中国近代史研究 | ホーム | メール | 研究方針 | 簡略年表 | 人物小誌 | 予備知識 | 題目研究 | 関連書籍 | 研究筆記 |
| 作者紹介 | 更新記録 | 留学日記 | 紫金山房 | リンク集1 | リンク集2 | 近代通史 | 連載企画 | 推奨図書 | 近代風景 |

「第二章:人物小誌」

陳公博

  陳公博、広東南海の人で、戸籍上は乳源。1890年(光緒十六年)に生まれる。幼少の頃から勉学に勤しむが、父親の影響から、次第に反清活動に従事するようになる。1907年に中国同盟会に加入、辛亥革命時には乳源県議員を務めている。
  1917年広東法政専門学校を卒業後、北京大学哲学部に入学、1920年に卒業している。北京大学卒業後は広州に戻り、広東教育会評議や宣講所所長を務め、譚平山らとともに広州で『広東群報』を創刊、広東法制専門学校で教職にも就いた。この頃すでに共産主義に興味を懐いており、社会主義青年団の組織に尽力している。この年の12月、広東省教育委員会出版科科長に任じられる。
  1921年1月、広東共産主義グループに参加、その代表として、1921年7月の中国共産党第一次全国代表大会に出席する。神聖なる「一大」出席者の一人であったわけだが、翌年には脱党宣言をしている。1922年11月には日本へ、1923年2月にはアメリカに渡り、アメリカではコロンビア大学経済学部に入学、1925年2月、同大学経済修士号を取り、帰国。その後、広東大学で教授を務めるが、まもなく中国国民党に入党、7月、広州国民政府軍事委員会政治訓練部主任、広東省省務会議委員、広東省政府農工庁庁長などに任じられ、12月には広東大学校長をも務めるようになる。
  1926年1月、国民党第二期中央委員会執行委員に、2月には広州国民政府教育行政院会委員に任命され、北伐時には、北伐軍政務局局長を務め、北伐の途上、湖北省財政委員会主任委員、湖北省交渉員、江海関監督、江西省政務委員会主任委員などを歴任している。1927年3月、国民党二期三中全会では中央常務委員に選出され、中央政治委員会委員兼工人部部長も務める。
  1927年から始まる蒋介石と汪精衛の対立、すなわち寧漢対立と、更に西山会議派の三者が形式的に合流した国民党中央特別委員会の成立(9月)は国民党内部の分裂に歯止めをかけるどころか、一層激化させた。寧漢戦争、粤桂戦争などはその主な現われで、陳公博も汪精衛と行動を共にした。9月には北伐軍総政治部主任に任命されたものの、寧漢戦争の不利を見て、11月広州に行き、粤桂戦争に絡む。粤桂戦争の間隙を縫って実行された共産党による広州暴動は、広州コミューンを成立させ、陳公博は、その責を負って、すべての職を解かれることになる。
  1928年3月には広東省政府民政庁庁長を務めるなど、その後しばらく広州に留まり、反蒋運動に従事することになる。5月、上海にて『革命評論』を創刊、更に汪精衛などとともに中国国民党改組同志会、いわゆる改組派を結成、反蒋の姿勢を明確にするとともに、汪精衛一派のナンバー2の地位を確保するに至る。
  1928年3月の国民党第三次全国代表大会では、その党籍を剥奪されるが、『民心週刊』を発行したり、上海に大陸大学を設けて自ら校長に就任するなど、政治活動を停止することはなかった。10月には南京国民政府より逮捕状が出されている。
  1930年になると閻錫山や馮玉祥などが反蒋戦争(中原大戦)を発動、改組派もこれに呼応して、8月、北平(北京)にて国民党中央党部拡大会議を開催、閻錫山を主席とする国民政府樹立を決定した。陳公博はそこで約法起草委員会委員兼組織部委員に任じられている。9月になると、張学良の参戦とともに、北平の拡大会議及び国民政府は瓦解(中原大戦は10月に蒋介石勝利をもって終焉)、翌年の1月には改組派も解散する。
  九一八事変を境として、蒋介石と汪精衛の合作が進む中、1931年11月の国民党四全大会で党籍が回復され、更に同大会で中央執行委員会に、12月開催された国民党四期一中全会では中央政治会議委員にそれぞれ選出され、その後、国民政府実業部部長や鉄道部部長、全国経済委員会委員、全国経済委員会合作事業委員会主任委員などを歴任する。
  1935年11月には国民党の第五期中央執行委員会に選出され、1937年2月には国民党中央党部民衆訓練部部長に任命される。1938年4月には国民党五期四中全会で中央常務委員会に選出され、10月には国民党四川省党部主任委員にも任じられた。
  七七事変を切っ掛けとして勃発した日中戦争によって、日本は軍事的侵攻を進めていくと同時に、国民党及び国民政府内部の分裂工作も積極的に行う。もともと蒋介石と馬が合わず、党・政府でナンバー2の地位に甘んじざるを得なかった汪精衛は、以前より日本との和平を主張しており、早くから日本側と連絡を取りつつ、これに呼応、1938年12月、当時臨時の首都であった重慶を脱出して、いったんハノイに渡り、蒋介石の国民党に反対し、もう一つの国民党結成を進める。その側近陳公博も当然、これに付き従った。
  1939年8月、汪精衛は上海で国民党六全大会を開催、翌1940年3月、南京にもう一つの国民政府を樹立、そうした一連の動きの中で、陳公博は国民党中央監察委員、中央政治委員会委員、立法院院長兼政治訓練部部長、軍事委員会委員などを務めた。4月には汪精衛政権の広東省省政府委員兼省長に、8月には中央党務訓練団副団長、訓練委員会主任委員に、11月には上海市市長に任じられている。
  1941年3月、汪精衛が委員長を務める清郷委員会の副委員長をも兼ね、更に4月には中央政治委員会委員兼上海市保安司令に就任、9月には中央陸軍軍官学校校長兼校務委員会をも務めた。1943年4月、中央政治委員会の第四期委員に任じられ、5月には物資調査委員会委員長にもなる。1944年11月、汪精衛が病死すると、行政院院長を務めると同時に、国民政府主席を代行する。汪精衛亡き後の汪政権で実質的なトップとなった。
  しかしそれも束の間のことで、1945年8月日本が敗北すると、その16日、南京の国民政府の解散を宣言、臨時政務委員会委員長兼治安委員会委員長を任じるが、25日、日本に亡命。しかし10月には南京に連れ戻され、裁判を受ける。1946年4月判決が下り、6月3日、江蘇第三監獄で銃殺刑に処された。享年56歳。



「人物小誌」

中国近代重要人物20選

林則徐/洪秀全/曽国藩/李鴻章/康有為/梁啓超/西太后/袁世凱/孫中山/宋教仁
段祺瑞/陳独秀/魯迅/馮玉祥/張作霖・学良/陳炯明/蒋介石/汪精衛/宋慶齢/毛沢東


黄興張jian陳独秀蔡鍔劉少奇林彪/陳公博/張之洞高崗



中国近代史研究 | ホーム | メール | 研究方針 | 簡略年表 | 人物小誌 | 予備知識 | 題目研究 | 関連書籍 | 研究筆記 |
| 作者紹介 | 更新記録 | 留学日記 | 紫金山房 | リンク集1 | リンク集2 | 近代通史 | 連載企画 | 推奨図書 | 近代風景 |