日本統治時代の建築物

日本時代の建物が保存されています:
日本統治時代残影   澎湖島は日本統治の名残をかなり残しています。また、澎湖島政府も観光局も日本統治時代の建築物を後世に残そうと努力しているようです。普通、統治下に置かれた事の歴史や事実を一刻も早くぬぐい去ろうとするものですが、ここではそうではないので、驚かされます。また、こちらの人々のそうした努力に胸が熱くなる感じがします。これらの情報を集めてアップしたいと思います。
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日本統治時代の税関:
日本が澎湖島を治めはじめた時、すぐに馬公港を造り、そして船の出入りだけでなく、人や物の移動もチェックする必要が生じたと思われます。この建物がその当時から存在していたとするならば110年を経過しているはずです。日本が敗戦で澎湖島を去ってから既に60年が経過しており、その前から存在していたことは確かです。資料がありますので、正確な建築の日を調べておくことにします。何れにせよ、その当時のままを伝える建築物である種の品格があります。台湾政府はこうした歴史的建築物をきれいに保管しています。
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税関 税関
日本統治時代の税関:
今は開かれていませんが、当時大陸のアモイ(廈門)との間や他にも外国航路が開かれていたようです。窓の形などから今の現存の建物と同じである事が分かります。最近台湾と中国の関係改善が進んで、また再び廈門との間に航路が開かれそうです。高速船で2時間足らずなので、かなり利用価値があるかも知れません。
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税関
迎賓館:
いわゆる皇族ややんごとなき人が澎湖島を訪れた際に宿舎として使われた建物で、総檜作りです。戦後は台湾の総統などが使用した様ですが、痛みが激しく暫く使われていませんでした。2007年から約2年に渡り大々的な修復がなされ、2009年1月にこのような姿に復元されました。その工事は本格的なものであり、この建物を解体するために大きな鉄骨の屋根がかぶせられて、瓦や木材が一つ一つ外されて、必要な資材が入れ替えられて、又一つ一つ組み合わされて行きました。工事している人たちに日本語の話せる人がいるかどうか、声を掛けてみましたが、どうやら全部台湾の職人を使ったようです。台湾で日本家屋を補修することの出来る職人がいたとは驚きです。この修復のためにも多くの檜が使われて、辺り一面に檜の香りが漂っていました。外見よりはもの凄くお金のかかっている建物です。
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迎賓館
この建物の補修のために重量鉄骨の屋根が掛けられました:
本当に目立たない建物ですが、又、これが澎湖島の観光にどれ程貢献するかは掛けた費用からすると割に合わないのではないかと思いますが、この建物はこうした補修を経なければ消えてしまった建物であるに違いありません。澎湖島政府の行ったことに感謝したい気持ちです。
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迎賓館の屋根
澎湖島の県庁舎:
これは日本時代に県庁舎として用いられたものです。7,80年の歳月を経ているはずですが、良く管理されているために現役として今でも使われています。外見は当時のままでそのような建物を使っていて業務に支障がないのか心配ですが、中身はインテリジェントビルに変えられており、この庁舎の地下には大駐車場があります。日本の庁舎も嘗てはこのようなものだと思いますが、日本からは全く消えてしまったものが、台湾の離れ小島に温存されているのは驚きです。
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澎湖島県庁舎
これが日本時代の県庁舎です:
。この写真は日本が敗戦により台湾から引き揚げて10年ぐらい経った後で撮影されたものです。角度が違いますが、全く同じ建物である事が分かります。古い建物を使い続けるのは非効率的で、大変だと思いますが、歴史的建造物を後世に残して置こうという目的で、とてもきれいに補習されて使われています。写真は「走過従前」より
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日本統治時代の県庁・走過従前より
専売公社:
嘗て塩やお酒、またたばこなどは流通が規制されて、専売局が扱っていたものです。今でも半分公のような専売局が扱っています。この建物は往事の専売公社を忍ぶものとなっています。この隣に現在の、お酒などの専売品を扱っている会社があります。日本でも、その昔は三公社五現業等というものがありましたが、かなり変化していますので、おそらく台湾でも同じように民営に移管したりしていると思いますが、詳しくは分かりません。モルタルにタイルが貼り付けられています。
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専売公社
馬公港にあった警察:
港には税関や警察が必要でした。その当時にここにあって治安の維持に当たっていたものと思われます。新しすぎると感じるのも無理はありません。これは2006年頃に当時の姿そのままに再建されたものだからです。現在70才を超える人ならば、港にあった警察のこうした造形を見て懐かしく感じるかも知れません。この懐かしさは日本人だけでなく、澎湖島の人たちも日本が去った後、引き続き警察の港湾派出所として使われたこの建物に愛着を感じていたので、再建して下さったのだと思います。
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警察
これは一瞬のそして永久の記録です:
訳の分からないことを言っていますが、まさにこの通りなのです。これは西河印刷所が新築する際に日本時代の建物の正面の壁だけを残しているところを記録しているからです。つまり新しい建物はこの壁だけを取り込んで全て一新されているのです。それで外見は、日本時代の商店の感じが漂っているものの、中身は全て新しいのです。このようなことをするために、この壁を残す事には大変な努力とお金がかかることを意味しています。日本にはない昔の日本が台湾に温存されているのです。殆どの日本の旅行客はこうしたことに気がつかずに、むしろ何かあか抜けない建物だと思っているかも知れません。。ただ、ガイドブックに従い、傍にある四つ目井戸を見て帰りますが、この建物はそんなものを見ないで、昔から立っている俺を見ろと言っているようです。
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河西印刷所
裏から見た壁だけを残して建設している様子です:
日本時代に建てられた建築物の外観を残すために払われている努力を記録しました。ある意味で新たになったこの建物の全体よりも貴重な写真であると思います。
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西河印刷所の壁
この印刷所の前にある建物もすばらしいです:
ここには四つ目井戸という名所があるために多くの人が訪れますが、本当に価値があるのはこれらの建物です・・と思います。日本時代の典型的な商家の造りで、バロック風の建築と日本の建築が折衷になっているようです。作られてから100年近く立ち続けています。
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薬屋
東吉島にある灯台:
日本は以前に大東亜共和圏なるものを振りかざし、外国を侵略したと言う過去がありますが、台湾人は比較的親日です。その理由となるかどうかは分かりませんが、・・・立場を変えれば侵略軍であった日本がここ台湾である程度の評価を得ているのは、日本が様々な方面に渡ってインフラを整備したと言うこともあるようです。この東吉島の灯台は、鉄製灯台として当時は画期的なもので、今でも使用されています。尤もその光は石油などを燃やしていた時とは根本的に異なっていますが、灯台守が3家族交代でその光を守っています。全部自動化されているのですが、必ず一人がワッチに立って交代制で24時間の勤務を果たしています。
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東吉島灯台
日本軍上陸記念碑:
確かにこの碑は日本軍の上陸を記念するものですが、そのように書かれた案内板を目にした時には一瞬目を疑いました。まるで上陸を喜んでいるかのような感覚を覚えたからです。漢字で書かれているわけですから、その意味が分からないのではないようですから、その意味があまり違和感を持っていないと言うことなのでしょう。とにかくここは不思議な國です。
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日本軍上陸記念碑
これがかつての日軍上陸記念碑:
こんな時代が合ったのかと思うと、心が痛みますが、日本軍が引き上げた後もそれが残されていたというのが不思議でたまりません。尤も台湾政府により光復記念碑(台湾が元の中国に戻ってきた記念)に変えられたのは当然でしょうね。写真は「走過従前」より
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かつての上陸記念碑
これがその案内板です。日軍上陸記念碑:
いくら親日的な國であると言っても全てが親日でもないでしょうが、誰もこの案内板に異議を唱えないところに不思議なものを感じます。でも、この案内板に導かれてその碑にたどり着くと、光復記念碑になっています。光復とは台湾が中国に戻って喜ばしいと言う意味があります。本当はこの案内板にあるように、ここから日本軍が上陸して、中国軍を打ち破ったと言うことを記念した碑であったのですが、その後統治した中華民国政府により、書き換えられて光復記念碑になったというわけです。
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日本軍上陸記念碑
西渓にある日本時代の家屋:
大抵のこうした遺跡は馬公市内に集中しているのですが、何故か西渓にもあります。立派な建物で、管理も良くされています。とかく日本家屋は木造のために痛みが激しいのですが、よくぞ持ち堪えていてくれました。寄せ棟と切り妻の屋根です。
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西渓にある日本統治時代の家屋
望安島にあった震洋特攻隊の基地:
終戦後60年以上も経ってようやく明らかになったことですが、澎湖諸島のひとつである望安島に人間魚雷回天の様な決死隊の舞台があったことが分かりました。正確には人間魚雷回天の様なものではなく、ボートに250キロの爆弾を積んで体当たりをするというものです。今まで、望安島の鴛鴦窟には日本軍の防空壕跡があったとされていました。そしてそれも全て支えとなる木が朽ちて潰れてしまい、只その遺構だけが残っているとされていましたが、明らかになった事実は防空壕などではなく震洋の格納庫だったというわけです。ここにあった幾つかの洞穴に関しては、付近の村落の住民が借り出されて、山腹をくりぬいていたので、住民もそこに防空壕の様なものがあったということは記憶していたのですが、特攻隊という様な最重要な機密事項でしたから、全てが秘密裏に行われた為に日本の当事者以外に真相を知るべくもなかったのです。特攻隊員だった波佐義明さんが戦後40年ほど経って、その記憶を元に「冬の残紅」という本にまとめました。今から20年以上前になりますが、言葉の壁がある為に、その時には話題にならず、2010年になってようやく台湾側の目に止まり、これが震洋特攻隊の足跡をたどる重要な手がかりの一つとなったようです。
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この↓説明によれば特攻隊員だった波佐義明さんの証言と、現場の証拠とに少しの食い違いがあるようですが、説明によりますと「震洋隊の八罩基地(望安島の異名)は南北の二つの丘陵からなっていて、南側には発電所、隊員の兵舎そして二つの監視所があり、北川の山陵には震洋艇の格納壕と炊事場と作業場があった。常に戦闘能力を維持する為にある程度の大きさの炊事設備が絶対に必要で、日本軍はそれを煮焚き所と呼んでいた。震洋艇を最も良い状態に保ち、またいつでもそのメンテナンスや修理が出来る様に、また、個人の装備や持ち物も修理や点検する為に作業所が必要とされた。煮炊きする所と作業場は、補給するのに便利なので、北側の山陵の南に面した海辺に近い所にあったが。日本人の波佐義明さんの描いた略図とは少しの違いがある」。
説明
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これが↓その証言と現場の状況とのすりあわせにより復元された震洋特攻隊基地の全容を示している図です。円形の枠内では1の格納庫はもう少し上の方にあった為に切れていますが、右の地図では格納壕が1,2,3,4,5の五つであったことが分かります。その5つの格納庫は互いに繋がっていたようです。
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説明図
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この案内石の後方に入り口らしい痕跡があります。当時は木木製の柱があって頑丈だったようですが、戦後放置され木も朽ちて潰れてしままいました。この基地は重要な機密であった為に、最近まで地元の人は軍の防空壕であると思っていたようです。
格納庫1
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これは↓2号壕ですが、同じく潰れてしまって全くここに格納庫があったとは信じられませんが、当時はこの壕の先端部分に震洋艇があり、それを必要なときにすぐに海に送り出すことが出来るようにレールが引かれていたようです。
格納庫2
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震洋艇の格納庫の部分はコンクリートで固めてあったそうですので、せめてその部分だけでも発掘して、レールを引き直すなら、実感は出ると思いますが、現状はただの藪という感じです。
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格納庫3
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これは重要な機密であった為に、終戦時に震洋艇はすべて焼却処分されて、レールは貴重な鉄でしたから、主のいなくなった特攻基地から地元の人々が勝手に持ち出したので、彼らは知らずして証拠隠滅に一役買いました。
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格納庫4
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震洋艇の現物は日本では幾つも残っているので、インターネットで震洋艇と入力すれば見ることが出来ます。当時の写真を載せておきました。その先頭に250キロの爆弾を仕掛けてあって、敵艦に体当たりをして自爆するというものですが、神風特攻隊や人間魚雷回天のボート版といえそうです。防水性は考えたでしょうが、本体はベニヤ板だそうです。戦争の悲惨さを感じさせずにはいられません。台湾に住んでいると日本人の恥部をさらけ出されているような気持ちもするのですが、再び戦争という愚を犯さない為にも、保存するのは必要なことかもしれません。
格納庫5 震洋艇
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兵舎跡も残っています。ここは↓食事をしたところかもしれません。そのほかこの北側には海に面した部分に作業上があり、船のメンテナンスばかりでなく、個人装備のメンテや修理も行っていたようです。谷を挟んで南側には海の近くに二つの監視所があり、トンネルで繋がっていたようです。また、離れた所に電源設備と宿舎棟がありました。
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兵舎跡
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澎湖島から高速艇で約1時間の距離にある望安島のオシドリが水遊びをしていたという地名を持つ鴛鴦窟にあった特攻隊の基地について、元特攻隊の隊員で、この幻の基地再発見のきっかけを作った波佐義明さんのインタビューを含む資料(DVD)が、澎湖県政府から出されています。活字の部分だけ翻訳して転載します。
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バナナボート
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