戦前社会保障略史

戦前社会保障略史

 

社会福祉関連は吉田久一『日本社会事業の歴史』勁草書房,右田紀久恵ほか『社会福祉の歴史』有斐閣,重田信一『社会事業史』福祉事務所制度研究会ほか参照.

 

近代国家成立期の慈善救済

 江戸末期の人口は約3000万人で,就業者の8割は農民だった.江戸末期の儒学者の救済論は 1)救貧よりも防貧重視 2)家族制度を重視し,血縁,地縁,国主の順で責任をとる 3)村落共同体の救済を重視し都市貧困層には帰農,開墾を奨励.

 江戸末期から明治10年代頃まで各地で一揆が頻発した(伊予,大和,豊後,羽前,近江,山城,信濃伊那,三河,下総,安芸,越後,越前,紀伊,上総,武蔵,但馬,陸前,豊前,讃岐,備後,伊勢,日向,江戸,甲斐,会津,ほか.明治になってから新潟府,南部,長崎県,甲府県,若松県,伊那県,彦根藩,名古屋県,広島県,鳥取県,山梨県,山形県,兵庫,秋田,高知,福岡,島根,岐阜,大分,和歌山,茨城,三重,愛知,神奈川,群馬県ほか).明治2,3年前後に江戸時代の下層社会を母体にして都市の細民街が形成された.乞食・浮浪者・下級職人・日雇・土方・零細行商人・零細自営業者など.生活レベルは階層間で差がなかった.維新の政治的変革から生まれた浮浪者・無籍者や貧困者が増え,士族の失業問題が深刻さを加えた.諸藩は旧藩士を農工商業に従事させ,窮乏から更生させようとしたが小規模な奨励策にとどまるものが多かった.明治4年廃藩置県.政府は統一的な士族の授産事業を行うことにした(当時の士族は家族を含めて194万人といわれる).開墾,養蚕,製茶,機織りなど家内工業を各地で実施するもほとんど失敗,士族没落.明治4年 棄児養育米の達(0歳から15歳までの棄児に年7斗の米を支給)

●1874明治7 恤救規則(廃藩で藩主が行っていた慈恵政策がなくなった.人民相互の情誼(同情者,慈善家,近隣から日用品や食品を恵んでもらう)中心。障害者と70歳以上の重病もしくは老衰者と病気の者と13歳以下の者のなかで独身で労働能力のない極貧の者を救済対象とし、独身でなくとも家族が70歳以上15歳以下で困窮していれば救済対象とした。1カ年1石8斗(1日5合弱).50日分の米価を限度として現金給付。身分に関わりなく,また障害者も対象になった.公的救済義務主義ではない)戦国時代は侍大将から足軽まで1日の兵糧として五合の米が支給された.これが江戸時代の武士の俸給の基本単位だった(丹野顯p.23)

 1875明治8 海軍退隠令   1876明治9 陸軍恩給令

 1878明治11 戦役死傷者扶助料概則(西南戦争の事後策)

 1879年 京都府立盲唖院設立(盲児,聾児への職業教育)

 1880年 楽善会盲唖院開設(盲生は鍼・きゅう・按摩や音楽,唖生は裁縫などの職業教育中心)

 1880明治13 備荒儲蓄(ちょちく)法制定 現在の災害救助法の原型となる備荒儲蓄法が発布された。二十年間の時限立法で、政府が十年間毎年百二十万円を支出し、うち四分の三を府県の地租額に応じて分けて、それを財源にして三十日以内の食料の供与や、農具・種もみ代は一戸二十円以内という救助を行うとした。ところが、濃尾地震(1891年)や三陸地震津波(1896年)のほか、各地で洪水も多く、中央政府の儲蓄が支出し尽くしてしまったため、各府県ごとに基金を独立させて設置する罹災救助基金法が1899年に施行された。各府県は五十万円(北海道は百万円)を最少額とした基金を用意し、(1)避難所費、(2)食料費、(3)被服費、(4)治療費、(5)埋葬費、(6)小屋掛け費、(7)就業費、(8)学用品費、(9)運搬用具費、(10)人夫賃−−を原則現物支給し、支給基準は地方ごとに規定するとした。

1881明治15 行旅死亡人取扱法制定

1883明治16 陸軍恩給令 海軍恩給令  1884明治17 官吏恩給令

1887明治20 石井十次 岡山孤児院開設 石井十次はエミールの自然教育,人格の自然的開発による尊厳,農業教育と労作教育を主張し30年に岡山孤児院尋常小学校を開設した.くるものは拒まずという無制限収容主義.(熱烈なプロテスタント,神の啓示を幾度か体験.1887(明20)年に岡山孤児院を設立,1906年に収容児1200人で世界最大.のち孤児院に疑問をもち里親村を宮崎県に企画した.院児を開拓農村に定着させる.国民の支持で慈善事業を展開することをめざす)

 1888明治21 阿仁鉱山に共済組合

 1890明治23 軍人恩給令 官吏遺族扶助法

 1890明治23 恤救規則改正案として窮民救助法案が政府から帝国議会に提出されたが不成立。(救助対象を2分し第1種の救助対象は,不具廃疾長病不治疾病,重病老衰その他災厄のために自活力なく飢餓に迫るもの,第2種は,養育者なき孤児,引受人なき棄児迷子とし,13歳未満の幼児は父母とともに救済する.被救助者は市町村内に満1年以上居住しているもので,救助の第1次責任は市町村,ついで郡府県とした.救助内容は,住宅・衣服・医療・埋葬費等である.労働能力ある者には労役にあたらせ,児童には職業を教え,被救助者も職業についた場合,可能な限り救助金を償還させることにした.救助には厳格な調査をし,調査は警察官に依頼する.このほか,自活能力ありながら詐偽的に救助を受けたものは2年以下の重禁固に処す罰則を設けた.賛成少数で廃案になった.)

 1890明治23年に新潟の私立静修学校に日本最初の幼児保育が始まったといわれる.

 1890(明治23)鉱業条例 72条で,鉱夫について鉱業人は,鉱夫自己の過失にあらずして就業中負傷したる場合,その鉱夫を扶助すべきで,その救恤規則を鉱山監督所の認可を受けて決めるべき,とした.(明治25施行)

産業革命期と慈善事業

●日清(明治27.8〜28.3)・日露戦争(明治37.2〜38.8)前後の産業革命期には戦争や30〜31年,33〜34年,40〜41年の3回の恐慌,自然災害,足尾銅山鉱毒事件など公害が慈善・救済事業の契機となった. 産業革命期は,労働している貧民が賃金労働者と被救恤的窮乏層に階層分化する時期であった.同時に資本主義社会が生み出した社会問題の担い手として現われてくる.したがって単なる慈善・救済対象ではなく,後に社会事業の対象になっていく過渡的な存在である.日本では,下層社会という用語があるように,賃労働者と被救恤層の収入の違いもあまりなかった.しかし両者への分化の胎動があった.

 1897明治30 後藤新平による「労働者疾病保険法案」発表されたが実現しなかった

 1897明治30 貧富の融和を図る目的の恤救法案、救貧税法案が議員から提出されたが廃案。

 30年に片山潜によってキングスレー・ホール(セツルメント)が神田三崎町に設立された(設立目的は市民の幸福増進と社会の実態研究.事業として幼稚園・職工教育会・青年クラブ・大学普及講演会・日曜礼拝・クリスマス集会ほか).33年にスラム街に二葉幼稚園が,本所に無料宿泊所が作られた.

 明治31年 凶作による飢饉と物価騰貴により窮民が増加したが,恤救規則を適用するには救済基準が低すぎるため,恤救規則の改正を求める声が地方からあがった.

 1899明治32 行旅病人及び行旅死亡人取扱法制定(現行法。現在これによって外国人の医療扶助を行っている自治体もある)第一条 行旅病人ト称スルハ歩行ニ堪ヘサル行旅中ノ病人ニシテ療養ノ途ヲ有セス且救護者ナキ者ヲ謂ヒ行旅死亡人ト称スルハ行旅中死亡シ引取者ナキ者ヲ謂フ.2 住所、居所若ハ氏名知レス且引取者ナキ死亡人ハ行旅死亡人ト看做ス.第二条 行旅病人ハ其ノ所在地市町村之ヲ救護スヘシ.2 必要ノ場合ニ於テハ市町村ハ行旅病人ノ同伴者ニ対シテ亦相当ノ救護ヲ為スヘシ

 1899明治32 横山源之助『日本之下層社会』.留岡幸助の少年保護施設の「家庭学校」開設(家族制,教育主義を方針).留岡は資本主義確立期の学術的慈善事業の提唱者で,宗教・教育・労働を重視し,慈善を省みない政府を批判し,従事者養成を試みる.明治末から大正はじめに井上友一と共に報徳思想と社会事業を結びつけようとした.その地方自治論は市町村長,小学校長,宗教家,篤志家(地主)を柱としそれが力を合わせて町村民を教化していくことを自治とし,その機軸として報徳思想をおき,自力更生を志向する.(重田信一『社会事業史』p.102)

 1900明治33 精神病者監護法(公的な監禁を禁じたが自宅の座敷牢などで「私宅監置」が認められていた).小学校令で病弱または発育不完のものは就学猶予,瘋癲・白痴・不具廃疾のものは就学免除とされる(全員就学は昭和54年に実現)

 明治34年 防貧施設の「無料宿泊所」開設(上京者,行旅病人,失業者の宿泊と職業紹介など)

 1902明治35 救貧法案提出するも廃案。政府委員井上友一は反対して,義務救助にすれば惰民を生み貧民を増やし国費の乱用となる,恤救規則で救済できないものは隣保相扶,私人の慈善事業で救貧すればよいとした.(隣保共助の秩序がいうところの名望家支配を意味した.辻清明『日本の地方自治』)

 1904明治37 下士兵卒家族救助令(日露戦争開始を契機に成立.生活できない家族を国費で救助)

帝国主義形成期と感化救済事業

 1905明治38 官営八幡製鉄所に職工共済組合(当初は任意加入)。鐘紡共済組合(強制的相互保険、疾病・年金。会社から多額の寄付金・補助金。会社からの救済の意味あい)

 1905(明治38)鉱業条例が鉱業法になった.80条で鉱夫自己の重大なる過失に因らずして業務上負傷し,疾病にかかり又は死亡したときは鉱夫又はその遺族を救恤すべしとある.補償範囲が負傷,疾病,死亡に拡大された.(鉱業法80条はドイツ各州の鉱業法規で認められる鉱夫組合の扶助規定を参考にしたもので,鉱夫組合が慈善的宗教的同胞団体から発達したという経緯と,鉱夫の鉱夫組合にたいする扶助請求は,鉱業主にたいする損害賠償義務とは別の法律上の扶助義務に類するものであるとし,扶助すべしと表現してあるという説がある.行政当局は損害賠償責任説(工場法15条の趣旨は,工業主に,業務に起因する災害によって労働者に生じた損害を賠償する責任を持たせることを明らかにし,労働者の権利を確認したもの.工業主と職工の間の損害賠償関係は不法行為に基づく無過失損害賠償責任である)であった.)

 1907明治40 帝国鉄道庁救済組合(後の国鉄の共済組合、恩給の適用のない下級職員を強制加入、業務災害・死亡・老齢にたいして一時金。恩給の代替。1914に公傷病は共済の給付から除外し政府の直接の負担で給付。1916に共済組合に私傷病にたいする疾病給付。1918年金制度取り入れて鉄道院共済組合とする。)

 1908明治41 「済貧恤救は隣保相扶の情誼に依り互いに協救せしめ国費救助の濫給矯正方の件」を通達し救助を制限した。市町村がまず貧困者の救助をし,市町村に資力がないときに初めて府県が負担し,事情やむを得ないとき国庫より支出するという考え.明治41年には13090人だったのが明治42年には3753人に激減.(重田『社会事業史』p.101)

 明治41年,慈善救済事業を指導奨励し,行政を補佐することを目的に,中央官僚や民間事業指導者によって中央慈善協会設立.後の中央社会事業協会で,この流れをくむのが現在の全国社会福祉協議会.(重田p.102)

●明治末から社会主義弾圧の傾向があり,都市が大衆運動の源と考えられ,それにたいして農村における共同体重視が始まった.産業革命期の慈善救済事業に比して天皇制や共同体制を重視する救済事業が盛んになり,41年に感化法が改正され,「感化救済事業」が一般的呼び方になった.1908明治41 内務省主催第1回感化救済事業講習会(1920年からは社会事業講習会と改称)を開き施設の中堅職員の研修をする.国民の感化すなわち善良な国民を造る事業と国民相互の救済の活動を結合することの重要性が力説された.当初,監獄改良・不良少年感化事業に関わりのある人物などの感化事業に関した報告・講演などが中心だったが次第に救済事業の話が増え,その中で国民の感化,救済の教化性が打ち出されてくる.明治42年には内務省は成績優良な私設慈善団体に奨励金を交付(隣保相扶を強調し民間慈善を奨励)

・内務官僚であった井上友一は、人民の実力や精神は西欧列強に比べて劣っていると考え、「国民の造成」「良民の形成」こそが急務という意見を持つようになる。1890年に提出された「窮民救助法案」に井上が強く反対し廃案にしたのも、救貧的な福祉政策が良民形成を阻害すると考えたからである。井上は中流民の形成が重要であると考えた。と同時に井上は、感化救済事業は単に窮民問題の解決策としてではなく、国家基礎の地盤固めとしての役割も持たせたいと考えた.地方に残る共同体をそのまま利用し,地方改良の指導者育成,青年会再編など,隣保相扶や家族制度,独立自営や勤労力行精神,社会の共存共栄がはかられた. (地方改良の内実は「村のことでお上に迷惑をかけない」ことで,租税の滞納の一掃運動につながる)

 1911明治44 工場法公布.1916(大正5)年実施.15歳未満児童と婦人は12時間労働を定めたが施行後15年間は14時間まで延長を認めた,深夜業禁止にも緩和規定あり.15条で職工について鉱業法と同じ規定がおかれた.(施行令で療養扶助,休業扶助,障害扶助,遺族扶助,葬祭料が明定された.)

●細民調査 日露戦争後から大正前半の帝国主義形成期にかけて窮民と底辺の労働者をさして「細民」が使用された.救済事業対象は,従来の対象の被救済層に限らず,下級労働者,ひいては一般労働者にも及ぼうとしてきた.細民調査は内務省地方局が44年に下谷・浅草,45年大正元年に本所・深川・大阪などで実施した.熟練工等の上位収入者が細民の収入水準から分離し始めた.

・明治45年に福岡誠議員が養老法案を提出.提案理由は,窮民の自殺が多い,その家族扶養が期待できない,良民だったものが窮老になったものも多い等.70歳以上の無資産収入者で保護者がいない老人に1日10銭,1年の収入が36円50銭にみたないものには1日10銭以下を給付するという案.それにたいして,国の支給は権利を認めることになるので,むしろ防貧制度と隣保相互扶助で足りるなどの反対で不成立となった.

・天皇制と救済事業 明治44年2月,施薬救療のために150万円の下賜があった。それが恩賜財団済生会設立の発端となった.この下賜について桂首相は,生存競争に破れた落伍者が自暴自棄になって国家の害となる恐れがあるためとした.大正元年の大喪に際して下賜と恩赦,3年の東北凶作には60万円の下賜,5年の皇太后逝去にも下賜があった.

 第1次大戦(1914〜1918)

 1917大正6 軍事救護法(日露戦争を契機に戦死者遺族救済のため救護法制定運動がおこり政府が提案。傷病兵や下士兵卒,その家族遺族を救護.軍人恩給が権利であったのに,救護は国家の温情という形をとった.) 1917大正6 軍事救護法を管掌するために救護課設立.

 1917大正6年に岡山県済世(さいせい)顧問制度(救貧より防貧事業を使命とし,顧問は有力者や旧家出身者で貧困者の調査・相談・就職斡旋など.民生委員のルーツ)

日本資本主義の危機と社会事業

 1918大正7年 大阪府方面委員制度(府知事林市蔵が小河滋次郎と結んで創設.ドイツのエルバーフェルト制度がもと(エルバーフェルト制度とは1853年にドイツ・ライン地方のエルバーフェルトにおいて始まった、私人が無給で(名誉職として)区割りされた地区の救済委員として公的な資金(税金)の運用をも任せられて活動する制度であった。同制度の精神はリベラリズムとは正反対のものであった).方面は一定の広さの地域,小学校通学区域、委員は中産階級,市町村の役人,警察官吏,小学校教師,社会事業関係者,医師,宗教家,質屋,家主,家内工業経営者,小売商などから選ばれ,無報酬で,社会測量つまり社会調査によって貧困を発見する.無産階級と有産階級の了解と協調を期待.民生委員のルーツ)。7年に東京府慈善協会が救済委員制度を創設(名誉委員・方面〃・専任〃.地域の有力者を選び,週1回の巡回を基準とし主に細民調査をした.大正9年方面委員制度ができ吸収された.1936年方面委員令)

●1918大正7 ロシア革命,社会主義体制成立.米騒動(大正7年7〜9月,米価暴騰で生活難になったため富山県から始まり全国にひろまった.労働者,炭鉱夫,日雇など.鎮圧とともに施米・廉売・救済金などでおさめた.東京でも17年から18年にかけて米価は2.2倍も上昇した.シベリア出兵を見越した商人の米買い占めが要因の一つ.生活必需品の価格も高騰).階級協調的だった労働組織友愛会が大日本労働総同盟と改称し階級闘争を全面に出した.内外の変化により日本資本主義の危機.

 1919長谷川良信『社会事業とは何ぞや』.セツルメントのマハヤナ学園

・救護課は米騒動後の1919に社会課、1920に社会局になる.社会という言葉が社会主義を連想させるとして使われてこなかった(明治42地方改良講習会はもとは社会改良だった)が,大衆の生活難が個人的問題ではなく政府が積極的に取り組むべき社会的問題と考えられるようになっていく.社会局第一課は罹災救助,窮民救助,軍事救護,職業紹介,失業防止,その他社会事業ほか,第二課は感化教育,児童保護,社会教化事業ほかをおこなう.

 1920大正9 憲政会が「疾病保険法案」発表

 1920キリスト教婦人矯風会に興望館セツルメント,1924東京帝国大学セツルメント

●第1次大戦(1914〜1918)後の不況で失業が増大し労働運動が激化する。不況は農村にも押し寄せ、過剰労働力の受け皿として機能していた農村社会が疲弊しその機能を果たし得なくなって貧困にあえぐ農民たちの小作争議が増加していった。都市では失業した労働者が農村に帰ることもできず都市の下層社会に沈殿していった。恤救規則では対応できなくなった(もとは賃金労働者で労働能力がある困窮者が増えた)。

●社会問題 資本主義的危機開始期の社会事業問題は,それ以前の救済事業問題・慈善事業問題と性格が異なり現代の社会福祉問題の起点となるもの(賃金労働者の困窮).社会問題の前提として 米騒動,資本主義恐慌(第1次大戦の世界恐慌の一環で,大正9.3に株価暴落,4月に商品市場の暴落),関東大震災,労働争議・小作争議(9年以前は生活難であったが恐慌後は生活不安,社会不安の様相を呈してきた.小作争議は小作料減額要求が主)などをあげることができる.

 底辺労働者・小農層の生活 社会事業問題に隣接する底辺労働者の典型は女工・鉱山労働者・日雇労働者に求められる.生活不安のなかで新たに注目をひき始めたのが住宅問題で,従来の単なる数の不足に加えて家賃の高騰や質の不良が問題になってきた.

・社会事業問題 内務省社会局は「貧民階級を一般貧民と極貧の窮民との2種に見,前者は一家がようやく衣食住費の最小限を得るのみのものとし,後者は一家が生存上必要の最小限度を充たし能わざる者と定義する」と規定した.細民は明治末の細民=下層社会から次第に工場労働者が排出され,貧民・窮民とに分化していった.細民には下層社会からの継承的な面もあるが,●第1次大戦後の恐慌,震災,家族制度の崩壊,農業不振,内職の萎縮,等々によって,賃金下落,失業,住宅難等を招来し,都市細民層が膨張した.都市細民層は流出農民と都市労働者や自営業者の貧困層への落層によって形成された.また繊維産業の女工の結核が社会の矛盾を表わすものとして注目された.

●住宅政策 大正10(1921)年住宅組合法公布,互助組織により中産以下のものに持ち家を持たせようとしたもの.続いて借地法,借家法を制定した.13年に震災罹災者の居住安定や障害者の収容のため財団法人同潤会を創設.昭和2年不良住宅地区改良法公布し,スラム改良の転機となった.

質屋 営利質行為は古代から行われていた.が明治28年に質屋取締法公布され,公益質屋がはじめて宮崎県に大正6年に村営で始まった.公益質屋法が昭和2年に公布された.私設質屋は暴利をむさぼっていた.

大戦後の食品,米価等の諸物価が高騰,政府は庶民生活対策として日用品小売市場設置を奨励した,12年に中央卸売市場法制定.

米騒動後,簡易食堂が生活難緩和や単身者や仕事や病人がいて家庭で食事ができない人のためにできた.

共同宿泊所 無料宿泊所は窮民対策で,労働宿舎は労働者と失業者用であった.大阪市営の共同宿泊所は宿泊者に貯金を奨励し,図書室・娯楽室が設けられ,化飯食堂・浴場が付設され,職業紹介・授産事業も行った.

公益浴場は8年設置の神奈川県営公益浴場が模範,平日1銭,日曜は無料で,娯楽室・理髪室・かみゆい室も付設された.

職業紹介 明治42年に政府は六大都市に補助金を交付し公設の職業紹介を奨励していたが,大正10年職業紹介法公布.

東京の公立保育事業は、大正10年の東京市立の江東橋託児場、大正11年の富川町託児場の開設で始まった。大正12年の震災で焼失、13年にバラックで復旧し、また玉姫、竜泉寺にも開設された。

・第1次大戦後の大不況でボーダーラインの人々は失業、病苦、住宅難等、生活にあえぎ、いわゆるスラム街を作っていた。その中で生きるためには乳幼児はむしろ足手まといとなっていた。このスラムの人々のふりしぼるような願いで発足したのが託児場であった。それだけに当時は、託児場を見る地域社会の目は憐憫のまなざしであり、それが相当期間続いた。乳幼児はスラム以外では常に仲間はずれにされていた。保護者にとって保育者は味方として映り、素朴の感謝を示していた。大正8年に東京市に社会局が設置され、職業紹介所、浴場、公設市場、牛乳配給所、方面制度の創設(大正9)、そして託児場の開設などをしていた。

託児場の趣旨には「少額収入者をして就業上のけい累(この場合は足手纒い)を脱し、生産能力の増進を計らしむると共に、児童を教育的に扱い、かつ、児童を通じて家庭の改善を計らんとする」と記されていた。

東京市託児保育規定(大正10年)では、幼児は一般幼稚園の課程に準じて訓育すること(科目は遊戯、唱歌、談話、手技)。依託者から保育料を徴収するが、事情によってこれを減免することがある。などがあるが、実際にどれくらい徴収したかの説明はない。

 1922大正11 憲政会が失業保険法案を議会に提出。不成立。

 1922 田子一民『社会事業』

 1922大11.4  健康保険法公布。政府管掌健康保険と組合管掌健康保険(ドイツの組合方式をまねたもので労使の主体性に配慮)1927年実施.保険事故は被保険者の疾病・負傷・死亡・分娩。 被保険者; 強制被保険者は工場法または鉱業法適用の工場または事業場(雇用者数10人以上)などに使用される者(現業員。職工、坑夫、徒弟、職員含む)で、 臨時および年収1200円を超える者を除外。 任意包括被保険者はそれ以外の事業場などで被保険者となるべき者の 1/2の同意が必要。 任意継続被保険者は資格喪失前1年間に180日以上又は資格喪失の際に引き続き60日以上被保険者であった者で適用期間は180日。 標準報酬は日額30銭〜4円の16等級。政府管掌健康保険の場合は政府が毎月被保険者一人当たり一定金額を医師会に支払い、保険医療総点数で割り戻して一点単価を算出した上で、医師会が保険医の診療実績に応じて支払うという人頭割請負方式が採用された。健康保険組合の場合は組合ごとの契約で人頭式・定額式など採用。

 1923大正12 恩給令 関東大震災(東京,横浜に火災発生.被害世帯69万,罹災者340万人.政府は臨時震災救護事務局を設け罹災者に収容施設,職業紹介,簡易食堂,簡易宿泊所,日用品市場,公衆浴場,医療施設などを行った)

 1923  生江孝之『社会事業綱要』  1926 矢吹慶輝『社会事業概説』

●大正後半期の生存権思想などが登場すると,新興の社会局官僚にとって恤救規則の改正が急務に思えた.大正15年に社会局の富田愛次郎が現行救貧制度の不備を系統的に指摘した.1)救助資格が制限的2)救助義務者と経費の負担区分が不明3)救助額が少ない4)救助方法が明らかでない5)監督機関,救貧機関その他法律関係が明らかでない,等の諸点をあげて恩恵から権利へ,私的事業から公共事業への移行の趨勢を説きながら,家族制度崩壊の情勢の中で,任意主義特に隣保相扶主義を捨てなければいけないと主張した.

●社会事業思想(社会局官僚の社会連帯主義.新しい救貧法を立案した官僚の思想として社会連帯主義があげられる.大正9年6月の社会事業大会で内務大臣床次竹次郎は,社会事業も社会政策も社会生活の一部と全体との関係であり,一部の欠陥は他の一部が連帯すべきで,これが社会正義に伴う社会連帯の観念である.左手を蚊が刺すとその苦痛は左手だけの苦痛でなく,「他の各部分の苦痛としてこれを排除するの責は,左手にのみあるにあらず,右手も当然これに連帯してその責に当たらねばならぬ」.これは人体のみでなく社会事業における社会連帯の観念にも当てはまると述べた.これは有機体的社会観の立場である.従来,慈善事業や救済事業と呼んできたのは,社会連帯の観念を考えずに,人道博愛の事業と見ていたからであると述べた.このように社会連帯観念によって慈善救済事業と区別する指標とした.同時に社会事業には,社会防衛的意味ではあるにせよ,国家公共団体も責任を共有すべきものと言おうとしたものであろう.

●社会連帯思想 社会連帯思想は自由主義と社会主義の中間を指向した西欧の社会改良主義とみることができる.思想として影響を与えたのはレオン・ブルジョアで,デュルケームのいう機械的連帯(成員の類似性による連帯)を「事実としての連帯」とし,そこから進化して成立した有機的連帯(個人が交換分業などの関係を通して他者に互いに依存して生活することから必要となる連帯,例えば資本家と労働者の間には階級的な利害対立があることを認めてなお資本家による労働者保護の必要性)を「義務としての連帯」として連帯を二つに区別した.これは家族親族や村落共同体などではなく個人と個人の関係を中心にした欧米先進国の近代思想としての社会連帯であり,また社会政策における社会改良主義とみることができる.それに対して日本では家族国家的有機体的救済事業思想が濃厚で,救済事業官僚は家族制度や隣保制度などの事実としての連帯を温存し,それを基礎にした救済を,社会連帯とした.

 このように近代的な連帯思想や社会改良主義が成熟する前にマルクス主義が導入され,マルクス主義者が社会連帯思想を批判するということになった.

・社会連帯的社会事業論 田子一民(たごいちみん)は官僚であったが,社会事業に欧米の社会連帯思想をよく取り入れ,社会の進歩や個人の幸福を社会全体の力で増進するという考えであった.慈善・慈恵・博愛の背後にある人間の上下関係を拒絶し,人間の同質性において社会事業が成立することを強調した.

・生江孝之(なまえたかゆき)は青山学院神学部卒業後渡米.明治42年から内務省嘱託,大正10年から日本女子大教授で,日本社会事業の父ともいわれる.近代的社会連帯思想とプロテスタント的社会愛を主張し,修正資本主義的立場.社会的原因に基づいて社会大衆が生活の脅威を受けつつあるならその責任は社会自身にある.社会の一部の障害を生じたとき社会自身が回復治療に努力するのは当然である.社会連帯責任の観念といい社会的強者が弱者を保護するのは当然であるとした.社会有機体説に基づく.弱者も最善の義務を尽くす観念が必要あり,社会連帯責任は相互努力であるとした.弱者による保護強要の権利には難色. 

・左右田喜一郎は経済哲学者で横浜社会館の館長だった.資本主義が必然的に経済的弱者を生みだしそれを社会の一要素とする以上,その対策は慈善ではなく,その要求を社会の権利とした.すべての人の文化的使命の実現のために社会政策の実行を社会に迫る権利があり,慈善主義を退けた.

 1927昭 2.1 健康保険法実施。療養の給付は 診察・薬剤・治療材料・処置・手術の治療・病院への収容・看護など現物給付と現金給付は傷病手当金・出産手当金・埋葬料。業務上業務外を問わない。全額給付。保険料率は10/1000を労使折半(組合健保は事業主負担が大きかった)。 国庫負担は給付費の 1/10 。

●救護法成立の思想的根拠は,家族制度・隣保相扶を尊重しつつ,国民生活の不安と,思想の動揺を防止することである.すでに貧困は個人の自助の及ばないものとなったことや恤救規則では対応できないくらい貧困者が多かったことは理解された.

 1929昭和4 救護法制定 1932年実施(扶養者のいない65歳以上の老衰者、13歳以下の幼少者、妊産婦、障害により労働できない者で、貧困で生活不能な者。生活扶助、医療扶助、助産扶助、生業扶助。市町村長を実施機関、救護費用は市町村の負担を原則とし都道府県と国から補助(国庫は道府県・市町村が負担した費用の2分の1以内を負担し,道府県は市町村が負担した費用の4分の1を補助する)。貧困者一般ではなく労働能力のない者に限定した。公的扶助義務主義(法文に明記されていないが内務省指示事項で明記されている)。保護を請求する権利がなかった。給付水準が方面委員等の裁量だった。また制限扶助主義(困窮していても,労働能力があれば救済しない.求職中の失業者は難しい.それに対して一般扶助主義は困窮という事実があれば救済する.求職中は就職口が見つかるまで扶助する)で,欠格条項(素行不良なものは救済しない)もあった.被救護者には選挙権がなかった。6年の恤救規則の救護総数は約3万人だったが7年は16万,9年23万人と激増した.9年は対人口比で2.33%だったが,保護課長は被救護者は要救護者の3分の1といっていた.

●社会事業問題は,第1次大戦後の危機状況開始(1920年戦後恐慌,株式・市況暴落)の中で出発し,昭和初頭の危機の深まり(1927年金融恐慌,取付け)の中でその姿を明瞭に表わした.賃金労働者の失業と生活の困窮.

 要救護層の諸問題 昭和4年救護法制定によって,要救護者と要保護者の用語が一般化しはじめた.要救護者=生活し能わざるもの,要保護者=生活困難なもの.方面制度のもとでの要保護階層をカード階級というが,社会局保護課は10年にカード階級者世帯および人口を第1種(疾病その他の事由により生活が困難な者)と第2種(かろうじて生活しているが,一朝事故に遭遇する場合はたちまち自活困難に陥る虞ある者)に分けた.

 児童問題で脚光を浴びたのは欠食児童・親子心中・虐待児童.農村恐慌や凶作による社会問題として身売りが増えた.

 1931昭和6 労働者災害扶助法制定(工場法、鉱業法の適用のない屋外労働者や自由労働者についての業務上災害の扶助が制度化された).適用範囲は一定要件をみたす土石砂鉱採取業,土木建築業,運輸業,貨物取扱業など.使用者の補償義務が鉱夫,職工以外にも拡大された.

 労働者災害扶助責任保険法制定。使用者の扶助義務の保険化は労働者災害扶助責任保険法で始まる.労働者災害扶助法,工場法又は鉱業法に基づく扶助責任を保険するもの.実際に保険化がおこなわれたのは一定範囲の土木建築工事だけで工場法や鉱業法では実施されなかった.工場法や鉱業法の扶助責任の変則的な保険化をおこなったのは健康保険法(療養扶助,休業扶助,葬祭料)と厚生年金法(障害扶助,遺族扶助)である.   満州事変

●1932昭和7 救護法実施(20年代の不況に際して政府は財政支出を膨張させてきたがインフレ傾向となり貿易に不利となった.そこで金本位制に復帰することによる物価下落を目指して29年度予算は緊縮財政とし,新規歳出は困難となり救護法は実施されなかった.世界恐慌の影響もあり労働者の状態の悪化,失業増大,中小企業窮迫,農村不況等,社会問題が激化しファシズムや社会主義活動が盛んとなり事態は逼迫し1930救護法実施期成同盟会ができ運動した。競馬法を改正しその益金の一部を財源とした.救護人員 (1928年)17443人(32年)141445人(36年)204637人と恤救規則より激増)。 上海事変。5.15事件(陸海軍将校が犬養首相を射殺)。

 1933昭和8年 児童虐待防止法公布(不況のもとで貰い子殺しや街頭で物乞いする児童が増えてきた。見世物や危険な曲芸,芸妓(げいぎ)などでの児童使用制限は道府県によってまちまちであった.) 

 1933昭和8年 感化法が少年教護法に改正・公布された.法の客体は14歳未満で不良行為をなし,またはなす虞のある者.少年教護院を設置し,監護教育・実業教育などを行うことにした.入院者の科学的処遇のために鑑別機関を設け,発生原因の調査・指導方針の決定・効果の測定等を行った.院外での保護観察のために少年教護員を置いた.

 1935昭10.4 政府管掌健康保険 強制被保険者に常時5人以上を使用する事業所に使用される者を追加

 1936昭和11 退職積立金及び退職手当法制定(任意だった退職手当を法制化し労使の拠出の積立金を退職時に支払うもの。自己都合退職の場合には事業主負担分は支給しない)

1936昭和11年に職業紹介法改正。道府県も職業紹介所を設置できることになった. 2・26事件(皇道派将校がクーデター企て斉藤内大臣、高橋蔵相射殺)

日中戦争・太平洋戦争と戦時厚生事業

●労働者には労働強化が農民には食料増産が要請された.機械・金属・化学等重工業工業就業者の増加と繊維・食料等平和産業就業者の激減.平和産業従事者や中小商工業者の軍需産業等への転業失業が増えた.また労働強化で労働災害や罹病率が増えた.民営工場労働者の実質賃金指数は昭和9〜11年を100として昭和20年は41.2で飢餓賃金であった.

戦時国民経済は,農業人口を,一方では兵員と軍需産業労働力としてとらえ,他方では,食料増産の担い手として捉え,流動化させたが,その結果,農業は高齢者と婦人が中心となった.労働過重,生活物資の不足などで生活水準は低下し,結核・体位低下を招いた.

●戦時下の厚生事業問題 (1)人的資源としての人口問題(2)体位の低下にともなう保健・医療問題(3)将来の人的資源としての児童問題(4)国民生活の退廃から生じた非行・犯罪問題(5)空襲その他の戦時災害問題(6)貧困問題などに分類できる.

 1937昭和12 救護法大幅改正で濫救対策(扶養義務強化,方面委員による精神指導強化)するが次第に救貧制度は解体していく

 1937昭和12 軍事扶助法公布(軍事救護法を改正した。救護法よりも給付水準が高い、選挙権剥奪されなかった。「生活不能」から「生活困難」へ要件を緩和.援護の範囲は(1)入営もしくは応召した軍人とその留守家族に対する援護(2)傷痍軍人およびその家族に対する援護(3)戦没者遺族にたいする援護(4)帰還軍人およびその家族に対する援護)。 廬溝橋で衝突し日中戦争始まる

 1937昭和12 母子保護法(昭和初期に母子心中事件が多発した。生存権ではなく,家制度の維持の視点からの母子の保護や不良防止の対策を講じた.貧困な母や祖母にたいして13歳以下の子や孫の養育のための扶助。父がいても身体障害者で生活能力が欠如しているときもこれに準じて扶助.)

●1938昭和13 社会事業法(私設社会事業が圧倒的な比重を占めていたが,不況で経営資金が枯渇していた.官庁・道府県・市町村からの奨励金や三井報恩会からの助成があった.13年に社会事業法が成立した.法の適用範囲は社会事業の定義がないまま列挙していた.わずかだが助成金を出したが指導監督規定は厳しかった.民間団体への補助金支給を定めた)

●農村医療 窮乏による体位の低下、軍部も農村医療を求めた.医療費と無医村が重要であった.医療利用組合は組合員の拠出による非営利の協同利用機関で,大正8年島根県青原村の信用購買販売生産組合が最初だった.また無産者診療所運動もさかんになった.大崎の無産者診療所が最初だった.昭和9年に社会局が国民健康保険制度要綱案を発表するが医師会が反対した.

●1938昭和13 国民健康保険法(農村の医療の必要性。軍部の要求する健民健兵策の一環。国民健康保険組合は任意設立、組合員も任意加入。地域内の世帯主を組合員とした普通国保組合(主に農村部)と同一の業種または同種の業務に従事する者を組合員とする特別国保組合(主に都市部)があったが都市部は設立が進まなかった。被保険者は組合員とその世帯員。保険給付は療養・助産・葬祭の現物給付で範囲は組合の規約に委ねた。療養の給付には一部負担があった。財源は保険料と国庫負担。)

●1938昭和13 陸軍の主導で厚生省新設(軍部は徴兵検査の不合格の続出を問題にした.当初,陸軍省は「衛生省」構想,近衛内閣は「保健社会省」としたところ「社会」の語を嫌った.国民の体力向上と国民の福祉増進が目的)37年国民精神総動員運動を開始し,38年に国家総動員法,40年には大政翼賛会.戦時体制認識から生まれた厚生事業の政策・実践対象は国民生活の一切の課題を「人的資源」に集中した.労働力保全,生活安定,健康維持回復は大東亜戦争の手段であった.

 1939昭和14 船員保険法(医療給付と年金給付)

 1940昭和15.4 職員健康保険法施行。 市又は指定町村の一定の事業所に使用される者。 臨時や年収1200円以上は除外。家族給付あり。一部負担金あり。

 1940昭和15.7 政府管掌健康保険 世帯員(引き続き1年以上被保険者と同一世帯に属し被保険者により生計を維持する者)の疾病・負傷を追加。 世帯員の給付は、 任意とし、 入院または 1回10円以上の処置・手術料について必要と認めた時に費用の 1/2を給付。 昭18.1 から被扶養者(引き続き6箇月以上被保険者であった者の配偶者・子および同一世帯に属する者で被保険者により生計を維持する者)とする。

 1940  15年大河内一男『戦時社会政策論』,その中で「生活必需品の消費は,同時に再生産のための人間労働力を経済社会全体のために創り出す過程」と規定し労働力再生産を経済循環に位置付けた.

●戦時厚生事業の思想 日本の社会科学的な社会事業論は戦争期に成立した(社会政策学の大河内一男,風早八十二,社会学の松本潤一郎,竹中勝男ほか)が,昭和15年ころ社会事業思想が否定され戦時厚生事業思想が一般化した(社会事業研究会は「日本社会事業の再編成要綱」を決定し旧来の社会事業とは原理的に断絶した.消極的社会事業とは保護救援しても有能な人的資源として育成する見込みの少ないものだが当人,家族,国家社会の安寧福祉のために必要なもの,積極的社会事業とは国家の有能な国防生産のための人的資源として確保し育成できるものとした.後者が厚生事業に改称されていき,前者は欠落していく).その場合,社会事業思想が近代化していなかった(個人とか権利の視点が弱かった)ので,残存していた隣保・家族共同体の考え方を媒介にした先祖返り(天皇制国家の恩恵など)となった.

 1941昭和16 労働者年金保険法制定 1942年業務実施(10人以上事業所の労働者を対象。養老年金・廃疾年金・廃疾手当金・遺族年金・脱退手当金を給付。養老年金は20年加入で55歳支給(坑内夫は15年以上で50歳支給)。軍需インフレ抑制のために国民の購買力を吸収し、また保険料を戦費に回すために創設という見方がある)

 1941昭和16年に全日本方面委員連盟は大政翼賛会後援のもとに庶民生活強化運動をはじめた.目標は,隣保相扶観念の高揚,庶民生活の支援,厚生福祉施設等の整備拡充であった.1939年に市町村に銃後奉公会が作られたがほとんどの婦人方面委員が銃後奉公会委員を兼ねていた.翼賛組織に飲み込まれていた.

●健民政策と国民医療 壮丁の体位や銃後労働力の確保という要請があって,16年には「健民健兵」の用語が使用され始め,健民政策が厚生行政の中心になった.公衆衛生としての国民体力管理

 国民皆保険が推進され,国民健康保険法が改正され,組合数と被保険者が飛躍的に増加した.「皆保険とは国民皆兵をもじった用語である」

 17年に保健衛生行政が道府県警察部から内務省に移管された.保健所でケースワーカー的役割を持ったのが保健婦で,公衆衛生・戦時厚生事業のそれぞれから期待された.

●児童愛護政策 日中・太平洋戦争期には従来の児童保護は人的資源保護育成になじまないとして,児童愛護・児童福祉等の用語が用いられた.

 児童愛護の中心は母性および乳幼児愛護であり,地域活動として,各地の適当な農村に隣保施設を設けたり,中央社会事業協会が特別な推進地域を指定した活動を行ったりした.妊娠を届け出た妊産婦に任産用必需品や食料の優先的配給がなされた.

 保育の目標のひとつに母性の生産力増強におかれた.従来,保育所は託児的性格と教育的性格の二つを持っていたが,戦時生産力増強の要請の下に教育性が顧みられず,生産力増強政策を中心に,人的資源としての乳幼児の体力や地域的隣保的視点を加え,大正中期以前の託児所に先祖返りした.東京は幼稚園託児所の閉鎖令をだし,戦時託児所に転換させた.

 戦時下では,勤労動員等で両親不在のために学童非行が激増したので,学童保育所・児童指導所等の保育施設が非行防止策として開かれた.

●生産力増強と厚生援護 職業紹介は13年に法改正で国営化した.都市での人口集中が住宅難を招いたので,住宅問題の解決が労務者援護の基本となった.住宅営団法と貸家組合法が16年に施行された.

 1942年昭17 労働者年金保険法が施行され,19年に厚生年金保険と改称された.

生活困窮者を対象にした医療保護は救護法によるものであったが,受給する条件が厳しかったので,不十分な対応しかできなかった.そこで時局匡救(きょうきゅう)医療や済生会などの医療保護事業で補われていた.

 1941年16年に医療保護法が成立した.救護法と母子保護法の医療扶助、助産を統合.この法律は,生活困難にして医療または助産を受けることのできないものを対象にしている.性行著しく不良な者は欠格とされた.市町村や済生会などの本法の医療保護事業の事業者は政府から割り当てられた医療券等を発行した.戦後の旧生活保護法で廃止された.

 1942昭17.4 政府管掌健康保険 標準報酬は月額10円〜150円の15等級。6月労働者年金保険の給付と保険料徴収はじまる。

 1942昭17 国民医療法公布.結核の撲滅と無医村の解消などを目的。

 1943昭18.4 政府管掌健康保険 被扶養者の分娩を追加。 一部負担制(入院 30銭、 入院外 5〜10銭、 歯科 5〜30銭、 薬剤 5銭 )を実施。 家族療養の給付・家族療養費・分娩費は法定給付となり 範囲は被保険者と同じで費用の 5/10を給付。  職員健康保険を健康保険に統合(戦時下で労働者と職員の身分と賃金の格差が縮小した事の反映)。 強制被保険者は適用地域制限を止め、 常時5人以上の規模の事業所に使用される者とし、 5人以上の法人や団体の事務所に使用される者を追加。 年収制限を1800円に引き上げ。職員健康保険で行われていた一部負担を健康保険にも導入した。

●1944昭和19 労働者年金保険法を厚生年金保険法に改称し、制度を拡張。職員・女子・5人以上事業所の労働者にも強制適用。遺族年金を終身年金とした。

 1944昭和19 健康保険で育児手当金・配偶者育児手当金の支給開始。

●昭和20年における救貧制度における救護の比率は,救護法1.7%,母子保護法1.5%,軍事扶助法53.6%,医療保護法43.2%であった.つまり特別立法によって軍事優先,人的資源の保護重視をおこない,特別法ではいかんともし難い限られた社会の落伍者を救護するのが救護法の役割となっていた.