「ギリシャ牧野」をいかに読むか

 

 

 

 

 

 

  

 

牧野信一(1896年〜1936年)

 

 

 牧野信一を評して「ギリシャ牧野」という。柳沢孝子が解説するように、それは「牧野信一の文学活動の

中で、昭和初年代に展開された幻想的な作風」であり「小田原近郊のありふれた農村に」「古代ギリシャや

中世ヨーロッパのイメージがかぶせられる」ことによって立ち現れる「国籍不明の、白日夢のような、幻想

的空間」に由来する(注1)。当時の文壇が、半ば嘲笑的に名づけた貶称である。実際、牧野の小説には、

古代ギリシャや中世ヨーロッパ文学に関わりのある固有名が頻繁に登場する。タイトルだけを拾い集めてみ

ても「村のストア派」「ゾイラス」「ラガド大学参観記」「ダイアナの馬」「タンタレスの春」等々。本文

中に登場する固有名まであげれば、切りがないほどの数にのぼる。牧野の文学が、それらとの密接な関係の

もとに成り立っていることがよくうかがえるだろう。実際、牧野自身が日常生活において、それらに対する

嗜好をしばしば口にしていた様子である。たとえば、一九二八年、病気療養のため、箱根塔ノ沢に赴いた宇

野浩二は小田原に住む牧野を訪ね、そのときの様子を次のように書き記している。

 

   ある時、牧野は、又か、と思ふほど持ち出す、プラトンの『ソクラテスの弁明』、アリストテレスの

  『詩学』などの話をつづけてゐるうちに、突然、例の『ソクラテスの弁明』の中の一節に我流の節をつ

  けて朗読し出した。これはちやうど程よく酒のまはつてゐる時にやることであつたから、牧野は、その

  『ソクラテスの弁明』の一節の朗読をうち切つて、「枝たわわなる葡萄は、籠み合ふ酒蔵の、桶にそそ

  げり。泡だつ酒は、小川と流れ、浮き宝玉の、川床にせせらぎして、……」と『ファウスト』のなかの

  『霊等』の歌の一節をうたひ出した。側にゐた牧野の妻が、やはり、突然、「そんなのより、『火の精

  サラマンデル燃えよ、水の精ウンデネうねれ、』をやらない、」と云つた。すると、牧野は、(ときど

  きやる、)大形に眉をひそめて、「ウン、今日はゲエテはやめだあ、おい、酒がさめるぢやねえか、」

  と叫んだ(注2)。

 

 河上徹太郎もまた、酔っ払った牧野がしきりに口にする文学といえば、プラトンの対話篇や中世騎士道物

語、それに『ファウスト』や『ドン・キホーテ』であったことを回想している(注3)。「ギリシャ牧野」

と呼ばれる所以は、なかでも、特に牧野がプラトンの対話篇を愛読していたことに由来する(注4)。

 しかし、以上で述べられている事柄は、あくまでも作家個人の伝記的事実といった程度のものにすぎな

い。いいかえれば、作家と先行作品とのあいだにおいてのみ意味を持ち得るような、きわめて特殊且つ閉鎖

的な関係にほかならない。そこから導き出されてくるものは、所詮は、その作家の固有性や特殊性に根ざし

たものばかりである。そうである以上、伝記的事実とは異なった側面からのアプローチのための視点が要請

されなければならない。その点について、たとえば、後藤明生は『小説−いかに読み、いかに書くか』のな

かで、なぜ小説を書くのかという問い掛けを発しつつ、それに「小説を読んだからだ」と答え、作家と先行

作品とのあいだの影響関係を普遍化するような文学論を提示する(注5)。後藤によると「読むこと」は

「書くこと」につながる創造的・実践的な行為であり「自分たちの先輩によって書かれた先行作品を、いか

に読みとるか、いかに読み直すか」「そしてそれを、いかに自分流に『変形』『発展』させるか」すなわち

「模倣と批評」こそが、新たな文学作品を生み出すための基本原理であり、その原動力であることを指摘し

ている。後藤の文学論、創作方法論が、リンダ・ハッチオンが『パロディの理論』のなかで定義する「パロ

ディとは、皮肉な『文脈横断』と転倒を用いた、差異を持った反復」という言説と類似的な関係を持つもの

であることはいうまでもない(注6)。影響関係というきわめて特殊な関係が「読む←→書く」の関係に変

換されることによって、誰にでも当てはまる基本的な構造として普遍化されていることが、はっきりとうか

がえるだろう。と同時に、この原理を踏まえていえば、何から影響を受けたかが問題なのではなく、むしろ

重要な点が、先行作品を読み解くことで作者が何を認識し、いかなる方法によってそれを書き表したかとい

う点にあることがわかってくる。

「ギリシャ牧野」の場合も同様である。「ギリシャ牧野」という呼称を、伝記的事実のような特殊性のレベ

ルに封じこめておく必然性など、微塵も存在しない。古代ギリシャや中世ヨーロッパ文学からの影響を受け

た牧野信一が、そこから何を読み取り、いかなる方法によって自己の文学作品を創造したか。そして、現代

に生きるわれわれが、その牧野のつかんだテーマや方法をいかに読み解き、いかに考察するか。いわば、牧

野信一の文学を探究し、普遍化するためのキーワードとして「ギリシャ牧野」をとらえるべきではなかろう

か。すなわち「ギリシャ牧野」をいかに読むか、という問題の設定である。以下、牧野の小説「村のストア

派」(「新潮」1928年6月)をめぐって「ギリシャ牧野」とは何か、あるいは「ギリシャ牧野」をいか

に読むかといった観点から、牧野信一の文学について探究を試みる。

 

 

「村のストア派」は「ギリシャ牧野」の幻想的な作風が立ち現れてくる最初期の小説であるといわれる。主

人公は、牧野自身とおぼしき樽野という名の小説家。その生活は不甲斐ない樽野のせいで、土地や財産、家

屋までもが次々と抵当に取られ、家じゅう、いたるところに差し押さえのしるしの赤札が貼られている始末

である。生活に困った樽野の妻や同居中の親戚、友人たちは、すでに差し押えられているミカン山に侵入し

ては、こっそりとミカンを売りさばいて、生計を立てている。しかし、肝心の樽野はというと、そんなこと

には一切頓着せず、小説も書かずに一日じゅう自宅の庭先で本を読んだり、昼寝をしたり、望遠鏡を覗いて

村祭りの様子を観察したりと、相も変らずだらしのない生活を送っている。

 話の筋のうえでは、ただそれだけの小説である。話の最後で何らかの事態の好転が見られるわけでもな

く、同居人の林が昼食用の鶏を盗みに出掛ける場面で、小説は幕を閉じる。別の観点からいえば、筋らしい

筋が積極的に排除されているともいえそうであるが、なかでも注意すべきは、そのなかでも一箇所、あまり

に唐突で、奇抜で異様な印象さえ受ける場面が認められるという点である。すなわち、樽野が「発作」を起

こす場面である。差し押さえの赤札が貼られた自宅から引越し、樽野が真面目に小説を書こうと決心したそ

の矢先の出来事である。

 

  「我慢して仕事を始める−」樽野はうつむいてゐる妻に云つた。「我慢? いや、それは取り消しだ。

  僕の創造では、追ひ立て! なんていふ場合ではなくて、吾々の家に、阿母さんが−しまつた、云ふま

  いと云つてゐながら自分がこれだ! 取り消し!−僕は平気なんだよ、つまり−、どんな事件が起つた

  つて、平気だ! と思へば、平気ぢやないか、ええ?」

   などと樽野は、平気ばかりを繰り返してゐたが、肉体は平気の反対らしく、見る見るうちに血の気が

  失せて行つた。

  「ああッ! 変だ変だ、心持はこの通り平気なんだが−おやおや、煙草が手から落ちてしまつたぞ−い

  つもの発作が起つて来たらしい!」

  「黙ってはいけない、話を続けなければいけませんよ。」

   細君は夢中になつて叫んだ。黙ると、そのまま気が遠くなつてしまふのであつた。時々彼が、こんな

  発作に出偶つてゐるうちに、新療法が発見されたのである。喋り続けさへすれば、意識が元に返る−と

  いふ荒療治だつたが、たしかに彼にはそれが効めがあつた。

  「どうぞ、言葉を続けて!」細君は、よろよろとする樽野を救けて寝台へすすめた。そして、今にも呼

  吸を引き取らうとする人間を、呼び返す騒ぎであつた。

 

 そして、このあとアレキサンダー大王がアリストテレスの最も忠実な弟子であったことや、大王の愛馬の

名前がBucephalusであったこと、プラネタリウムの話や悲劇、喜劇の発生に関するエピソードなどが、樽野

の口を通してしゃべり続けられる。辻褄が合っていようがなかろうが、まったく構わない。どんなことでも

構わないから、とにかくしゃべり続けなければならないという。あまりに過激な「新療法」である。しか

し、なぜ牧野は、自分の分身である樽野にこうまで無闇矢鱈にしゃべらせなければならなかったのだろう

か。

 第一にいえることは、いうまでもなく、牧野の言葉に対する過剰なまでのこだわりである。多くの論者が

指摘するように、それを牧野の少年時代の日本語に対する違和感に求めることは、たとえ伝記的事実のレベ

ルに属する事柄であるとはいえ、あながち無駄ではあるまい。すなわち、少年時代の牧野は、アメリカから

帰った父親と英語による会話を楽しんでいたという。どういうわけか、日本語では恥ずかしくてまともに会

話をすることができなかったからだそうである。あるいは、当時、母親に文法の誤りを叱責されて「真に考

へたことや感じたことは、そのまま書くべきものではなく、さういふことは余程むづかしい言葉を用ひて書

くべきだ、さういふ窮屈を忍んで、決まりきつたやうな真面目さうな、厳めしさうな、そして思ひも寄らぬ

大袈裟な美しさうな言葉を連ねなければならぬ」と考えていたことも、後年のエッセイからはうかがえる

(注7)。言葉に対する過剰なまでのこだわり。その点に関していえば、たとえば、佐藤泰正は「牧野信一

の文体の問題−ゼーロンものをめぐって」のなかで、以上にあるような伝記的事実を踏まえたうえで、次の

ように書いている。

 

   これらの体験を同時に、彼が「殆ど終生、母を憎み、父を心から愛してゐたやうである(宇野浩二

  「牧野信一の一生」)という不幸な体験とからみ合わせてみれば、彼の文体への一種屈折した意識と方

  法が、故なきことではないとも知られよう。だが肝心なことは、彼の生い立ちや家庭体験の異常さから

  の解明ではなく、これらの体験を後年の彼がいかに意識化しつつ、語りとってみせたかということであ

  ろう。言わば秘密は、彼の体験ならぬ、その生得の気質にあり、彼がそれを作家の特権としていかに自

  覚的に方法化し、対象化しえてみせたかに、ことの核心はあろう。

 

 すなわち「彼はこの父子体験と母子体験との両極の、はざまに介在する世界を彼特有の手法で押しひろげ

つつ、己の文学のつきせぬ糧ともなしえた」というわけである。しかし、佐藤がいうように、本当に牧野が

「それを作家の特権としていかに自覚的に方法化し、対象化しえてみせたかに、ことの核心」があるという

のであれば、強調すべき点は「父子体験」や「母子体験」ではなく、むしろ、日本語に対する違和感そのも

のにあるというべきである。

 父親と英語で会話することによって、牧野の日常は、いつしか英語と日本語という言語的二重生活を送る

ような状態になっていたものと考えられる。その結果、必然的に表面化してくるのが、英語による日本語の

相対化=非母国語化に向けた働きかけである。英語を話すことができた牧野にとって、日常的に日本語を話

さなければならなかったということは、嫌がうえにも、日本語とは何か、言語とは何かという問題に直面せ

ざるを得なかったに違いない。ひいては、それが、日本語で小説を書くとはいかなることかという問題にま

で発展したであろうことは、容易に推測することができる。あるいは「真に考へたことや感じたことは、そ

のまま書くべきものではなく、さういふことは余程むずかしい言葉を用ひて書くべき」であるという考え方

からは、日常言語を非日常化しようとする積極的な意図さえ読み取れる。もちろん、以上のような事柄が、

ロシア・フォルマリストの一人ヴィクトル・シクロフスキーの提唱する「異化」理論に通じる考え方である

ことはいうまでもない。シクロフスキーは「方法としての芸術」のなかで「もし、多くの人々の複雑な全生

活が無意識のうちに過ごされたとするなら、その生活は存在しなかったのと同じことであろう」というトル

ストイの言葉を引用しつつ、次のように書いている。

 

   それだからこそ、生の感覚を回復し、事物を意識せんがために、石を石らしくするために、芸術と名

  づけられるものが存在するのだ。知ることとしてではなしに見ることとして事物に感覚を与えることが

  芸術の目的であり、日常的に見慣れた事物を奇異なものとして表現する〈非日常化〉の方法が芸術の方

  法であり、そして知覚過程が芸術そのものの目的であるからには、その過程をできるかぎり長びかせね

  ばならぬがゆえに、知覚の困難さと、時間的な長さとを増大する難解な形式の方法が芸術の方法であ

  り、芸術は事物の行動を体験する仕方であって、芸術のなかにつくりだされたものが重要ではないとい

  うことになるのである(注9)。

 

 日本語に対する違和感を通じて、言語とは何か、日本語で小説を書くとはいかなることか、いかに日常言

語を詩的言語に「異化」するか。小説家として出発するに当たり、牧野がこれらの問題に正面から取り組ん

だであろうことは間違いない。このこだわりが、牧野に言葉に対する過剰意識を抱かせることの一端になっ

たといえる。この日本語との格闘の果てに「ギリシャ牧野」の幻想的作風が確立されることとなったことは

いうまでもない。

 

 

 言葉に対する過剰なまでのこだわりについて、補足的に「ギリシャ牧野」時代の代表作の一つに数えられ

る「ゼーロン」(「改造」1931年10月)を見てみよう。「ゼーロン」にあっては、単なる駄馬にすぎな

い馬に五種類もの呼称が与えられていることがわかる。すなわち、その馬の本来の名前であるゼーロンのほ

かに、樽野の「発作」の折にも、その口を通して登場したアレキサンダー大王の愛馬ブセハラス、ギリシャ

神話の天馬ペガサス、ドン・キホーテの愛馬ロシナンテ、そして旧約聖書「サムエル前書」に登場する戦士

ゴリアテである。この点について、野口武彦は「足柄山のロシナンテ−牧野信一『ゼーロン』」のなかで

「ゼーロンという記号内容(シニフィエ)に対するブゼハラス・ペガサス・ロシナンテという三組の記号表

現(シニフィアン)の圧倒的な過剰」を指摘したうえで「幻想とは記号表現系こそが記号内容系よりずっと

実体的であるような境地の謂いなのだ」と説明する。いわば、記号内容が記号表現に反転していくような言

葉の操作が「ゼーロン」にあってはおこなわれているというのである。いったい、これはどういう状態を指

し示しているのであろうか。単なる駄馬がさまざまな名称で呼ばれているのと同様に「ゼーロン」の語り手

であり且つ主人公でもある「私」は、自分の旅の目的地をピエル・フォンと呼ぶ。

 

   私の尊敬する先輩の藤屋八郎氏は、ギリシャ古典から欧州中世紀騎士道文学までの、最も隠れたる研

  究家でその住居を自らピエル・フォンと称してゐる。その山峡の森蔭にある屋敷内には、幾棟かの極め

  て簡素な丸木小屋が点在してゐて、それ等にはそれぞれ「シャルルマーニュの体操場」「ラ・マンチア

  の図書館」「P・R・Bのアトリエ」「イデアの楯」「円卓の館」その他の名称の下に、芸術の道に精

  進する最も貧しい友達のために寄宿舎として与へられることになつてゐた。

 

 ピエル・フォンとは、フランスのワーズ県東部に実在する丘陵の名称である。中世の代表的な城郭がある

という(注11)。中世騎士道文学を愛読していた牧野にとっては、おそらく、一度は訪れてみたいと思っ

ていた憧れの土地であったに違いない。一方「私」の目指す「ピエル・フォン」とは、実際には、ごくあり

ふれた田舎の貸別荘のようなものであったことが、容易に想像される。そこでは、藤屋八郎という貸別荘の

主人を中心に、さまざまな自称「芸術家」たちが入れかわり立ちかわり出入りしては、互いに交際を深めて

いたものと考えられる(注12)。しかし「ゼーロン」にあっては、このような現実が大した意味を持つも

のではないことは、すでに明らかである。むしろ、できるだけ現実を被い隠すように言葉が書き連ねられて

いる点に注意したい。ここからわかることは、牧野が、現実をありのまま忠実に再現しようなどとは考えて

いないという点である。反対に、ごくありふれた田舎の貸別荘をピエル・フォンに見立てること、すなわ

ち、あるがままの現実を夢=憧れの空間に「異化」することにこそ、大きな関心が払われている。その点に

ついていえば、高橋英夫は「引用とトポス」のなかで、E・R・クルツィウスの『ヨーロッパ文学とラテン

中世』所収のトポス論=「場所」論に言及しながら「トポスとは帰するところ『よいトポス』を意味する」

と指摘したうえで、次のように書いている。

 

  「理想郷」と訳されるユートピアの綴りを見れば、本体はトポスなのである。トポスの前に否定の意味

  を表す前綴u(又はou)をつけたものがユートピアで、「どこにもない場所」を意味し、そういうもの

  としてトーマス・モアは空想の理想の島ユートピアを描いたと理解されてきた。しかし『ユートピア』

  には、否定のuよりも、発音上はuと同一であるeuの意味がより強く籠められていたのではないかと想

  像したくなるのだ。euは「よい」「好ましい」「美しい」を示す前綴であり、ユーフォニー(よい音

  調)、ユーフォリア(幸福感、多幸症)などの言葉がある。そもそもヨーロッパという場所がeuを含

  み、もとを辿れば  ギリシャ神話の女神エウロペーである。記憶の女神ムネーモシュネーの娘の一人

  もエウテルペーと呼ばれていた。

   すなわちユートピアは「よい場所」である。よいトポスなのである。どこにもないトポスがよいトポ

  スでもあるという含みにおいて、トーマス・モアはその人文主義者としての見解と夢を「ユートピア」

  に盛りこんだということではなかったか。ユートピアは人間の理想や夢もトポスとの関連なしでは成立

  しないことを自ずと物語っているのである(注13)。

 

 牧野の夢見る「ピエル・フォン」が、実際のピエル・フォンとは、かなりの隔たりがあったであろうこと

は、容易に推察することができる。牧野の「ピエル・フォン」とは、実際のそれというよりは、むしろ「ユ

ートピア」のようなものではなかっただろうか。すなわち、高橋の観点からいえば「よいトポス」である。

あるがままの現実を、いかに非現実化=「よいトポス」化するか。そのための重要な方法として、高橋は

「引用」について言及している。先に紹介したクルツィウスが「トポスは貯蔵庫である」という一節を書き

記していることをを踏まえたうえで、高橋は「トポス形成は引用行為の結実、結晶に他ならない」と指摘し

ている。野口のいう「記号表現(シニフィアン)の圧倒的な過剰」は、まさしくそのことと大いに関連して

いる。小説空間の「よいトポス」化のための「引用」行為が、牧野の創作行為に、言葉に対する過剰なまで

のこだわりをもたらしているといってよい。

 ただし、注意すべき点もある。それは、牧野の小説が決して夢=憧ればかりを描いているわけではないと

いうことである。柳沢孝子が『牧野信一 イデアの猟人』のなかで「牧野の幻想小説は、上昇する夢の裏側

に、ほとんど常に下降する重さをぶら下げている」と指摘するように、あるがままの現実もきちんと書きこ

まれてはいるのである(注14)。決して、夢の一辺倒でもなければ、現実一辺倒でもない。たとえば「ゼ

ーロン」の「私」は、突然歩みをとめたゼーロンを鼓舞するために「新キャンタベリイ」と題する Ballad

を「六脚韻を踏んだアイオン調」で歌う。しかし、その効き目は一向に現れない。まさしく、馬の耳に念

仏、馬耳東風であるが、そうかと思うと、とつぜん、狂ったように走り出したゼーロンから、この「エピク

テート学校の体育場に馳せ参ずるストア学生」気取りの男は何度も地上に振り落とされる始末なのである。

夢想したとたんに現実に引き戻されるという、夢と現実の見事に共存した状態がはっきりと見て取れるだろ

う。それは同時に、抒情と諧謔、夢想家と道化の共存でもある。「ゼーロン」に限らず「ギリシャ牧野」の

小説は、これら相反する要素の組み合わせから成り立っている。互いが相互に引っ張り合う微妙な緊張関係

のうえに「ギリシャ牧野」の幻想的な小説群は形成されているのである。

 夢と現実の共存関係は、同時に両者の分裂関係でもある。その占める割合は、あくまでも五分と五分であ

る。なぜならば、夢を夢として認識するためには、現実を前提としなければならないからである。「ゼーロ

ン」のなかで「私」が「詩は、饑餓に面した明朗な野からより他に私には生れぬ」と呟いているのは、その

ことと関係している。徹底的に「饑餓」の状態=現実にこだわり続けることが、夢を際立たせるのだという

こと、やがては、そこから「詩」=文学も生れてくるだろうということである。牧野が認識したのは、その

両者のあいだの抜き差しならない因果性にほかならない。すなわち、夢と現実のあいだにおける「関係」の

力学の発見である。いいかえれば、小説を書きつつあるみずからの意識が、夢と現実のあいだでいかに分裂

しているかという認識の発見である。小説家である自己の意識の分裂を、小説のなかでいかに客観化し、対

象化するか。そこに「ギリシャ牧野」の文学的課題を認めるべきではなかろうか。したがって「ゼーロン」

においていえば、実際のところ、重要なのは「私」でもゼーロンでもない。目下「ゼーロン」というタイト

ルの小説を書きつつある牧野信一という作家の、夢と現実のあいだを往還し続ける意識の運動=自意識それ

自体が、探求されるべき最重要のテーマであるとはいえないだろうか(注15)。

 

 

 最初の疑問点に戻ろう。なぜ「村のストア派」の樽野は「新療法」と称して、徹底的にしゃべり続けなけ

ればならなかったのだろうか。たとえば、牧野と同時代の作家、中戸川吉二は牧野の死後、その追悼文のな

かで「所謂『わかもの達』を除き、ともかく希臘牧野を読み続けた牧野の先輩は宇野浩二君位のものだつ

た」と書き記している(注16)。この一文からわかることは、宇野浩二と「所謂『わかもの達』」を除け

ば、同時代の作家は、誰一人として「ギリシャ牧野」の小説などは読まなかったということである。それは

すなわち、評価の対象にすらされていなかったということを意味する。「ギリシャ牧野」という呼称が否定

的な意味合いで使われていたことを考えれば、むしろ、馬鹿にされていたと表現した方が適切であるかも知

れない。実際「ギリシャ牧野」の小説は、ペダンティックで、読みにくい。難解なギリシャ語やラテン語、

英語などがいたるところで引用され、古代ギリシャや中世ヨーロッパ文学に親しみのない読者には、まった

く理解できないものであったに違いない(注17)。もちろん「人生いかに生きるべきか」といった人生論

的な立場からの解釈も、まったく役には立たない。何しろ、樽野に代表されるように、牧野の小説の登場人

物たちはいずれも夢想家の性質を持っており、大抵は何もせずぶらぶらしているか、空想をめぐらせている

だけで、人生上の大問題とはまったく無縁の存在だからである。牧野がゴンチャロフの『オブローモフ』を

愛読していたということは、そのことと決して無関係ではあり得ない(注18)。そして、以上の事柄を踏

まえていえば、樽野の「新療法」を同時代の文学、文壇との関係においてとらえることができるのではない

だろうか。

 同人雑誌「十三人」に書いた小説「爪」が島崎藤村の賞賛を受けたのは一九一九年、牧野二十三歳のとき

である。しかし、そのあとの数年間は習作時代とでも呼ぶべき期間であり、本格的に創作活動に専念しはじ

めるのは第一創作集『父を売る子』を刊行する一九二四年ごろからである。一九二四年といえば「文芸時

代」や「文芸戦線」が相次いで創刊され、新感覚派、プロレタリア文学、私小説の三派が鼎立する新しい時

代の幕が開いた年である。これらの運動に触発されるかのように、牧野が旺盛な創作活動を展開しはじめた

ことは、注目に値する。そして、この三派のなかから牧野が選択した小説のジャンルとは、いうまでもなく

私小説である。

 私小説についてはさまざまな角度から議論されているが、基本的にいえるのは、作中の「私」が作者自身

であり、その存在が、きわめて私的で特殊な「個」として描かれているということであろう(注20)。

「近代的自我」の深化、自己同一性の獲得といった概念が、その背景にあることはいうまでもない。世界じ

ゅうでたった一人の、特殊でかけがえのない「個」=「この私」が作者自身を指す以上、小説のなかでは、

事実ありのままが描かれていなければならない。したがって、自分の体験したことだけを正直に告白すれば

よい。それ以外の余計なおしゃべりは、一切必要なし。これが、私小説の本質である。いわば、言葉による

虚構性、小説の方法論の否定であり、排除である。「新療法」と比較して、いかに正反対であるかがはっき

りとうかがえるに違いない。樽野の「新療法」とは「省略による余韻」「行間の美学」といった言葉のスト

イシズムに対する「反美学」であり、グロテスクなまでの言葉の逸脱、迷走であり、過激なまでの「自己分

裂」=「自己解体」にほかならないからである(注21)。もはや「新療法」を描くことで、牧野が同時代

の文学、文壇を批判していることが明らかだろう。すなわち、言葉のストイシズムあるいは「近代的自我

」の深化といった固定観念にとらわれた、所謂「文学」に対する痛烈な批判であり、否定である。一人のだ

らしない小説家に無闇矢鱈としゃべらせることで、牧野は、いわゆる「雄弁は銀、沈黙は金なり」という思

想のパロディー化を試みたといってよい。そして、それは同時に「沈黙は銀、雄弁は金なり」という、牧野

の文学宣言でもあったのである。

 グロテスクなまでの言葉の逸脱、迷走、あるいは「近代的自我」の深化に対する「自己分裂」=「自己解

体」。この考え方に最も忠実に書かれた小説の一つとして、ロレンス・スターンの『トリストラム・シャン

ディ』をあげることができるのではないだろうか。事実、牧野はスターンを愛読していたばかりでなく、ス

ターンのもう一つの小説である『センチメンタル・ジャーニー』をパロディー化した「風流旅行」(「新

潮」1936年11月)という作品まで書いている。『トリストラム・シャンディ』が世界文学史上、屈指の

問題作であることは、もはやいうまでもないことだろう。スターンを日本に最初に紹介した夏目漱石は「単

に主人公なきのみならず、又結構なし、無始無終なり、尾か頭か心元なき事海鼠の如し」と書いているが、

確かに筋らしい筋はほとんどなく、主人公であるトリストラムが誕生するのも全九巻中、第三巻の終り近く

になってからという、まことに奇妙な小説である。真黒に塗り潰されたページがある。ヨリック牧師の死去

に対して、追悼の意を表しているのだという。あるいは、何本もの不規則で奇怪な曲線が描かれてある。そ

れまでの話の進行具合を「線」で書き表したものであるという。この曲線からもわかる通り、話は脱線、脱

線また脱線、作者が何を語りたいのか、まったく見当もつかない状態である。その点について、ヴィクトル

・シクロフスキーは「パロディの長編小説−スターン『トリストラム・シャンディ』」のなかで「スターン

は徹底した形式の革命家であった。方法を剥き出しのかたちで露わにすることは、彼にとって特徴的なもの

である」と解説したうえで、その特徴を「小説の構造そのものに重点が置かれ、形式の破壊による形式の自

覚が小説の内容をも作りだしている」点に見出している(注23)。つまり、従来の小説の形式を徹底的に

破壊することが、作者・スターンの意図するところであったということであるが、話の脱線は言葉の逸脱、

迷走である。実際、この点について、語り手の「私」は、次のように語っている。

 

   既知の世界のあらゆる地域を通じて現今用いられている、一巻の書物を書きはじめる際の数多くの方

  法の中で、私は私自身のやり方こそ最上なのだと確信しています−同時に最も宗教的なやり方であるこ

  とも、疑いをいれません−私はまず最初の一文を書きます−そしてそれにつづく第二の文章は、全能の

  神におまかせするのです(注24)。

 

 樽野の「新療法」が、とにかく、無闇矢鱈にしゃべり続けることを信条としたように「私」の主張する創

作方法もまた、言葉の持つ運動性=自己増殖性に賭けられている。「全能の神におまかせする」とは、これ

から先の話がどのように展開していくのか、語り手自身にもわからないことを意味する。いわば、それは、

安定した物語展開=予定調和に対する「反予定調和」化である。漱石が「無始無終」と評したのも無理はな

い。また、シクロフスキーが「スターンの長編小説と通常の長編小説とのあいだにある差は、超意味言語に

よって書かれた未来主義の詩と音響に基礎を置く作詞法に従った普通の詩とのあいだにある差とまったく同

じようなものである」とも書いているように、そこには「超意味言語」としての言葉の有り様もふくまれて

いるのではないかと考えられる(注25)。シクロフスキーが具体的に念頭に置いているのは、フレーブニ

コフやマヤコフスキーといったロシア未来派の詩であると思われるが、水野忠夫は『ロシア・アヴァンギャ

ルド 未完の芸術革命』のなかにおいて「言葉を分解し、それを伝統的な意味から解放し、言葉の形、音、

響きを重視した超意味言語は、言葉の自立性を探究しつつ、解体された意味を根源的に問い直すところから

創造されたもの」であると説明している(注26)。つまり「超意味言語」とは、意味よりも言葉そのもの

としての言葉、事物としての言葉を指向した言葉のことである。

 物語展開の「反予定調和」性や「超意味言語」としての言葉、これらから連想されるのは、シュルレアリ

スムにおける「自動記述」という方法である。「自動記述」とは、一九一九年、フランスの詩人アンドレ・

ブルトンによって提唱された実験的な記述方法であり、シュルレアリスム運動の基礎を支えた重要な方法の

一つである。あらゆる先入観を捨て去り、速く、しかも自動的に文章を書く行為を指す。ブルトンは「シュ

ルレアリスム宣言」のなかで、はじめて「自動記述」を試みたときのことを、次のように書いている。

 

   そのころ私はまだフロイトに没頭していたし、彼の判断方法に親しみ、戦争中にはそれを患者たちに

  適用してみる機会もすこしばかりあったので、そこでは患者から得ることをもとめられているものを、

  つまり、できるだけ早口に語られる独り言を、自分自身から得ようと決意したのだった。すなわち、被

  験者の批判的精神がそれに対してどんな判断もくだすことがなく、したがってどんな故意の言いおとし

  にもさまたげられることがない、しかも、できるだけ正確に語られた思考になっているような独り言を

  である。思考の速度は言葉の速度にまさるものではなく、思考はかならずしも舌を、それどころか走り

  書きのペンをすらよせつけないものではない−あの筒切りにされた男という文句のおとずれた次第がそ

  のことを証明していたが−と私には思えたし、いまもそう思えるのだ。こうした意向のもとに、これら

  最初の結論をあらかじめ知らせてあったフィリップ・スーポーと、そして私のふたりは、文学的にどん

  な結果が生じうるかなどはみごとに無視して、紙に字を書きまくることをくわだてた(注27)。

 

 その結果、ブルトンとスーポーの文章には「おなじ構文上の不備、おなじ性質の失敗、しかしまた双方

の、異常な精彩にとむ幻想、多くの感動、これまで長い時間をかけてもただひとつとして用意することがで

きなかったような性質の、相当な量のイメージの集成。すこぶる特殊な絵画性、またそこここに、なにかす

るどい滑稽味のある提言」が認められたという。引用文からもうかがえるように「自動記述」という方法

が、フロイトの精神分析に多大な影響を受けていることはいうまでもない。フロイトは催眠術の代わりに自

由連想法を用いてヒステリー治療をおこない、その治療法に「精神分析」と名づけている。しかし、シュル

レアリスムの「自動記述」が「書く」という行為そのものの根本的な見直しを迫っている点で、精神分析と

は異なる。以上の事柄を踏まえていえば、樽野の「発作」もヒステリー症状の一種であり、無闇矢鱈にしゃ

べり続ける「新療法」は、フロイトの精神分析と関連があるとはいえないだろうか(注28)。いや、精神

分析というよりは、むしろ「自動記述」そのものに相当するといえるのではないか。なぜならば、シュルレ

アリストたちの「自動記述」が「書く」という行為の再検討を提唱しているのと同様に、樽野の「新療法」

にあっても、言葉に対する徹底したこだわりと同時代の「文学」に対する批判とが内在しているからであ

る。もちろん、それは、牧野が精神分析やシュルレアリスムに熟知していたということを意味しない。しか

し、両者の奇妙な類似性から、樽野の「新療法」は、牧野にとっての「シュルレアリスム宣言」であったと

いうことは可能である。

 牧野とシュルレアリストたちの「文学」に対するスタンスは、ある意味において、共通している。双方と

もに、言葉に対する徹底したこだわりと物語展開の「反予定調和」性を自らの文学の基礎に据えている。こ

れらのポイントが、彼らとそれ以外の作家たちとを峻別する分岐点になっているといえそうであるが、この

ことはスターンや夏目漱石の場合にも当てはまる。スターンの『トリストラム・シャンディ』を、フィール

ディングやリチャードソンといったスターンの同時代の作家たちの「文学」に対する批判という観点から読

むことは、充分、可能であろうし、漱石の『吾輩は猫である』や『草枕』といった小説が、同時代の自然主

義文学といかに真向から対立しているか、一目瞭然である。彼らもまた、同時代の「文学」を批判すること

から、自らの文学活動を開始しているのである。牧野とシュルレアリスト、スターン、それに漱石は、少な

くとも「文学」批判という立場において、共通の基礎のうえに立っているということがいえるだろう。

 

 

 しかし、果たしてそれだけだろうか。ただ単に「文学」批判のためだけに、牧野は「新療法」を書いたの

だろうか。その点については「発作」を起こし「新療法」と称して、無闇矢鱈にしゃべり続ける樽野に対し

て、樽野の妻の受け答えに注意を向ける必要がある。すなわち、まず樽野が、アレキサンダー大王の話を持

ち出して、思想的、抽象的な意味合いにおいて「僕のアレキサンドリアの建設を計らうと思つてゐる」と発

言しているにもかかわらず、妻は樽野の意図するところに反して「東京の郊外へでも行って、バルコンのつ

いた家を建てないこと、あなたは家の設計図をかいてゐたの−嬉しい」といって喜んでいる。次に「大王

が、その愛馬をBucephalusと称んだのは、何故か? 物語らう」という樽野に対して、今度は「あら、それ

は馬の名前だつたの!」と叫んで樽野の話の腰を折る。そして、引き続き「あたし、オートバイの、英語で

ない、単語かと思つてゐたわ。だつて、あなたは、いつも俺のBucephalusと云つてゐるんですもの」といい

出して「一般には乗馬のことをさう云つてゐるから−だが、もとを正せば−」と、あくまでもBucephalusと

いう言葉の由来に固執する樽野を尻目に「もう三月も前からガソリンがなくなつて、手紙をとりに行くにも

歩いて行くのよ」とオートバイの話を捲し立て、結局、樽野の話を立ち消えにしてしまう。

 以上の個所から読み取れることは、樽野と樽野の妻の会話が、肝心な部分で、いつもズレてしまうという

事実である。こうした会話のズレは、実際の日常生活においても、しばしば見られる。しかし「新療法」の

場面では、それが、意識的に誇張して使われている点で注目に値する。ここまで激しく会話がズレるとなれ

ば、妻が意図的に樽野をからかっていると見なした方が、むしろ自然ではないか。すなわち、きわめて思想

的、抽象的且つ超俗的な立場にあくまで固執し続ける樽野に対する、世俗的且つ現実的な妻のからかい、ふ

ざけである。作者である牧野が、決して樽野の立場にこだわっているわけではないということがわかるだろ

う。いや、むしろ、樽野を妻と対峙させ、妻にからかわれることに積極的な関心が払われているようにさえ

見受けられる。いわば、樽野はその家族の一員であり、同時にまったく異なった価値観を持つ妻の「眼」を

通して描かれているのである。あたかも、他者と「関係」することにおいてのみ、自己が存在し得ると主張

しているかのようである。もちろん、妻の「眼」だけではない。たとえば、次の文章は同居している妻の

弟、正吉の「眼」を通して語られる樽野の様子である。

 

   姉は東京へ出かけて留守で、林はこの頃稍々ともすれば酒を欲してその晩も村の居酒屋から帰らなか

  った。彼等三人が座敷に寝て、樽野は隣りの自分の部屋に中から鍵を降して、時々小声で何かブツブツ

  と呟いたりしながらいつも独りで暮してゐた。ふと正吉は眼を醒すと、独りでゐることが馬鹿に寂しか

  つた。隣りの樽野は、醒めてゐるらしかつたが例の呟きが、時々訳の解らない歌になつたり、さうかと

  思ふと何を感違ひしてか独りでクスクス笑つたりするのだ。正吉は、酷く薄気味悪かつた。

 

 正吉の「眼」を通して語られる樽野もまた、いかに滑稽な存在として描かれているかがよくわかる。確か

に、例によって、樽野は部屋のなかで深淵な思想を語っているのかも知れない。しかし、正吉からすれば、

それは単なる「呟き」であり「訳の解らない歌」であり「クスクス笑い」でしかないのである。いわば、怠

け者の戯言である。そうである以上、正吉が樽野に対して「薄気味悪」く感じるのも、当然だろう。もは

や、牧野が、自分の分身である樽野を戯画化して描いていることがはっきりとうかがえる。その点からいえ

ば、牧野=樽野では決してあり得ない。いわば、牧野は批評的距離を持って樽野を描いているといってよい

のではなかろうか(注29)。しかし、もちろん、それは樽野にだけ限ったことではない。そういう正吉で

さえ、この場面のすぐあとで「宵の九時か十時だとばかり思つて」散歩に出ると、すでに明け方だったとい

う肩透かしを食うことになるのである。樽野を戯画化していたはずの正吉でさえもが、このように戯画化さ

れている。このことからわかるように、互いに異なる価値観を持った他者同士の「関係」およびそこから生

じる相対化、戯画化を小説のなかに構造化することが、牧野の創作方法の重要なポイントの一つになってい

るのである。その点に関して、ミハイル・バフチンは『ドストエフスキイ論−創作方法の諸問題』のなか

で、ドストエフスキーの小説を「ポリフォニイ小説」と名づけたうえで、次のように書いている。

 

   それぞれに独立して溶け合うことのない声と意識たち、そのぞれぞれに重みのある声の対位法を駆使

  したポリフォニイこそドストエフスキイの小説の基本的性格である。多くの性格や運命がひとりの作家

  の意識の光に照らされて展開するのではなくて、それらの世界と等価値の多くの意識たちが、その個性

  を保持しつつ、連続する事件を貫いて結び合わされる。実際ドストエフスキイの主人公たちは、作者の

  発想のそもそもから、ただ単に作者の言葉の対象たるにとどまらず、個々それぞれに意味を持った言葉

  の主体なのだ(注30)。

 

 なかでも注目すべきは、ドストエフスキーの小説が「独立して溶け合うことのない声と意識たち」の共存

関係=「ポリフォニイ」によって成り立っているという指摘である。試みに、正吉の「眼」を通して語られ

た樽野の場面を例にあげれば、この部分では、樽野、正吉、語り手、作者と少なくとも四種類の「意識」が

重層化されている。いうまでもなく、樽野は深淵な思想を独りで語っているであろうし、正吉は樽野の独り

言を「呟き」や「訳の解らない歌」や「クスクス笑い」と感じて気味悪がっている。語り手はそのような樽

野や正吉の様子を語り、作者はそのことを文章に書いている。あるいは、樽野の「深淵な思想」には、古来

の思想家や哲学者の言葉=「声」が引用されているかも知れない。もしそうだとすれば、その人物の声=

「意識」も当然、数に入れなければならない。つまり、われわれ読者に話が伝達されるまでに、複数の「意

識」が媒介とされているのである。バフチンのいう「ポリフォニイ」が、これら意識の重層性と通じるもの

であることは確かだろう。だとすれば「それぞれに独立して溶け合うことのない声と意識たち」の重層化す

る「村のストア派」もまた、非常に「ポリフォニック」な小説であるといえるのではないだろうか。

 さらに、バフチンは「ポリフォニイ小説」の源流に「メニッポスの諷刺」「ソクラテスの対話」という過

去のジャンルの存在を指摘している。なかでも「ソクラテスの対話」は、牧野の愛読書の一つであったプラ

トンの対話篇とまさにそのまま重なり合うのである。井伏鱒二も牧野と初対面の折、牧野が「俺はプラトン

を読めば書ける。書きにくいときには、プラトンを読む。さうすると必ず書ける」と断言していたと書いて

いる(注31)。実際、牧野がプラトンを研究していたであろうことは、樽野の読書傾向を見れば明らかで

ある。

 

   折も折、この頃の樽野の読書は、十年のプラトンを出でて、アリストートルの“Meta”に一歩を踏み

  入れたところであつた。彼は、時の隔りを忘れて、熟読に没頭する歴史の愛好家であつた。彼が初めて

  「混沌時代」の扉を開いて、次々の哲学者の門をラマンチアのドン・キホーテ的情熱で振り仰ぎながら

  プラトンに至るので十年の旅路であつた。この勢ひで計算すると、彼の歴史研究は彼が百歳にならない

  と、近世の思想には達し得ないわけであつた。

 

 もちろん、小説である以上、それが事実そのままの記述であるとはいい切れない。しかし、牧野がプラト

ンを愛読していたことだけは間違いない。牧野がプラトンから何を読み取り、それをいかに小説化したか、

それは今後の課題としなければならない。ただし、一つだけつけ加えることがあるとすれば、それはプラト

ンの対話篇もまた、その師・ソクラテスを敵対するさまざまな他者との「対話」=「関係」において描き出

しているということである(注32)。

 ところで、一九九六年は牧野生誕からちょうど百年目に当たる。ということは、樽野の「歴史研究」もよ

うやく「近世の思想」に達したわけである。バフチンは「叙事詩と長篇小説」のなかで「小説はその本性か

らして規範的ではない。それは可塑性そのものである。それは永遠に求める、自分自身を探究する、すべて

の自分の出来上がった形式を再検討するジャンルである」と定義しているが、その意味からすれば、樽野の

「歴史研究」もまた、小説とは何かというジャンルに対する「再検討」にほかならないということができる

(注33)。すなわち、かつて、どんな時代にどんな小説が存在したか、あるいは存在しなかったかという

ことについての探究であり、後藤明生の言葉でいえば「小説自体への反省と自己批評」である。後藤は「小

説の未来は小説の過去にある」としたうえで、牧野の文学を「夢のプログラム」「百年遍歴の夢」と評して

いるが、牧野生誕からちょうど百年がたった現在、牧野の文学を「ラマンチアのドン・キホーテ的情熱」で

もって探究するべきときではなかろうか。バフチンがドストエフスキーの「ポリフォニイ小説」の源流をは

るか古代ギリシャの「メニッポスの諷刺」や「ソクラテスの対話」に求めたように、牧野の古代ギリシャ、

中世ヨーロッパ文学志向を「小説自体への反省と自己批評」にうながされたジャンルの探究=「再検討」と

してとらえ直す必要性があるのではないだろうか。「ギリシャ牧野」の可能性は、そこにある。繰り返して

いうが、しばしば使われる「ギリシャ牧野」という呼称を、伝記的事実のような特殊性のレベルに封じこめ

ておくべきではない。「ギリシャ牧野」とは何か、あるいは「ギリシャ牧野」をいかに読むか、ジャンルの

「再検討」といった観点から牧野の文学を探究し、普遍化することが、現代のわれわれが実践すべき「歴史

研究」だといえるのである。

                                     (1995年7月5日)

 

【注】

 (1) 柳沢孝子「解説」(『バラルダ物語』福武文庫、1990年6月)

 (2) 宇野浩二「文芸よもやま談義」所収「牧野信一の一生」(『宇野浩二全集』第11巻、中央公論

    社、1969年3月)

 (3) 河上徹太郎「わがデカダンス」所収「牧野信一をめぐって」(『河上徹太郎全集』第2巻、勁草

    書房、1969年6月)

 (4) 和田博文は「『独りにとつてのみの』『怖ろしき陶酔』」(『単独者の場所』双文社出版、19

    89年12月)のなかで、牧野がプラトンやアリストテレス以外にも、セルバンテスやゲーテに多

    く言及していることに触れて「つまり幻想の成分たりうるならば、古代ギリシャ世界という時空間

    に限定する必要は全くなかったのである」と書いている。確かに、それはその通りである。しか

    し、牧野の目指した「笑いの文学」(「文学とは何ぞや」)に、ミハイル・バフチンのいう「カー

    ニバル的世界感覚」が貫かれていると考える筆者としては、その源流に位置する「古代ギリシャ」

    の「ギリシャ」という言葉にあえてこだわりたい。ただし、本稿では、それについて触れるだけの

    余裕はない。

 (5) 後藤明生『小説−いかに読み、いかに書くか』(講談社現代新書、1983年3月)

 (6) リンダ・ハッチオン『パロディの理論』(辻麻子訳、未来社、1993年3月)

 (7) 牧野信一「文学的自叙伝」(「新潮」1935年7月)

 (8) 佐藤泰正「牧野信一の文体の問題−ゼーロンものをめぐって−」(「國文学」1974年6月)

 (9) ヴィクトル・シクロフスキー「方法としての芸術」(『散文の理論』水野忠夫訳、せりか書房、

    1971年6月)

 (10) 野口武彦「足柄山のロシナンテ−牧野信一『ゼーロン』」(『文化記号としての文体』ぺりかん

    社、1987年9月)

 (11) 瀬沼茂樹「注解」(『現代日本文学館25』文芸春秋、1969年4月)

 (12) 柳沢孝子『牧野信一 イデアの猟人』(小沢書店、1990年5月)によれば「ピエル・フォ

    ン」とは「栢山駅の西北西約九キロの地点にある矢倉沢あるいは地蔵堂の村落(ともに矢倉嶽山

    麓)を指すとしか考えられない」そうであるが、藤屋八郎のモデルである瀬戸佐太郎やそのほか大

    勢の友人たちとともに、毎晩のようにもよおされる酒宴は、おもに小田原の街のなかで開かれてい

    たらしい。

 (13) 高橋英夫「引用とトポス」(「新潮」1995年10月)

 (14) (注12)参照。

 (15) 横光利一は「純粋小説論」(「改造」1935年4月)のなかで「自分を見る自分」=自意識を

    いかに書くかが現代作家らとっての最重要課題であると主張している。所謂「第四人称」の提唱で

    あるが、この課題と牧野のテーマが同一であるとは考えられないだろうか。

 (16) 中戸川吉二「可哀想な詩人牧野よ」(「文芸春秋」1936年5月)

 (17) 牧野のペダンティシズムについては、今後の課題としなければならない。しかし、なぜ、牧野の

    小説には日本の古典作品がの引用が皆無なのだろうか。確かに「ゼーロン」でいえば「をしめども

    春のかぎりの今日の日の夕暮にさへなりにけるかな」(よみ人知らず)という『後撰和歌集』所収

    の和歌が引用されている。しかし、それが目立たないのも事実である。その点からいえば、日本の

    古典からの引用も多い芥川龍之介のペダンティシズムとは、大いに異なる。ペダンティシズムとい

    う観点から、牧野と芥川を比較する必要もあるように思われる。

 (18) 藤森淳三「文壇新人論(5)牧野信一論」(「新潮」1927年6月)ただし、牧野の描く夢想

    家は決まって貧乏であり、いわば金のない「オブローモフ」である。その意味からいえば、パロデ

    ィーとしての「オブローモフ」であるといってよい。

 (19) 武田信明は「二つの『鏡地獄』−乱歩と牧野信一における複数の『私』」(「群像」1992年

    6月)のなかで、牧野の「私小説」について、次のように書いている。「牧野の私小説の最大の欠

    陥は、牧野自身の言葉で言うなら主人公が『客観』化できないこと、つまり作中の『私』と記述し

    つつある『私』がロジカル・タイプの禁を破り、混淆としてしまうことにあった。『ゲーデル・エ

    ッシャー・バッハ』でのダグラス・R・ホフスタッターの言葉を借りるなら、自己が自己自身を記

    述するという行為によって、作中の『私』とメタレベルにいる『私』の間で『階層のもつれ』ある

    いは『不思議な環』が形成されてしまうのである」。いわば「私小説」とは何か、ということに徹

    底してこだわり続けることで、反対に解体されてしまうような「私小説」なのである。「私小説」

    批判としての「私小説」とでもいえばよいだろうか。

 (20) 後藤明生『小説は何処から来たか』(白地社、1995年7月)「いかに自分が『近代的な私』

    として自立しているか。それをありのままに告白するのに『方法』は不要であった。したがって、

    ありのままの『私』の『生き方』をありのまま書き表すために彼らが必要としたのは、書くための

    『方法』ではなく、いかに生きるかという『方法』であった。この『方法』が、いわゆる『生き

    方』=人格であることは、いうまでもない。そしてその『私』は無原則な『個』であったから、そ

    のありのままの『生き方』を書くことが、その作家の個性すなわち特殊性となった。こうして、

    『個』=特殊としての『私』を普遍化する方法としてのフィクションを放棄することによって、わ

    が国の『私小説』は成立したのである」。

 (21) (注20)参照。後藤は「近代的自我」の深化の系譜に属する「写実的」な小説に対して「自己分

    裂」=「自己解体」の系譜に属する小説を提示する。すなわち『浮雲』のはじまる「幻想喜劇派」

    「ペテルブルグ派」の小説であり「内的格闘、心理的なもの」といった「内面」からではなく「関

    係」から出発している小説である。

 (22) 夏目漱石「トリストラム・シャンデー」(『漱石全集』第13巻、岩波書店、1995年2月)

 (23) ヴィクトル・シクロフスキー「パロディの長篇小説−スターン『トリストラム・シャンディ』」

   (『散文の理論』所収)

 (24) ロレンス・スターン『トリストラム・シャディ』下巻(朱牟田夏雄訳、岩波文庫、1969年1

    0月)

 (25) (注23)参照。

 (26) 水野忠夫『ロシア・アヴァンギャルド 未完の芸術革命』(PARCO出版局、1985年11

    月)

 (27) アンドレ・ブルトン「シュルレアリスム宣言」(『シュルレアリスム宣言・溶ける魚』巌谷國士

    訳、岩波文庫、1992年6月)

 (28) 変態心理はともかくとして、牧野が精神分析に熟知していたかどうかは不明である。しかし「村

    のストア派」発表の1928年には、すでにフロイトの『精神分析入門』(安田徳太郎訳、アル

    ス、1925年3月〜1927年11月)が出版されていたし、翌年には、二種類のフロイト全集

    が発刊され、フロイト・ブームが起こる。牧野が、それらを知っていても不思議ではない。樽野の

    「発作」と「新療法」が、変態心理あるいは精神分析に対する意図的なパロディーである可能性は

    大きい。

 (29) 批評的距離を持って作中人物を描くことに関して、夏目漱石の「写生文」は非常に示唆的である

    (『漱石全集』第16巻、岩波書店、1995年4月)

 (30) ミハイル・バフチン『ドストエフスキイ論−創作方法の諸問題』(新谷敬三郎訳、冬樹社、19

    74年8月)

 (31) 井伏鱒二「牧野信一のこと」(『文士の風貌』福武書店、1991年4月)

 (32) たとえば『饗宴』においては、ソクラテスは真理を語るだけでなく、アルキビアデスによってや

    りこめられて「もう沢山だよ」と悲鳴(?)すらあげてしまう。ソクラテスはパイドロス以下の人

    々を相対化すると同時に、アルキビアデスによって相対化されている。このソクラテスの描かれ方

    は、樽野のそれとは似ていないだろうか。

 (33) ミハイル・バフチン「叙事詩と長篇小説」(『叙事詩と小説−ミハイル・バフチン著作集』第7

    巻、川端香男里/伊東一郎/佐々木寛訳、新時代社、1982年2月)

 (34) (注20)参照。

 

【附記】

  「村のストア派」「ゼーロン」からの引用は、人文書院版『牧野信一全集』に拠る。