィクションより実話のほうがずっとリアルである。(あたりまえか)

フィクションだとちゃんと「世界支配の陰謀」とか「巨万の富」とかそういう理解しやすい動機がハッキングの必然性を説明してくれるのだが、実話なので、ケヴィンがなぜ取り憑かれたように、身を滅ぼしてまでハッキングをするのか、ということについて、少しも納得のゆく説明がなされていない。

あらゆる機関に侵入し、好きなように公共サービスをコントロールできるようになっても、彼はそれを利用してひたすら「ただ電話」をかけるだけである。(「ただ電話をかける」というのは、キャプテン・クランチ以来、アメリカのハッカーの「お家芸」みたいなものである。)けれども他人の銀行口座から金を盗んだりはしない。

たしかに「ハッカー・コミュニズム」とか「知る権利」とかいう「ゴタク」をケヴィンは途中で何度か口にするのであるが、どうもケヴィン本人もそのような言葉を信じているようには思われない。

ハッキングのためのハッキング。キーボードを叩き、電話回線をたどり、誰かが何かの秘密を「隠そう」とするみぶりそのものを通じて秘密を察知する、という行為それ自体にケヴィンは強烈な快楽を感じる。

「セックスか盗聴か」という二者択一を迫られたとき、ケヴィンはためらわず「盗聴」を選ぶ。

おそらく盗聴のほうが彼に大きな快楽を保証するからである。

「権力とは見られずに見ることである」というのはフーコーの卓見であるが、その意味でハッキングや盗聴は「純粋な権力意志」の発現ということができるだろう。そこで「盗まれるもの」が、隠している本人にとっては意味があるけれど、ハッカーが知っても何の役にも立たない情報であればあるほど、そのハッキングは純粋であり、権力の絶対性に近づく。

だからケヴィンとシモムラの戦いは犯罪者と捜査官のあいだのではなく、どちらが相手を支配するかという「主人と奴隷」の相克-純然たるゼロサム的な権力闘争なのである。

若い人たちが因習的なプロセスとしての「政治」を離れ、サイバー・スペースにのめりこむのは、そこにこそより純粋な「政治性」が息づいているからではないのだろうか。

 

 

『丸子びっち(@ATOK9)の穴』(松下正己君の寄稿です)

最初にスクリーンの中のジョン・マルコビッチを認識したのがいつのことだったのかは、よく覚えていない。しかしいつのまにかマルコビッチは、私の中で注目すべき俳優のカテゴリーにリストアップされてしまっていた。どの映画でも強烈な印象を残すくせに、決して自分だけ突出することがない、という点でも、特異な役者である。(最近では『ラウンダース』のロシア人ギャンブラー役が出色の出来)

この映画は、誰でも15分だけマルコビッチ本人になれるという穴をめぐる物語であり、(原題は『Being John Malkovich』)その意味では私の大好きな、映画の自己言及性の過度に露出した種類の映画ではないかと、期待に胸ふくらませて映画館へと向かったのである。

しかしその期待は、あえなく裏切られることになった。

主人公が売れない人形つかいとペットショップに勤めるその妻という設定は実に面白い(長髪無精髭のジョン・キューザックとダサい髪と身なりのキャメロン・ディアスが絶妙の演技を見せる)。彼のあやつる人形の動きは見事で、思わずダイレクトに投射=同一化してしまいそうになる。(マリオネットのペトルーシュカになぞらえて映画の驚異を説いたエドガール・モランがこのシーンを観たら何と言っただろう)夫婦間のお定まりのやりとりの末に就職することとなった人形つかいは、勤め先のオフィスの書類棚のうしろに不思議な穴を発見することになるのだが、まずこのオフィスが凄い。高層ビルの7階と8階の間にあるフロアは、背中をかがめなければならない程天井が低い。受付の女性はひたすら聞いた言葉をとり違え、社長は自分の言葉が誰にも理解されないと信じている。この会社で、主人公はひょんなことから、壁の小さな扉と、その奥に続く穴を発見する。その穴に入ると15分だけジョン・マルコビッチの視点から世界を眺め、彼になることができ、その後何故か高速道路脇の空き地に落下するのである。

主人公は勤め先と同じフロアの会社に勤める女性に一目惚れし、その彼女と手を組んで(天井が低いから常にかがんだ姿勢のままで)密かに商売を始める。夜、マルコビッチ体験を人に売るのである。商売は繁盛し始める。しかしその一方、当のマルコビッチ本人は、誰かが自分の中にいて自分を操っているのではないかという、奇妙な違和感に悩まされることになる。

結局穴の存在はマルコビッチの知るところとなる。彼は自分でその穴に入っていく。自分の頭に出来た池に身投げをする男の顛末を語った落語の傑作があるが、実際に自分の頭の中に入ったとしたら、それはウロボロスの蛇同様、無限後退のパラドックスに陥る他はない。ここまで映画は快調であり、私の期待はふくらみ続けた。自分の頭の中に入ったマルコビッチは一体どうなるのか。

息もつかせぬ勢いでドライヴしてきた映画は、ここで突然失速する。穴の中でマルコビッチが見たのは、誰もがマルコビッチの顔を持ち、「マルコビッチ」としか言わない世界だった。だが、そんなことがあるだろうか。確かに誰かの頭の中につながっている穴などというものは、存在しないだろう。しかし一旦その存在を前提としてしまえば、(平行線が交わるという前提から矛盾なく導き出される非ユークリッド幾何学のように)その前提による世界の構築は十分可能である。それまでこの映画は、そうやって進んできた。とするなら論理的必然として、自分の頭の中に入れば、自分が見ている世界そのものが自分となるが、その世界は現在の自分の見ているものだから、自分は結局何も体験することはできず、無限後退のパラドックスに引き裂かれてしまうだろう。その過程は、絶対に映像化できないだろう。

それまで一貫した世界観を基礎とし、技巧をこらしてシャープに進んできた映画は、ここで一挙にファンタジーに変貌する。以後この映画は、変身願望、性同一性障害、不老不死、精神性外傷、生まれ変わりといった様々な要素を取り入れつつ、ファンタスティックに展開していく。確かに深読みを可能にするのもファンタジーの特色ではあるが、ここに統一した世界観はない。

何よりも問題なのは、ジョン・マルコビッチ本人の演じるジョン・マルコビッチが、(当然といえば当然なのだが)とても本人そのものには見えない、ということなのである(本人もインタビューでそう言っている)。主人公に操られて映画冒頭の人形と同じアクションを演じるマルコビッチ、自分が誰かに操られていると訴えるマルコビッチ。しかし本物のマルコビッチを知らない観客にとって説得力はない(だからマルコビッチが役者をやめて人形つかいになるという後半の展開にも、全くリアリティがない)。マルコビッチを誰か別の役者にやらせればすむ、という問題でもない。つまり、ファンタジーになってしまった瞬間、ジョン・マルコビッチという、われわれと地続きの世界に存在する映画俳優という設定が意味を失ってしまったのだ。

ジョン・マルコビッチがわれわれと同じ世界に生きているという前提があるからこそ、彼の頭の中に通じている穴という設定が面白いのであって、われわれの世界と関係のないファンタジーの世界であれば、穴ではなくて胃袋でもいいし、マルコビッチの内側と外側がひっくり返っていてもいい。それこそ何でもありなのである。

15分だけマルコビッチになれるという設定は、実は、映画そのものの本質の暗喩である。観客がスクリーン上の(例えば)マルコビッチに同一化するように、人々は穴に入っていく。この素晴らしいアイディアが、その他の幾つものアイディアと共にドライヴしていく全くユニークな感覚にあふれていただけに、後半の変節が惜しまれる作品となってしまった。(それでも十分に観る価値はあるし、たぶん人によって感想は様々に分かれるだろう)

何はともあれ、エンドクレジットに流れるビョークの曲は素晴らしい。

(はい、ありがとうございました。松下君、「丸子びっちの穴」ぜひ、見に行きます)

 

 

『海の上のピアニスト』(監督:ジュゼッペ・Nuovo Cinema Paradiso・トルナトーレ、主演:ティム・ロス)

よい映画でした。つい泣いてしまいました。

「1900年のヨーロッパ移民の目から見たアメリカ」がこの映画の話型上の、また図像学的なひとつの焦点になっている。

映画の冒頭で霧の中から現れるマンハッタンの偉容。

これは『ゴッドファーザー・パート2』で幼いヴィトー・コルレオーネが見た光景でもある。東欧から、あるいはまずしい南イタリアからの移民たちが、どれほどのあこがれと期待をこめて「自由の女神」をみつめたのか、それを繰り返し思い出させることをアメリカ映画は、ひとつの「責務」と考えている。

100年前のあのアメリカン・ドリームがまだういういしかった時間にもう一度帰らないか?

映像はそう訴えているかのようだ。

海の上のピアニスト「1900」(ティム・ロス)は、いわばその「夢の活け作り」である。彼は「移民たちの夢」が凝縮され、人格化された存在だ。

移民たちを載せた船がマンハッタンに近づくときの、彼らが抱く、うねるような、ほとんど個体の厚みと重さをもった、その多くはおそらく数年のうちに大都会の汚水路に流されてしまうだろう「夢」が、まだ現実に出会う前の純粋状態にあるとき、それを「音」で表現したのが、1900のピアノである。

だから、アメリカが夢みる人々を引きつける土地であることを止めたときに、1900のピアノもそのふたを閉じることになるのである。

あつぼったいほどの音楽と色彩の豊かさ。

滅びて行く豪奢に対する哀惜と諦念。

これぞイタリア映画の極致。

 

 

『ストレート・ストーリー』(監督・デヴィッド・リンチ、出演:シシー・スペイセク、ハリー・ディーン・スタントン)

デヴィッド・リンチはどうしてしまったのだろう。

って、別に文句をいっているのではないのだよ。

この完全に肩の力の抜けた、水墨画のような淡彩の映画があの挑発的な『ロスト・ハイウェイ』の次の映画だということがうまく信じられない。

私にわかったのは、アメリカがついに「老人映画」というジャンルをマーケットの要請にこたえて主力商品として創り始めたということと、そのときに範とすべきものを小津安二郎以外にもたない世界のフィルムメーカーにとって、このジャンルは「草創期」の高揚感をもたらすものとなった、ということである。そして、何であれ、「草創期」のものはそれ独自の輝きをもっているのである。

 

 

『シュリ』(監督・名前が読めない人、出演・「小田和正と島田紳助を足して二で割ったひと」「関川夏央を若くした人」「丸顔で色っぽい女の子」など)

小田紳助と若関川がKCIAのひとで、紳助の彼女が北朝鮮の秘密工作員のスナイパー。

こういう映画を日本でつくっても絶対にリアリティがないけれど、さすが祖国統一悲願の朝鮮半島映画である。ゼミのH本君が「感動して泣いてしまいました」と言っていたが、私も涙なしには見終えることができなかった。

よい映画である。

考えてみたら、私はこれが生まれたはじめて見る「韓国映画」であった。(まったく、よくこれだけ無知で映画批評の本を出したものである。)

韓国映画を見てびっくりしたのは、字が読めないこと。

香港映画だと「電影公司」とか「導演」とか、おのずの意は通じる。しかし、ハングルはもうみごとなくらい分からない。映画の中で何度もウインドウズの画面が出てくるのであるが、これがハングルであるので何が書いてあるのか分からない。当たり前なのだが、驚いた。

もう一つ感動したのは音のきれいなこと。ちょっとくぐもったような発声なんだけれど、深みのある響きのよい音である。だから、「おれはおまえを信じているぜ」とか「あなたと過ごしたときの私が素顔の私だったのよ」とか「祖国統一万歳」とかいうエモーショナルな言葉があまり「浮かない」。これを日本語でやられたら、私は全身の肌に粟を生じたであろう。

しかし一衣帯水の隣国にこのような社会派+アクション+純愛+サスペンスの大娯楽映画を作るだけの映画的インフラが完備しているとは寡聞(ほんとに寡聞だなあ)にして知らなかった。相当に年季のはいった映画屋的クラフトマンシップとシャープな批評精神がないとこういう映画は作りたくても作れない。

世界はあまりに広く、私の知見はあまりに狭いということを思い知らされた。

というわけで発作的に来年のゼミ旅行は韓国に決定。韓国に行ったらとりあえず映画館に行くことにしよう。


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