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「第二章:人物小誌」

張之洞

  張之洞、字は孝達、号は香涛、1837年に生まれる。直隷南皮の人。幼い頃から学問に励み、その才気を表わす。16歳で郷試に応じ、トップで合格、1863年(同治二年)進士となる。翰林院侍講学士を経て、湖北や四川などで地方教育行政を司る学政を務める。1879年(光緒五年)崇厚がロシアとの間で取りまとめた『里瓦基亜条約』に反対、破棄を主張。後に崇厚は罷免され、同条約は改訂される。
  1884年フランスとの戦争中に陜西巡撫から両広総督に昇格、広西辺境でのフランス軍との戦闘を指揮。また広東に水陸師学堂や創槍砲廠などを設立、特に海上防衛事務に携わる。1889年、湖広総督に転出するが、武漢でも各種軍事工場の他、紡績工場や学校の設立に尽力、洋務派官僚として台頭してくる。1894年には両広総督となる。
  1894年から始まった甲午中日戦争中には、「自強軍」という西洋式装備の陸軍を創設、翌年、馬関条約が李鴻章の手によって締結されると、以前より敵対関係にあった李鴻章を排撃、富国強兵の必要性を訴え、また変法派によって組織された北京強学会に献金、上海強学会に名を連ねるなど、変法に理解を示している。もっとも、強学会が非合法化するとともにその関係を絶ってはいるが。
  間もなく、湖広総督に復帰。1898年4月には『勧学篇』を表わす。同書は主に変法派を批判する内容であり、特に康有為の「孔子改制」説を痛烈に批判、「旧学為体、新学為用」と説いた。旧学は中国固有の伝統的価値観の総称、新学は西洋の科学知識であり、ここにおいて「中体西用」という洋務運動の根本理念がほぼ明確に提出されるに至る。
  1900年義和団の乱が北方で湧き起こると、南方各省で「東南互保」を結ぶ。つまり、清朝中央では義和団と呼応する動きがあるが、これには同調せず、むしろ外国公使館などの保護と反西洋運動の鎮圧を行う、という主旨の南方各省間における了解がここに成立する。清朝の中央集権の決定的崩壊を意味するこの相互了解に対し、張之洞は積極的に参加している。
  1901年には両広総督劉坤一とともに変法を上奏、清朝も八カ国聯軍の圧迫で変法実行に動いていたから、この上奏に同意する。以後、張之洞は両広総督などを経て、主に教育方面において、富国の道を探る。現在の北京大学の前身である京師大学堂の創立と発展にも寄与し、また、農工商方面の重要性に注目、各種専門学校の創設を提起している。
  1908年広州と漢口間の鉄道建設を監督するが、翌年死去。享年72歳。
  背丈は低く、ひげが長い、その風貌は厳しい、という言葉で『清史稿』列伝の彼の評価は始まっている。必要とあれば費用に糸目をつけずに事業に取り組み、また才を愛し、客を優遇したため、一流文士はこぞって彼の下に集まった。これだけの経歴でありながら、その家には一畝の田畑も増やさなかったと言われる。若い頃は自身を「清流」と号したほど、潔癖な性格だったようだ。
  両広総督時代に創設した「自強軍」は後に袁世凱の「新建陸軍」に吸収されるが、それ以降、彼は「武」の道を捨て、教育救国の道を歩んだように思われる。それが功を奏したのか、彼の現在までの評判は、それほど悪いものではない。
  洋務運動では、曽国藩や李鴻章、左宗棠といった人物が挙げられるが、その実績と「中体西用」という概念の確立という功績から見れば、彼もまた忘れられるべきではない存在である。



「人物小誌」

中国近代重要人物20選

林則徐/洪秀全/曽国藩/李鴻章/康有為/梁啓超/西太后/袁世凱/孫中山/宋教仁
段祺瑞/陳独秀/魯迅/馮玉祥/張作霖・学良/陳炯明/蒋介石/汪精衛/宋慶齢/毛沢東


黄興張jian陳独秀蔡鍔劉少奇林彪陳公博/張之洞/高崗



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