Welcome!!

Mainaeined by Seiji Osafune

Last modified:2015/11/2(Sat)

 シュウマリのホームページ

 

プルサーマル計画とは何か?高速中性子・増殖炉「もんじゅ」では、約50年前に長崎に落とされた<プルトニウム型原子爆弾>の制御が出来ず、1996年12月8日にチェルノブイリ型事故を起こした。そこで愚かな科学者は、旧原発(軽水炉型)で<濃縮ウランとプルトニウムの混合燃料・MOX>を使おうとしている。プルトニウムは、一グラムで百万人にガンを引き起こすほどの猛毒で、放射能の半減期は約二万四千年です。先進諸国・アメリカ、フランス、ドイツ、イギリスでもこの<プルサーマル計画>はあるのか?ない。後進国の日本だけである。

·                ここには、マーキー<流れる文字>が、あります。 <MSワード>で作ったので、MSIEでしか見ることが出来ません。 他のブラウザの方のために、<流れない文字>も用意しました。

·                

·                <流れない文字> プルサーマル計画とは何か?高速中性子・増殖炉「もんじゅ」では、約50年前に長崎に落とされた<プルトニウム型原子爆弾>の制御が出来ず、

·                1996年12月8日にチェルノブイリ型事故を起こした。そこで愚かな科学者は、旧原発(軽水炉型)で<濃縮ウランとプルトニウムの混合燃料・MOX>を使おうとしている。

·                プルトニウムは、一グラムで百万人にガンを引き起こすほどの猛毒で、放射能の半減期は約二万四千年です。

·                先進諸国・アメリカ、フランス、ドイツ、イギリスでもこの<プルサーマル計画>はあるのか?ない。後進国の日本だけである。

·               SINCE : 1997/12/29

·                


     闘わない人の日誌

    2015/11/10(Tue)

    八王子市役所までソブリンに義母を乗せ(一日中、電気炬燵で横になっているのは良くないから、1時間でも気分転換になるし、何より1時間でも隣人の視界から義母が消えることが精神的な負担を軽くするのではないかと思うから。)10月分の請求事務に行く。帰りに八王子警察にミニの車庫証明が出来上がっているのを受け取りに回ろうと思ったが鞄に認印が入っていないのに気がつき「いつものミスであるが今度からはいつでも使えるように認印を常に鞄のなかに入れて置こう。」とまた思って午前中の用事はこれだけにして谷野街道を帰路に着く。昨夜は午後10時ころ就寝時に湯冷めから大きなくしゃみをしている。その性か運転しながら今朝はまだコーヒーを飲んでいないことに気がつきコンビニのファミマを通るたびに先月までほぼ毎日飲んでいたカフェラテの味を思い出す。だけど今月に入ってフェイスブックで雪印のメグミルクのことを読んで「そう言えばお気に入りのファミマはメグミルクを使っている。」のを思い出して、それでもう一切辞めにしたのだ。帰宅して冷蔵庫からパルシステムの「こんせん72」という少なくともセシウム測定は合格している牛乳を使ってやはりパルのインスタントコーヒーでカフェラテを作って飲んだ。(後でグーグルで確かめようと検索したらトップ情報に「パルシステムが国の基準の300ベクレル以内と書いてあるのには驚く。つまり検出されませんでしたということはそういうことであるのですが、誰がこういう情報を更新も訂正もせず流しているのか、これはいくら何でも変だと思いパルシステムから毎週、食材といっしょに配達される紙版「放射能関係のお知らせ」(2015年11月号)を読む。正しい最新の情報は牛乳に関してはパルシステムは自主基準の10ベクレルまでを不検出として出荷している。(国の最新の牛乳の基準は50ベクレルである。)こと放射能については2011年のあの忌まわしい福島第一原発の過酷事故以来、市民社会のなかでは最も早い時期から配送車の小型コンテナの壁面広告で過激に脱原発の旗を振った企業なのだから、それに第一、創業者のAさんとは9条改憲阻止の会で盟友であり「東日本大震災緊急支援市民会議」では共に行動した同志でありというか私のことを一番心配してくれた人だった。それは私が「家庭の経済を顧みず」支援物資搬送行動を繰り返したことをある意味でたしなめてそう言っていたことに今更気が付くのではあるが。)

     

    2015/11/11(Wed)

    昨夜、胸というか心臓が何というか苦しく、しばらく我慢をしていたが、いつもは数秒すれば治まっていたのがなかなか治まらないので左手薬指を右手で50回くらい心臓のポンプのような感じで「握る緩める」を繰り返す。ただし、右手で左薬指を握ろうとした時、右手が重かった。それからゆっくりと確かな腹式呼吸を数回やって様子をみた。ほんの少しだが「心臓が苦しい」という症状は改善された。おそらく、この1年以内に心筋梗塞で倒れたBさんも、CちゃんもDさんもこれはやらなかっただろうと思う。ただ、個体差はすごくあると思うので何とも言えない。ただ私の場合を書いて置くだけのことである。昨夜もパンツいっちょうで上半身は長袖の綿シャツ一枚で、ワインと芋焼酎のお湯割りで毛布の中はポカポカで大の字で寝たことを思い出していた。やはり、夜ふけて、酔いが冷めて少し体温が下がったかも知れない。それから、寝床から立ち上がってそこら辺にある半ズボンのジーパンと薄手のダウンジャケットを着てまた毛布にもぐったのだった。

    2015/11/12(Thu)

    久しぶりに(1年ぶり)木刀を握ってみる。手のひらの感じが少しだが改善というか復旧というほどではないのだが、4年くらい前に感じた愕然とした感じほどではない。握力は少しだが回復している。やはり筋力は衰えたのであるがここまで来て底をつのいた感がある。ほとんど絶望的に思えたのだったが、なぜほんの少しであるが回復した感じがするのだろうと思う。おそらく手のひらの中の微妙な筋群と神経叢のなかで自然に足りないところを補完しあってそうなったのだろう。おそらく咄嗟の時に使う握力にたいして自然に訓練してそうなったのだろう。部屋のなかで100回ほど素振りをやる。50回は正眼の構えからすり足ともう50回はレの字立ちで足裏全体を床につけゆっくりとした据えもの切りをやる。

    46年前にはじめて学生自身の手で大学に学生自治会が誕生した。どこの国の話かと知らない人は言うだろう。あの時、5月29日の学園闘争の口火を切る3ヵ月前から4年生の法学部学生委員長のノンセクトだったE君は甲府駅前で携帯用のベニヤ板で自分で作った大看板に何やらいっぱいマジックで書いた模造紙を貼り、その前で自衛隊がどうだとか自説を市民に向かって腹の底から声を出してガラガラ声になっても展開し続けるのを暗くなるまでやっていたのであるが、いやなにも私は彼こそがその後はげしく燃え盛った全共闘運動の端緒を作った男だと言おうとしているのではない。彼は全学集会までの1〜2ヶ月間はかなり主人公だったのであるが建学以来はじめてだった第一回学生自治会の執行部を3年生に譲りわれわれ4年生は学生自治会と別に「○○○の事実究明対策協議会」なる縁の下の力持ちのような組織を作って市内に一軒家を借りて活動を続行したのだった。E君がこの協議会の委員長に自然に就任した記憶がある。学生自治会が発足するまでに何度か全学集会が開かれたのだが、大学当局から学長も一度は出席した記憶がある。だれかが「長船青治という名前でアジビラを撒いているやつがいるが、誰か。本学学生名簿にはそのような名前の学生はいない。」と質問をされたのだが、このときだったか、その後しばらくしてキャンパス内の私服刑事にそう聞かれた時だったか、どちらの場合もK君が「それは私です。」と私をかばって発言したときのことを思い出す。しかし当時の私はE君にかばってもらうほどひ弱な存在ではなかったのに、なぜ黙ってそれを見過ごしていたかというと、親友だった彼に花を持たせてやりたかったという実に微妙な咄嗟の判断があったように思う。それに彼が学生服の両腕を組んで濃い眉を寄せてそう答えた後の人々の反応がまた実に面白くて皆、納得して静かになったものでした。後で二人きりになった時なんか互いに顔を見合わせてクックと笑いあったものでした。

    2015/11/13(Fri)

    私の超常現象について考へている。それはまた1969年に観念は立ち戻るのだが。2年生のF君を乗せて250CCのバイクで甲府から東京在住の30人くらいの教授たちの自宅を訪ねて学園民主化闘争のための活動資金カンパの要請に回ったときのことか。

    だが今夜はそれは中止して、47才の時に空中浮遊した時のことか、空中浮遊といってもただ雪が降り始めて中央高速が薄っすらと白くなった時、廃車依頼でまだ車検は2ヶ月残っていた2000CCのローレルのタイヤが4本ともほとんど坊主だった性でハンドルもブレーキも効かなくなってフト速度計を見たら時速150キロを指していてそのままエンジンを切って自然に止まるまで走っていれば良かったのに無理やり壁に向けて突っ込んで止めようと思ったのか気を失ってレスキューの声で眼が覚めた時は中央分離帯のつつじの上でくちゃくちゃにつぶれて小さくなったローレルの中から這い出した時のことか、それとも27才の時、海抜3000メートル超級の塩見岳の頂上近くにあった犬小屋のように小さかったSという伝説の男が一人で建てた山小屋に雨で何日も閉じ込められ、雨音で意識が朦朧として来てこのまま眠りそうに一日に何度もなるのだが、その度にGというやはり伝説の男と2人で上ったのだが、そこに自費を投じて新しい山小屋建設のための調査を兼ねて来たのだが、とにかく雨の中を1000メートル下の無人の避難小屋だった池の沢小屋まで降りようと濃いガスにまかれた天狗岩の前を今さっき横切ったばかしだというのに3度もまた同じ天狗岩の前に立った時のことか、視界が1メートルしかなかったし2人はただ陽気に笑いあってもう一日、犬小屋に戻ってほとんどぐしょ濡れのシュラフに下半身だけ入れてその上にやはりほとんどぐしょ濡れの軍用毛布をかけてほとんど眠らなかった時のことか。それともその翌日、2人は吐く息で雨合羽のなかをお湯のように沸き立たせて通常の下山ルートでなく高山植物のハイマツの上を滑るようにして時々、両足でブレーキをかけながら一気に1000メートルをまるで空中を泳ぐようにして降りた時のことか。

    2015/11/15(Mon)

    夜中に一度、白湯を飲んでいる。

    社会に必要とされていると感じる。こう書くとまるで国勢調査のようです。

    とにかく朝の仕事は誰か良い人が見つかるまで何とかして私が一人でこなしていくしかない。

    なぜそうなったかよく思い出せないが1ヶ月前の義母のQOLが一気に下がってしまってもうこのまま本当に死んでしまうのかと思ったくらいだったのに元看護婦の隣人と二人三脚の私家製老人ホームのような毎日の格闘がまた義母を元気にしたのだったが。こう書いてみて思うのであるが「介護もまた格闘技なのだ。」と少し苦笑してそう思う。その後「少林寺拳法の振捨て表投げ」は義母にとって少しは役に立っているのだろうが、ときどき私の顔を見上げて「いたいいたい。」と小さな声で訴えられる時など、柔術にとって身体の構造と心の動きが却って抵抗要素になっている場面でつと立ちつくし、力まかせに投げてしまっている自身の自己保身に気が付くのだが。

    ミニ1000にCIBIEのイエローフォグを取り付ける。夕方だった性で4番のプラグコードから漏電しているのを見つける。時々、咳き込んで900回転くらいで安定している針がストンと200回転くらいまで落ちるのですかさずチョークを引いて回転数を何とか1000回転に戻すのを繰り返して走っていると今熊山のストックヤードを往復する1時間くらいでも室内は不完全燃焼したガソリン臭でいっぱいになっていた。だれかに保育園の送迎の家事援助にミニで行くのですかと聞かれたとき、心の中を読まれたようなしかしまんざらでもないような中途半端な返事で「ああその予定ですが。」と言ったあと、平成15年の車検がまだ半年残っているホンダライフで行ったほうが目立たなくていいのかなあと思っていた。さすがにシャコタンのプレジデントのソブリンで行くとどうなんだろう、まあ子供の教育上は良くないという人のほうが9割なんでしょうかねえ。

    2015/11/19(Thu)

    よくあるパターンであるが、まさか道場で弟子たちの前で講釈をたれていた私自身がこんなケアレスミスをやるとは夢にも思わなかったのであるが、朝、起き抜けに桐の箪笥のうえにある屋内電気配線を自分でやったあとの、つまり完全でないテーブルタップに天井に最近取り付けた2メーターの蛍光灯を点そうとジャックを刺しに丸椅子を用意する手間を惜しんで事務机の中に入れる独立した引き出しに思い切り右足を上げて乗り電気を点すという用事を済ませたのだが、右足からジャンプして降りれば右ひざを曲げていたものを宙ぶらりんの左足が床を探してそのまま左ひざをのばしたままストンと事務机の高さから垂直に降りたといった体になっ、てしまった。「しまった。」と思ったが遅かった。左大腿骨の付け根と骨盤のじん帯を痛めたという感触がすぐにわかった。すぐにフラフープ運動を何回かやってみたが左足全体にもうすでに鈍い痺れを感じる。腕立て伏せも緊急にやってみるのだが、腰全体に痛みがあった。さて食堂で朝ごはんの支度に忙しい隣人からいつもの義母の介護の指令が飛ぶ。くそと奥歯を噛み締めながら車椅子を寝室に運び込み二段ベッドの下から義母を床にずり下ろし両足を下着入れのアクリルケースにつけて支点を作り背後から抱え一息でいっしょにたちあがりそのまま振捨て表投げの未完成の投げ技を使って車椅子に乗せるときいつもより慎重に腰を下ろして重心を下げて両手の腕の力だけでやるしかなかった。明日の早朝から毎朝、新宿区立こども園まで育児支援の送迎がはじまるという大事なときに。

    2015/11/25(Wed)

    4時出発。甲州街道を環八までちょうど1時間だった。セブンイレブンでコーヒーを飲む、うまい。環八から新宿南口までなんと20分だった。5丁目の会社の駐車場で1時間寝る。

    2015/11/26(thu)

    3時半起床。トースターで一斤5枚切りのパルシステムの酵母パン1枚にバターをたっぷり乗せて焼き、携帯用魔法瓶にこんせん21という測定をパスした牛乳を温めて入れる。たぶん家を出たのは4時過ぎで環八を過ぎて2番目のセブンでいつものコーヒーを飲もうと思って時計を見ると5時丁度だったので早かったなと思った。新宿南口まではさらに早く着いて5時15分だった。会社の駐車場で6時半まで寝て、一度事前に富久町交差点から今朝行くこども園「小宇宙」までの周回コースを走って見た。

    2015/11/28(Sat)

    新青梅街道から行く。朝4時10分に家を出て環七まで50分だった。環七から最初のセブンでホットコーヒーを飲む。まだ慣れない冴えない学生のようなアルバイト店員の応対が微笑ましい。さて目の前には中野街道がありその向こうに山の手通りがあってと思うとやはり早すぎたかなと思って20分もぼんやりしていた。少し疲れが表面に出たがっている。ホンダライフの変速クラッチのセッテイングがオートマながら流石に元F1参戦の経験が生かされているなあと感心する。10年以上前になるが埼玉県指扇辺りの農道で偶然にもスターレットのマニュアル車を運転する自称元F1レーサーのN氏の助手席に乗ったことがあるが、流石だった。舌を巻くほどのクラッチワークだった。おそらく彼の噂は本当なのだろう。自宅に何度か解体車でまだ乗れそうなのを届けたことがあるが、近隣の農家のなかでも異様な景色となった3階建ての豪邸はいかにも苔むしていて家の周囲は3階建ての高さに匹敵するほど今まで集めた100台ほどのほぼ廃車状態の中古車が無造作に山積みされていた。もちろんパンチドランカー状態で奥さんには逃げられ一日中、山積みされた廃車の何処かの運転席に座ったまま紺色のカストロコートを着て何か意味不明なことをぶつぶつ言っているだけの人だったが。