後藤明生年譜

 

 1932(昭和7)年

四月四日、朝鮮咸鏡南道永興郡永興邑(現在の朝鮮民主主義人民共和国)で生れる。父規矩次、母美知恵の

次男。本名明正。曽祖父は「日韓併合」後、間もなく朝鮮へ出掛けた宮大工。父は後藤規矩次商店を経営、

予備役の陸軍歩兵中尉だった。

 1939(昭和14)年 7歳

四月、永興尋常高等小学校(日本人小学校)に入学。翌々年から、国民学校に改称される。

 1945(昭和20)年 13歳

三月、永興国民学校卒業。四月、旧制元山公立中学校入学。同級生のなかに、後に韓国で作家となる李洪哲

がいた。陸軍士官学校を志望しつつも、八月一五日、敗戦。朝鮮独立、ソ連軍の進駐により、生れ故郷は

「外国」となる。一〇月、日本人収容所を追放され、安辺郡安辺邑花山里の農家・金潤后宅の別棟オンドル

間を借りて越冬。一一月、父が死亡。一週間後、父の後を追うように祖母が死亡。花山里の山に埋葬され

る。

 1946(昭和21)年 14歳

五月、十日間歩き続けて、三八度線を越境。山口県仙崎港に上陸後、福岡県に引き揚げる。旧制福岡県立朝

倉中学校一年に転入(その後、学制改革により、朝倉中学は新制高校となる)。

 1947(昭和22)年 15歳

硬式野球部に入部。福岡県南部地区予選に二度出場する(代打にて)。一日も早く「日本」に同化したいと

思い「ゲナ」「バイ」「バッテン」その他の「筑前言葉」習得に励む。

 1949(昭和24)年 17歳

野球部を退部。岩波書店版『芥川龍之介全集』を皮切りに、内外の文学全集や戦後文学を濫読する。文芸部

に所属し、卒業までの間に友人たちとガリ版刷りの同人雑誌「樹」を発刊、学生歌の作詞なども手掛ける。

 1952(昭和27)年 20歳

三月、朝倉高等学校卒業。その後、同期の卒業生たちによって、朝倉高校二七会(同窓会)が結成される。

二葉亭四迷に憧れて、東京外国語大学露文科を受験するも不合格。英語を勉強するため、四月から半年間、

慶應外語学校(英文科)に通う。当初は上級クラスに所属するも、とつぜん、詩人・西脇順三郎が講師とし

て登場。シェリーやキーツについての講義がはじまったので驚く。急遽、中級クラスに変更する。四月四

日、満二十歳の誕生日を境として、煙草を喫いはじめる。ゴーゴリの『外套』や『鼻』『ネフスキー大通

り』等を耽読。

 1953(昭和28)年 21歳

四月、早稲田大学第二文学部露西亜文学科入学。いかなる組織にも所属せず、ゴーゴリのことだけを考える

ように努める。通産省産業工芸試験所図書室にて、アルバイトをはじめる。ボッシュ、クレー、モンドリア

ン等の絵画を知り、刺激を受ける。

 1955(昭和30)年 23歳

「赤と黒の記憶」が、第四回学生小説コンクール入選作として「文藝」一一月号に掲載される(選考委員・

青野季吉、臼井吉見、川端康成、佐多稲子、丹羽文雄)。中村博保(後の富士フェニックス短期大学教授・

上田秋成研究、故人)や水城顕(後の「すばる」編集長、作家・石和鷹、故人)たちと「新早稲田文学」を

創刊。講演依頼のため、伊藤整を訪問。お茶をごちそうになったが、断られる。続いて、小島信夫を訪問。

「諷刺と抽象」という演題を用意していったが、やはり断られる。しかし、その後、しばしば訪問するよう

になる。カフカの『変身』『審判』『城』や上田秋成の『雨月物語』等を耽読。

 1956(昭和31)年 24歳。

原因不明ながらも「新早稲田文学」にスポンサーがつく。「作家にきく創作方法」という対談を企画、小島

信夫、安岡章太郎を訪問するも、間もなくスポンサーが行方不明となり、「新早稲田文学」は廃刊。この

頃、亀有にある東京学生社にて、高校入試模擬試験の採点アルバイトをする。

 1957(昭和32)年 25歳

三月、早稲田大学露文科卒業。卒業論文は「ゴーゴリ中期の中篇小説」。卒業論文の主査は横田瑞穂教授。

どこにも就職せず、卒業式の翌日、福岡に帰郷。兄の家に寄宿しながら、福岡市内の図書館に通って『ドス

トエフスキー全集』を読む。ある日、武田泰淳の『司馬遷』を読み、ショックを受ける。秋頃から、福岡市

の保健所臨時アルバイト職員として働く。

 1958(昭和33)年 26歳

三月、一年ぶりに上京。大学の先輩の尽力により、博報堂ラジオ・テレビ企画制作部嘱託となる。古本屋か

額縁屋だと思い込んでいたが、実際に行くと立派な建物だったので、非常に驚く。広告代理店という存在を

はじめて知る。月給一万五千円。民放ラジオのCM、ディスクジョッキー、ドラマ番組の企画等を担当。

「ドストエフスキーではありません。トリスウィスキーです」という会心のCMを作ったが、ボツにされ

る。

 1959(昭和34)年 27歳

三月、博報堂退社。平凡出版株式会社(現マガジンハウス)入社。週刊誌編集部員となる。月給二万二千

円。

 1960(昭和35)年 28歳

一一月、武蔵野女子高校の英語教師だった佐伯暁子と結婚。

 1961(昭和36)年 29歳

河出書房新社主催「文芸の会」に出席。小川国夫、菅野昭正、立原正秋、辻邦生、丸谷才一等を知る。

 1962(昭和37)年 30歳

三月、「関係」が第一回文芸賞中短篇部門佳作として「文藝」復刊号に掲載される(選考委員・寺田透、中

村真一郎、野間宏、埴谷雄高、福田恆存)。三月二九日、長男三十郎誕生。

 1963(昭和38)年 31歳

一二月、埼玉県草加市の松原団地に転居。

 1965(昭和40)年 33歳

五月、立原正秋の勧めにより、同人雑誌「犀」同人となる。このとき、岡松和夫、加賀乙彦、佐江衆一、白

川正芳、高井有一、遠丸立、兵藤正之助等の同人および顧問の埴谷雄高、藤枝静男、本多秋五を知る。八

月、「犀」第四号に「原因不明の世界−小島信夫は不明晰か?」を執筆。

 1966(昭和41)年 34歳

一月、「犀」第五号に「もうひとつの部屋」を、一〇月、第七号に「離れざる顔」を発表。一〇月二八日、

長女元子誕生。

 1967(昭和42)年 35歳

「離れざる顔」が同人雑誌推薦作として「文學界」一月号に転載される。「人間の病気」を「文學界」三月

号に発表。第五七回芥川賞候補作となる(選考委員・井上靖、石川淳、石川達三、川端康成、滝井孝作、中

村光夫、永井龍男、丹羽文雄、舟橋聖一、大岡昇平、三島由紀夫)。七月、胃をこわして、信州八ヶ岳山麓

の渋温泉に出掛ける。

 1968(昭和43)年 36歳

三月、平凡出版を退社。昨年の渋温泉行きを題材とした「S温泉からの報告」を「新潮」四月号に発表。第

五九回芥川賞候補作となる(選考委員・同前)。「私的生活」を「新潮」九月号に発表。第六〇回芥川賞候

補作となる(選考委員・同前)。

 1969(昭和44)年 37歳

二月、第七次「早稲田文学」が復刊し、編集委員となる。「笑い地獄」を「早稲田文学」復刊第一号に発

表。第六一回芥川賞候補作となる(選考委員・同前)。「ああ胸が痛い」を「文學界」七月号に発表。九

月、作品集『私的生活』が新潮社、『笑い地獄』が文藝春秋から刊行される。この頃、檀一雄の勧めによ

り、「ポリタイア」(発行・近畿大学出版局)同人となり、森敦、世耕政隆(近畿大学総長)等を知る。

 1970(昭和45)年 38歳

阿部昭、黒井千次、坂上弘、古井由吉との座談会「現代作家の条件」が「文藝」三月号に掲載される。これ

以後、「内向の世代」の作家たちを中心メンバーとする座談会が、数回にわたって、「文藝」を中心に持た

れる。同じく、宇波彰、柄谷行人、李恢成との座談会「虚構と現実について」が「三田文学」三月号に掲載

される。三月、「ああ胸が痛い」により第一回埼玉文芸賞(小説部門選考委員・打木村治、桂英澄、高橋玄

洋)を受賞。秋山駿、阿部昭、黒井千次、坂上弘、古井由吉との座談会「現代作家の課題」が「文藝」九月

号に掲載される。一一月、『何?』を新潮社から刊行。

 1971(昭和46)年 39歳

三月、『書かれない報告』を河出書房新社より刊行。五月、小田切秀雄が「現代文学の争点」(「東京新

聞」夕刊、六・七日)のなかで、古井由吉、後藤明生、黒井千次、阿部昭、秋山駿、柄谷行人といった小説

家、批評家を一括して「内向の世代」と命名し、外部社会との対決を避けて内向的になっている点を批判。

この後、柄谷行人とのあいだで論争が交わされるも、これによって「内向の世代」という名称が定着する。

夏、早稲田大学の平岡篤頼の紹介により、信濃追分の山荘を購入。以後、毎夏を信濃追分で過ごす。九月、

森敦の推薦により、厚生保健協会主催シベリア・セミナーの講師として、二週間のシベリア旅行。ハバロフ

スク、イルクーツク等を訪問。一〇月、『関係』を皆美社より刊行。この年、古井由吉、高井有一、柏原兵

三たちと小説家中心の野球チーム「キングコングス」を結成。朝倉高校野球部在籍の経験を活かして、選手

兼監督をつとめる。

 1972(昭和47)年 40歳

阿部昭、黒井千次、坂上弘、古井由吉との座談会「現代文学の可能性」を「文藝」一月号に掲載。五月一日

より、生れてはじめての新聞連載小説「四十歳」(単行本刊行時に『四十歳のオブローモフ』と改題する)

を「夕刊フクニチ」に連載開始(八月三一まで一一七回)。阿部昭、小島信夫との座談会「小説の現在と未

来」を「文藝」九月号に掲載。一一月、第一エッセイ集『円と楕円の世界』を河出書房新社より刊行。同

月、ソ連作家同盟の招待により、原卓也、古山高麗雄とともにソビエト旅行。モスクワ、レニングラード等

を訪問。モスクワでゴーゴリの墓に参る。

 1973(昭和48)年 41歳

二月、『疑問符で終る話』を河出書房新社より刊行。書き下ろし長篇小説『挾み撃ち』執筆のため、信濃追

分の山荘にこもる。七月下旬まで、自宅との間を行ったり来たりの日々を送る。八月一九日未明、信濃追分

の山荘にて『挾み撃ち』脱稿。同月、『四十歳のオブローモフ』を文藝春秋より刊行。一〇月、『挾み撃

ち』を河出書房新社より刊行。一二月、『ロシアの旅』を北洋社より刊行。浅草「ちん屋」にて『挾み撃

ち』出版記念会。発起人は、阿部昭、加賀乙彦、黒井千次、坂上弘、高井有一、古井由吉、丸山健二、宮原

昭夫。

 1974(昭和49)年 42歳

阿部昭、黒井千次、坂上弘、古井由吉との座談会「創作と批評」を「文藝」七月号に掲載。一一月、千葉県

習志野市の谷津遊園ハイツに転居。『雨月物語紀行』取材のため、年末にかけて、熊野、吉野、高野山、琵

琶湖、京都、播州、吉備路、四国を旅する。一二月、『分別ざかりの無分別』を立風書房より刊行。

 1975(昭和50)年 43歳

小島信夫、秋山駿、平岡篤頼との座談会「文学における『私』」を「早稲田文学」一月号(終刊号)に掲

載。二月、『思い川』を講談社より、三月、『大いなる矛盾』を小沢書店より刊行。七月、『雨月物語紀

行』を平凡社より刊行。一二月、『眠り男の目−追分便り』をインタナル出版社、『不思議な手招き』を集

英社より刊行。

 1976(昭和51)年 44歳

三月、『めぐり逢い』を集英社、『夢かたり』を中央公論社から刊行。五月、第八次「早稲田文学」が講談

社発行で復刊、編集委員となる。七月、黒井千次、坂上弘、古井由吉、高井有一との座談会「小説家の立場

から」(「特集−内向の世代とは何か?」)が「早稲田文学」復刊第二号に掲載される。八月、高校野球取

材のため、甲子園球場へ出掛ける。準々決勝から決勝戦までの三日間、ネット裏に通いつめる。『ゴーゴリ

全集』全七巻月報に「ゴーゴリとの二十年」を連載開始。

 1977(昭和52)年 45歳

季刊同人誌「文体」発刊表明「ささやかな志」を「朝日新聞」一月二七日に発表。二月、『夜更けの散歩』

を集英社より刊行。五月、『夢かたり』により第五回平林たい子文学賞受賞(選考委員・円地文子、今日出

海、佐伯彰一、丹羽文雄、平野謙、和田芳恵)。『笑坂』を筑摩書房より刊行。七月、『行き帰り』を中央

公論社より刊行。八月、父親の三十三回忌法要のため、夏の大阪に出向く。九月、坂上弘、高井有一、古井

由吉とともに「文体」を創刊。一〇月、島根県にて永興小学校の同級生二人と敗戦以来の再会を果たす。一

二月一一日、キングコングス対漫画チーム(赤塚不二夫、東海林さだお、ちばてつや、藤子不二雄他)の野

球対決。一六対一一で敗退。翌日のNHK「ニュースセンター9時」にて、そのときの模様が放送される。

過去六年間の成績は、六敗一分け。

 1978(昭和53)年 46歳

二月、『夢と夢の間』を集英社、三月、『虎島』を実業之日本社、『酒 猫 人間』を立風書房よりそれぞれ

刊行。四月、戦後初めての永興小学校同窓会が岡山市で開かれ、出席。五月、学習研究社版『世界文学全

集』第三五巻(ゴーゴリ)にて、ゴーゴリ「鼻」「外套」を翻訳。大江健三郎『小説の方法』に触発された

エッセイ「小説の構造」を「海」一〇月号に発表。

 1979(昭和54)年 47歳

二月、『嘘のような日常』を平凡社より刊行。四月、早稲田大学第一文学部文芸学科の非常勤講師を勤める

(翌年三月まで)。八月、『針の穴から』を集英社より刊行。九月、「吉野大夫」を「文体」第九号より連

載開始。「壁の中」を「海」一一月号より連載開始。

 1980(昭和55)年 48歳

一月三〇日、十二指腸潰瘍により、山川胃腸外科に入院。二月二五日退院。四月、『八月/愚者の時間』を

作品社より刊行。六月、『文体』終刊。全一二号。

 1981(昭和56)年 49歳

二月七日、渋谷山手教会において、ドストエフスキー没後百年記念講演「百年後の一小説家として」。同

月、『吉野大夫』を平凡社より刊行。六月、『見える世界、見えない世界』を集英社より刊行。九月、『吉

野大夫』により第一七回谷崎潤一郎賞受賞(選考委員・円地文子、遠藤周作、大江健三郎、丹羽文雄、丸谷

才一、吉行淳之介)。一〇月、『笑いの方法−あるいはニコライ・ゴーゴリ』を中央公論社より刊行。

 1982(昭和57)年 50歳

小島信夫、キム・レーホとの座談会「『方法』としてのゴーゴリ」を「海」二月号に掲載。二月、『笑いの

方法−あるいはニコライ・ゴーゴリ』により、第一回池田健太郎賞受賞(選考同人・川端香男里、木村彰

一、栗原成郎他)。八月、『女性のための文章教室』を中央公論社より刊行。一二月、「すばる文学賞」選

考委員となる。

 1983(昭和58)年 51歳

三月、『小説−いかに読み、いかに書くか』を講談社(講談社現代新書)、『復習の時代』を福武書店より

刊行。五月、「西日本新聞」主催「新人登壇文学賞」選考委員となる。一一月、『汝の隣人』を河出書房新

社より刊行。

 1984(昭和59)年 52歳

二月、『謎の手紙をめぐる数通の手紙』を集英社より刊行。とつぜんの「海」廃刊により、「壁の中」は五

月号、連載第五〇回で中断。六月、朝日新聞書評委員となる。七月下旬より、信濃追分の山荘にて、スズメ

蜂との闘争開始。一時は蜂の巣を破壊することに成功するものの、九月一一日、反対に蜂に刺され、救急車

で軽井沢病院に運ばれる。一〇月、『おもちゃの知、知、知』を冬樹社より刊行。一一月、韓国旅行。ソウ

ル、慶州、釜山等を訪問。一二月、斎藤忍随との対話『「対話」はいつ、どこででも−プラトン講義』を朝

日出版社より刊行。

 1985(昭和60)年 53歳

六月、「壁の中」完結編二百枚を「中央公論文芸特集」夏季号に一挙掲載。七月、千葉市の幕張ファミール

ハイツへ転居。九月、『自分のための文章術』を三省堂より刊行。

 1986(昭和61)年 54歳

三月、千七百枚の長編小説『壁の中』を中央公論社、四月、『使者連作』を集英社、『蜂アカデミーへの報

告』を新潮社より刊行。五月、日本近代文学館理事に就任。

 1987(昭和62)年 55歳

四月、『ドストエフスキーのペテルブルグ』を三省堂より刊行。五月、「現点」第七号が「後藤明生特

集」を組む。インタビュー「小説の解体・小説の発見」所収。『文学が変るとき』を筑摩書房より刊行。一

〇月、『カフカの迷宮−悪夢の方法』を岩波書店より刊行。同月二六日、食道癌のため虎ノ門病院に入院。

一一月一三日金曜日、生れて初めての手術。翌月一三日、退院。これを契機に煙草をやめる。

 1988(昭和63)年 56歳

三月、『もう一つの目』を文芸春秋より刊行。五月二一日、朝高東京二七会(東京在住の朝倉高校二七会メ

ンバーによる同窓会)が、ふくおか会館にて開かれる。このときの様子が「東京人」七・八月号に紹介さ

れ、解説文を執筆。六月、朝高早稲田会(朝倉高校から早稲田大学に進学した人たちによって作られた同窓

会)会長に就任。

 1989(昭和64/平成1)年 57歳

二月、『首塚の上のアドバルーン』を講談社より刊行。朝倉高校二七会が、母校・福岡県立朝倉高校に「後

藤明生文庫」を設立。同有志による「後藤明生文庫の会」発足。三月、船橋市教育委員会主催「舟橋市文学

賞」選考委員となる。四月、近畿大学文芸学部教授に就任。毎週、東京−大阪間を新幹線で往復。二泊三日

の「単身赴任生活」をはじめる。小島信夫、田久保英夫との座談会「小説の方法」を「群像」八月号に掲

載。

 1990(平成2)年 58歳

「この人を見よ」を「海燕」一月号より連載開始(一九九三年四月号まで三九回、未完)。二月、『首塚の上

のアドバルーン』により、芸術選奨文部大臣賞受賞。四月、住居を大阪市生野区桃谷に移して「単身赴任

者」から大阪市民となる。『メメント・モリ−私の食道手術体験』を中央公論社より刊行。六月一六日、母

美知恵死去。享年八五歳。八月、『スケープゴート』を日本文芸社より刊行。折り込み付録にて蓮實重彦と

対談「小説のディスクール」。菅野昭正との対談「横光利一往還」を「國文學」一一月号に掲載。

 1991(平成3)年 59歳

二月、大阪市中央区法円坂に転居。渡部直己との対談「大谷崎を解錠する」を「早稲田文学」七月号に掲

載。一〇月、大阪府主催「山片蟠桃賞」審査委員となる。

 1992(平成4)年 60歳

五月一〇日、福岡県甘木市ピーポート甘木(大ホール)にて、「あさくら讃歌」(後藤明生作詞/三善晃

作曲)初演発表会。作詞者として、出席。天皇皇后両陛下臨席のもと、甘木・朝倉圏内合唱団グループ8

団体、総勢180名による大合唱。以後、大阪府、京都府、千葉県など、各地で演奏される。六月、群像

新人文学賞選考委員となる。三浦清宏との対談「文学教育の現場から」を「群像」六月号に掲載。

 1993(平成5)年 61歳

柄谷行人との対談「文学の志」を「文學界」四月号に掲載。四月、近畿大学文芸学部学部長に就任。大学院

開設のため奔走。島田雅彦との対談「親としての『内向の世代』」を「文學界」五月号に掲載。

 1994(平成6)年 62歳

三月、近畿大学大学院文芸学研究科開設をめぐる高田衛、野口武彦、塚本邦雄との座談会「超ジャンルとし

ての新しい文芸の探究と創造」を「読売新聞」三月二六日(大阪版)に掲載。四月、近畿大学大学院文芸学

研究科長に就任。七月、三枝和子、島田雅彦、川村湊とのシンポジウム「文学は21世紀を生き延びられる

か」(日本近代文学館主催)を「読売新聞」八月八・九日(夕刊)に掲載。

 1995(平成7)年 63歳

一月一七日、阪神大震災。執筆途中の「しんとく問答」の原稿をカバンに詰め込み、その日のうちに大阪脱

出。東京・山の上ホテルにて、残りを書き上げる。その後、帰阪。七月、『小説は何処から来たか』を白地

社より刊行。一〇月、『しんとく問答』を講談社より刊行。『しんとく問答』をめぐる菅野昭正との対談

「小説のトポロジー」を「群像」一一月号に掲載。一一月、「織田作之助賞」選考委員となる。『中上健次

全集』第六巻月報に「中上健次と近畿大学」を執筆。一二月、「国文学解釈と鑑賞/別冊 柄谷行人」に

「柄谷行人と私」を執筆。

 1996(平成8)年 64歳

蓮實重彦、久間十義との座談会「日本近代文学は文学のバブルだった」を「海燕」一月号、黒井千次、坂上

弘、高井有一、田久保英夫、古井由吉、三浦雅士との座談会「文学の責任」を「群像」三月号に掲載。三

月、「ジャンルの饗宴」を「シュンポシオン」第一号に発表。小島信夫、古井由吉、平岡篤頼との座談会

「われらの世紀の<文学>は」を「早稲田文学」八月号に掲載。

 1997(平成9)年 65歳

「私語と格闘」(「日本近代文学との戦い」連作T)を「新潮」一月号に発表。佐伯彰一との対談「小説の方

法意識について」を「群像」一月号に掲載。三月、「三角関係の形式と方法」を「シュンポシオン」第二号

に発表。「二葉亭四迷の罠」(連作U)を「新潮」七月号に発表。七月、近畿大学理事に就任。「楕円と誤

植」(連作V)を「新潮」九月号、「栗とスズメ蜂」を「群像」一〇月号に発表。

 1998(平成10)年 66歳

「『真似』と『稽古』」(連作W)を「新潮」一月号に発表。二月、『小説の快楽』を講談社より刊行。三

月、「モノローグとダイアローグ」を「シュンポシオン」第三号に発表。五月一八日、大阪府狭山市の近畿

大学医学部附属病院に入院。肺癌手術。七月六日、退院。近畿大学総長=詩人・世耕政隆の追悼文「出会い

と伝説」を「群像」一二月号に執筆。

 1999(平成11)年 67歳

織田作之助賞選評「若者たちの日常言語」を「文學界」二月号に発表。三月、世耕政隆追悼談話「樹と死そ

して再生」を「シュンポシオン」第四号に掲載。「ふっと思い出す話」を「日本経済新聞」六月一三日に発

表。同月二八日、大阪府狭山市の近畿大学医学部附属病院に入院(一一〇病棟一一〇二号室)。七月二日、

近畿大学文芸学部十周年記念誌のための座談会に出席。翌日から再び入院する。八月二日午前八時二八分、

肺癌のため逝去。享年六七歳。法名・蓮生院釋明慧。五日午後七時より、大阪市中央区の仏教文化会館にて

通夜。六日午後一時より告別式。作家の古井由吉や文芸評論家の蓮實重彦らが、弔辞を読み上げる。文芸雑

誌「群像」「新潮」「すばる」「文學界」各一〇月号および新聞各紙にて「後藤明生追悼関連記事」が掲載

される。一〇月、『首塚の上のアドバルーン』を講談社(講談社文芸文庫)より刊行。 一一月一八日、近

畿大学文芸学部の学生、大学院生を中心として、学内において「後藤明生先生を偲ぶ会」が取りおこなわれ

る。一二月、「縦覽」第六号が「追悼 後藤明生」を組み、「後藤明生著書・著作目録」「後藤明生年譜」

等を掲載。

 2000(平成12)年

三月、近畿大学文芸学部文学科日本文学専攻編「近畿大学日本語・日本文学」第二号(後藤明生教授追悼・

高田衛教授退職記念号)が刊行され、乾口達司/小林幹也編「後藤明生年譜・著作目録」および乾口達司

「後藤明生と敗戦体験−同化と拒絶のはざまで」が掲載される。五月二〇日、東京・市ヶ谷にあるアルカデ

ア市ヶ谷において、朝倉高校出身者の有志による偲ぶ会がもよおされ、文芸評論家の金田浩一呂による講演

がおこなわれる。六月二日、東京・飯田橋にあるホテル・エドモントにおいて「後藤明生さんを偲ぶ会」が

おこなわれ、作家の小島信夫、黒井千次、田久保英夫らがスピーチをおこなう。7月、大阪の大阪府立中島

図書館(大阪資料・古典籍室)において「後藤明生と『しんとく問答』」と題された小展示がおこなわれる

(七月一八日〜八月三〇日まで)。九月、「早稲田文学」九月号にて「再読 後藤明生」の特集が組まれる。

一〇月、静岡県駿東郡小山町にある富士霊園内「文学者の墓」に納骨される。

 2001(平成13)年

六月一七日、福岡県甘木市ピーポート甘木(大ホール)にて、演奏会「あさくら讃歌−ふるさと公演」開

催。その第2ステージにおいて、シンポジウム「後藤明生氏を偲ぶ」(パネリスト・遠藤秀雄、佐野俊美、

乾口達司、小林幹也)が開かれる。

 

【附記】 本稿は、乾口達司/小林幹也編「後藤明生年譜・著作目録」(「近畿大学日本語・日本文学」第

     2号/近畿大学文芸学部文学科日本文学専攻/2000年3月)をもとにして、加筆訂正したも

     のである。

     年譜作成に当たっては『筑摩現代文学大系96−古井由吉/李恢成/黒井千次/後藤明生』(筑摩

     書房)所収の後藤明生編「年譜」および『首塚の上のアドバルーン』(講談社文芸文庫)所収の

     後藤明生編「年譜」を参照のうえ、若干の訂正補筆を加えた。各文学賞選考委員就任時について

     は、各賞が発表あるいは誌上等にて掲載された時点とした。なお、法名については、暁子夫人の

     ご教示を賜りました。記してお礼申し上げる次第です。