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「第三章:予備知識」「(二)中国近代人口研究」

2,中国近代史の人口問題(暫定版)



  「中国近代史の人口統計」(以下「人口統計」)でも述べた通り、中国近代史における人口問題は非常に重要な問題であり、これを理解しなければ到底中国近代史の理解などはできない。ここでは、先の「統計」をもとにして、その発展の概要を述べてみる。
 
  文献で確認しうる、比較的まとまった統計資料によれば、漢代以降二千年の長きにわたって、中国人口は、その領土の大小もあるが、大抵4000万から7000万の間で徘徊していたといえる。この状況は清代において全く変化する。
  康熙帝即位の年、つまり1662年にはすでに9000万を突破、その後その増加傾向は止むところを知らず、康煕二十四年(1685年)には1億の大台にのる(一説には乾隆年間になって初めて1億を越えたともいわれる)。その後乾隆二十四年(1759年)には2億、乾隆五十二年(1787年)には3億、とそれぞれ突破する(諸説ある。2億・3億の突破をそれぞれ乾隆二十七年・五十五年、つまり1762年・1790年とするものがある)。つまり中国人口はこの時期、70年余りで倍増し、その後の30年で1億増えたことになるのだ。そしてその数値は道光十年(1830年)にはとうとう4億を越える。アヘン戦争の10年前にあたる(やはり諸説あり、アヘン戦争勃発の年1840年に初めて4億となった、というものもある)。近代史を通じて、国家最高指導者から一般人まで、中国人全体に呼びかける場合の前置詞「4万万」(「万万」は中国語で億の意)はここから生まれたのである。その後増減を繰り返しはするが、1949年共産党政権成立まで、大体4億代をキープすることになる。5億になるのは49年以降のことである、と一般的には言われている。
  この清代における人口の爆発的増加の最も重要かつ主要な原因は康煕五十一年(1712年)に実行された「盛世滋生人丁、永不加賦」政策と雍正期に徐々に実行され始めた「攤丁入畝」政策であろう。これら一連の政策によって、以降戸籍登録の届け出を隠匿する必要もなくなり、また今まで隠匿されてきた戸籍が一斉に表に現われ出した。乾隆期の初年から一気に人口が増加したのは、人口そのものも多少は増えたであろうが、それよりも、もとからいた人口が官側に登録され始めた、そうした要素が多分にあった、と考えたほうが無難である。でなければ、到底、表から見ることのできる人口激増は理解できない。しかし康煕・雍正期の二つの政策は、それ以後の人口増加を促進したことは間違いない。またその他にも領土の拡大に伴う人口統計対象の拡大、も忘れてはならない一要素としてあげられるだろう。
  前に述べた通りアヘン戦争以前にすでに4億の人口を有していたと考えられるが、それ以前のペースと比して、所謂「近代史」と呼ばれる時期約100年間は1億増えたかどうかといったところであり、ペースダウンが顕著となる。康煕・雍正・乾隆の三世が清朝ばかりでなく中国の歴史全体から見ても、社会的に最も繁栄した時期であったことを考えれば、比較の対象となりうるかどうか疑問の残るところではあるが、それでも近代史を通じての人口増加の停滞はその時代の「激しさ」を物語っているようである。以下に、各時代ごとに若干の分析を試みることとする。
  一般にアヘン戦争から太平天国勃発までの約10年間、中国人口は緩やかに増加していったといわれる。「人口統計」でも分かるように、1830年に4億を突破して以来、1836年には4億1千万、1841年には4億2千万、1847年には4億3千万といったように順調に増加している。そして咸豊二年(1852年)には4億3964万を記録し、清代における最高点に到達している。
  4億という莫大な人口基数によって、特殊な人災・天災がなかったという状況の下、一貫して発展した結果であり、また康煕・雍正の一連の経済政策が依然として一定の効果を上げていることの証明である。また大陸史家は、この時期、帝国主義列強の軍事的・経済的侵略がそれほど深化していなかったから、という原因も挙げている。
  太平天国勃発後、特に同治年間、中国人口は激減する。同治二年には4億を切り、以後1年ごとに1千万単位で減少し、同治九年(1870年)の3億5773万が最低点となっている。以後、人口は再び緩やかな増加傾向を示すが、再び4億まで回復するのは20世紀に入ってから、光緒年間後期のことである。
  1年ごとに1千万単位での減少とは、にわかに信じがたく、そのまま鵜呑みにはできないが、それでもこの時期の人災・天災の激しさがうかがえる(大陸史家は当然の如く清朝及びそれに協力した帝国主義列強の太平天国など「起義」に対する「残酷な殺戮」をその主要原因としている)。14省及び上海に18年もの間猛威を振るった太平天国をはじめ、全国各地に「起義」が続発、また毎年のように全国規模、あるいはそれに準ずる大規模な天災が続いたこと、などが数字として現れた結果である。
  所謂「人災」には主として「起義」などが挙げられるが、それ自体の戦闘による人口減少というのは、それらの規模から考えても、それほど大きな割合を占めるものではない。それよりも戦闘によって生じる諸々の「副産物」、例えば戦場となった耕地の荒廃、そこから生じる飢餓、または伝染病などなど、が主な原因であり、「残酷な殺戮」のみにそれを求めるのはあまりに非科学的のように思える。
  それでも光緒年間からの緩やかな回復はその時期の社会が相対的に比較的安定していたことを示している。同治中興という言葉には多分に官側(清朝側)の意図が含まれているが、それに比べ、人口統計から見る限りにおいて、同光中興というのはあながち的外れのものでもないようである、少なくとも同治中興という言い方よりはより正確であろう。
  「人口統計」で確認できる4億台への復活は宣統元年(1909年)であり、それ以降、多少の減少はあったものの、清末・中華民国期を含めて4億台を切ることもなく、ずっと増加傾向を示す。
  民国期の人口統計は信頼できる数値ではなく、この方面における更なる研究発展を待つしかないが、比較的信用できる数値として、共産党政権成立直後の人口統計によれば、5億5千万を越えている。このことからも考えて民国末年にはすでに5億を越えていたものと考えられるし、少なくとも民国38年間を通じて、連年の軍閥混戦、頻発する自然災害、そして日本の侵略など人口発展を大きく阻害した要因があったにせよ、全体的には増加傾向であったのは疑いようもなく、注目に値する。
 
  私は「序章:研究方針」「(二)研究方針第二稿」において、従来の近代史研究では帝国主義列強と封建残存勢力の圧迫という観点のみしか、その全社会像をとらえてこなかったが、中国はアヘン戦争以前にすでにその社会が退廃傾向を示しており、それが近代史において重要な問題になっている、そしてその退廃傾向は「人口問題」と密接に関わりがある、ということを述べた(「序章」「(二)」参照)。
  では具体的にどういうことか?それは主にその人口増加と土地・食糧問題からうかがうことができる。
  清朝康煕年間(1662〜1722)、中国人口は9千万から1億2千万ほどまでに増加した。その間、明末清初の混乱によって傷ついた国土も徐々に回復し、耕地面積は500万頃にまで達した。1頃とは約6.66ヘクタール、つまり500万頃は約3330万ヘクタールに相当する。これをもとに計算すれば、康煕年間は大体において一人当たり33.3アールの耕地面積を有していたことになる。33.3アールは中国特有の単位「畝」によれば5畝に相当する(1畝は約6.66アール)。
  この耕地面積は乾隆年間(1736〜1795)、特にその末年になると、700万から800万頃にまで増加する(約4662万から約5328ヘクタール)。これは康煕・雍正・乾隆の盛時を如実に示しているとともに、耕地を求めて多くの農民が所謂「辺彊」に赴き開墾を重ねた結果でもある。
  しかし人口増加はそれ以上の勢いで進んだ。乾隆末年には実に3億、康煕年間の3倍にも達している。人口は3倍に増えたのに耕地面積は2倍にもなっていない、これはどういう意味を持つか、もちろん一人当たりの耕地面積の減少である。乾隆末年、一人当たりの耕地面積は実に17.76アール、3畝に満たなくなる。
  人間一人が生きられる最低限の一人当たり耕地面積はおおよそ3畝から4畝と言われている。当然、この数字は普通の収穫を見込んでのものである。技術の未発達の時代における農耕は我々現代人が想像を絶するほど不安定なものであって、気候はもちろん、災害、そして戦乱などに大きく左右され、「普通の収穫」というのもままならなかったはずだ。
  嘉慶帝即位(1796年)と同時に中国全土で反乱が湧き起こり、その都度人口は減少していく。嘉慶年間のはじめの数年は人口3億を切っている。しかしこうした戦乱は耕地荒廃をも促すから、一人当たりの耕地面積には大して影響はない。そして道光年間には4億となり、同治年間で一時4億を切るものの、基本的にはこの数値が1949年まで続くことになる。しかし耕地面積は増加した気配はなく、700万から800万頃で推移している。開墾が行われていたとしても、毎年の災害・戦乱によって荒廃する耕地も多々あったから、基本的に増加はなかったと考えられる。
  結局、どういう事か。
  清朝中期から始まった人口の爆発的な増加は、それと同時に進められた耕地面積の拡大及びその成果を軽々と解消し、一人当たり耕地面積を極端に減少させた。その結果生まれるのが「慢性的な食糧不足」という事態である。
  アヘン戦争以来、外国との接触が始まり、外国物産が多く中国に流れ込むことになったが、輸入に占める食料の割合は近代史を通じてずっと低調であった。少なくとも「慢性的食糧不足」を解決できるほどのものではなかった。
  言うまでもなく「食」は人間の生活にとって最も基本的な源である。「慢性的食糧不足」から直接・間接に引き起こされる社会不安はいかほどのものであっただろうか。こうした社会不安が、例えば多くの人をアヘンという死の薬に引き付け、そうしたものの総合が中国近代社会の底流に流れる「社会的退廃」というものを形成した、と言えるだろう。



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