後藤明生と「敗戦体験」−同化と拒絶のはざまで−

 

 

 

 小説とは何か。この問い掛けに対して、後藤明生は「模倣と批評」「超ジャンル」という言葉を提示す

る。すなわち、小説とは、先行する諸ジャンルを「模倣と批評」することによって書かれた「超ジャンル」

の文学形式である、と。しかし、注意すべきは、後藤の言説の根底には、次のような認識が横たわってい

るという点である。『小説は何処から来たか』のなかで、後藤は次のように書いている。

 

   小説の危機や衰弱は、極度に発展した消費文明社会や情報化社会という「外部」にあるのではなく、

  小説そのものの「内部」にある。その意味では、小説はつねに危機であった、とさえいえる。小説の

  「超ジャンル」性については繰り返し述べてきたが、それは、小説がつねに危機意識をもち、同時代

  における他のジャンルと苛烈なる格闘を演じることによって、初めてそうでありえたのである。

   したがって、マス・メディア氾濫のなかで小説が衰弱し消滅するとすれば、それは、小説そのもの

  の歴史を忘れ、他のジャンルを排除し、固定した権威に安住し、小説自体への自己批評をもたない小

  説、ということになるだろう。つまり、超ジャンルとしての小説の方法を放棄した小説である

  (注1)。

 

「危機意識」や「苛烈なる格闘」といった、小説=「模倣と批評」「超ジャンル」という図式とは結び付

きそうにない過激な言葉が並んでいることがわかる。しかし、いいかえれば、後藤の文学観は、これらの

言葉を前提としてはじめて打ち出されたものなのである。それは、決して「固定した権威に安住」すべき

言説ではあり得ない。では、後藤のいう「危機意識」「苛烈なる格闘」といった言葉は、いったいどこか

ら導き出されて来たのか。その問い掛けなくして、後藤の言説を無条件に前提とすることは、結局は「固

定した権威に安住」する結果を招くだけである。その言説の基盤を吟味することこそ、早急に求められる

べき課題であろう。もちろん、それを問うことは、後藤の小説を成立させている基盤そのものを探究する

ことを意味している。それは、必然的に作者個人の固有の歴史性を招来せざるを得ない。その点について、

たとえば、後藤は「〈無名氏〉の話」のなかで、みずからの創作態度の基盤に「場所」に対するこだわり

がある点を自己分析して、次のように書いている。

 

   もちろんこのような症状は、日本の敗戦と無関係ではない。例えばわたしが生れ、かつて住んでい

  た朝鮮半島の北部のある場所をわたしの故郷であると呼ぶならば、わたしの故郷はすでに〈日本〉か

  らは消滅している。その場所は、わたしが生れたときは〈日本〉であったにもかかわらず、わたしが

  中学一年生のとき、とつぜん〈外国〉となった。あるいはその場所は、もともと朝鮮であったものが、

  ふたたび朝鮮に還っただけだ、という考え方もある。しかしいずれにせよ、いまここでわたしは、民

  族的に語っているのではない。また、民族的な問題を、個人的な問題として語ろうとしているわけで

  もない。ここでわたしが語るのは、いわばわたしの〈運命〉の問題であって、戦争はわたしの〈運命〉

  とそのような形において結びついているということである(注2)。

 

 後藤の文学観、その言説の基盤には、みずからが少年時代、郷里・北朝鮮において経験した「敗戦体験」

の記憶が横たわっている。厳密にいえば、敗戦体験に起因する、ある認識論的な態度が前提となっている。

それが、後藤の文学観を支える「危機意識」や「苛烈なる格闘」といった言葉を導き出している。その点

からいえば、後藤の「敗戦体験」を一度も吟味することなく、その文学観を敷衍化するべきではないだろ

う。では、それが、いかにしてみずからの文学観にまで発展していったか。本稿はその点に絞って、後藤

明生の文学について考察を試みる。

 

 

「赤と黒の記憶」(「文藝」一九五五・一一)は、第四回「文藝」学生小説コンクールで佳作入選した小

説である。いわば、後藤の文学的な出発点に位置する記念すべき作品であるが、作者自身からは「いわゆ

る試作、習作に属するもの」として、きわめて低い評価しか与えられていない(注3)。しかし、ここで

注目すべきは「試作、習作」と見なされている小説にあってさえ、すでに「敗戦体験」が書き込まれてい

るという点である。しかも、それは「中学一年に入学する時、ぼくは既に、五人の親しい者の死を体験し

ていた」という書き出しからもわかるように、主人公である「ぼく」が、幾人もの近親者の死とその埋葬

に臨んだ体験と密接に連関している。ここでは「敗戦体験」が、みずからに迫り来る「死」の問題として

描かれているのである。

 小学二年の曾祖父の死を発端として、弟や叔母、春江、英ちゃんの死を立て続けに経験した「ぼく」は、

ポオの小説「早過ぎる埋葬」を想起させる死の観念に取り憑かれる。「ぼく」の気持ちを思いやることな

く、それを蹂躙するかのように迫って来る死の観念は、まさしく「ぼく」にとっての他者そのものとして

とらえられているのである。反復される近親者の死とその恐怖。やがては、それが「ぼく」自身の直接的

な体験として顕在化することになる。たとえば、中学生になった「ぼく」が親元を離れ、寄宿舎での生活

をはじめたときのこと。深夜、上級生たちによってもよおされた「新入生歓迎のナゾナゾ会」において、

上級生から発せられた「ナゾナゾ」の回答を拒んだ「ぼく」は、まさしく死に直面する体験を持つにいた

るのである。

 

   ぼくが、反射的に立ち上ろうとする所を、頭から強く抑えられ、もう一人が脚を払った。そして、

  蒲団の上に仰向けに転倒したぼくを、素早く誰かが押え込んで来た。ぼくは、押えつけられた儘、寝

  巻を剥がれ、パンツを取られた。足元の方で懐中電燈がつけられたようだった。

  『ちえっ! 未だ青とんがらしみてえじゃないか』

   しかしぼくは、首を廻すことさえ出来なかった。それから彼らは、真っ裸のぼくを蒲団にくるんで、

  外側から締めつけた。ぼくは、鼻、口、両顎を圧迫し、締めつけて来る蒲団の中で、窒息し、眩暈を

  感じ、本当に死ぬのではないかと怖れた。それは、余りにも予期せずに襲って来た、死の恐怖だった。

  小学校の時、あんなにも永くかかって考え続け、空想し、怖れていた死が、突然、全く予期しなかっ

  た時刻に、全然予測さえしなかった形で、ぼくに迫って来たのだった。その時ぼくは、本気で、死に

  たくない、と思った。死んではならない。予期せずに、また、自分の選択を踏み躙って襲いかかって

  来た死は、激しい屈辱以外の何者でもなかった。

 

 いうまでもなく、ここで描かれているものも、強迫観念的に反復される「ぼく」の死に対する恐怖の意

識そのものである。しかし、幾人もの近親者の死を経験して来た「ぼく」は、その呪縛から逃れることも

出来ない。いわば「ぼく」の意識は、それを拒否しつつも、決して逃れられない中吊りの状態に陥らざる

を得ないのである。もしも、そこから抜け出す道があるとすれば、それはみずからを直接、死と向かい合

わせるような状況に追い込む以外に、他に道はあるまい。したがって「ぼく」は、両親に対して予科練志

望の旨を告げる。すなわち「空中戦による死、体当りの自爆死、花火のように、文字通り一瞬にして砕け

散る死を撰ぶ」。それは「所詮戦争以外の世界に自分の生きる場所を見出し得ず、かと言ってそれに、精

神的な抵抗を試みる程の、批判的な自我をも、未だ形成し得なかったぼくにとって、それらの死の形相を

描くことが、せめてもの、そして最良の撰択であり、自由であった」からである。それは死の恐怖に対す

る同化、一体化の意識によって、その恐怖を乗り越えようとする試みに他ならない。しかし、残念ながら

「ぼく」の決意は、現実という他者のまえに裏切られ、脆くも崩れ去ってしまうのである。すなわち、八

月一五日の敗戦である。今度は、現実という他者が「自分の選択を踏み躙って襲いかかって」来たのであ

る。死に対する同化によって、死の恐怖を乗り越えようとした「ぼく」の意図は「敗戦」という現実のま

えに、激しく拒絶される。その意味からいえば、島尾敏雄の「出発は遂に訪れず」が出撃指令を待ちつつ、

敗戦の日を迎えた特攻隊員における生と死のはざまの中吊り状態を描いたように、死に対する同化、一体

化を拒絶された「ぼく」の立場もまた、生と死のはざまに位置せざるを得ない。

 死の恐怖と現実という他者。それに対する「ぼく」の生きざまを一言でいうならば「同化と拒絶」の反

復である。予科練志望=死に対する「ぼく」の同化、一体化の希求が「敗戦」という現実からの拒絶を食

らう点に、それはよく表れている。「自分の選択を踏み躙って襲いかかって来」る他者=現実。「赤と黒

の記憶」という小説は、まさしくそれに対する「ぼく」の敗北と屈辱の軌跡であるといってよい。その点

からいえば「ぼく」の「敗戦体験」は、いわゆる戦後派作家たちが描いたような直接的な戦争体験よりも、

むしろそれを契機として、みずからの意志に関わりなく押し寄せて来る死の恐怖や現実の他者性に対する

敗北と屈辱の体験そのものと密接に連関している。それが、同化と拒絶という反復によって表現されてい

る。現実という他者の介在によって、自己と同化を願う対象とのあいだに亀裂=ズレが生じること。そし

て、そのはざまで、敗北と屈辱感を噛み締めながら生きていくこと。カフカの言葉でいえば、それは「生

の恥辱」である。それこそが、後藤が「赤の黒の記憶」のなかで発見した自己存在の在り方であるといっ

てよい。もはや何ものとも同化し得ないが、同時にそこからの逃走も叶わない。しかし、そのあいだも、

現実という他者は、絶えずみずからの存在をジリジリと危機的な状況に追い込んでいく。そのような自己

の在り方と現実に対する認識こそ、後藤がみずからの「敗戦体験」から導き出して来たものに他ならない。

 もちろん、そこには「関係」以後の一連の小説に見られるような「楕円の世界」としての世界認識、自

己認識は見られない。「現在のわたしの主たるテーマである〈笑い〉の世界からは、かなりかけ離れた作

品であるといえます」という言葉にもあるように、後藤の小説世界を支えているはずの滑稽な語り口は見

られない(注4)。先行テクストを「模倣と批評」するという点からいっても「実際、真の悲惨−究極の

苦悩−は個人的のものであり、一般的のものではない。戦慄すべき極度の苦痛が、単独の個人によって耐

えられ、決して、集団の人間によってではないこと−このことに対してわれわれは、慈悲深い神に感謝し

よう!」というポオの箴言が先行テクストとして引用されてはいるものの、その自己求心的な書き方では

「模倣と批評」という創作方法が有効に機能しているとも思われない。「自分の選択を踏み躙って襲いか

かって来」る現実という他者に翻弄され続けるみずからの存在を笑い、戯画化し、相対化することによっ

て、反対に他者と対峙していくところから後藤の文学的営為がはじめられているとするならば、確かに

「赤と黒の記憶」は、後藤にとっての「試作、習作に属するもの」であるといってよいだろう。しかし、

むしろここでは、その基底となるべき「敗戦体験」がすでに準備されている点に注意したい。その点から

いえば「赤と黒の記憶」は、まぎれもなく小説家・後藤明生の出発点に位置すべきテクストであるといえ

るのではないか。もちろん、その点を指して、ことさらその先行性を強調すべきではない。しかし、そこ

に描かれた同化への切なる希求と他者からの拒絶という反復は、それ以後の小説において、まさしく徹底

的に反復され、書き継がれていくこととなるのである。

 

 

「笑い地獄」(「早稲田文学」一九六九・二)は、流行の最先端を追求する新進気鋭の女性風俗評論家を

中心として、夜な夜な繰り広げられる怪しげなワイルド・パーティーを取材するために、現場に潜入した

ゴーストライターの「わたし」がハイミナールを飲んで眠ったふりをしつつ、パーティーの様子とその顛

末を饒舌且つ滑稽に描き出した小説である。「模倣と批評」や「超ジャンル」といった要素とともに、常

々、文学における「笑いの方法」を探究して来た後藤にとっては、まことに相応しいタイトルであるとい

うことが出来る。なかでも興味深いのは、きわめて軽薄且つ饒舌な「わたし」の語り口の奥底から迫りあ

がって来るものこそ、他ならぬ「わたし」の「敗戦体験」の記憶であるという点である。後日、パーティ

ーの参加者だった女性たちを相手に、酒場でそのときの様子を反芻して語っていた「わたし」の話は酩酊

の果てに、いつしか逸脱を繰り返しはじめる。「参加」という言葉に対する嫌悪感が述べられた後で、話

はとつぜん「ご存じかどうか、知らないが、わたしは青木や馬場と同じ三十五歳。ということは、戦争が

終ったとき、中学一年生でした」という告白が「わたし」の心のうちで語りはじめられるのである。その

話は戦時中の「松根掘り」体験から「玉音放送」の思い出へと、際限なく逸脱してゆく。しかし、饒舌且

つ滑稽に語られるその内容は、まぎれもなく一九四五年八月一五日=敗戦の日の出来事に起因するもので

ある。放送後、寄宿舎に戻った「わたし」は「巻いていたゲートルをほどくや否や机の下にもぐり込んで、

たちまちにして眠りに落ち、夕方近く、上級生のどなり散らすような泣き声で目をさます」。

 

   もぐり込んで眠りこけていた机の下から、そっと目をあけてすでに薄暗くなりかけている部屋を見

  上げると、まず上級生の毛脛が見えたので、おそるおそる視線をあげてゆくと、寄宿舎の十畳間に置

  かれた四つの机の上に、白虎隊のように木刀を杖にした恰好で腰をおろしている五、六人の上級生の

  姿が見えた。わたしはすでに目をさましているのであるから、泣くような、どなるような上級生たち

  の声によって、すでにわたしが聞きそこなった玉音放送の内容がいかなるものであったかを知ること

  ができたにもかかわらず、わたしがそのまま机の下で眠ったふりを続けていたのは、とび上がるほど

  のおどろきよりも、上級生の木刀の方がこわかったからだ。いま、ここで、のこのこ机の下から這い

  出ようものなら、泣きながら興奮している上級生たちからどのような制裁を受けるか。木刀のめった

  打ちを想像すると、どうしても起き上ることができなかった。だから、次のようなことを、机の下に

  もぐり込んだ姿勢のまま、わたしは考えていたのである。

   ああ、自分は××中学の生徒として、なんという恥ずかしい態度をとっているのであるか。第一に、

  このような国家の一大事をまったく知らずに眠りこけていたばかりでなく、それを知ったいまでさえ、

  上級生の木刀をおそれて眠ったふりを続けている。第二に、わたしは、遂にこの戦争に参加できなか

  ったばかりでなく、敗戦の瞬間にさえ、眠りこけていて参加できなかった。しかし、そうだ! いま、

  いさぎよく机の下から這い出てゆき、上級生の制裁を受けよう。そうすれば、この国家の一大悲しみ

  の瞬間に上級生と共に参加することができるばかりでなく、先に犯した第一の罪も、第二の罪も償う

  ことができるのではないか。よし、とにかくまず、この眠ったふりをしている両眼を開き、いさぎよ

  く机の下から這い出してゆくのだ。机の下で、わたしはこれだけの決心をしたあとで、ただちにそれ

  を実行しようとしたのであるが、いつのまにか上級生たちは出て行ったのか、目をあけてみると、部

  屋の中はただ薄暗いだけだ。

 

 以上で語られる「わたし」の体験が「赤と黒の記憶」における「ぼく」の「敗戦体験」の忠実な反復と

してあることはいうまでもない。「ぼく」が予科練を志望し、死と同化する道を選んだにもかかわらず、

とつぜんの敗戦によってその志を絶たれてしまったように、ここでもまた後藤の小説の主人公は「国家の

一大悲しみの瞬間に上級生と共に参加することが」許されないばかりか、敗戦の悲しみを上級生たちと積

極的に分かち合おうとさえ努めるが、それもまた拒絶されるべき「運命」を担わされているのである。い

わば、主人公の意志は、またしても現実という他者によって拒絶されている。「わたし」が「参加」とい

う言葉に嫌悪感を示す所以である。しかし、それはみずからが積極的に示した嫌悪感というよりは、それ

を許されなかったことに対する敗北と屈辱感の裏返しの表現であるといってよい。もちろん「わたし」の

被る拒絶は、このときばかりに限ったことではない。「ぼく」の場合と同様、ここでもそれは反復されて

描かれている。たとえば、一九五二年五月一日=「血のメーデー事件」のことが想起された後で、「わた

し」はみずからの境遇について、次のように語っている。

 

   さっき出てきた、昭和二十年八月十五日のわたし。それからいま話した昭和二十七年五月一日のわ

  たし。これは、みんな、偶然といえば偶然ですよ。ところが、それらが偶然であり過ぎるために、ど

  うもこの偶然というやつがわたしの運命の象徴であるような気がしてくるのだ。運命のですよ、運命

  の。大げさにいえば、歴史とのすれ違いとでもいいますか。つまりわたしは、この戦後の、決定的と

  いわれる瞬間にいつも参加しておらない。時代というものがするりとわたしの脇をすり抜けてゆき、

  その接点にわたしは常に不在であるという感じであって、そもそも、その感覚は昭和二十年八月十五

  日以来、ずうーっとわたしにつきまとっているような気さえするのであるが、安保のときも、またも

  や同じような思いをさせられたのを、おぼえている。

  (中略)時は安保元年五月十九日の夕刻。彼らは、ラーメン、チャーハン、ギョーザなどで腹ごしら

  えをして、やがて国会議事堂の方へ向おうとしていた。そしてわたしはその日、課長の気に入らない

  コマーシャルを書いて、破り棄て、偶然にも、彼らが腹ごしらえをしている大衆食堂から十五、六メ

  ートル離れた一ぱい飲み屋で、コップ酒を飲んでいたんですからね。ああ……やっぱり……という気

  持だったわけですよ。時代との、すれちがい、というか、それとも、場ちがい、というべきか。不参

  加、仮装そして幽霊。あのパーティーでハイミナールを飲んだのだって、偶然という意味においても、

  また、場ちがいという意味においてもまったく同じことであって、青木や馬場やあなた方があのパー

  ティーを時代と共におこなっていると考えている以上、それにふさわしくない男がまぎれ込んでくれ

  ば誰だって笑うに決っている。笑わずにはいられないはずであり、事実、わたしは笑われたし、それ

  が当然であることは、さっきからいおうとしているとおりだ。そしてそれは、わたしが笑われながら、

  前衛イラストレーターが考案したというボール紙製の能面をつけている青木や馬場やあなた方を、わ

  たしが笑っていたからだということも、また、笑われながら眠ったふりを続けていたのは演技ではな

  くて仮装であることも、ここでまた繰り返す必要はあるまい。

 

「玉音放送」「血のメーデー事件」「安保闘争」における「わたし」は、すべて「歴史とのすれ違い」を

経験している。もちろん、それは主催者である女性風俗評論家によって、時代の最先端であると位置づけ

られているワイルド・パーティーの現場においても同様であるが、直接的には「わたし」の話それ自体が、

その反復として描かれている。以上のような話を心のなかで呟いていた「わたし」は女性たちに対して、

いよいよそれを声に出して語りはじめる。ところが、その途端、とつぜん、吐き気をもよおした「わたし」

は「立ちあがり、両手で口に蓋をしてあわててトイレへ駆け込んで吐きはじめ」る始末なのである。「わ

たし」の語る話はここでもまた、もよおして来る吐き気によって拒絶される「運命」にある。「うしろか

ら彼女たちの笑い声がきこえたのは、吐き終ってからの」ことである。

 しかし、注意すべきは、引用文のなかに「わたしが笑われながら、前衛イラストレーターが考案したと

いうボール紙製の能面をつけている青木や馬場やあなた方を、わたしが笑っていたからだということも、

また、笑われながら眠ったふりを続けていたのは演技ではなくて仮装であることも、ここでまた繰り返す

必要はあるまい」という記述が見られる点である。すなわち、それは「わたし」がパーティーの参加者で

ある青木や馬場や女性たちから笑われつつも、同時に彼らを笑う立場に立っていることを指し示している。

おそらく「笑い地獄」と「赤と黒の記憶」のあいだの差異は、この点にこそある。「笑い地獄」について、

後藤が「『笑う←→笑われる』という笑いそのもののダイナミックスを、現にわたしがその中で生きてい

るところの組織の持つダイナミックスに関係づける」ことを目的として描いたと証言しているように、こ

こで見出された「笑う←→笑われる」という関係構造は自己中心的で、感傷的な「ぼく」の語りに終始し

た「赤と黒の記憶」にあっては、まったく無縁な要素である(注5)。もちろん「赤と黒の記憶」にも、

さまざまな他者は存在している。しかし、あくまでも、それは「ぼく」自身の過剰な自己意識をいったん

通過することによって見出された他者に他ならない。したがって、その語りは他者の存在を前提としつつ

も、結局は自己中心的なものにならざるを得ない。みずからの存在を脅かし、窮地に追い込んでいく他者

の存在そのものが、あるいは「ぼく」の被害妄想的な自己意識の産物かも知れないからである。一方、そ

れに対して「笑い地獄」の他者は「赤と黒の記憶」のそれに比べて、より表層的で浮薄な存在として描か

れている。そのぶん、前者に比べて、より「わたし」の内面如何に関わりなく存在しているそれであると

いう印象を与えている。もちろん、そのような存在として描かれている彼らが「わたし」を窮地に追いや

ることなど、あり得ない。「わたし」に対して単に無関心、無理解なだけである。せいぜい、被害妄想的

に一人できりきり舞いをしている「わたし」を鼻で笑う程度であろう。その意味からいえば「赤と黒の記

憶」における「敗戦体験」=「同化と拒絶の反復」というテーマは「笑い地獄」における「笑う←→笑わ

れる」という関係構造のなかで一度、相対化されている。「ぼく」の感傷的、被害妄想的な自己意識は

「敗戦体験」そのものに対する無関心な他者、無理解な他者との関係において「すれ違い」つつ、相対化

されているのである。しかし、反対からいえば「わたし」の語りは、みずからがそのような他者によって

笑われることをどうしようもなく認めるところから出発している。注意すべきは、以上のような認識が持

たれることによって、はじめて「わたし」は彼女たちを笑う立場に立つことが出来るという点である。

「わたし」は彼女たちから笑われるべき「運命」を我が身に引き受けることによって、逆に彼女たちを笑

う立場を獲得している。その結果、この瞬間、一度は否定された「敗戦体験」がより高次な領域において

復活し、迫りあがって来ることになる。「わたし」の話に無関心な他者、無理解な他者が設定されたこと

によって「同化と拒絶」という「ぼく」の「敗戦体験」は、それまでとは異なったある抽象的な様相を持

って反復されることになるのである。いいかえれば、このとき、後藤は他者との関係において、みずから

の「敗戦体験」を客観化することが出来たといってよい。

「笑う←→笑われる」という関係構造に規定された自分自身を客観的に見る自分の視点とは、みずからを

メタレベルからとらえる視点の獲得を意味している。いわば、それは対象レベルにおける自己とメタレベ

ルにおける自己とのあいだの分裂、二重状態を指し示している。「赤と黒の記憶」から「笑い地獄」にい

たる変化の要因が、以上のような視点の獲得にあるとするならば、いったいそれは、何によって可能であ

ったか。注意すべきは、後藤のそれが、武田泰淳の『司馬遷』から受けた「楕円ショック」によるもので

あるという点である。後藤は「円と楕円の世界」のなかで、次のように書いている。

 

   滑稽なことに(あるいはふしぎなことに)、この世の中には、それ自体として滑稽なものは何一つ

  存在しないという認識の上にのみ、はじめて喜劇は成立し得るということらしい。すなわち喜劇は、

  ドン・キホーテと風車との〈関係〉であって、なぜならば風車は、べつにドン・キホーテの突進を受

  けるためにそこに存在しているわけではないからである。作者の目はまさしくその〈関係〉に集めら

  れているのであり、それはドン・キホーテと風車とを対等に見る目だ。上下はもちろん、どちらが美

  でも醜でもない。しかもその両者は、異った二つの世界に属するものではなく、同時に一つの世界に

  存在する二つの中心である以上、もはやそこに描かれる世界の形は、唯一つの中心によって決定され

  る〈円〉ではあり得ない。いうまでもなく喜劇的に変形された〈楕円〉形の世界であって、同時にそ

  して対等に存在する二つの中心は、互いに価値観を異にしつつ実在している、客観的〈他者〉に他な

  らない。しかしこのような世界構造の認識もまた、わたしの新発明ではないのである。

  (中略)二十四歳でこの武田泰淳氏の文章を読んだわたしは、脳天を痛打されて目がくらんだ。そし

  てやがてふたたび目をさましたとき、もはやわたしの世界は、わたしの価値観とはまったく無縁な価

  値観を持つ〈他者〉がもう一つの〈中心〉を支配するところの、楕円形となっていることを知ったの

  である。それまで読んでいたゴーゴリ、カフカ、ドストエフスキーの文学が、真に喜劇的である根拠

  を知らされたのもそのときである。そしてこの「生き恥さらした男」の目をもって、なおもわたしが

  生きながらえているこの世界を見続けるためには、現実において生きながら葬られたものとならねば

  ならぬことを、知ったわけだ(注6)。

 

 以上のような「楕円の世界」の発見が、後藤の認識の基盤に植え付けられたことは確かである。「楕円」

の認識が、後藤の視点に「もう一つの目」を認識させる結果となっているのである。そして、後藤のその

認識は、戦後文学の一環として議論された「政治と文学論争」とも、ある奇妙な形で連関している

(注7)。

 一九四〇年代後半から五〇年代前半にかけて、中野重治と平野謙、荒正人のあいだで交わされたやり取

りを代表として、当時、さかんに議論された「政治と文学論争」は、つまるところ「政治」と「文学」の

優位性、そのどちらを選択するかという二者択一の前提のうえになされたものであるといってよい。福田

恆存が「一匹と九十九匹と」のなかで「政治」と「文学」という対立構造そのものを両面批判しつつ、両

者の領域とその限界をきびしく峻別した以外には、その論争は「政治」を「文学」に従わせるか、反対に

「文学」を「政治」に従わせるかといった不毛なそれに終始している。もちろん、後藤が直接的に「政治

と文学論争」に参入していたわけではない。しかし、武田の提唱する「楕円の世界」に影響を受けた後藤

の認識が、間接的ではあるにせよ「政治」か「文学」かという二者択一的な思考方法そのものに対する批

判としての機能を果たしていることは間違いあるまい。すなわち、後藤にあっては「政治」と「文学」と

いう対立が二つの中心を持った「楕円の世界」として、それぞれ否定されることなく、対立のままにとら

えられているのである。しかも、そこには「笑い」の要素まで付加されている。それは、みずからの拠っ

て立つ「楕円の世界」という現実認識そのものを「笑う←→笑われる」という関係において、まさしく

「楕円の世界」としてとらえることを意味している。端的にいえば、この場合の後藤は、意識的にみずか

らを論争そのものに対する無関心な他者、無理解な他者、笑う他者の立場に立たせている。実際、後藤が

論争に「参加」することなどあり得ない。そもそも「政治と文学論争」そのものが、それぞれの拠って立

つ基盤は異なったとしても、戦時中の現実に対して「不自由」を感じることが出来た世代にのみ「参加」

を許されたそれに他ならなかったからである。一方で「同化と拒絶」を繰り返しつつ、敗戦時において

「不自由を不自由と感じ得ず、また、自由を自由と感じ得ない、悲劇的で滑稽な役割を負わされ」ていた

後藤にとって、みずからの拠って立つ基盤が「政治」でもなければ「文学」でもなかったことはいうまで

もない(注8)。敗戦時の自己が「政治」とも「文学」とも無縁な立場にあった以上、後藤が二者択一的

な議論に終始する「政治と文学論争」そのものをきわめて公式的、イデオロギー的な言説としてとらえて

いたとしても、別に不思議ではないだろう。後藤にとっては「政治」はもちろんのこと、一見、それとは

対立しているように見える「文学」もまた、所詮は自己の内面の優位性を主張する一個のイデオロギーや

制度に他ならないことが透視されていたはずである。もちろん、その認識は、武田の場合とも異なってい

る。いわば、後藤の立場は「政治」と「文学」を「楕円の世界」としてとらえつつも、論争の成立する基

盤それ自体を支えている、ある種の「党派性」「世代的な特権性」に対する批判としての意味合いを持っ

ているのである。

「政治」がイデオロギーであると同様に「文学」もまた、一個のイデオロギーや制度に過ぎない。それに

対して、後藤が違和感を感じていたことは、そのゴーゴリに対する親近感とも通じていることはいうまで

もない。後藤がエルミーロフの『ゴーゴリ研究』に代表される「社会主義リアリズム」の作家としてのゴ

ーゴリ観に対して、終始一貫、反対し続けたことは『笑いの方法−あるいはニコライ・ゴーゴリ』からも

読み取ることが出来るだろう。いうまでもなく、後藤のいう「社会主義リアリズム」批判とは「政治」の

優位性に対する批判である。しかし、注意すべきは、だからといって、後藤がゴーゴリのテクストに「文

学」の優位性を見出しているわけではないという点である。なぜならば、ゴーゴリの『外套』や『鼻』の

ような「幻想小説」が、自己の内面の優位性を基盤とした「文学」の範疇に含まれないことはいうまでも

ないからである。すなわち、後藤にとってのゴーゴリとは、あくまでも「政治」とも「文学」とも同一化

し得ない、結果的に、その両者を批判するべき立場に立つ奇妙な作家として存在しているのである。もち

ろん、ゴーゴリの立場は、後藤自身の文学的な立場そのものと重なる。ゴーゴリにおける「グロテスクな

笑い」を探究し続けた後藤にあっては、以上のような「政治」とも「文学」とも同一化し得ない個=単独

者としてのみずからの在り方が、その認識の基盤に横たわっている。後藤の小説が、徹底して「わたし」

や「私」に固執したものであることは、その表れに他ならない。その点からいえば、後藤の小説にあって

は、いかなるイデオロギーにも回収されることなく、自己の単独性が徹底的に表現されることによって、

反対に「政治と文学論争」に見られるような不毛な議論によっては到底つかみ得ない、自己の在り方が提

示されているのである。そして、そのような認識が「政治と文学論争」それ自体の言説に対する批判とい

う形で表明されつつも、その対立構造を乗り超えていくものとしての「楕円の世界」「笑う←→笑われる」

という関係構造までもが提示されている。それこそが、後藤が「笑い地獄」において見出した「敗戦体験」

の在り方に他ならない。では、それが「笑い地獄」以降のテクストにあっては、いかに展開されていくの

か。後藤のいう小説=「模倣と批評」「超ジャンル」といった文学観へと流れ込んでいくのだろうか。

 

 

「わたし」に対する無関心な他者、笑う他者が設定されたことによって、後藤はみずからの「敗戦体験」

を対象化、相対化し得る立場に立つことになる。「わたし」の対象化は、作者がみずからの分身である

「わたし」をメタレベルから眺める態度を意味している。それは、作者と「わたし」のあいだに一定の距

離=ズレを作り出すことである(注9)。後藤はその距離=ズレに「笑い」の要素を見出そうとしている

が、むしろそれ以上に注目すべきは、後藤の場合、それが言語=テクストの領域において取りあつかわれ

ているという点である。すなわち、後藤にとっての「わたし」とは、あくまでも言葉に他ならない。後藤

の小説の主人公がきわめて饒舌に言葉を紡ぎ出す存在であることは、そのことを端的に表している。しば

しば酒に酔い潰れ、ひどい吐き気に苛まれながらも、みずからの体験を饒舌且つ執拗に語り続ける彼らは、

いわば言葉そのものとしての存在である。その点からいっても、饒舌に言葉を紡ぎ出していく彼らの行為

そのものが、後藤の意図する「わたし」の対象化の一環にあるということが出来るだろう。この段階にあ

っては、もはや「わたし」は、作者自身の「敗戦体験」と関わりを持ちながらも、言葉そのものとしての

自立的な機能を発揮しはじめているのである。それは、みずからの語る「敗戦体験」もまた、言葉に他な

らないということを指し示している。それは、郷里・北朝鮮の場合であっても同様である。たとえば「煙」

(「海」一九七五・五)では、それが次のように表されている。毎晩のように「座椅子に腰をおろし机兼

用の電気炬燵にへばりついている」「わたし」はある夜中、ふとラジオのスイッチをつける。すると、ラ

ジオからは、朝鮮語の放送が流れて来るのである。

 

   喋っているのは女だった。重々しい口調で、ゆっくり喋っていた。海外放送のためかも知れない。

  新劇調の芝居がかった抑揚である。しかし話の内容は皆目わからなかった。わたしはこの三十年の間

  に、朝鮮語をきれいさっぱり忘れてしまっていた。

   わたしは傍にあった雑記帳を開いて、女アナウンサーの朝鮮語を書き取ってみた。もちろん片仮名

  で、ききおぼえのある単語だけを抜き書きするのである。ヘーバン、ナンポグ、キムイルソン、クッ

  キ、コンサン、テーハエ、パロ……。これでは何のことかさっぱりわからない。一言一言、噛んで含

  めるような女アナウンサーの朝鮮語はなおも続いた。そして、歌になった。行進曲ふうの旋律だった。

  それでいまのは、北朝鮮側の放送ではなかろうかと思った。最後の歌は国歌かも知れない(注10)。

 

「わたし」にとっての郷里・北朝鮮が、ラジオから流れて来る「朝鮮語」という形で記号化、表象化され

ていることがうかがえる。それは、言葉そのものである。戦後三〇年という時の流れが、みずからの郷里

を言語記号化してしまっているのである。「わたし」にとっての郷里とは、あくまでも「朝鮮語」という

言葉によって表象化されたものに過ぎない。なかでも、注意すべきは「わたしはこの三十年の間に、朝鮮

語をきれいさっぱり忘れてしまっていた」と書かれているように、ラジオから流れて来るそれが「わたし」

には理解不能であったという点である。確かに「わたし」は、子供のころに聞き憶えのある「朝鮮語」の

幾つかを抜き書きしている。しかし、それは所詮、片仮名で表記せざるを得ないし、ましてや言葉の意味

内容など理解出来るはずもない。その点からいっても「わたし」は、雑記帳にそれらを抜き書きすること

によって、みずからを北朝鮮=「朝鮮語」に限りなく同化することを試みるが、結局はその意味内容が

「何のことかさっぱりわからない」というみずからの現状をあるがままに確認する結果にならざるを得な

いのである。ここでも「わたし」は「朝鮮語」=郷里・北朝鮮に同化することを試みながらも、反対にそ

れから拒絶されていることがうかがえる。「わたし」にとっては、本来、親和的で懐かしい場所であるは

ずの北朝鮮は、決して「わたし」とは同一化し得ない他者として、ラジオの向こう側から絶えず「わたし」

を挑発し続けているのである。しかし、そのような状態はさらに以下の展開によって、より増幅されて描

かれることとなる。「わたし」はダイヤルを右にまわし、今度は「南朝鮮」=韓国の放送を聴きはじめる。

そして「先刻と同じように、聞きおぼえのある朝鮮語を片仮名で書き取りはじめ」るのである。

 

   先刻書き取った幾つかの片仮名朝鮮語は、雑記帳の上半分に並んでいた。わたしはその下に、横線

  を引き、今回の分はその下半分に書くことにした。北は上、南は下である。もちろんこれはまったく

  の偶然だった。最初に北の分の書き取りをはじめたときには、それが北かどうかさえわからなかった。

  北か南か考えてもみなかった。最後の行進曲ふうの国歌らしき歌をきくまではそうだったのである。

   しかしいま雑記帳に一本の横線を引いてみると、偶然とはいえ、世界はたちまちにして一変した。

  わたしはおどろいた。無造作に鉛筆で引かれた一本の横線は、三十八度線以外の何ものでもなかった。

  雑記帳の一頁はその一本の線によって上下に断ち切られた朝鮮半島そのものだった。わたしは横線の

  上に、北と書いてみた。同じく下に、南と書いてみた。そして横線の上に、38と書いた。いずれも、

  偶然によるおどろきの余りである。

 

 やがて、先ほどと同様、朝鮮語の歌が聞こえて来る。そして、次の瞬間、意外な事態が発生する。

 

   ずいぶんゆっくりした節まわしだった。しかし古い朝鮮の節ではないようだった。文句がわからな

  いのはこれまでと同じである。わたしは右手をラジオのスイッチの方へ伸ばした。しかしとつぜんわ

  たしの頭に混乱が生じた。

  「え?」

  とわたしは思わず声を出した。

  「おい、おい、ちょっと待ってくれよ」

   と、これも声を出していった。

   わたしの右手はラジオのスイッチの手前で止っていた。ラジオからはロシア民謡ふうの歌がきこえ

  て来た。歌は朝鮮語だった。しかし節はまぎれもないロシア民謡だった。古い民謡ではなく新しい歌

  謡曲かも知れない。はっきり何の歌だともわからなかった。たぶんラジオからきこえて来るのは、朝

  鮮の歌なのだろう。しかし節はロシアの民謡か歌謡曲の何かを真似たものに違いなかった。

   とつぜんの混乱はこの歌から生じた。先刻はいかにも新興国歌らしい行進曲ふう。今度はゆっくり

  した節まわしのロシア民謡ふう。果たして北はどちらなのだろう? わたしは目の前の雑記帳を見お

  ろした。そこには先刻の書き取りの、まことに出来の悪い結果が見えた。書き取りは上下二段に分れ

  ていた。その間に鉛筆で引いた一本の横線があった。わたしはペン皿の中から大急ぎで赤鉛筆を探し

  た。そしてその線の真上に大きく「?」のマークをつけた。果たしてどちらが北なのだろう? わた

  しは雑記帳を逆さまにしてみた。

 

 後藤がみずからの郷里・北朝鮮をテクストという観点からとらえている点は、偶然、雑記帳のうえに

「一本の横線」=三八度線が引かれることによって描き出された「朝鮮半島」の地図からもよくうかがえ

る。「わたし」にとって、郷里・北朝鮮はラジオから流れて来る「朝鮮語」であると同時に、あくまでも

雑記帳のうえに描き出された「朝鮮半島」の地図そのものに他ならないのである。その意味からいえば、

それは「わたし」がみずからの郷里を雑記帳=テクストの領域において対象化することによって、内面化

する過程であるということが出来るだろう。しかし、注意すべきは「わたし」が「朝鮮語」を抜き書きし

つつも、その意味内容が「何のことかさっぱりわからな」かったように、次の瞬間、ラジオから流れて来

た「ロシア民謡ふうの歌」によって、それまで信じられて来た雑記帳の上半分=「北」という「わたし」

の確信が、突如として覆されてしまっているという点である。この時点において、雑記帳のどちらが「北」

でどちらが「南」か、もはや「わたし」には判断がつかない。「わたし」の意識は「北」と「南」のあい

だで、二つに引き裂かれてしまっている。それは、みずからの手によって描き出されたはずの「朝鮮半島」

というテクストとも「わたし」自身の意識が同一化し得ない状態にあることを指し示している。みずから

の郷里をテクスト化することによって、それを内面化=同化することを試みた「わたし」の行為は、みず

からの意識がダブル・バインドとしての判断不能の状態におちいったことによって、見事に破綻してしま

っているのである。その点からいえば、北朝鮮をテクスト化したはずの「わたし」は、反対にテクスト化

されたはずの「朝鮮半島」から拒絶され、突き放されている。それは「わたし」の意識が、実際の郷里・

北朝鮮はもちろんのこと、テクスト化されたそれとも同一化し得ない状態にあることを意味している。

「わたし」は、みずからの体験とその言語表現=言葉のあいだのどちらにも同一化し得ないまま、分裂せ

ざるを得ない状態におちいっているのである。ここでもまた、すでに見て来た「同化と拒絶」が反復され

ている点に注目したい。

 それは、敗戦後の「わたし」の引き揚げ先である本籍地にあっても同様である。「愚者の時間」(「新

潮」一九七八・六)の「わたし」は中学・高校時代の同級生のことを想起、自分たちが「筑前をチクジェ

ンと発音することが出来ない」「チクゼン仲間」であったことを確認しつつ、次のように書いている。

 

   これはいい換えれば、ヨソ者仲間ということかも知れない。しかし、自分をヨソ者と呼ぶには、心

  中に抵抗があった。確かにわたしは北朝鮮の永興という町で生れ育った。誰もがどこかで生れるよう

  に、わたしはそこで生れたのである。そしてそこで日本人小学校に通ったが、幸か不幸か、その日本

  語はいわゆる植民地標準語というやつだった。しかし、父も母も筑前の人間なのである。父は朝倉村

  恵蘇宿で生れ中学を出るまでそこで育った。母は朝倉郡馬田村で生れたあと、女学校を出るまで博多

  で育った。そしてわたしは、敗戦後引揚げて来て、父が卒業した中学に転入したのである。

   しかし、わたしの植民地標準語は、たちまち学級で笑いのタネになった。「そげなこついうたって

  ん、いっちょんわからんばい」。何をいっているのかさっぱりわからん、というわけである。漱石の

  「坊っちゃん」ならばそこで腹を立てれば済むかもわからないが、こちらはそうはゆかない。わたし

  は一日も早く彼らに同化しなければと思った。それで、「バッテン」「ゲナ」「バイ」「チョル」そ

  の他の筑前言葉習得に日夜励んだのである。

 

 しかし、結果はここでも「いっちょんわからんばい」という現実にぶち当たる。「先生をシェンシェイ

と、どうしてもいえない。賛成は出来てもサンシェイが出来ない。幾ら努力しても、そこのところだけは

ジェンジェン駄目だった」のである。北朝鮮と同様、ここにも引き揚げ地=本籍地に同化し得ない「わた

し」が見出されるだろう。しかし、その点をとらえて、北朝鮮からの引き揚げ者全員が「わたし」と同じ

境遇にあるということはいえない。なぜならば「父も母も筑前の人間である」と書かれているように、同

じ引き揚げ者といっても、すでに「わたし」の両親は「チクジェン言葉」を完全に習得している状態にあ

ったからである。「わたし」の立場は、両親たちとも異なる。ここでも「わたし」は、自分の周囲の人々

とも同一化し得ない存在として描かれていることがうかがえる。

「わたし」はその間隙を埋めるかのように、本籍地=「朝倉」一帯をさまざまなテクストによって重層化

していく。貝原益軒『筑前国続風土記』や『綾鼓』『古事記』『日本書紀』『百人一首』あるいは森鴎外

『歴史其儘と歴史離れ』『栗山大膳』などが引用されることによって、みずからの本籍地がテクスト的に

重層化されていくのである。もちろん、すでに見て来たように、いくら「わたし」がさまざまなテクスト

を持ち出そうとも、本籍地は「わたし」の内面に同化することなどあり得ない。その証拠に「わたし」は

本籍地=「朝倉」をめぐって「愚者の時間」「綾の鼓」「恋木社」「針目城」「麻邸良城」といった小説

=テクストを次々と書き継いでいかなければならない。テクストの領域においても「朝倉」は「わたし」

と同化し得ないがゆえに、その小説はさまざまな先行テクストと関係を持ちつつ変容し、決して自己完結

することなく、増殖の一途をたどる他ないのである。その点からいえば、後藤の「朝倉」をめぐってさま

ざまな先行テクストを引用し、重層化していく行為には、みずからのルーツ=アイデンティティを過去に

遡って探究、再構築=同化する目的などふくまれてはいない。むしろ、同化の希求にもかかわらず、テク

スト=言葉が重層化されることによって、反対に「朝倉」を内面化することの不可能性=拒絶のさまを露

呈させること。その点にこそ、後藤の創作意図が見て取れるはずである。すなわち、ルーツ探し=アイデ

ンティティ探究物語の自己喜劇化、パロディ化である。「同化と拒絶」が、テクストの次元において表現

される場合の必然的な方法的帰結である。

 テクストからテクストへと遍歴を繰り返す『吉野大夫』や『壁の中』『首塚の上のアドバルーン』『し

んとく問答』といった一九八〇年代以降の後藤の小説が、以上のような意図のもとに書かれていることは

いうまでもないだろう。『吉野大夫』では信濃追分が、『壁の中』では東京が、『首塚の上のアドバルー

ン』では幕張や京都が、『しんとく問答』では大阪が、それぞれ同様の意図のもと、テクストの引用と重

層化が試みられているのである。もちろん、それは対象物の現実的、存在的価値を否定し、それを文学テ

クストによって覆い尽くそうとするような文学的ロマン主義とは無縁である。確かに、テクストを批評す

るテクスト、小説についての小説という創作方法論上の観点から見れば、後藤の小説は、いわゆる「メタ

フィクション」「ポスト・モダン小説」の系譜に属するものとして位置付けることが出来るだろう。ジョ

ン・バースに代表されるような「ポスト・モダン作家」たちとの同時代性や世界的な平行性を認めること

は、むしろたやすい作業である。しかし、果たして、そのようなことにどれだけの意味があるというのか。

後藤における「メタフィクション」とは、あくまでもみずからの「敗戦体験」=「同化と拒絶」の反復を

「運命」として受け入れざるを得なかった結果として、必然的に立ち現れて来たものに他ならない。もし

も、その点に関して考えるべき点があるとすれば、なぜ後藤の小説がある時期を境として、小説=「模倣

と批評」「超ジャンル」といった文学原理のもと、一見すると「文学主義」とも誤解されるような言説を

強調するにいたったかということだろう。しかし、それはまた、今後の課題である。本稿は、小説家・後

藤明生における小説=「模倣と批評」「超ジャンル」といった文学原理がどこから来たのかという点を踏

まえて、その変容の過程を確認することを目的としてなされたものに過ぎない。みずからの「敗戦体験」

を契機として、さまざまな対象に対する「同化と拒絶」を「運命」として引き受けるところから出発した

後藤の文学が、やがては小説=テクストにおける「模倣と批評」すなわち先行テクストに対する「同化と

拒絶」という小説方法論上の変容を遂げつつ、その現前化、全面的展開にいたったことは、以上に見て来

たとおりである。「同化と拒絶」という「運命」に対して「楕円の世界」「笑う←→笑われる」といった

関係構造を提示することによって、単独者としてのみずからの個の在り方を探究し、それを小説として書

き続けたことが、テクスト論上における「同化と拒絶」=「模倣と批評」という文学原理を導き出してい

るのである。「敗戦体験」=「同化と拒絶」から小説=「模倣と批評」へ。その変容の軌跡こそ、小説家

・後藤明生の文学的営為に他ならない。その点を捨象して、後藤の言説を単なる文学理論として一般化す

べきではない。そこには「同化と拒絶」のはざまを生き続けることをみずからの「運命」として受け入れ

つつも、それを逆手に取って対象化し、小説という形式によって表現し続けた一人の作家の軌跡が、さま

ざまな形によって表されているはずだからである。後藤明生にあっては、生きることは、すなわち書くこ

とに他ならないのである。

                                      (2000年3月)

 

 

【注】

 (1) 後藤明生『小説は何処から来たか』(白地社、一九九五・七)

 (2) 後藤明生「〈無名氏〉の話」(『書かれない報告』河出書房新社、一九七一・三)

 (3) 後藤明生「『関係』前後」(『関係』皆美社、一九七一・一〇)

 (4) 後藤明生「わたしの処女作」(『円と楕円の世界』河出書房新社、一九七二・一一)

 (5) 後藤明生「後記」(『笑い地獄』文藝春秋、一九六九・九)

 (6) 後藤明生「円と楕円の世界」注4参照。

 (7) 「政治と文学論争」については、臼井吉見監修『戦後文学論争』上巻(番町書房、一九七二・

    一〇)や臼井吉見『近代文学論争』下巻(筑摩書房、一九七五・一一)参照。

 (8) 後藤明生「赤と黒の記憶」(『関係』所収)注2参照。

 (9) 後藤が漱石の「写生文」(「読売新聞」一九〇七・一・二〇)に注目したことも、それと関係

    している。漱石のいう「大人が小供を視るの態度」「平生の小児を、作家の大人が叙述する」態

    度も、作者と「わたし」のあいだの距離=ズレが「滑稽の分子を含んだ表現となつて文章の上に

    あらはれて来る」ことを指摘しているからである。

 (10) 後藤明生『夢かたり』(中央公論社、一九七六・三)

 

 

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