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「第四章:題目研究」「(一)北洋軍閥考」

6,北洋軍閥小史

 

 

  1895年、中日甲午戦争(日清戦争)は中国の社会各方面に多大な影響を与え、刺激した。この年を境として、その前後に孫中山(孫文)の革命運動が興り始め、康有為・梁啓超の変法運動が湧き起こる、といったことはすべて偶然ではないだろう。特に切実な問題は、東方のちっぽけな島国にまで負けてしまうような貧弱な軍事力であり、その改善要求が高まったのは自然の成り行きである。その期待を一身に受けたのが、李鴻章の称賛を受けた、当時三十七歳であった新進気鋭の袁世凱であった。
  袁世凱はもともと存在していた定武軍という当時の清朝において比較的質のよかった軍隊を発展的に継承した。それが新建陸軍である。新建陸軍は袁世凱の遠大な野望も手伝って、彼の私的軍隊として飛躍的な発展を遂げた。その間、百日維新においては変法派を裏切って清朝保守派、特に時の最高権力者西太后の激賞を受け、また義和団事件では容赦の無い弾圧を続けることで外国勢力の歓心を得ることに成功した。1901年、袁世凱は直隷総督兼北洋大臣に就任する。当時において直隷総督兼北洋大臣という職は最高実力者に与えられるものである。曽国藩も直隷総督を経験しているし、李鴻章にいたっては20年間、この職を勤め、中日甲午戦争の講和条約に際しては、清朝側代表として全権を与えられて臨んだことは有名である。科挙に受かっていない袁世凱がこのような異例な出世を果たすということが、新建陸軍(当時はすでに武衛右軍と改称されていた)の強大な影響力を証明している。1902年、武衛右軍から北洋常備軍と改称され、1905年までに六鎮が形成される。「鎮」というのは師団に相当し、一個鎮約一万二千五百の兵力であるから 、ここにおいて袁世凱は半ば公然に、七万五千の個人的な軍隊を有することになった。
  北洋軍閥の「北洋」の起源はもともと北洋通商大臣(北洋大臣)からきたものではあるが、直接的にはこの北洋常備軍六鎮(北洋六鎮)から来ている。
  ここにおいて、袁世凱を頂点とする一大軍事組織「北洋軍閥」が形成されたことになる。
 「政権は銃口から生まれる」の言葉通り、軍権を制したものは必然的に政治力が強化される。袁世凱も例外ではない。むしろ積極的に自身の軍事力を背景として政治的影響力を伸長しようとした節さえある。
  あまりにも強大な武力を有する袁世凱に恐れを懐いた清朝は、彼の軍権を「昇進」の名のもとに徐々に剥奪し、1909年に袁世凱は完全に失脚する。
  しかし時の大勢はすでに清朝の存続を許さなかった。1911年10月10日武昌蜂起が勃発すると、革命の火の粉は全国に普及し、各省は相次いで独立を宣言する。これに慌てた清朝は北洋軍を主力とする討伐軍を派遣するが、北洋軍は袁世凱の命令しか聞かない。清朝はとうとう袁世凱を再起用し、革命鎮圧を命じる。時代の趨勢を敏感に感じ取った袁世凱は革命を武力弾圧するよりも(実際、彼の軍事力ならば革命鎮圧もそれほど困難ではなかったはずである)、むしろ革命勢力と同調して清朝を打倒したほうが得策と考え、暗中、革命派と手を握る。1912年1月1日、中華民国が南京において成立し、孫中山が臨時大総統となってしばらくして、孫中山は清朝皇帝の退位と袁世凱の共和政体賛同を交換条件に、袁世凱に臨時大総統を「譲位」する方針を固め、袁世凱の働きかけの下、遂に2月12日皇帝溥儀が退位し、3月10日袁世凱が臨時大総統に就任する。それとともに中華民国政府は北京へと北遷する。
  革命派は「譲位」するにあたり袁世凱の独裁を恐れ、責任内閣制を主体とする『臨時約法』を制定して、その遵守を袁世凱に誓わせたが、袁世凱はこれを見事に反古し、独裁の道を疾走する。革命派首領の一人宋教仁の暗殺と革命派系地方長官の罷免や転属など、袁世凱は独裁確立に手段を選ばず、これに激怒した革命派は「討袁軍」を組織、所謂二次革命を引き起こすが、あえなく敗退、孫中山などは海外亡命を余儀なくされる。
  革命派の干渉が無くなった袁世凱は国会に迫って正式に大総統に就任し、それが終わると用済みとばかりに国会を解散し、 『臨時約法』に代わる大総統に権力を集中させた『中華民国約法』を公布、ついには自身を皇帝にまで祭り上げる帝制活動を始めるに至った。帝制に対する外国勢力の支援を仰ぎたい袁世凱は、1915年5月9日、日本の提出した二十一ヶ条要求の修正案を受け入れ、日本の歓心を買おうとする(失敗)。
  1915年末、皇帝に即位した袁世凱に対し、まず雲南省から「反袁討袁軍」が起こり、1916年3月までに「国体擁護」の波は西南各地に広がった。所謂第三革命、一般的には護国運動、もしくは「護国戦争」と呼ばれる。
  袁世凱の帝制は革命派や北洋系以外の地方のみならず、袁世凱自身の子飼いの武将、馮国璋・段祺瑞などにも反感を買い、やむを得ず袁世凱は3月22日帝制の延期と大総統への復帰を宣言した。しかし南方護国勢力は袁世凱の完全引退を望み、北洋軍将校の間にもそれを望む声が大きくなり、1916年6月6日袁世凱はとうとう憤死する。
  翌日、副大総統黎元洪が大総統位を継ぐ。ここに「新旧約法の争い」が起こる。これはつまり革命派が制定した『臨時約法』(旧約法)か袁世凱が公布した『中華民国約法』(新約法)か、どちらに準拠するのか、ということであり、南方護国勢力は旧約法の復活を強く要求する。6月29日、黎元洪は旧約法の遵守と国会再開を宣言、段祺瑞を国務総理に任じることで、この争いに終止符を打つ。国会は8月1日に再開される。
  黎元洪は武昌蜂起の際、「適当な人物が見当たらない」という理由だけで湖北軍政府の長官である都督に推挙された人物で、中華民国成立後はずっと副総統の地位にいた。袁世凱の後継者を自任する段祺瑞は、そんな黎元洪を蔑視し、また黎元洪も大総統としてのプライドがあり、ここに両者の感情的対立が生じる。そしてそれは第一次大戦の参戦問題を契機として総統府と国務院の争いにまで発展する。すなわち、「府院の争い」である。この「府院の争い」は結局翌年5月、黎元洪が段祺瑞を罷免することで一応の解決を見る。しかし段祺瑞に同情的な北洋系の督軍や省長が、この人事に不満を表明し、段祺瑞の差し金もあって督軍団を結成、黎元洪に圧力をかけるとともに、各省相次いで独立を宣言する。
  窮地に追い込まれた黎元洪は安徽督軍張勲に入京を要請、時局の打開を図ろうとするが、張勲は民国以後も清朝のシンボルであった辮髪を切らなかったという極端な保守派であり、逆に国会解散を要求、黎元洪はやむを得ずそれに応じる。国会解散を見届けた張勲は入京し、1917年7月1日廃帝溥儀を担いで清朝の復辟を図る。所謂「張勲復辟」である。
  黎元洪はオランダ公使館に亡命し、江蘇督軍兼副総統の馮国璋に大総統代行を要請する。この復辟は全く支持されず、かえって天津に退いていた段祺瑞に討逆軍の結成と帰京の口実を与えるだけの結果となり、7月12日、段祺瑞は武力によって張勲を駆逐、「民国再創造」の美名のもと、再び国務総理に任じられた。8月1日、馮国璋が入京して、6日には正式に大総統を代行することになる。
  段祺瑞は解散した国会の再開をせず、『臨時約法』も守ろうとしなかったので、孫中山は急遽広州に入り、「護法」の旗印を掲げ、西南各省に協力を仰ぎ、続いて8月25日に非常国会を開催、9月1日には中華民国軍政府陸海大元帥に選出され、広州軍政府が成立する。彼らは北京政府を痛烈に批判し、北伐も辞さない構えを取る。これより中国は南北分裂の時代に突入し、「護法運動」が始まる。
 「武力統一」を掲げる段祺瑞政府は独断専行で対南方征討軍を組織・派遣する。9月22日より南北両軍は湖南省にて戦闘を開始した。これを一般的に「護法戦争」という。しかし代理大総統馮国璋はこれに非協力的であるばかりか、「和平混一」を提唱、長江三督(江蘇督軍李純・江西督軍陳光遠・湖北督軍王占元)に指示して対南方武力公使の反対を表明させ、また必ずしも孫文に協力的ではない西南各省とも連絡を取り合って、段祺瑞の政策を阻止する動きを取った。北京政府において、新たな府院の争いとも言うべき「和戦の争い」(「和戦」とは南方政策において和平を主張するか戦闘を主張するかによる区別、「主和」と「主戦」の争い)がここに生じた。
  征討軍の不甲斐なさと馮国璋の妨害によって、北軍の失敗が明らかになると、段祺瑞は下野を発表、11月22日馮国璋は段祺瑞の辞任を承認する。馮国璋主導による和平政策が始まるかと思われた矢先、12月2日直隷督軍曹kunと山東督軍張懐芝は北方七省三特区の代表を天津に召集、代理大総統馮国璋に対南方武力行使を要求し、討伐令の発布を求める。
 「府院の争い」の時も形成された督軍団の復活である。その後ろで糸を引いていたのは段祺瑞及びその股肱の部下徐樹錚であったのは言うまでもない。督軍団の強力な圧力のもと、馮国璋はやむを得ず12月15日には曹kunと張懐芝をそれぞれ攻湘軍第一・第二路軍総司令に任じ、12月18日には段祺瑞を参戦督弁に任じるという妥協を示す。参戦督弁とは欧州戦争(第一次大戦)の参戦を決定した(1917年8月14日)中国が、参戦事務を取り扱うために設けられた臨時の役職であり、参戦事務に関することは大総統や国務院の許可を得ず、一切を参戦督弁が処理することができる。つまり「参戦事務」という名目のもと、自由に自己の勢力を拡張できる権限を段祺瑞は得たことになる。翌年3月1日には参戦督弁事務処が設けられたが、これは実質的なもう一つの内閣であり、大総統も干渉できない機関であるがために、太上内閣と称される。その資金源は当時寺内内閣であった日本である。「西原借款」はあまりに有名であろう。
  さて、曹kunはもともと主和派であり、段祺瑞内閣の時には政府の政策を批判する通電も行っていた。つまりどちらかといえば馮国璋に協力していたことになる。ここにきて手のひらを返したように主戦派に同調したのは、おそらく空位のままになっていた副総統の席を徐樹錚からちらつかされたのだろうと推測できる。黎元洪も馮国璋も副総統から大総統に就いたのである。
  そのような思惑とともに北京政府による南方政策は再び主戦派が牛耳ることとなった。これと同時に、馮国璋に更なる圧力を加えるため、徐樹錚は奉天督軍張作霖に呼びかけ、奉天軍を関内(山海関の内側)に導き入れるべく策動していた。南方戦線に対する援軍派遣の名目によって、2月末から奉天軍の関内進出が始まり、3月12日には張作霖と徐樹錚の連名によって、奉天軍関内総司令部の軍糧城における設立が宣言され、張作霖が総司令に就任し、徐樹錚を副司令に任じるとともに総司令部の全業務の代行を命じた。しかし張作霖と徐樹錚との連携はそれほど長く続かず、この年の9月には張作霖が徐樹錚を解任、以来、段祺瑞・徐樹錚と張作霖の関係は悪化の一途を辿る。
  奉天軍入関に動揺した馮国璋は3月22日に段祺瑞に組閣を命じ、段祺瑞は三度国務総理の座に返り咲いた。これに先んじること3月7日には、段祺瑞を全面的に支援する政治集団である安福倶楽部が結成され、8月に新たに開催される新国会は別名安福国会と呼ばれるほど、安福倶楽部は躍進を見せ(その実態は賄選に近い)、段祺瑞を後援することになる。
  しかし南方戦線は段祺瑞の思う通りにはならない。2月14日には第十六混成旅団旅団長馮玉祥が、湖北武穴において、北京政府に対して停戦を勧告する通電を行う。これに連鎖するように、曹kunや張懐芝の軍も進撃の速度が鈍り始め、4月には段祺瑞自ら漢口で会議を開いて督戦しなければならない状態であった。賞与の不満も手伝い、北軍はほとんど戦闘意欲を失い、この南征において最も輝かしい功績を上げていた第三師団師団長呉佩孚が8月13日、南方勢力と図って独断で停戦を発表、政府に対して戦争の即時中止、撤兵などを要求するに至って、段祺瑞の政策失敗は再び明らかとなった。
  段祺瑞はちょうどこの年に任期が切れる馮国璋と10月10日に同時下野する。しかし段祺瑞は参戦督弁の職は残していた。この職は第一次大戦が終わると辺防督弁と改称されるが、職権には何ら変更はない。
  新任の大総統には安福国会によって徐世昌が選出された。
  就任した徐世昌は停戦と北軍の撤兵を指示、それにあわせるように護法政府も停戦した。
  この護法政府にはすでに孫中山の姿はない。自ら武力を持ちあわせていない孫中山にとって北京政府の打倒を考えると、西南各省の軍閥勢力に頼らざるを得なかったわけであるが、西南各省の軍閥勢力(北洋軍閥とは別系統)はその武力を背景として、護法政府の主導権を握り、この年の5月、孫中山の追い出しに成功していた。
  南北両政府は第一次大戦終結にともなう世界的な和平ムードも手伝って、1919年2月20日から上海にて和平会議を開いた。「南北和議」である。しかしパリ和平会議において、山東問題が紛糾し、5月4日、五四運動が爆発すると、それにあわせたように5月18日、南北和議は決裂する。それ以後、和議再開の試みが何度かなされたものの、ことごとく失敗し、南北両軍は冷戦状態に突入することになる。
  1920年になると段祺瑞を中心とする皖系に対する他の北洋系の不満が高まり、1月17日には呉佩孚が撤兵北帰を要求する。そして4月20日、曹kunは反皖系勢力を結集し、八省同盟を結成、北方情勢は一触即発の状態を呈することとなった。そんな折り、5月8日、政府の命令を待たず、呉佩孚が独断で撤兵北帰を開始し、段祺瑞(皖系)対曹kun・呉佩孚(直系)という構図がますます明らかとなり、7月、ついに両陣営は戦端を開く。「直皖戦争」である。一週間もかからずに終焉したこの戦争は、奉天軍の関内進出と直系に対する支援などもあって、直系が圧勝し、段祺瑞は一切の職責を放棄して下野を表明、徐樹錚など皖系の主要なメンバーに対しては逮捕状が出され、安福倶楽部は解散させられた。
  北京政府の主導権を得たのは曹kun・呉佩孚と張作霖であったが、彼らはやはり南方政策における強硬路線を決定、武力討伐に乗り出す。なぜならば、ちょうどこの頃、「聯省自治」運動というものが起こってくるからである。この運動をわかりやすく言えば、省単位で制憲権を認め、その各々の省の憲法によって各々の省内政を取り仕切り、各省が代表を派遣して「聯省」し、さらに複数の省によって「聯省憲法」を制定する、いわばアメリカ式の連邦制を目指す、というものであった。中央集権を目指す北京政府がこのような地方分権的、更には統一的局面を破壊させる可能性がある政策に対し反対するのも当然であった。
  湖南に湧き起こったこの運動によって生じた争い(「湘鄂戦争」)に介入して成功した呉佩孚は両湖巡閲使に任じられ、ますますその権勢を伸長する。それに対して憂慮した張作霖は徐世昌などと図って曹kun・呉佩孚−張作霖ラインの微妙な均衡のもとで成立していたjin雲鵬内閣を打倒して、梁士詒を擁して組閣させた。その目論見を阻止すべく呉佩孚は折りから開かれていたワシントン会議における中国外交の失敗などを利用して、盛んに梁士詒内閣を攻撃し、ついに呉佩孚と張作霖は真っ向から対立することになる。1922年4月から張作霖は奉天軍を入関させ、ここに戦端が開かれた。所謂「直奉戦争」である。この戦争終結後、再び両雄は激突することになるから、この戦争を特に「第一次」直奉戦争という。
  この戦争は5月の初め、奉天軍のあっけない敗退で幕を閉じる。これ以後職を解かれた張作霖は東三省の自治を宣言して半ば独立し、曹kun・呉佩孚との再戦に備えて軍備の拡張に励むと同時に、浙江督軍盧永祥や直系将軍馮玉祥、護法政府の孫中山など、方々に手を広げ、着実に反直の同盟を築き上げていくことになる。
  北京政府を独占した曹kunと呉佩孚の二人は、直皖・第一次直奉という二度の戦争を経て分裂対立傾向を強める。この分裂対立は曹kunと呉佩孚それぞれの駐屯地に基づいて、「保定派」(保派)と「洛陽派」(洛派)の争いと称される。
  安福国会によって選出され、しかも張作霖とも近い徐世昌の大総統職を解いて北京から追放したまではよかったが、直系首領を自認する曹kunは自身が大総統になることを望み、呉佩孚はむしろ黎元洪を再び引き出して傀儡とすることを主張した。結局呉佩孚の思惑通りに事は進むことになるのだが、それは対南政策を考慮して、護法運動を破滅に追い込み、最終的には中国を統一させる、ところにその目的があった。つまり、すべての現状を1917年張勲復辟以前の状態に戻すことで、南方が掲げている「護法」の旗印を無力化するのである。これを「法統」の回復という意味を込めて「法統重光」という。
  この頃の南方護法政府は、1920年11月に孫中山が再び広州に戻ってきており、1921年4月には非常国会において、非常大総統に選出され、南方軍閥の雄陸栄廷を討伐するために「粤桂戦争」を起こし、8月には勝利を収め、続いて北伐を敢行しようとしていた。これを先の護法運動と区別して、第二次護法運動ともいう。しかし北伐軍を起こしてまもなく護法政府の実力者陳炯明との対立から、陳炯明の武力攻撃に遭い、1922年8月には再び広州を脱出、上海へと逃避した。
  一方の北京政府、呉佩孚に迎えられた黎元洪は1922年6月、徐世昌辞任にともなって大総統に就任する。そして「廃督裁兵」を実行しようとした。これは軍権の中央集権を目的とするもので、従来の地方軍政長官である督軍を廃止し、その軍事力を回収して軍縮し、各省には省長のみを残して地方行政に専念させるというものである。呉佩孚の強大な支持と支援のもとに行われたこの政策は、各省督軍が簡単に自身の政治的影響力の源である軍権を手放すはずもなく、結局机上の空論に終わってしまう。
  一兵卒も持たない黎元洪は、文字通り呉佩孚の傀儡であり、閣僚の指名・任命も思うに任せず、1923年6月には大総統の席をねらう曹kunによって北京を追い出され、天津にて辞意を表明するに至る。そしてついに同年10月には、曹kunが賄選によって大総統に就任し、『中華民国憲法』を公布する。ここにおいて、保派・洛派あわせて直系は栄華を極め、同時にその信用を失墜させた。
  1924年9月、上海をめぐる争いにおいて、浙江督軍盧永祥(もともとは段祺瑞に近く、張作霖とも密約を交わしていた)と江蘇都督斉燮元(呉佩孚に近い)が戦端を開いた。すなわち「江浙戦争」である。はじめ盧永祥軍が圧倒的有利のまま戦局を進めてきたが、直系の近接三省(安徽・福建・江西)が斉燮元を後押しし、五省軍が入り乱れる戦争に発展した。結局、斉燮元軍が圧勝し、盧永祥は日本に亡命せざるを得なかった。しかしこの戦いは直奉の代理戦争であって、事実、江浙戦争が勃発するとすぐに北方にも飛び火し、直奉両陣営は9月15日より再び戦争状態に突入した。「第二次直奉戦争」である。
  第一次直奉戦争敗戦以来、着々と軍備を整えていた張作霖は、内部統一もままならない直系に対し終始圧倒し、これを見た直系の馮玉祥は10月23日、かねてから密約を結んでいた張作霖軍に寝返り、急遽、北京に取って返して総統府を包囲し、曹kunを捉えた。所謂「北京政変」である。この事件によって、直系軍は総崩れとなり、呉佩孚は命からがら南下して再起を図り、曹kunは迫られて辞任した。
  こうして二度目の直奉戦争は張作霖に軍配が上がった。
  馮玉祥は孫中山に対して北上を求めるとともに、直皖敗戦以来下野していた段祺瑞に入京を要請した。また自軍を国民軍と改称し、11月には張作霖と会見して、段祺瑞の擁立を確認しあった。こうして11月24日、段祺瑞は中華民国臨時総執政として、中央政界に返り咲いたのである。
  総執政とは、大総統と国務総理それぞれの一切の権力を一つに集中したような職であったが、軍隊も地盤も持たない段祺瑞は以前のような独断専行もできるわけはなく、むしろ馮玉祥と張作霖の間に立って両者間関係を調節するような役目であって、やはり傀儡に近かった。それでも就任と同時に「善後会議」招集を提唱し、孫中山にもその参加を求めた。しかし孫中山は「国民会議」開催を主張し、北上には応じたが、1925年2月から始まった善後会議には出席せず、3月12日北京において客死してしまう。善後会議も現状確認に止まり、何ら成果を上げることなく、4月には閉幕する。
  直系は第二次直奉戦争で敗れたとはいえ、呉佩孚・孫伝芳をはじめ、依然として侮れない勢力を有し、反奉活動を繰り広げる。6月、張作霖の息子張学良が軍を率いて上海に駐屯し、まもなく姜登選がそれを引き継ぎ、そして8月には姜登選が安徽督弁(1924年12月督軍から督弁に改称)に、楊宇霆が江蘇督弁に、それぞれ就任し(いずれも張作霖配下)、彼らと江浙戦争以後、浙江督弁に就任していた孫伝芳との間に緊張が走った。1925年10月、また上海を中心として戦塵が吹き暴れることになる。「浙奉戦争」である。
  この戦争は奉天軍不利によって推移し、孫伝芳は上海を回復するとともに、安徽・江蘇より姜登選・楊宇霆両名を追放することにも成功し、またこの戦勝に乗じて呉佩孚は漢口において十四省討賊連軍総司令を自称し、討奉を通電、11月には孫伝芳が南京において、浙江・江蘇・福建・安徽・江西五省聯軍の成立を宣言し、総司令を自任した。
  この反奉討奉の嵐に対応するように張作霖と馮玉祥の関係も急速に冷却化し、奉天軍と国民軍の対立的局面を迎えることになる。すなわち12月、馮玉祥は張作霖配下の郭松齢を教唆して寝返させ、奉天へと侵攻させた。この郭松齢の反乱は張作霖の要請を受けた日本軍が出兵して食い止め、結局郭松齢は戦死してしまう。しかしこの事件を契機に張作霖と馮玉祥の決裂は決定的となった。
  1926年になると状況は一変する。張作霖配下の山東督弁張宗昌が直魯聯軍総司令に就任し、張作霖と呉佩孚の間で「反赤」のもとにおける諒解、及び同盟が完成したのである。つまり奉直間において、反馮玉祥反国民軍が確認され、その包囲網が形成されたことになった。呉佩孚指揮下の有力な攻勢によって、馮玉祥の北京を中心とした勢力は徐々に削減され、窮地に立たされた国民軍は4月、執政府を包囲して張作霖との連合計画が発覚した段祺瑞を出京・辞任に追い込み、自らも北京を退去し、西北へと押し込まれる。
  このような軍閥混戦が進む中、南方においては国民党を主力とする国民革命軍の北伐計画が着々と進められていた。
  第二次護法運動失敗後、上海に戻った孫中山は、今まで自らが突き進んできた革命の道を見直し、かつ1917年十月革命を経たソビエトとのつながりを緊密にした。そしてソビエトの支援のもとで、1921年7月成立していた中国共産党との合作を進め、1924年1月、広州で開かれた中国国民党第一次全国代表大会によって中国革命の新たな段階を切り開くこととなった。
  孫中山が北京にて客死した後、多少の混乱はあったものの、共産党との連係を保ちつつ、蒋介石・王精衛などが中心となって、1925年7月1日広東国民政府を樹立する。広東の地盤を固めながら国民党及び国民政府は徐々に北伐の準備を進め、1926年7月9日、国民革命軍総司令蒋介石は北伐開始を宣言した。
  共産党の後方支援・撹乱活動も手伝って、北伐軍は怒涛の快進撃を続け、8月湖南を制圧すると、呉佩孚守備の湖北をも抜き、9月には呉佩孚を北方へ敗走させた。五省連軍総司令孫伝芳は対北伐軍作戦を宣言、北伐軍と戦闘状態に入る。一時は占領されていた南昌を再占領する勢いを見せたが、11月になると再び南昌を占領され、孫伝芳はとうとう江西省を捨て、南京へと走る。
  事ここに至り、9月16日、北京を追われた馮玉祥は五原において挙兵、国民革命軍との呼応を発表する。
  勢いを得た国民革命北伐軍は10月10日、ついに中国のへそともいうべき武漢を占領した。これに慌てた張作霖・張宗昌・孫伝芳などは11月19日、天津で会議を開いてその対応策を講じ、12月1日、天津にて張作霖は安国軍総司令に、張宗昌・孫伝芳は副司令にそれぞれ就任した。12月6日に呉佩孚陣営が鄭州で会議を招集し、正式に張作霖との連合と北伐軍に対する反撃を決定し、ここにおいて、北方情勢は北伐軍によって一致団結を見たことになる。
  1927年になると国民党内部の紛糾や国共分裂などによって、北伐の進軍も鈍りを見せ始めるが、それでも上海や南京を攻略、河南・山東などにまでその勢力を伸ばし、北洋軍閥は窮地に追い込まれた。5月には馮玉祥が西安にて国民革命軍第二集団軍総司令に就任し、6月には山西に「独立王国」を築きつつあった、北洋軍閥とは別系統の軍閥閻錫山が自軍を国民革命軍に改称して国民革命軍北方総司令に就任(翌年3月には国民革命軍第三集団軍総司令)し、北洋軍閥はその地盤を東三省に残しているといっても、関内ではほとんど直隷を残すのみとなった。このような状況のもとで、6月18日、張作霖は北京にて中華民国陸海軍大元帥に就任して安国軍政府を組織した。
  10月には張作霖と閻錫山の間で宣戦が取り交わされたが、大きな戦闘には発展しなかった。1928年4月から5月にかけて、張宗昌や孫伝芳は山東省において反撃を試みるもののあえなく失敗、6月になると張作霖は全軍の東三省への撤退を決定した。3日に北京を退去した張作霖は4日、その途中皇姑屯にて日本関東軍将校によって爆死させられる。所謂「皇姑屯事件」であり、実質上はここで北洋軍閥解体とも受け取れなくはない。
  北洋軍閥の北京撤退によって国民革命軍は労せずしてこれを占領、12月には張作霖の遺志を継ぎ、日本に恨みを懐く張学良が蒋介石の勧告によって東三省に「青天白日」旗を掲げた。ここにおいて、国民革命の北伐と全国統一の偉業がなるとともに北洋軍閥は歴史の上から姿を消すこととなったのである。



「北洋軍閥考」

北洋軍閥とは何か(理論編)北洋軍閥とは何か(所論編)北洋軍閥人物小誌
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