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「序章:研究方針」

研究方針 第三稿

 

 

本HP開設半年の節目に、もう一度自分の考え方をまとめてみることにしました。
今後ともご批判・ご教示、よろしくお願いします。

 

  中国近代史とは何か。
  大陸では長年にわたって、「中国人民による1840年アヘン戦争以来の反帝国主義反封建の飽くなき闘争の歴史であり、すなわち中国の半植民地半封建社会における中国人民の革命の歴史である」としてきた。今ではさすがにこのような観点を持っている人は少数にはなってきているが、無意識的な観念においては依然として濃厚である。
  70年代から80年代までは、この観点が日本においても基本的なスタンスであった。
  こうした観点は中国人民を歴史の主役に仕立て上げているように見えて、実は「中国人民」という曖昧な言葉を使って、「革命」というものを神聖不可侵なものにし、結局は歴史を政治に従属させてしまうものとなる。
  つまり今までの歴史研究、特に近代史のそれは、「中国人民」という曖昧かつ絶対的「正義」の言葉を利用して、ある党派の正統性を立証しようとしているものにほかならなかった。
  当然、誰も中国近代史における「革命」を否定することはできないし、私個人としても「革命」が中国近代史において非常に重要な役割を果たしたことも認めるが、上記のような「階級闘争を主とする研究観点」、所謂「革命史観」によってのみで説明できるほど歴史はそれほど単純ではないし、このような観点に固執していては歴史をただいたずらに歪めてしまうことになり、まさに百害あって一理なし、である。
  現在、「革命史観」の見直しが大陸でも台湾でも、そして日本でも行われてきている。が、私個人が考えるに、まだまだ充分とは言えない。歴史を政治に従属するもの、もしくは利用されるもの、としてではなく、歴史を歴史として、その中から一つでも多くの真実を見極めることが、現在の中国及びその社会を理解し、さらに日中関係や日本というものを理解するのに重要なことである、と考える。

  そうした「歴史の真実」を捻じ曲げるものとして、「革命史観」とも多いに関連のある問題に、「愛国」というものがある。
  大陸では、特に近代史研究において、「愛国」と「売国」が歴史を見極める上で非常に重要な、時にはほとんど絶対唯一の基準となっている。アヘン戦争時、イギリスに対して徹底的に抵抗した林則徐は愛国的民族英雄であるとして、その歴史に絶対的地位を有しているし、他にも、清末新彊での騒乱を収め、新彊省として同地を中国の版図に回復した左宗棠もまたしかり、愛国英雄である。または袁世凱帝制に反対して護国軍を指導した蔡鍔も愛国将軍であり、五四以降は日本の侵略に対抗した、という一事をもって「愛国」の美称が与えられ、その歴史的地位は確固不動なものとなる。
  逆に「売国」で言えば、中国のあらゆる方面の近代化を促進した洋務運動の提唱者の一人であり、指導者でもあった李鴻章は、特に甲午中日戦争の講和条約である馬関条約(下関条約)で台湾割譲を日本に約したという一事によって現在に至るまで、しかも学術レベルで「売国賊」と賞されている。同様な例として清末民初の軍閥で一人として売国賊でないものはいないし、中国近代史上最大の売国賊は何と言っても「汪偽集団」であるが、その評価は推して知るべしであろう。
  当然、当時においても「愛国」という考え方はあったし、「祖国のために」という思いによって様々な活動に従事した人々の営みは否定されるべきものではないし、むしろ研究対象として取り上げてみるべきものではあるが、問題は現在の「愛国」観によって歴史を論じることにあるのであって、かつそれは往々にして今現在政治に簡単に利用されるものであり、さらに重大な問題として、愛国と売国という歴史研究で最もあってはならない善悪二元論に陥ってしまうことである。
  こうした諸問題が如何に由々しきものか現在の大陸史家で理解しているものはほとんどいない、ほぼ無条件で、ごく自然に「愛国」と「売国」というものを使って歴史を論じている、というのが現状なのである。ただし、大陸にこのような風潮があるのも当然歴史的原因があるのであって、それを無視して批判することはできない。近代史における民族的屈辱の記憶がそうさせているのであって、それは主に我々日本人によってもたらされた、ということを認識しなければならない。
  しかしだからと言ってそのままに放置できるものでもない。特に「日本人だからこそ大陸のそうした史観に理解を示さねばならない」などといった考え方は、大陸に同情し、友好関係を保とうとしているように見えて、実は大きな欺瞞であって、大陸の人々を欺こうとするものである。
  「愛国」というひどく感傷・感情的なものが客観的存在である歴史の基準にはなれない、などということは歴史研究の常識であり、こうした態度を堅持することが、結局大陸との真の友好につながるのである。
  真実を真実として正直に捉えること、これは両国間の友好云々ではなく、学問の基本的原則であって、殊に中国近代史研究ではその弊害がひどいから、特に強調されなければならないのである。

  そもそも「近代」という言葉、常々「資本主義」というものと関連付けられる。
  政治においては資本主義的な、民主的な、議会政治の成立と発展、経済的には資本主義的な経済形態の成立と発展、などが見られる時期を一般的に「近代」としているようだ。大陸においてもマルクス主義の観点から資本主義社会を近代社会という。大陸では一般的に「中国には資本主義社会は存在しなかった」として、中国特有の社会形態として「半植民地半封建社会」というものを作り出し、その社会を「近代」もしくは「近現代」とするのが一般的である。すなわち1840年から1949年の間である。「半植民地半封建社会」についてはいずれ項を改めて述べようと思っている。
  ただし、1840年アヘン戦争からの中国の歴史について、大陸では大きく、三つの考え方がある。
  一つは1919年五四運動を区切りとするもの。その理論的依拠は毛沢東の新民主主義論に由来している。五四運動以前を旧民主主義革命時期として「中国近代史」とし、、それ以降1949年中華人民共和国成立までの新民主主義革命時期を「中国現代史」とし、アヘン戦争以来からの歴史を中国近現代史と称する。
  二つに、一つ目と同じく1840年から1949年までを中国近現代史とする考え方の一つで、近代と現代の区分を1911年辛亥革命に求めるものがある。社会政治形態による区分である。つまりアヘン戦争以来辛亥革命までの清末時期と1912年以来の中華民国時期というように二分するものである。
  三つに、社会経済形態から、1840年から1949年までを近代と現代に二分することは不可能とし、この時期を総称して「中国近代史」とするものである。日本でも1949年以前を中国近代史とし、それ以降現在に至るまでを中国現代史とするものが多く、この考え方と近い。
  第一の考え方は共産党政権成立以来の伝統的なものであり、現在でも最も広く通用しているものではあるが、この考え方の中には近現代史イコール革命史という観念が濃厚で、また政治色が極めて強い。第二の考え方では現代史イコール中華民国史、つまり通史と朝代史が混同される恐れがある。だから私は基本的には第三の考え方に同調する。このHPの名称も「中国近現代史」とはせずに、あえて「中国近代史」を使用した。
  「民主」というものを含め、資本主義といってもいろいろで、各国それぞれの形態があるし、どの形態をもって基準とするのかが問題となるだろう。いったいどれを基準としてそれをどのようにして中国に当てはめるのか?私自身の見解としては「近代」というものと資本主義というものを無理に結び付ける必要はないのではないか、各国それぞれにそれぞれの「近代」というものがあってもいいのではないか、と考えている。だからむしろ単一の基準を求めようとするよりも、直接的に「中国の近代」といったものを探したほうがより効率的ではなかろうか、と思う。

  では「中国の近代」とは具体的にはどういうものか?
  言うまでもなく1840年アヘン戦争から1949年共産党政権の成立、この約百年間の歴史がその中心となる。ではその歴史の底流にあるものは何か?
  一般的に中国近代史はアヘン戦争によって始まったとされる。「革命史観」を差し引いてもアヘン戦争は中国自身ばかりでなく、東アジア全体に多大な影響を及ぼす歴史的大事件であり、それだけに象徴的な出来事でもあるがために、この戦争によって歴史を線引きしようとする姿勢は全く否定されるべきものではない。
  ただしアヘン戦争もやはり突発的な事件ではなく、それなりの歴史的な背景が存在しており、これを無視してこの事件を語ることはできないのは言うまでもない。その歴史的な背景を辿ればそれこそきりがないであろうが、私は少なくとも清朝乾隆帝の末年まで溯らなければならないと考えている。1793年のイギリスによるマッカートニ派遣は中国史史上初めてイギリスと交渉を持った出来事、と言えるし、この意義においてもこれが半世紀後の同国との戦争と無関係ではありえず、中国近代史の範疇としてもっと探求されなければならない問題である。ただし、マッカートニ派遣は中英関係の歴史においてはその端緒となるべきものであり、非常に重要で、画期的な事件ではあるが、中国の歴史を根底から揺るがすという性質のものではないし、象徴的意義に欠けるのは否めない。
  では、この時期、この前後において、何か中国史を塗り替えるような、そんな象徴的な大事件があるのか、というと実はある。
  1796年白蓮教徒の乱である。
  これ以前の中国は清朝統治下で、康煕・雍正・乾隆という中国史史上でもまれに見る名君が三人相次いで誕生するという未曾有の盛時、所謂「三世の春」を百数十年の長きにわたって保っていた。そして1796年という年は前年の乾隆帝退位を受けて嘉慶帝が即位するという年とちょうど符合するのである。そのことからも私は、あまり注目されないが、1796年というのはかなり象徴的な年であると考えている。
  もちろん、乾隆帝退位嘉慶帝即位と同時に大反乱が起きるというのはあまりにもタイミングがよすぎ、「三世の春」に、もしくはそれ以前にすでに反乱の萌芽が育っていたと考えるのが妥当である。しかし三世の盛時は厳然とした歴史的事実であり、それ以後の中国社会の衰退とあわせて考えれば、1796年は歴史的段階の区切りとしての性質を十分に備えていると思う。
  そもそも従来なぜ1840年にこだわってきたのか、ということを考えると、そこには意識するにせよしないにせよ、中国近代史の被圧迫性というものが挙げられるだろう。帝国主義勢力と封建残存勢力という二重の束縛に苦しんできた中国人民の歴史、ということを強調するために、または観念的にそのように考えているために、起こったものであると思われる。
  当然であるが、中国近代史において列強の侵略というのは動かしがたい事実であるし、極めて重要な内容ではあるが、歴史を正しく把握するためにも固定観念はあってはならないものであるし、中国近代史はあくまで中国の歴史なのであるから、中国社会自身の変化によって語られるべきであって、所謂「西洋の衝撃」によって始まるとするのはふさわしくないように思われる。
  「西洋の衝撃」というものは往々にして列強の非道によってのみ説明されるが、それを受けなければならなかった側の社会的状況というものは、従来あまり考えられてこなかった。アヘン戦争はその名の通り「アヘン」が重要な鍵を握っている。イギリスがアヘンを大量に中国に持ち込んだのは事実であるし、それを阻止しようとする清朝との間に戦争が起こったのであり、当時の世界最強国がほとんど国家ぐるみで他国に麻薬を密輸していた、というのは確固とした史実である。
  しかし、ではイギリスはなぜそのような大量のアヘンを中国に持ち込むことができたのか?
  当然の疑問であろう。なぜ中国は当時、老若男女含めて百人に一人のアヘン常習者がいるという社会であったのか?イギリスが中国に強引にアヘンを持ち込んだ結果である、という説明だけではあまりにも説得力に欠けるといわざるを得ない。
  アヘン戦争以前、イギリスがたとえ強大な武力を持っていたとしても、その武力を正面きって中国に用いたのは数えるほどしかない。アヘン貿易に武力を用いた、強権的な態度によって行った、という事実は皆無に近いのではなかろうか?
  こういった問題になると、往々にして清朝官僚の腐敗ばかりが批判される。清朝官僚が腐敗して賄賂を受け取っていたためにアヘン貿易が成立していたのである、という。勿論、そういった側面も見逃せない。ではなぜ清朝官僚はアヘン貿易によって賄賂を取ることができたのか?
  答えはもう明白である。当時「百人に一人」の中国人がアヘンを必要としたからである。
  では、なぜそれほど多くの人がアヘンを求めたのか?
  当時の中国社会全体が異常だった、社会的退廃傾向にあったからに他ならない。
  社会が正常ではないから、何かにすがりたいから、人々はアヘンを口にしたのであろうし、最後には確実に死に至ると分かっている薬に手を出さねばならぬほどの状況がなければ、アヘン戦争当時の中国のアヘン漬けのような社会になることもなかったであろう。これは決してイギリスの、そして帝国主義列強の中国侵略を正当化するものではないし、それに何らかの意義を加えようとするものではない。事実を事実として受け止めることが歴史研究の第一である、ということだ。
  老若男女含めた全人口の1%に値する人々がアヘンを貪らざるを得なかった社会を「退廃」と言わずして、何と言えるだろうか。この「退廃」は当時の有識者の間で「衰世」、もしくは「憂患」といった表現で語られていたことは、多くの資料が証明しているところである。
  ではこの「退廃」の原因はいったい何であるか。
  この原因にはいろいろ考えられるが(それを探るのもまたこのHPの主旨の一つではあるが)、最も主要なもので重要なものとして「人口問題」というものが考えられるだろう。これについては問題があまりに大きすぎるのでここでは提起しとくにとどめる。初歩的な考え方として「第三章:予備知識」「(一)中国近代史の人口統計」及び「附:中国近代史の人口問題(暫定版)」を参照のこと。
  ところで中国近代史は中国とそれを中心とする国際関係の歴史といっても過言ではない、という人がいる。私はこの考え方に全く賛成である。世界史的に見ても19世紀から20世紀にかけて、国際関係を無視して、その歴史を語ることはできない。しかし国際関係を重要視することはその国内情勢を軽視することを意味しない。この中国社会自身の「退廃」という内因があって、まずイギリスが、続いてフランスが、アメリカが、ロシアが、そして日本が、それぞれが協力や敵対の関係を保ちつつ、絶え間なく中国に侵略し、またその中で様々な形での交流があって、それらが外因を形成し、その内因と外因の相互の作用と影響が中国近代史の大きな潮流となるのであって、そこには主従の関係は存在しない。ただし、いままであまりに多く外因のみを、それも一方的なもののみを強調されてきて、内因にしても、反封建の「起義」のみを大きく扱ってきて、その根底に流れる中国社会自身の大きな流れ、つまり「退廃」というものが軽視されてきていたように思う。そしてこの中国社会の「退廃」が始まる最も象徴的な事件が白蓮教徒の乱、つまり1796年なのである。
  「退廃」をあまり強調しすぎたかもしれないが、当然、中国近代史を通してずっと中国社会が傾斜していったたわけではなく、むしろこの「退廃」を感じた者、あるいは集団が、それを何らかの形で改善・変革しようとするところに中国近代史の歴史を前に動かそうとする精神的な原動力を見ることができる。それは「憂国」「救国」という言葉(中国近代史においてはこれを唱えなかった人物はいないと言える)に表れているだろう。
  社会の異常が数々の思想を生み出し、または外来の新たな思想を受け入れることを可能にして、そしてそれに基づいて洋務運動・変法運動・立憲運動・革命運動などなどが相次いで沸き上がった。
  この激動の時代を生きた人々の中にはこの退廃からの脱出という考えが多かれ少なかれあっただろうし、それらの人々のいかなる行動もこれと無関係ではありえない。
  このゼロからの、否マイナスからの出発、そしてそのプラスへの変化、この間で活動する人々のダイナミズムが中国近代史の醍醐味であろう。
  だから私は「中国の近代」とは社会的昏迷からその基本的脱出まで、と規定したい。
  その間の社会はすべて「近代社会」であったし、昏迷脱出のためのありとあらゆる活動は、その成功・失敗を問わず、また経済的な資本主義化も含めて「近代化」である。

  しかし中国では古代より、社会の矛盾増大→革命による矛盾解消→社会の矛盾増大→革命による矛盾解消というワンパターンをくり返してきた。だから社会的昏迷からの脱出及びその過程も、ある意味において中国ではなにも近代史に限った特有の過程ではない、とも言える。
  こうした中国史の特徴を私は「統一と分裂」によって表現できるのではないかと考えている。
  極簡単に言えば、統一とは強力な中央政府(及びそれに準ずるもの)による確固とした全国統治である。分裂とは中央政府の権威が失墜し、その権力が地方に届かなくなった状態を指す。
  総じて言えば、「統一」に代表される時期は歴代の長期王朝、「分裂」は王朝交代期によく見られ、また短命王朝などもそれに含まれるだろう。
  私が規定するところの中国近代史は清末(王朝交代期)から民国期(短命王朝)にかけてであるから、当然「分裂」の時代に分類それる。そして「分裂」の時代こそ、「社会矛盾を解決しようとする過程」が最も際立って表に現れる。
  だから歴代の「分裂」時と近代史の類似点を探すのはそれほど難しくない。政治的社会的不安定、戦乱、思想哲学の方面における発展などなど・・・
  しかし歴代の「分裂」時と近代史との最も重要で最も決定的な相違点がある。
  「外国との関係」がそれである。中国近代史は「中国とそれを中心とする国際関係の歴史」なのである。
  歴代「分裂」時はおおよそ自国の価値尺度によって物事を判断できていた。仏教の本格的流入も三国時代と考えられるが、その異国の宗教もすばやく中国的なものとした。そこにはほとんど価値観の衝突というものが感じられない。それには絶対的な中華文明への信仰というものが脅かされない、という前提があったのは言うまでもない。
  近代に突入すると、そうしたものが根底から覆され始めていくことになる。列強の圧倒的な「力」の前では、伝統的な中華文明信仰(所謂「華夷之辨」)など無力であった。
  列強の圧倒的な「力」とはもちろん単に列強の侵略を指すものではなく、もっと幅広く、中国が国際社会にあらゆる方面から巻き込まれていったという意味で、中国の伝統的な価値尺度が絶対的基準となり得なくなってきて、中国伝統の価値基準を含む様々な価値観が錯誤し、そうした中で必然的に生じてくる社会的矛盾、それをありとあらゆる方法と手段を講じて解決していこうとする態度や姿勢、そうした歴代の「分裂」時とは異なった性質のものを中国近代史は含んでいる。そうしたものを一つ一つ解明していくという方法も近代史理解には必要であろう。

  以上、大まかに私の中国近代史の研究におけるスタンスを述べてきたが、更に細かい考え方などは本文に意識的無意識的に現れてくるだろうし、何か大きな問題として、自身の考え方がまとまり次第、この頁に追加していきたいと思っている。


                                                                  1999年7月1日



「研究方針」

第一稿第二稿/第三稿/第四稿/50年来の大陸における近代史研究(翻訳)



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