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「第四章:題目研究」「(一)北洋軍閥考」

2,北洋軍閥とは何か(所論編)

 

 

  「1,北洋軍閥とは何か(理論編)」では、最も一般的と思われる考え方の代表とし来新夏の論文を紹介し、その定義を示した。続いて、「北洋軍閥とは何か」という問題について、私の所論を述べることとする。これは、これ以降の私の北洋軍閥研究の基礎となるものであるが、当然研究の進展に伴って、その考え方も変遷して行く可能性があることをまず、ここに明記しておく。

  まず、その定義の問題であるが、過去の大陸・台湾・国外の学者が指摘するところ(「1,北洋軍閥とは何か(理論編)」参照)をまとめてみると、おおよそ次の通りである。第一にその起源、第二に私兵を有していること、第三に地盤を有していること、第四に帝国主義との関係、第五にその封建性、第六にその近代性、である。
  第一の問題、その起源については多くの学者の意見は大体一致している。つまり直接的には1895年袁世凱の新建陸軍、その源は曽国藩・李鴻章の湘軍・淮軍である。これについては私自身それほど異論はない。これについては項を改めて述べるべき問題でもある。
  ただここで触れておきたいことは、曽国藩や李鴻章の活動はもともとは清朝存続のためであったが、結果的には間違いなく清朝政権を根底から覆す遠因となった、ということである。
  湘軍や淮軍が太平天国の討伐のために新設されたものであることは有名である。確かに太平天国の当初の勢いであれば清朝は覆されたかもしれない。その勢いをくじいたのは、少なくともそれにある程度の貢献をしたのが、曽李の湘軍と淮軍であった。しかしその後、彼らは自身で創設したこの軍事力を背景にして、それを政治資本とし、権力を集中した。その結果清朝の屋台骨でもあった中央集権体制を揺るがすことになった。
  それが、1895年袁世凱の新建陸軍が中央の管制をほとんど受けず、彼の意図のままに発展できた基本的な背景となる。
  第二の私兵について、多くの学者が、軍閥の軍隊はその軍閥の個人的軍隊、としているにもかかわらず来新夏はその論文『近代軍閥の定義を論じる』にて、袁世凱が1909年兵権を完全に剥奪され失脚することを例にとって、軍閥の軍隊を「完全に“私兵”と称することはできない」とし、「“私兵”と呼ぶよりも、“軍隊”あるいは“武装力量”」または「“軍事組織”としたほうが妥当である」という見解を述べているのは興味深い。確かに馮玉祥も第十六混成旅旅長時代に中央の鶴の一声で解職されてしまっている。
  が、袁世凱にしても馮玉祥にしてもすぐに復職している。そしてその主な理由がその軍隊が他の指揮官の下では機能しない、というものであった。これは彼らの軍隊に、明らかに指揮官と兵卒の間の個人的関係があることを説明しているものであり、これこそは「私兵」的性質の一端であろう。
  表面的には、あるいは名義的にはその軍隊は彼らのものではない。しかし実質的には彼らと個人的に深い関係によって結ばれた軍隊である。
  「個人的に深い関係」とはどういうことか。それは血族・同郷・同学・師弟などといった関係とされている。確かに軍閥の軍隊はこのような関係によって結ばれた軍隊である。これについては後に触れることとする。
  第三の地盤については、すべての学者が掲げているものであり、また異論の余地もない。地盤がなければ自身の軍隊を養うことができず、結局自身の権威・権力を保つことができなくなる。しかし一点挙げておかなければならないのは、「地盤」とは、字義通りの地盤だけではなく、いろいろな種類があるということである。
  例えば段祺瑞、誰もが認める大軍閥である彼ではあるが、字義通りに解釈した地盤を一度として手にしたことがない。では彼は軍閥ではなかったか、といえばもちろん違う(ちなみに過去、この問題に対して議論があった。結局真に「地盤」を有する軍閥から推戴された特例的な軍閥であるとして、その議論は終わってしまったが)。彼も変形的な地盤、「中央政府」という地盤を有していたのである。1920年までに、彼は三度(代行を含めて五度)国務総理となり、中央政権を総覧した。勿論、だからといってその期間中ずっと、中央政府を意のままに動かし、その財政を押さえて、好き勝手にできた訳ではない。しかしその機会が1918年に巡ってきた。それが督弁参戦事務処である。これについては後で述べるが、当時からすでに「太上内閣」と呼ばれたこの事務処は大総統と国務院の干渉を受けない、一切を超越した中央機関であり、この「地盤」の下で、軍閥段祺瑞はその軍閥としての活動を行ったのである。
  その他にもいろいろな例があるが、「地盤」とは単に地域という意味だけではなく、幅広い意味での軍閥の欠かすことのできない人的物的基地と理解したほうがよかろう。
  第四の帝国主義との関係については、これを軍閥の定義の中に入れるのはどうであろうかと、私は考えている。
  周知の通り、民国初年から、特に1916年袁世凱の死から、北洋軍閥をはじめ、全国各地に大小数多の軍閥が林立し、文字通り軍閥割拠という局面が生じた。大軍閥の多くは確かに帝国主義列強と何らかの関係があっただろうし、それを確認することもそれほど難しいことではない。しかし一県、もしくは一郷村を支配下に治めることしかできない小さな軍閥は果たして帝国主義と手を結ぶことができただろうか。帝国主義列強も自身の利益に関わらないような小さな軍閥に援助したところで何の見返りも期待できないし、そのような無意味なことはしないだろう。
  だから各々の軍閥にとって、もし帝国主義列強を後ろ盾にできれば自身の大きな発展を保証するものとなるだろうが、帝国主義との関係は必要条件ではなかった。しかし実際、中央政権をうかがおうとする大軍閥にはほとんど例外なく列強との関係があったことは間違いなく、また民初の軍閥時代において北洋軍閥と呼ばれる集団は大体が大軍閥であり、列強との何らかの関係はあった。が、それもやはりすべの軍閥に当てはまることではない。
  第五の封建性について、多くの学者は先にも述べたその私兵の紐帯としての個人的関係、血族・同郷・同学・師弟などを例に挙げて、これらの関係はすべて封建的なものであり、その封建性を表わすものであるとしている。また、その求めるものが、あるいは観念的なもの、思想・哲学的なものが封建的である、ともしているものが多い。
  が、それはどうであろうか。血族・同郷・同学・師弟といった関係は確かに中国の伝統的なものであるし、その根元は究極的には儒家思想にまで溯れるだろう。しかしそれらが果たして時代錯誤的な古いものであるのか、といえばそうとは言いきれない。上述の関係は現代の我々でも容易に理解できる、というより東アジアの儒家思想文化圏では現代社会の人間関係としても根強く残っているものであるし、それを我々は決して封建的とは言わないだろう。
  私はむしろそうした関係を使って軍隊としての結束力を高めたという点において、過去の分散的・無規律的な軍隊とは違う、近代的軍隊が有していなければならない規律というものを創出したとして、評価すべきではないかと考えている。
  観念・思想哲学の方面について言えば、それは確かに概ね儒家思想の多大な影響の下にあったと言うことはできるだろう。当然である。中国において儒家思想は数千年の歴史があるのだ。その影響を簡単に払拭できるはずはない。しかしそれが封建的か、といえば問題があるようだ。
  つまり多くの学者は儒家思想イコール封建的と考えているのだ。
  そもそも「封建的」とはどういうことか、というのが問題である。勿論、ここで言う「封建」は中国語(大陸の)によるものであって、日本語の「封建」という言葉が含むであろう意味は有していない。
  大陸ではアヘン戦争以前を封建社会としている。つまり「封建」とは明らかに貶義的なニュアンスを持った旧態依然的なもの、ということである。
  では、そのような意味合いを持つ「封建」と儒家思想を混同できるものなのであろうか。
  答えは否である。儒家思想の部分的精神は現在の中国でも肯定的に評価されているのだ。
  「封建」という意味の持つイメージから派生して、北洋軍閥はよく「反動的集団」として表現される。
  「反動」とは極簡単に言えば歴史的・社会的発展を妨げるもの、ということだろう。それが転じて、現在大陸では革命、しかも共産党主導の革命ではないもの、もしくは共産党の主張とは相容れないものとして理解されている。
  明らかに党派性の強いこのような概念が公平・公正・客観を重んじなければならない歴史研究に不適当であるのは言うまでもない。しかも「反動」「反動」というが、マルクス自身が社会のすべての事物・事象はすべて歴史的・社会的発展の産物としている。だからマルクス主義に従って歴史を研究したとしても「反動」などという言葉は生まれようはずもなく、明らかに自身の「敵」に対してその地位を、時には不当に貶めようとする言葉であることが分かる。
  また1912年から1928年まで実質的には北洋軍閥集団が中国を支配したのであるが、それをよく「暗黒統治」と表現することがある。その背景には従来言われてきたように「北洋軍閥は無学無知で野蛮」という「定説」が存在する。確かにこれは一面では正しい。軍閥の人的物的搾取は事実であるし、軍閥混戦は人民を多いに苦しめただろう。そうした面だけを見れば間違いなく彼らは「野蛮」であり、その統治は「暗黒」であった。
  しかしまさにこの時期に中国の民族産業が勃興し、その著しい発展を見たのであるし、思想言論方面においては、よく言われるように共産党政権時代よりは国民党統治の時代、国民党統治の時代よりは北洋軍閥の時代のほうがより活発であり、自由であったのも事実である。これは往々にして中央の地方に対する影響力の違いによって説明されるが、これら一切の所謂「積極的側面」がただ彼らと無関係のもの、または全く対立するもの、それを反面教師として出現したものとする、ととらえるのはかなり無理があるように思う。少なくとも「暗黒」という言葉を使って現代の我々が彼らを見る目を強制的にくらませようとすることは是正されるべきだ。
  では、北洋軍閥はすべてがすべて無学無知であったか、というとそうでもない。
  来新夏『北洋軍閥史稿』の付属二『北洋軍閥人物小誌』に基づいて、そこに挙げられている477人の個々の学歴を統計してみると、経歴詳細の不明な人物が少なくないが、しかし学歴が分かっている者だけでも、全体で実に179人が何らかの学校・学堂を卒業している。一人でいくつもの学校を卒業しているのも珍しくない。
  その大体は軍官養成学校であるが、李鴻章以来、清末民初に作られた各種の軍官養成学校の教学レベルは決して低いものではなく、かなり熱心に西洋や日本から講師を招き、先進軍事知識の学生への教授が行われ、また軍事方面のみではなく、軍隊に欠かすことのできない規律の教育も、伝統的な倫理道徳(儒教思想)によってまかなわれており、その大部分で優れた教育が行われていたことは多くの論文で証明されているところである(注:「参考文献」の項を参照。こちらから)。
  またその内、57人が国外留学、または赴任しており、さらにそのうちの48人が日本へ留学している。日本留学者のうち、46人までが、日本陸軍士官学校に入学している。同校の教育の厳格さや水準の高さは周知の通りある。さらに3人は実際に日本軍部隊の各駐屯地に派遣され、入隊して実習も受けている。当時の日本陸軍の精鋭さは日清・日露両戦役で証明されており、国際的にも高い評価を受けていた。
  中国では伝統的に「軍」というものに対して潜在的な嫌悪感がある。「軍」は横暴で野蛮、というのがすでに定着してしまっている。それに加えて「北洋軍閥」という言葉が生み出す伝統的イメージが相俟って、彼らを一方的に「無学無知」「野蛮」としてとらえるようになったのだろう。
  さらに北洋軍閥は往々にして「売国的」であると評価するものもある。これは軍閥と帝国主義の関係とも関連するものであるが、「売国」という言葉もまた歴史研究・評価の概念としてはふさわしくない。軍閥の時代からすでに自身の「敵」を社会的に貶めるために、「売国」という言葉を使って輿論を動かそうとしていた。現在でもほとんど同じ用法が、しかも政治的にではなく、学術的にまかり通っている。
  現在の大陸では相変わらず歴史の善悪二元論的思考法が大勢を占めている。例えば共産党は絶対的善であり、国民党は絶対的悪、といった類のものである。さすがに今では国共両党をこのように見分けようとする学者はほとんどいないが、しかし北洋軍閥だけは、なぜか昔通り「絶対的悪」の立場に置かされている。
  大陸の北洋軍閥第一人者来新夏は前出の論文において、軍閥という言葉は「明らかに貶義的である」としている。軍閥という言葉が持つニュアンスには確かに貶義的なものがあるが、だからといって、北洋軍閥のすべての歴史的活動とその地位を貶義的なものとして、その前提の下で研究を進めれば、どういう結果を招くか、自ずと明らかであろう。それら一切の原因は北洋軍閥の負の面としての「封建性」というものに由来しているように思える。
  第六に挙げた近代性、これは来新夏も「中体西用」という言葉によって北洋軍閥を規定しようとしたことからも分かる通り、北洋軍閥にとって補助的なものとしてとらえられてきた。もしくはこれについて全く触れようともしない学者までいた。
  従来「近代」というのは「封建」と対立的な概念として考えられてきた。つまり「封建」が貶義的ならば、「近代」は褒義的に解釈されてきた。だからもとから「貶義的である北洋軍閥」のその近代性など触れられることはほとんどなかったのである。
  しかしそれの持つニュアンスは別として北洋軍閥が「近代」という社会で誕生し、発展し、そして滅亡した限りにおいて、どのように解釈しても、北洋軍閥と「近代」というものは切り離すことはできない。
  客観的に分析すれば、北洋軍閥は間違いなく「近代化された装備」と「近代的軍事知識及び意識」を多分に(すべてではない)兼ね備えた軍事的な集団と理解できるだろう。当時の中国においては、北洋軍閥の持つあらゆる軍事的知識が最新・最先端であって(少なくとも1924年頃以前までは)、中国軍事の近代化を象徴したものであった。この意義においては、北洋軍閥が中国近代の一部を規定した、とも言えるだろう。
  また近代という潮流が北洋軍閥という集団を規定した側面も見逃してはならない。例えば近代的な民主形態の体現としての議会政治・憲法・諸々の法律などには、儒教思想的観念の濃厚であった軍閥たちも従わざるを得ず、それらによってその活動を大きく制限されることもあった。また近代的産業の発達は彼らに旧来とは全く違う財源を提供する基礎ともなった。その逆として彼らの投資が近代的産業の発展に寄与している。
  このように北洋軍閥と近代とは非常に密接な関係があり、見逃すことのできない重要な側面である。
  結局、軍閥とは何か?
  それは、
  清末、曽国藩・李鴻章を筆頭とする清朝官僚がその王朝存続のために新設した軍隊にその起源を持ち、そうした軍隊がもとから国家・王朝・政府との関係が希薄であったため、そうした軍隊はそれを有した者の重要な政治資本となり、彼らはその資本を背景として、諸々の政治的権力を徐々に掌握していった、そのような形勢と清朝衰退、それに伴うその中央集権体制の崩壊が密接に結合した結果、近代軍閥登場の前提条件を作り出した。その中で袁世凱が登場し、中央政府の主権がほとんど及ばない私的な軍隊を作り出した。
  すなわち、そのような状況の下で、中国近代に出現した、中央政府の制御がほとんど届かない、私兵的性格の濃厚な、比較的近代化された軍事組織及び軍事知識・意識を持ち、形態を問わず何らかの地盤を有し、それを自身の人的物的基地とし、必ずしも帝国主義列強を後ろ盾としなくとも成立・存続は可能であるが、もしその後ろ盾があれば強力な勢力となりうる可能性を秘めた、その対人関係ならびに観念的・思想的・哲学的などの方面において儒家思想から多分に影響を受けた個人、あるいは集団の総称、それが軍閥である。
  こと北洋軍閥に限って言えば、上述以外に、袁世凱の清末における諸々の活動と直接・間接の関係があって、特に民国以後は中央政府とも密接な関わりがあった個人と集団、という条件が加わるだろう。

  北洋軍閥の基礎的問題において、その定義以外によく問題となるのがその時期区分である。
  所謂「北洋軍閥の時代」は1895年から1928年までとすることは大体一致を見ているが、その間を三段階に分けるか、四段階に分けるか、というところで分岐があるようだ。
  三段階論では1895年から1912年までをその成立期とし、1912年から1916年までを発展期、1916年から1928年までを分裂・衰退、そして滅亡の時期としている。
  四段階論では1895年から1816年を成立・発展という時期に二分することは三段階論と同じだが、1916年から1928年の時期を1926年によって二分するというものである。1926年北伐開始以前を分裂期、それ以後を衰退・滅亡期とするものだ。
  三段階論の主な論者は彭明、四段階論は来新夏、という具合である。
  が、個人的にはこうした論争がどれだけ有益なものか、というのには疑問がある。
  そもそも時期区分などというものは研究に便宜を与えるだけのものであって、全く相対的なものであり、歴史そのものの本質とは無関係であり、決して絶対的なものではない。
  要は研究者一人一人が自身の考え方に基づいて、自身の研究に便利なように、それを設定すればよいだけではないか、と考えている。
  そこで私自身の考え方を言えば、
  1895年から1928年まで、大きく二つに分けることができると思う。1916年までの「袁世凱の時代」、それ以後の「袁死後の軍閥時代」、である。
  「袁世凱の時代」はやはり1911年辛亥革命と翌年の民国成立、袁世凱の臨時大総統就任を基準として、二つに分けて考えることができるだろう。しかし「袁死後の軍閥時代」は北洋軍閥史というものを考えた場合、それを細分化することは難しいと思う。
  三段階論者の中には1916年から1928年を北洋軍閥の主要三派がそれぞれ政権を握ったとして、三つの段階に分けることがある。1916年から1920年までを皖系軍閥の時代、1920年から1924年までを直系軍閥の時代、1924年から1928年までを奉系軍閥の時代と、それぞれ四年ごとに区分する。
  そうした考え方は少なくとも大陸の史学界ではかなり広範に支持を受けているようだ。この12年の歴史を三等分、ちょうど四年ごとで考えることのできるという便宜さがその主な要因であろう。
  しかし私自身はこの考え方は全くの誤りだと考えている。
  例えば皖系の時代と呼ばれる1916年から1920年までの時期、果たして本当に皖系の時代と呼べるのか?
  確かにこの時期、段祺瑞は三度、国務総理の座に就き、中央政府を牛耳った。その腹心・配下が北京政府の要職に就くこともしばしばであった。ここで便宜的に段祺瑞を中心とするそうした彼の腹心・配下を「皖系」(「皖」とは安徽省の別称。段祺瑞は安徽出身)と名付けてみたとして、彼らは真に軍閥であったのか。
  ここで上述の軍閥の定義を振り返ってみると、少なくとも1916年から1920年までの前半期、彼らには「中央政府の制御がほとんど届かない、私兵的性格の濃厚な」軍隊はなかったし、「いかなる形態の地盤」も有していなかった。
  来新夏は先の論文でも、「軍を有していなければこれを軍閥と呼ぶのは難しい」と言っている。当然である。だから「軍」閥なのだ。
  段祺瑞を中心とする所謂「皖系」が本当の意味で軍閥となったのは少なくとも1917年12月の段祺瑞参戦督弁就任、もしくは1918年3月の督弁参戦事務処設立以降のことである。そうすることで彼らは初めて自身の「地盤」を有し、それを人的物的基地としてほとんど私兵的な軍隊「参戦軍」(後に「辺防軍」と改名)を作ることができるようになったのである。
  この問題に関連あるものとして、丁長清は『1917-1918年の馮段の争いは直皖の争いではない』(『河北学刊』1994年第2期)と題する論文を発表し、1917-1918年の馮国璋と段祺瑞の「和戦の争い」は派閥間の争いではなく、袁世凱死後の北洋集団内部の主導権争いであり、直系の形成は馮国璋死後、曹kun・呉佩孚の時からで、したがってこの時点において、後に一般的に直系と呼ばれる集団は形成されてはおらず、直皖の争いと呼べるものではないことを分析している。しかし残念ながら、この論文はあまり顧みられることがないようだ。
  また例えば1924年北京政変によって、直系の北京中央政府支配は終わりを告げたが、そのまま順調に奉系張作霖がその後がまとなったわけではない。少なくとも北京政変後から1926年4月までは、馮玉祥が実質的に北京政府を制御していたと言える。
  歴史を簡略して理解しやすいようにするというのも時には有効であろうが、それによって歴史の本質を歪めてしまってはどうしようもない。
  だから私は袁死後の時期をむやみやたらと区分すべきではないと考えている。
  ついでに付け加えれば、よく見受けられる「1916年袁世凱死後北洋軍閥は主に三派に分裂した」という考え方に対しても私は賛同しかねる。直皖両派は上述の如くであるし、奉系にしてもその基本的成立は1918年以降である。また北洋軍閥史を勉強すればすぐに気がつくことであるが、こうした派閥にこだわっていては理解できない問題も多数出てくる。だから北洋軍閥の派閥に関しては一応の目安として受け止めておくべきである。

  「北洋軍閥」は中国近代史自体にはらむ大きな問題をその内に多く包括しているといえる。「中国近代化」、「半植民地半封建社会」、「愛国と売国の標準」、「統一と分裂」、「専制独裁」などの問題である。この北洋軍閥の研究を通して、これらの諸問題を解明していけるのではないか、少なくとも解明のヒントとなるものが得られるのではないか、と考えている。これがすなわち北洋軍閥研究のそこから見出しうる意義である。



「北洋軍閥考」

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