「マルグリット・デュラス 著作解題」『ユリイカ 特集マルグリット・デュラス』1999年7月号 所収

Le ravissement de Lol.V.Stein, Gallimard, 1964. 『ロル・V・シュタインの歓喜』白井浩司訳、白水社、1967/平岡篤頼訳、河出書房新社、1997

 ヌーヴォー・ロマン隆盛の直中に書かれ、デュラスのエクリチュールの歩みにおいて大きな節目をなす作品。これ以降デュラスの書くものは、「書くことは語らないこと」という彼女自身の言葉を裏づけるように、一義的な解釈を斥ける難解なテクストとなる。題名の中で「歓喜」と訳されているravissementには「剥奪」という意味もある。この作品においてロル・V・シュタインという女性は、いわば自分自身を「奪われている」のだが、彼女をこのような状態に追いやったのは、若い頃婚約者と共に参加したある舞踏会だった。T.ビーチで催された舞踏会でロルの婚約者を奪い、ロルの「病気」を引き起こしたのは、後の『副領事』『インディア・ソング』において中心的な役割を演じることになるアンヌ=マリー・ストレッテルである。この作品では冒頭にわずかに登場するだけであるが、ロルの原光景が想起される度に強烈な印象を残す。
 この作品に特徴的なのは錯綜した語りと視線の構造である。読者は半分近く読み進めるまで、物語を語っているのが誰なのか知ることができない。語り手「私」は、ロルや、その幼なじみのタチアナの語った言葉から推測し、ロルについて語り始める。しかし、ロルの視線の先に現れてくる男、「彼」が語り手「私」に他ならないことが、途中で明かされるのである。その後も、語り手自身が物語の登場人物であるため、「私」と「彼」と固有名が同じ人物を指して用いられる。
 語り手はロルの目を通して自分を見るのだが、ロルは、語り手とタチアナの逢引きの様子をホテルの窓ごしに見るために、繰り返しライ麦畑に横たわる。語り手はタチアナの身体をロルに見せ、ロルへの愛の言葉をタチアナに囁く。このようにして、ロルと語り手は愛し合っているが、語り手は、愛の対象ではないと分かっているタチアナと別れてはならないのである。ロルと語り手はついにT.ビーチへ行き、先の舞踏会の行われたホールを見るが、結局ロルは、再びライ麦畑に横たわる。
 ジャック・ラカンがこの3者の欲望の関係に注目し、この作品を絶賛したことは有名である。

Detruire, dit-elle, Minuit, 1969. 『破壊しに、と彼女は言う』田中倫郎訳、河出書房新社、1971、河出文庫、1992

 療養のためのホテルで出会ったマックス・トルとシュタイン、マックス・トルの若い妻アリサ、宿泊していた婦人エリザベート・アリオーヌとの間の数日間の交流が、粉飾を排した物質的な文体で綴られる。舞台は、会話の中に登場する夫婦の寝室を除けば、食堂とその窓から見える庭のみで、ホテルの外は描かれない。ホテルの外には森があり、彼らはしばしば森に行くことを話題にするが、それは彼ら全員にとって危険な存在であり、結局行くことはない。
 マックスとシュタインは、ドイツ系ユダヤ人であることに加え、共に不眠を患い共に作家になろうとしている。夫に遅れて到着し「破壊する」と言うアリサは、夫の心を捉えた婦人エリザベートと会話を始める。アリサの放つこの言葉には、主語もなければ目的語もない。「破壊する」と題して書評を発表したモーリス・ブランショによれば、通常の言語秩序に属さずいかなる実効的な破壊も想定しないこの言葉を与えることが、この作品の使命であった。アリサは永遠に18歳――『オーレリア・シュタイネル』や『愛人』などデュラスの多くの作品における象徴的年齢――であり、シュタインやエリザベートに「気狂い」と言われる女だが、彼女は怖がるエリザベートを繰り返し森に誘い、またエリザベートの流産を引き起こした事情を見抜く。同一の存在の分身である男性2人は共にアリサを愛しているのだが、彼ら3人は言わば、もはや何も残っていない世界を生きる既に破壊された存在である。ドイツ系ユダヤ人の強調もそれを暗示しており、このことは結末近く、エリザベートの夫を交えた5人の食事の場面に顕著である。デュラス自身がこの作品に政治的アレゴリーを読み取ることを希望していることからも、ここに、デュラスが積極的に係わった68年5月革命の空間を見て取ることができる。3人との交流により、そしてその愛のためにエリザベートは「破壊」されかかるのだが、自分に向けられる異様な関心に耐え切れずホテルを引き揚げる。物語は、途切れつつ森から聞こえてくる、革命そのものである壮大な音楽と共に幕を閉じる。

Abahn Sabana David, Gallimard, 1970. 『ユダヤ人の家』田中倫郎訳、河出書房新社、1971

 『破壊しに、と彼女は言う』で暗示されたユダヤ人問題を前面に押し出し、ユダヤ人の置かれた状況をアレゴリー的に描き出した作品。ユダヤ人の「恐怖」や「破壊」など、『破壊しに』の主題を引き継ぎさらに先鋭化させている。閉じられた空間の中で、同一人物の分身である男女4人が、相手が何者であるのか探り合うという構図も前作に通じている。また、前作において恐怖を与える存在であった「森」は、本作でも、ユダヤ人の目指す「ユダヤ人たちの森」として度々触れられる。全体を通して、犬たちが「死者の原」で吠え続ける声が響き、終末感を色濃くしている。
 舞台となる町シュタットは、ユダヤ人のゲットーを指すドイツ語「ユーゲンシュタット」を、ユダヤ人アバンの出身地アウシュタットはアウシュヴィッツをほのめかしている。死刑前夜にアバンは、シュタットの権力者によって派遣されたダヴィッドとサバナという男女によって監視されるが、そこにもう1人ののアバンが加わると、彼はもはや「ユダヤ人」としか呼ばれない。第二のアバンは第一のアバンの別の側面である。ダヴィッドは終始眠り込んでいるが、サバナは「ユダヤ人」が何者であるのか分からず、「ユダヤ人」やアバンとの会話からその答えを引き出そうとする。そこから現れるのは、統一を乱し破壊するためにやってくるコミュニスト、言い換えれば、コミュニスムは不可能であると信じているコミュニストとしての、また書く者としての「ユダヤ人」の姿である。このような在り方は、68年5月革命の際デュラスが係わった作家=学生行動委員会の在り方、すなわち拒否によってのみ結びついた共同体の在り方である。従って、本書も68年5月革命の経験から生み出されたことは確実であると言えよう。本書は、デュラスと共にこの委員会の中心メンバーであった前夫ロベール・アンテルムとモーリス・ブランショに捧げられている。

Nathalie Granger (「女の館」『インディア・ソング/女の館』田中倫郎訳、白水社、1976 所収) / Suivi de La Femme du Gange, Gallimard, 1973.

 1972年にデュラス自身が撮った2本の映画「ナタリー・グランジェ」(邦題「女の館」)と「ガンジスの女」の戯曲を一冊にまとめたもの。
 「ナタリー・グランジェ」は、目に余る素行のため地方の寄宿学校に転校することとなった少女ナタリーの心に巣食う「暴力」をテーマとしている。ナタリーの父親が仕事に出かけた後、母イザベル・グランジェとその女友達が家の中で過ごす様子を淡々と描く。暴力的な場面はほとんど描かれないが、女たちの沈黙、視線、猫のしぐさ、そしてとりわけ少年の理由なき殺人を伝えるラジオの声が、ナタリーの「暴力」と相俟って不安を醸し出す。イザベルがナタリーに強迫観念を抱く元となったピアノの音も不安のモチーフである。唯一の大きな出来事は洗濯機のセールスマンの訪問であるが、男を恐怖に陥れる2人の女の対応は、男性的論理を破壊し無効にしてしまう。映画にはルチア・ボーゼ、ジャンヌ・モロー、ジェラール・ドパルデュー等が出演した。
 「ガンジスの女」は『愛』を映画用に脚色したものである。『愛』同様S・タラの町を舞台としているが、『愛』では名前の明かされていなかった3人の人物にローラ・ヴァレリー・シュタイン、マイケル・リチャードソン、アンヌ=マリー・ストレッテルの名が与えられ、また「S・タラの歌」は実在のヒット曲「ブルー・ムーン」となるなど具体性が高まった。カトリーヌ・セレルス、ニコル・イス、ジェラール・ドパルデュー、ディオニス・マスコロ等が出演し、トルーヴィルで撮影された。

India Song, Gallimard, 1973, 「インディア・ソング」『インディア・ソング/女の館』田中倫郎訳、白水社、1976 所収

 ロンドン国立劇場監督ピーター・ホールの求めに応じ、映画用に書かれた戯曲。1974年にデュラス自身が監督し、デルフィーヌ・セイリグ、ミシェル・ロンスダール等の出演で映画化された。1930年代のインドのガンジス河流域を舞台とし、『ロル・V・シュタインの歓喜』『副領事』『ガンジスの女』等に現れたエピソードを引き継いでいる。デュラスの作品に登場する女性たちの原型とも言え、幾つかの作品に現れるフランス大使夫人アンヌ=マリー・ストレッテルが、最も重点的に描かれている。
 物語は、アンヌ=マリーの死という結末を知る者たちによる回想という形で、男女2人ずつの「オフの声」によって語られる。「オフの声」とは、『ガンジスの女』執筆の際デュラスが獲得した技法で、画面に現れない者たちが画面から独立して会話をする声である。例えば中心となるレセプションの場面では招かれた人々の話が「オフの声」で流れるが、それは画面に出ている俳優の話し声ではない。レセプションの画面からはざわつきが漏れるだけである。このやり方により、声はもはや現前性との係わりを持たず、画面と乖離する。
 フランス大使館広間で行われるレセプションでは、インドで暮らすことの単調さ、無為が語られる。痛ましくも優雅なアンヌ=マリー、すべてを投げ出して彼女の後を追ってきたマイケル・リチャードソン、ラホールで発砲事件を起こし人々に忌避され、それでもアンヌ=マリーの愛を求めて叫び声を上げる副領事、サヴァナケットから歩いてやってきた女乞食等の集まるカルカッタには、癩病の死の臭いが漂っているのである。恐ろしい暑さの中、光線には何の色彩もなく、インド全体が無力感におおわれている。
世界各地で戦争が行われていた37年当時を念頭に置いて書かれたこの作品は、植民地で少女時代を過ごしたデュラスによる世界の終末の物語である。

Agatha, Minuit, 1981. 「アガタ」吉田加南子訳『死の病い・アガタ』、朝日出版社 ポストモダン叢書、1984所収

 2人の男女の対話のみで構成された戯曲。デュラスの描き続ける愛の不可能性が、ここでは兄妹相姦という形をとって現れる。
 近親相姦という禁制をさらに禁じられたものにするために、苦痛の中で愛し続けるために敢えて旅立つというアガタと、アガタに呼ばれた兄が、かつて一家が夏を過ごした場所で、2人の間に起きた出来事を回想する。夏の浜辺、別荘ヴィラ・アガタ、2人が愛した母の言葉、ピアノを弾く場面など、彼らが次々に思い出す子供時代の断片は、デュラス自身のインドシナ時代を素材として書かれた『太平洋の防波堤』や『愛人』といった作品を想起させる。前者における妹シュザンヌと兄ジョゼフとの関係を、兄妹相姦として変奏し直したと考えることもできるだろう。また、アガタという名前が暗示するように、ムージル『特性なき男』における兄妹、ウルリヒとアガーテが念頭に置かれていたと考えられる。成就され得ない愛を2人だけの濃密な空間の内に描き出すという点で、『死の病い』へとつながっていく作品。
 1981年デュラス自身の手により映画化された。

La maladie de la mort, Minuit, 1982. 「死の病い」小林康夫訳『死の病い・アガタ』、朝日出版社 ポストモダン叢書、1984所収

 冒頭で名指される「あなた」と、「あなた」の部屋に眠る見知らぬ女「彼女」とをめぐるレシ、あるいはモーリス・ブランショの言葉を借りるならば、宣言的テクスト。「彼女」が「あなた」の部屋にいたであろう数日間が、条件法で、しかしながら断言調で語られる。「彼女」は娼婦ではないが、純粋な契約によって「あなた」に夜を買われた女であり、太古の疲労を癒そうとするかのようにベッドに横たわっている。「あなた」は「彼女」に、自分が「死の病い」に冒されていると告げられる。それは、「あなた」にこれから死が訪れるということではなく、「あなた」が、どんな生を死ぬのでもなく既にはるか以前に死んでいるということである。「あなた」が誰であるか限定されないことからも、「死の病い」とは、第二次大戦後に生きる人間が抗いようもなく冒されている病いであると言えよう。「彼女」は全く無防備に「あなた」に体を晒しているが、「あなた」には自分の触れているものが見えず、「彼女」を所有することができない。「あなた」が契約に望んでいたのは、「あなた」がかつて一度も経験したことのないこと、「愛すること」の試みであったのだが、それは不可能であり、結局「あなた」はあきらめることになる。このように『死の病い』は、生じてしまう前に失うという仕方でしか生きられない不可能な愛を描き出す。
 ブランショはこの2人の関係を「共同体」という観点から思考している。ブランショによれば、「恋人たちの共同体」とは、成就しないことによって成就する結合、「共同体をもたない者たちの共同体」である。それは、68年5月革命の際にデュラスとブランショが共に属していた「作家・学生行動委員会」の活動、すなわち個人性を抹消した共同のテクストを作成するという活動において醸成された、「無為の共同体」である。

Emily. L., Minuit, 1987. 『エミリー・L』田中倫郎訳、河出書房新社、1988

 デュラスとおぼしき「わたし」が、港町キーユブフで「あなた」と夏を過ごす。「わたし」は、植民地で過ごした少女時代のためか、時おり言いようのない恐怖に捉えられる。「あなた」は本書が捧げられているデュラスのひとり息子ジャン・マスコロと考えられる。作家である語り手は「あなた」に、「あなたとわたしが一緒に経験した物語=歴史」を書こうと思っていると話すが、そうして書かれたのが本書である。
 それは、2人が滞在中観察していたあるイギリス人夫妻の物語である。世界中を航海して暮らす、キャプテンと呼ばれる夫とその妻は、キーユブフのバーで酒をあおっている。夫妻の会話は英語のまま挿入され、彼らの愛の生々しさを醸し出している。年老いて子供のように感情の不安定な妻は、かつて詩を書いていた。自分の理解できないものをそこに見出した夫は苦しみ、ある時書きかけの1篇を燃してしまった。他方で、書いた本人の知らないうちに、本人の父親の手を通して詩集が出版されていた。失われた1篇にエミリー・ディキンスンの詩が充てられることで、彼女にこの北米の詩人のイメージが重ね合わされる。
 死の間近にいるように見えるこの女性は、観察する「わたし」自身でもある。「わたし」、つまりデュラスは彼女の物語を語ることによって、書くことと死ぬこと、そして愛することをめぐる自己の永遠のせめぎあいを描き出しているのである。

もどる

topへもどる

掲示板へ