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「第二章:人物小誌」

黄興

  黄興、もとの名を軫、字を僅午、号を杞園、または克強という。1874年(同治十三年)、湖南善化(現長沙)に生まれる。1893年(光緒十九年)、城南書院に入学し、勉強する。1896年、県学生に合格、1898年には成績優秀によって、武昌の両湖書院に送り出される。
  両湖書院は1890年、時の両湖総督張之洞によって建てられた、新旧式併用の学校であり、西洋の学問も多く取り入れられ、当時にあっては比較的先進的な学校の一つであった。この間の意識的・無意識的な様々な経験が、彼の人間的精神的成長に大きく寄与したことは疑いようがない。
  1902年、選抜されて日本に留学、東京の弘文学院速成師範科に入学、勉強する。その時、『湖南游学訳編』を創刊、「湖南編輯社」を組織する。翌年、拒俄義勇隊(後、軍国民教育会に改名)に参加、まもなく帰国して、革命活動に携わることになる。
  陳天華・宋教仁らと1903年11月頃から準備していた革命団体が1904年2月15日に正式結成、つまり「華興会」の成立である。会長に推挙され、また同年11月、長沙において革命蜂起を決定するも、事前に事が漏洩、日本に逃亡する。
  1905年、孫中山と中国同盟会結成を画策、会章の起草に参加、成立時には執行部庶務総幹事に推され、NO,2の地位を占める。1907年から1908年まで彼が指揮した蜂起は、欽州・防城、鎮南関(現友誼関)、欽州・廉州・上思など、また河南河口の役にも参加している。
  1909年(宣統元年)秋、孫中山に委託され、香港にて同盟会南方支部を設立、広州新軍による蜂起を計画するも失敗、後、広州での大規模蜂起を謀って、1911年には香港にそのための指導機関を設け、自ら陣頭指揮に立つ。4月の黄花崗の役では敢死隊数百を自ら率いて総督公署を攻撃、失敗後香港に戻る。
  黄花崗の役以降しばらく暗殺テロ活動に熱を入れるが、間もなく、宋教仁、譚人鳳などと協力して上海に同盟海中部総会を設立、革命の拠点を香港から上海へ、その重点を広州一帯から長江流域へと移行する。
  10月武昌蜂起時には香港にいたが、上海経由で武昌に急ぎ、到着後、戦時総司令に任命され、革命軍を指揮して清軍と闘う。が、漢陽を落とされ、「武昌の一時放棄、南京攻略、後、再び武昌に軍を翻す」と主張したが、受け入れられず、職を辞して上海に帰還。
  独立各省都督府代表会議は相前後して彼を革命軍大元帥、副元帥に推挙したが未就。1912年1月民国建国、南京臨時政府成立後、陸軍総長兼参謀総長に就任、南北会議においては袁世凱が共和政体に賛同すれば、彼を臨時大総統に選出することを主張する。
  臨時政府北遷以後、袁世凱によって南京留守府留守に任命され、南方各軍の整頓を主宰するも、様々な困難に直面して、間もなく自ら留守府を解消、職を辞す。8月、同盟会が国民党に改組され、理事に推挙される。12月、川粤漢鉄路督弁に任じられるも、翌年辞職。
  1913年7月、二次革命が勃発、南京にて江蘇討袁軍総司令を自任するも失敗、以後は日本に亡命する。同じく日本に亡命していた孫中山は1914年に中華革命党を組織するが、孫中山への絶対的無条件的忠誠などの党規約に反対し、参加を拒否する。間もなくアメリカに渡る。時まさに欧州戦争(第一次大戦)が勃発、中華革命党に参加しなかった元同盟会会員の多くは日本にて「欧事研究会」を発足、黄興もまたその会に名を連ね、実質的には会長の地位を占めた。
  アメリカ滞在中、反袁活動に従事、護国戦争時には護国軍のために軍費の調達に励む。1916年日本に戻り、袁世凱死後、上海に戻る。そこで孫中山と和解するもその年の10月31日、病死する。



「人物小誌」

中国近代重要人物20選

林則徐/洪秀全/曽国藩/李鴻章/康有為/梁啓超/西太后/袁世凱/孫中山/宋教仁
段祺瑞/陳独秀/魯迅/馮玉祥/張作霖・学良/陳炯明/蒋介石/汪精衛/宋慶齢/毛沢東


黄興/張jian陳独秀蔡鍔劉少奇林彪陳公博張之洞高崗



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