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「第四章:題目研究」「(二)北京政府考」

1,北京政府内閣更迭表

 

 

 1912年2月13日、清朝皇帝退位を受け、中華民国臨時大総統孫中山が辞職、2月15日、南京臨時参議院が臨時大総統として袁世凱を選出、3月10日、袁世凱が北京にて臨時大総統職に就任、以来、1928年6月2日安国軍政府陸海軍大元帥張作霖が北京退出を通電、6月4日、国民政府が閻錫山を京津衛戍総司令に任命して北京事務の善後処理に関して全権を授けるまでの16年余、中国の正統政府として国際的に認められた北京政府。大総統及びそれに準ずる職に就いた者10人、組閣46回、国務総理及び総理代行職に就いた者29人というその政府を内閣の変遷ごとにまとめてみる。

 1912年3月10日、北京にて臨時大総統職に就いた袁世凱は(臨時副総統は黎元洪)、南京臨時政府がその翌日公布した『臨時約法』に基づき、3月13日、唐紹儀を中華民国第一期国務総理として任命した。


第一期内閣(1912/3/13〜1912/6/27)
役職
名前
国務院総理 唐紹儀
外交部総長 陸徴祥
内務部総長 趙秉鈞
財政部総長 熊季齢・4月26日から施肇基が兼任代行
陸軍部総長 段祺瑞
海軍部総長 劉冠雄
司法部総長 王寵恵
教育部総長 蔡元培
農林部総長 宋教仁
工商部総長 陳其美
交通部総長 唐紹儀・4月8日から施肇基・6月27日から劉冠雄が代行
参謀本部総長 黄興(未就)・4月13日より黎元洪が兼任

 この内閣は各方面への配慮のもとに組織されたもので、袁世凱をして「混合内閣」と言わしめた。この期間、臨時参議院が南京から北京へ移った。後、この内閣は責任内閣を擁護しようとし、大総統権限強化を図ろうとする袁世凱と真っ向から衝突、1912年6月16日、唐紹儀が辞任したため、翌日袁世凱は外務部総長陸徴祥に国務総理の代行を命じ、陸徴祥は6月29日組閣した。

 第二期内閣(1912/6/29〜1912/9/22)

役職
名前
国務院総理 陸徴祥・8月20日から趙秉鈞が代行
外交部総長 陸徴祥(兼任)・9月16日から梁如浩
内務部総長 趙秉鈞
財政部総長 熊季齢・7月14日から趙秉鈞が代行・7月26日から周学煕
陸軍部総長 段祺瑞
海軍部総長 劉冠雄
司法部総長 王寵恵・7月16日から王式通が代行・7月26日から許世英
教育部総長 蔡元培・7月16日から範源濂が代行・7月26日から正式に就任
農林部総長 宋教仁・7月16日から陳振先が代行・7月26日から正式に就任
工商部総長 陳其美・7月5日から王正廷が代行・8月2日から劉揆一
交通部総長 劉冠雄(代行・兼任)・7月26日から朱啓鈴
参謀本部総長 黎元洪(兼任)

 唐紹儀辞任を受けて発足したこの内閣、国務総理陸徴祥が無党派と見られていたため「超然内閣」と称された。7月18日、陸徴祥が提出した組閣人事名簿を臨時参議院が否決、袁世凱が軍警を派遣して臨時参議院に干渉しようとしたため、議員の不満を引き起こし、彼らは陸徴祥弾劾案を提出、陸徴祥は病気と称して辞職。袁世凱は8月20日、趙秉鈞に国務総理代行を命じ、9月22日、陸徴祥辞職を受理した。

 第三期内閣(1912/9/25〜1913/7/16)

役職
名前
国務院総理 趙秉鈞・1913年7月17日から19日まで朱啓鈴が代行
外交部総長 梁如浩・1912年11月15日から陸徴祥
内務部総長 趙秉鈞・1913年7月17日から王治馨が代行
財政部総長 周学煕・1913年5月16日から梁士詒が代行
陸軍部総長 段祺瑞
海軍部総長 劉冠雄
司法部総長 許世英
教育部総長 範源濂・1913年1月28日から劉冠雄が兼任代行・3月19日から陳振先が兼任代行・5月1日から董鴻yi(衣+韋)が代行
農林部総長 陳振先
工商部総長 劉揆一
交通部総長 朱啓鈴
参謀本部総長 黎元洪
 陸徴祥辞職を受理した袁世凱は9月25日、趙秉鈞を国務総理に任命する。1912年末から行われた初の国会議員選挙に大勝した国民党、その勢力拡張に恐れを懐いた袁世凱は、1913年3月、趙秉鈞に命じて国民党の指導者宋教仁の暗殺を画策させ、これに成功する。この「宋案」の真相が暴露されると内閣は窮地に追い込まれ、5月1日、国務総理趙秉鈞は病気と称して辞任。袁世凱は7月16日にこれを受理、陸軍総長段祺瑞に国務総理代行を命じる。この内閣期間中、1913年4月8日、中華民国第一期国会が開催されている。
第四期内閣(1913/7/19〜1913/7/31)
役職
名前
国務院総理 段祺瑞
外交部総長 陸徴祥
内務部総長 王治馨(代行)
財政部総長 周学煕・実質的に梁士詒が代行
陸軍部総長 段祺瑞
海軍部総長 劉冠雄
司法部総長 許世英
教育部総長 董鴻yi(代行)
農林部総長 陳振先
工商部総長 劉揆一・7月21から向瑞kun(左王+右昆)が代行
交通部総長 朱啓鈴
参謀本部総長 黎元洪
 初の臨時内閣であり、その寿命も二週間あまりに過ぎず、内務・財政・教育・工商の四つの総長はその次長が代行するという形である。1913年7月31日、袁世凱は熊季齢にを国務総理に任命した。
第五期内閣(1913/7/31〜1914/2/12)
役職
名前
国務院総理 熊季齢
外交部総長 陸徴祥・1913年9月4日から曹如霖が代行・9月11日から孫宝g
内務部総長 王治馨(代行)・1913年9月11日から朱啓鈴
財政部総長 周学煕・実質的に梁士詒が代行・1913年9月11日から熊季齢が兼任・1914年2月9日から周自斉
陸軍部総長 段祺瑞(1913年12月10日より湖北都督を代行、その間陸軍総長は周自斉が代行)
海軍部総長 劉冠雄
司法部総長 許世英・1913年9月4日から汪守珍が代行・9月11日から梁啓超
教育部総長 董鴻yi(代行)・1913年9月1日から汪大燮
農林部総長 陳振先・1913年9月4日から羅振方が代行・9月11日から張jian(寨−木+言)
工商部総長 向瑞kun(代行)・1913年9月11日から張jian                  
交通部総長 朱啓鈴・1913年9月11日から周自斉・1914年2月9日から朱啓鈴が兼任代行
参謀本部総長 黎元洪
 この内閣は1913年5月に結成された袁世凱に近い進歩党の中心メンバーである熊季齢や汪大燮、またその他の閣員も当時社会的に名が通っている者が多かったので、「第一流人材内閣」と称された。また成立後半年の間に多くの方針及び各種条例を出しながら実行したものが極めて少なかったため、「条例内閣」とも称された。1913年12月24日農林部と工商部が合併、農商部と改称、総長は張jianが就任した。1913年10月6日には袁世凱が、翌日7日には黎元洪がそれぞれ正式大総統と正式副総統に選出された。同内閣は1913年11月と1914年1月に、袁世凱の国民党解散令や国会解散令、政治会議設立令などに同意したため、輿論の非難が集まり、1914年2月12日、熊季齢は辞任、後任の国務総理に袁世凱は孫宝gを指名した。
第六期内閣(1914/2/12〜1914/5/1)
役職
名前
国務院総理 孫宝g
外交部総長 孫宝g
内務部総長 朱啓鈴
財政部総長 周自斉
陸軍部総長 段祺瑞(1914年4月3日より河南都督を代行、5月1日に帰京)
海軍部総長 劉冠雄
司法部総長 梁啓超・2月20日から章宗祥
教育部総長 汪大燮・2月20日から厳修
農商部総長 張jian・4月2日から章宗祥が兼任代行
交通部総長 朱啓鈴
参謀本部総長 黎元洪
 熊季齢辞任によって誕生した臨時内閣であるが、1914年5月1日、袁世凱は『臨時約法』を廃止して『中華民国約法』、所謂『新約法』を施行し、国務院を解消して政事堂を設置、国務卿に徐世昌を任命した。
第七期政事堂(1914/5/1〜1916/4/22)
役職
名前
政事堂国務卿 徐世昌・1915年10月27日から陸徴祥が兼任代行・1916年3月21日から徐世昌
外交部総長 孫宝g・1915年1月27日から陸徴祥
内務部総長 朱啓鈴
財政部総長 周自斉・1915年3月5日から周学煕が代行・4月27日から正式に就任
陸軍部総長 段祺瑞・1915年5月30日から王士珍が代行・8月29日より正式に就任
海軍部総長 劉冠雄
司法部総長 章宗祥
教育部総長 湯化龍・1915年9月10日から章宗祥が代行・10月5日から張一麟
農商部総長 張jian・1914年10月2日から周学煕が代行・1915年3月5日から周自斉が代行・4月27日から正式に就任
交通部総長 梁敦彦
参謀本部総長 黎元洪・1915年12月18日から馮国璋が代行・1916年3月23日から段祺瑞
 この期間中、1915年1月には日本から二十一ヶ条の要求を突き付けられ(陸軍総長段祺瑞は唯一これに反対、辞職に追い込まれている)、そして12月、翌年から元号を「洪憲」とすることに決定して袁世凱が帝位に就いた。護国戦争の勃発によって、1916年3月には帝制を取り消したが、袁世凱は依然として大総統の職に就いていた。4月21日、袁世凱は政事堂を廃止して責任内閣制の復活を決定、国務総理に段祺瑞を任命する。
第八期政事堂(1916/4/22〜1916/6/29)
役職
名前
政事堂国務卿 段祺瑞(5月8日に国務総理と改称)
外交部総長 陸徴祥・5月17日から曹汝霖が代行
内務部総長 王揖唐
財政部総長 孫宝g・5月20日から周自斉が代行・6月23日から陳錦涛
陸軍部総長 段祺瑞
海軍部総長 劉冠雄
司法部総長 章宗祥
教育部総長 張国淦
農商部総長 金邦平・6月6日から章宗祥が代行
交通部総長 曹汝霖
参謀本部総長 王士珍
 6月6日袁世凱が死去すると、国務総理段祺瑞は『新約法』に基づいて、「副総統黎元洪によって中華民国大総統の職権を代行する」ことを全国に通電、南方護国各省はこれに猛反発し、『旧約法』によって副総統黎元洪が大総統職を受け継ぐように要求する。この所謂「新旧約法の争い」は6月7日に大総統に就任した(大総統の職権を代行した)黎元洪は6月29日、『臨時約法』の遵守と国会の再開を宣言し、ここに決着を見る。同日、『臨時約法』に基づいて、大総統黎元洪は段祺瑞を国務総理に任命した。
第九期内閣(1916/6/29〜1917/5/23)
役職
名前
国務院総理 段祺瑞
外交部総長 唐紹儀(未就)・陳錦涛が兼任代行・1916年10月24日から夏詒霆が代行・11月13日から伍廷芳
内務部総長 許世英・1916年7月12日から孫洪伊・11月12日から謝遠涵が代行・1917年1月20日から範源濂が代行
財政部総長 陳錦涛・1917年4月18日から李思浩が代行・5月2日から李経羲
陸軍部総長 段祺瑞
海軍部総長 程壁光
司法部総長 張耀曾・1916年8月2日から江庸が代行
教育部総長 孫洪伊・1916年7月12日から範源濂
農商部総長 張国淦・1916年7月31日から谷鐘秀
交通部総長 汪大燮・1916年7月13日から許世英・1917年5月3日から権量が代行
参謀本部総長 王士珍
 黎元洪は公約通り1916年8月、国会を再開し、国会は空位であった副総統に江蘇督軍馮国璋を選出した。この内閣の時に所謂「府院の争い」が生じる。つまり大総統黎元洪と国務総理段祺瑞の個人的な対立、それから発展して総統府と国務院の争いとなるわけである。この争いが初めて表面化したのは内務総長孫洪伊をめぐって府院が対立した時、つまり1917年10月から11月にかけて頃であった。それでもこの時は両者に妥協の余地があり、一応解決したが、対立の火種が完全に消されたわけではなかった。1917年3月になると、欧州戦争(第一次大戦)に対する参戦問題が浮上、両者の対立は一気に加速し、1917年5月23日には、黎元洪が段祺瑞を罷免するという事態が生じた。後任総理に黎元洪は伍廷芳を任命した。
第十期内閣(1917/5/23〜1917/5/28)
役職
名前
国務院総理 伍廷芳
外交部総長 伍廷芳
内務部総長 範源濂(代行)
財政部総長 李経羲
陸軍部総長 張士yu(左金+右玉)(代行)
海軍部総長 程壁光
司法部総長 張耀曾(江庸が代行)
教育部総長 範源濂
農商部総長 谷鐘秀
交通部総長 権量
参謀本部総長 王士珍
 この内閣は伍廷芳の強い希望によりわずか五日間の臨時内閣として誕生、そして総辞職する。続いて黎元洪は5月28日、李経羲を国務総理に指名した。
第十一期内閣(1917/5/28〜1917/7/2)
役職
名前
国務院総理 李経羲(着任以前は伍廷芳が代行)・6月24日から李経羲
外交部総長 伍廷芳(6月12日辞職)
内務部総長 範源濂(代行)
財政部総長 李経羲
陸軍部総長 張士yu(代行)・6月24日から王士珍
海軍部総長 程壁光・6月24日から薩鎮氷
司法部総長 張耀曾(江庸が代行)
教育部総長 範源濂・6月2日から袁希涛が代行
農商部総長 谷鐘秀・6月29日から李盛鐸が代行(未就)
交通部総長 権量・6月29日から龍建章が代行
参謀本部総長 王士珍
 段祺瑞が自ら呼びかけ形成した、段祺瑞擁護を主張する集団、督軍団の圧力が日に日に増していく中、黎元洪は安徽督軍張勲に調停を依頼、入京を呼びかける。呼び掛けに応じて北上した張勲は逆に黎元洪に国会解散を要求、黎元洪はやむを得ずこれに応じる。李経羲を伴って入京した張勲は7月1日、清朝廃帝溥儀を担いで復辟を実行(「張勲復辟」)する。これに驚いた黎元洪はオランダ大使館に退避、段祺瑞の国務総理復活と副総統馮国璋に大総統代行を命じる通電を行う。討逆軍を組織して張勲及びその軍隊を北京から駆逐した段祺瑞は7月12日入京し、総理就任を通電した。

第十二期内閣(1917/7/2〜1917/11/22)

役職
名前
国務院総理 段祺瑞
外交部総長 汪大燮
内務部総長 湯化龍
財政部総長 梁啓超
陸軍部総長 段祺瑞・11月19日から王士珍
海軍部総長 劉冠雄
司法部総長 林長民
教育部総長 範源濂
農商部総長 張国淦
交通部総長 曹汝霖
参謀本部総長 王士珍(代行)
 黎元洪の命令によって大総統代行となった馮国璋は8月、段祺瑞の招きに応じて入京する。また孫文は段祺瑞が『臨時約法』を遵守せず、国会も再開しないと知るや、急遽南下して広州に軍政府を樹立、ここに至って中国は南北分裂の時代に突入する。北京政府では段祺瑞が武力統一を主張するものの、大総統代行馮国璋は逆に和平統一を主張、長江三督と連絡を取り合い、また広州軍政府下の西南軍閥とも気脈を通じ、段祺瑞の政策を妨害する、所謂「和戦の争い」が生じた。南征軍が全く成果を上げず、段祺瑞の対南政策の失敗が明らかになると、段祺瑞は引責辞任、1917年11月22日馮国璋は後任に汪大燮を指名する。

第十三期内閣(1917/11/22〜1917/11/30)

役職
名前
国務院総理 汪大燮
外交部総長 汪大燮
内務部総長 湯化龍
財政部総長 梁啓超
陸軍部総長 王士珍
海軍部総長 劉冠雄
司法部総長 林長民
教育部総長 範源濂
農商部総長 張国淦
交通部総長 曹汝霖
参謀本部総長 王士珍(代行)
 この内閣の閣員は段祺瑞が国務総理と陸軍総長を辞任した以外はもとの通りで、文字通り臨時内閣であり、11月30日、馮国璋は王士珍を国務総理に任命する。

第十四期内閣(1917/11/30〜1918/3/23)

役職
名前
国務院総理 王士珍(代行)・2月20日から銭能訓が兼任代行
外交部総長 陸徴祥
内務部総長 銭能訓
財政部総長 王克敏
陸軍部総長 王士珍・12月18日から段芝貴
海軍部総長 劉冠雄
司法部総長 江庸・3月18日から張一鵬が代行
教育部総長 伝増湘
農商部総長 田文烈
交通部総長 曹汝霖(1月4日から29日まで葉恭綽が代行)
参謀本部総長 王士珍・12月1日から蔭昌
 段祺瑞は再び督軍団を結成、また1918年2月には奉天督軍張作霖と手を組み、奉天軍を入関させることで馮国璋に圧力をかけた。1918年3月23日、馮国璋はやむを得ず段祺瑞に再び組閣を命じた。

第十五期内閣(1918/3/23〜1918/10/10)

役職
名前
国務院総理 段祺瑞
外交部総長 陸徴祥
内務部総長 銭能訓
財政部総長 王克敏
陸軍部総長 段芝貴
海軍部総長 劉冠雄
司法部総長 朱深
教育部総長 伝増湘
農商部総長 田文烈
交通部総長 曹汝霖
参謀本部総長 蔭昌
 三度復活した段祺瑞は、就任すると同時に再び対南強硬路線を突っ走る。しかし賞与の不平等など、南征軍の段祺瑞に対する不信任はますます色濃くなり、8月には段祺瑞の政策がまたしても失敗する。8月12日、新たに選挙を行って第二期国会が開かれた。この国会は段祺瑞の御用政党である安福倶楽部が各方面に働きかけて成立させたもので、その議員の多数が安福倶楽部員であったため安福国会とも言われる。この国会で任期の切れる大総統代行馮国璋に代わって徐世昌が選出され、10月10日、徐世昌が大総統に就任すると同時に、馮国璋と段祺瑞が同時に下野することになった。徐世昌が新たに指名した国務総理は内務総長銭能訓である。

第十六期内閣(1918/10/10/〜1918/12/12)

役職
名前
国務院総理 銭能訓
外交部総長 陸徴祥・11月12日から陳lu(上竹+下録)が代行
内務部総長 銭能訓
財政部総長 曹汝霖
陸軍部総長 段芝貴
海軍部総長 劉冠雄
司法部総長 朱深
教育部総長 伝増湘
農商部総長 田文烈
交通部総長 曹汝霖
参謀本部総長 蔭昌
 新大総統徐世昌はもともと対南和平を主張しており、臨時国務総理に任命した銭能訓もまた対南和平を強力に推し進めた結果、12月初め、南北和平会議を上海で開くというところまでこぎつけた。この機を逃さず、徐世昌は安福国会に働きかけ、銭能訓内閣同意案を通過させ、12月20日、正式に銭能訓を国務総理に任命した。

第十七期内閣(1918/12/20〜1919/6/13)

役職
名前
国務院総理 銭能訓
外交部総長 陸徴祥(着任以前は陳luが代行)
内務部総長 銭能訓
財政部総長 曹汝霖・1919年1月11日からgong心zhen(上龍+下共)(左水+右甚)
陸軍部総長 段芝貴・1919年1月11日からjin雲鵬(左革+右斤)
海軍部総長 劉冠雄
司法部総長 朱深
教育部総長 伝増湘・1919年5月15日から袁希涛が代行・6月5日から傅嶽fen(上草+中分+下木)
農商部総長 田文烈
交通部総長 曹汝霖(1919年5月21日に辞職)・6月10日から曾yu雋(左毎+右流−水)が代行
参謀本部総長 蔭昌・1919年1月11日から張懐芝
 期待の南北会議は1919年2月20日に上海で始まったものの、遅々として進まず、思うように成果が上げられなかった。加えて第一次大戦の講和会議であるパリ会議において日本との間の山東問題が解決せず、5月4日、とうとう五四運動が勃発、5月13日には南北会議も正式に破綻し、それら一切の責任を取って銭能訓は辞職する。徐世昌はgong心zhenに臨時内閣の組閣を命じた。

第十八期内閣(1919/6/13〜1919/9/24)

役職
名前
国務院総理 gong心zhen
外交部総長 陸徴祥
内務部総長 于宝軒・6月16日から朱深が兼任代行
財政部総長 gong心zhen
陸軍部総長 jin雲鵬
海軍部総長 劉冠雄
司法部総長 朱深
教育部総長 傅嶽fen(代行)
農商部総長 田文烈
交通部総長 曾yu雋(代行)
参謀本部総長 張懐芝
 内外苦境に立たされた徐世昌は、gong心zhenに臨時の内閣を担わせ、その後、陸軍総長jin雲鵬に臨時の組閣を命じた。

第十九期内閣(1919/9/24〜1919/11/5)

役職
名前
国務院総理 jin雲鵬
外交部総長 陸徴祥
内務部総長 朱深
財政部総長 李思浩
陸軍部総長 jin雲鵬
海軍部総長 劉冠雄
司法部総長 朱深
教育部総長 傅嶽fen(代行)
農商部総長 田文烈
交通部総長 曾yu雋(代行)
参謀本部総長 張懐芝
 jin雲鵬は段祺瑞の門弟でもあり、徐世昌の門弟でもあり、当時最大の実力者の一人曹kunや東三省を手中に収めた張作霖とも親戚関係があるという、非常に広い人間関係を持ち、最も難しい局面の国務総理に最適であった。曹kunや張作霖の支持を得て、また段祺瑞の黙認により、徐世昌はjin雲鵬の同意案を国会に提出、これが可決されると、11月5日、改めて正式にjin雲鵬を国務総理に任命した。

第二十期内閣(1919/11/5〜1920/5/14)

役職
名前
国務院総理 jin雲鵬
外交部総長 陸徴祥
内務部総長 朱深・12月3日から田文烈
財政部総長 李思浩
陸軍部総長 jin雲鵬
海軍部総長 劉冠雄・12月3日から薩鎮氷
司法部総長 朱深
教育部総長 傅嶽fen(代行)
農商部総長 田文烈・1920年2月27日から江天鐸が代行
交通部総長 曾yu雋
参謀本部総長 張懐芝
 直・皖・奉という三派の軍閥の勢力争いが深まる中、多くの人間関係を持っていたがゆえに、jin雲鵬は徐々に微妙な立場に立たされていくことになる。曹kun・張作霖の支持は得られても、段祺瑞を捨てて完全に直奉側によることはできなかった。1920年5月14日、jin雲鵬はとうとう辞表を提出する。徐世昌は海軍総長薩鎮氷を代理総理に命じる。

第二十一期内閣(1920/5/14〜1920/8/9)

役職
名前
国務院総理 薩鎮氷
外交部総長 陸徴祥
内務部総長 田文烈
財政部総長 李思浩・7月24日から潘復が代行
陸軍部総長 羅開榜(代行)
海軍部総長 薩鎮氷
司法部総長 朱深・7月24日から張一鵬が代行
教育部総長 傅嶽fen(代行)
農商部総長 江天鐸(代行)
交通部総長 曾yu雋・7月24日から田文烈が代行
参謀本部総長 張懐芝
 7月になると直皖両派はもう後戻りのできない、一触即発の状態となっていた。何とか戦争を回避しようと薩鎮氷は奔走したが、その徒労も水泡に帰す。ついに直皖戦争が勃発、直系が大勝し、皖系及びそれに追随してきた者たちは中央政界から追い出されていくことになる。8月9日、曹kun・呉佩孚、張作霖の支持を得て、徐世昌は再びjin雲鵬を国務総理に任命する。

第二十二期内閣(1920/8/9〜1921/12/18)

役職
名前
国務院総理 jin雲鵬
外交部総長 顔恵慶
内務部総長 張志潭・1921年5月14日から斉耀珊
財政部総長 周自斉・1921年5月14日から李士偉・10月28日から高凌wei(上雨+下尉)
陸軍部総長 jin雲鵬・1921年5月14日から蔡成勲
海軍部総長 薩鎮氷・1921年5月14日から李鼎新
司法部総長 董康
教育部総長 範源濂
農商部総長 王迺斌
交通部総長 葉恭綽・1921年5月14日から張志潭
参謀本部総長 張懐芝
 安福国会の解消や南北和議の促進などを進めていったが、時が経てば経つほど、jin雲鵬内閣は直系と奉系の微妙な均衡のもとに成立した内閣であることが浮き彫りにされていく。次第に直奉両派は対立の色を濃くしてゆく。そんな中、奉系張作霖はjin雲鵬が次第に直系よりになっているのではないかと疑うようになり、こうした状況のもと、1921年12月18日、jin雲鵬は辞表を提出せざるを得なくなった。徐世昌は外交総長顔恵慶を代理総理に命じる。

第二十三期内閣(1921/12/18〜1921/12/24)

役職
名前
国務院総理 顔恵慶
外交部総長 顔恵慶
内務部総長 斉耀珊
財政部総長 高凌wei
陸軍部総長 蔡成勲
海軍部総長 李鼎新
司法部総長 董康
教育部総長 範源濂
農商部総長 王迺斌
交通部総長 張志潭
参謀本部総長 張懐芝
 代理総理に任じられた顔恵慶は、「ワシントン会議開催時であり、無政府状態を避けるためやむなくこの重職に就くのであり、期間は長くともワシントン会議閉会時までである」という声明を発していたため、12月24日、徐世昌は張作霖が推挙した梁士詒を国務総理に任じる。

第二十四期内閣(1921/12/24〜1922/1/25)

役職
名前
国務院総理 梁士詒
外交部総長 顔恵慶
内務部総長 高凌wei
財政部総長 張弧
陸軍部総長 鮑貴卿
海軍部総長 李鼎新
司法部総長 王寵恵
教育部総長 範源濂
農商部総長 王迺斌
交通部総長 張志潭
参謀本部総長 張懐芝
 張作霖主導による今回の組閣に対し、当然直系は面白くない。呉佩孚はワシントン会議における梁士詒内閣の軟弱外交を非難し、倒閣の輿論を作り上げる。梁士詒は就任一ヶ月にして病と称して天津に引き込んでしまう。徐世昌は代理総理に再び顔恵慶を指名する。

第二十五期内閣(1922/1/25〜1922/4/9)

役職
名前
国務院総理 顔恵慶
外交部総長 顔恵慶
内務部総長 高凌wei
財政部総長 張弧
陸軍部総長 鮑貴卿
海軍部総長 李鼎新
司法部総長 王寵恵
教育部総長 斉耀珊
農商部総長 斉耀珊
交通部総長 葉恭綽
参謀本部総長 張懐芝
 代理総理顔恵慶はやはり前回同様の声明を発表、期限をワシントン会議閉会時と定めた。1922年2月6日、ワシントン会議が閉会すると顔恵慶は代行の任に堪えないと徐世昌に強く訴える。やむなく徐世昌は4月9日、周自斉に総理代行を命じる。

第二十六期内閣(1922/4/9〜1922/6/12)

役職
名前
国務院総理 周自斉
外交部総長 顔恵慶
内務部総長 高凌wei
財政部総長 鐘世銘(代行)
陸軍部総長 鮑貴卿
海軍部総長 李鼎新
司法部総長 王寵恵
教育部総長 周自斉
農商部総長 斉耀珊
交通部総長 葉恭綽・5月6日から高凌weiが兼任代行・5月23日から高恩洪が代行
参謀本部総長 張懐芝
 直奉両派の争いもまたますます深まっていき、4月とうとう両者は激突する。第一次直奉戦争である。この戦争に勝利した直系は6月、大総統徐世昌を辞職に追い込み、黎元洪を復職させる。新大総統黎元洪は6月11日、周自斉の職を解いて、三度顔恵慶を代理総理に任じる。

第二十七期内閣(1922/6/11〜1922/8/5)

役職
名前
国務院総理 顔恵慶
外交部総長 顔恵慶
内務部総長 譚延kai(門+豈)・7月27日から孫丹林
財政部総長 董康
陸軍部総長 呉佩孚(未就)
海軍部総長 李鼎新
司法部総長 張耀曾
教育部総長 黄炎培
農商部総長 張国淦
交通部総長 高恩洪
参謀本部総長 張懐芝
 黎元洪は各方面に配慮して組閣したものの、それが逆に裏目に出てしまい、全く機能しない内閣となってしまった。そこで8月5日、南方との融和を目的として、南方の著名人唐紹儀を国務総理に任命する。

第二十八期内閣(1922/8/5〜1922/9/19)

役職
名前
国務院総理 唐紹儀(未就)
外交部総長 顧維鈞
内務部総長 田文烈(未就)
財政部総長 高凌wei(未就)
陸軍部総長 張紹曾
海軍部総長 李鼎新
司法部総長 張耀曾
教育部総長 王寵恵
農商部総長 盧信
交通部総長 高恩洪
参謀本部総長 張懐芝
 しかし国務総理に任じられた唐紹儀は入京せず、そして曹kun・呉佩孚の頑強な反対に遇い、この内閣もすぐに瓦解する。9月19日、黎元洪はやむを得ず教育総長王寵恵を代理総理に命じる。

第二十九期内閣(1922/9/19〜1922/11/29)

役職
名前
国務院総理 王寵恵
外交部総長 顧維鈞
内務部総長 孫丹林
財政部総長 羅文幹
陸軍部総長 張紹曾
海軍部総長 李鼎新
司法部総長 徐謙
教育部総長 湯爾和
農商部総長 高凌wei
交通部総長 高恩洪
参謀本部総長 張懐芝
 閣員中、王寵恵・顧維鈞・羅文幹・湯爾和の四人はかつて『努力』週報において、『我々の政治主張』と題する文章を発表して、何人かの「好人」によって政府を組織して「憲政政府」を打ち立てることを提唱したことがあるため、この内閣は「好人政府」と称される。しかし直系の内部闘争「保洛の争い」による所謂「羅文幹案」が発生、11月18日、羅文幹が逮捕されるに至ると、王寵恵は辞意を表明。11月29日、黎元洪は汪大燮を代理総理に任命する。

第三十期内閣(1922/11/29〜1922/12/11)

役職
名前
国務院総理 汪大燮
外交部総長 王正廷
内務部総長 高凌wei
財政部総長 汪大燮
陸軍部総長 張紹曾
海軍部総長 李鼎新
司法部総長 許世英
教育部総長 彭允彝
農商部総長 李根源
交通部総長 高恩洪
参謀本部総長 張懐芝
 汪大燮は10日間の期限付きで代理総理を引き受けたため、12月11日、黎元洪は外交総長王正廷に代理総理を命じる。

第三十一期内閣(1922/12/11〜1923/1/4)

役職
名前
国務院総理 王正廷
外交部総長 王正廷
内務部総長 高凌wei
財政部総長 凌文淵
陸軍部総長 張紹曾
海軍部総長 李鼎新
司法部総長 許世英
教育部総長 彭允彝
農商部総長 李根源
交通部総長 高恩洪
参謀本部総長 張懐芝
 王正廷は就任後、数々の政策を発表し、実行しようとしたが、北京政府を実質的に支配している直系に尽く妨害され、ついには辞任。1923年1月4日、黎元洪は陸軍総長張紹曾に組閣を命じる。

第三十二期内閣(1923/1/4〜1923/6/6)

役職
名前
国務院総理 張紹曾
外交部総長 施肇基
内務部総長 高凌wei
財政部総長 劉恩源・5月20日から張英華
陸軍部総長 張紹曾
海軍部総長 李鼎新
司法部総長 王正廷(未就)・1月12日から程克・1月25日から正式に就任
教育部総長 彭允彝
農商部総長 李根源
交通部総長 呉yu麟(左毎+右流−水)
参謀本部総長 張懐芝
 張紹曾は直系の有力者であり、黎元洪はこれを期に国会に同意案を提出、梁士詒内閣以来、実に七期ぶりの正式内閣。しかし張紹曾は就任後、対南和平政策を推進しようとし、南方政府や奉系からは支持が得られたものの、自身の基盤である直系から非難が集中し、3月8日、内閣総辞職を発表する。黎元洪に引き止められ、今回の総辞職は実現しなかったものの、6月6日には再び辞職を表明。大総統黎元洪も6月13日、直系の圧力に屈し、職を辞して離京、天津に逃れる。離京以前、黎元洪は農商総長李根源を代理総理に任じるが、6月14日には高凌weiが内務総長と兼任して代理総理に就任する。

第三十三期内閣(1923/6/13〜1923/10/12)

役職
名前
国務院総理 高凌wei
外交部総長 顧維鈞
内務部総長 高凌wei
財政部総長 張英華・7月16日から王克敏が代行・8月14日から張弧が代行
陸軍部総長 張紹曾
海軍部総長 李鼎新
司法部総長 程克
教育部総長 彭允彝・9月4日から黄郛が代行
農商部総長 李根源・9月4日から袁乃寛が代行
交通部総長 呉yu麟
参謀本部総長 張懐芝
 この時、北京政府は大総統不在という異常事態が発生。閣員中、高凌wei・程克・呉yu麟・李鼎新の四人が大総統職務の代行を宣言、よって「摂政内閣」と呼ばれる。国務総理高凌weiは曹kun賄選のために奔走し、10月5日、賄選による曹kun新大総統が誕生する。これを受けて同日、「摂政内閣」は新大総統着任と同時に大総統職務の代行打ち切りを宣言する。新大総統曹kunは10月10日に就任、10月12日、再び高凌weiに組閣を命じる。

第三十四期内閣(1923/10/12〜1924/1/12)

役職
名前
国務院総理 高凌wei
外交部総長 顧維鈞
内務部総長 高凌wei
財政部総長 張弧・11月12日から王克敏が代行
陸軍部総長 張紹曾
海軍部総長 李鼎新
司法部総長 程克
教育部総長 黄郛
農商部総長 袁乃寛
交通部総長 呉yu麟
参謀本部総長 張懐芝
曹kun賄選によって直系の内部闘争が激化。国会では高凌wei代理総理を正式な総理にしようとする勢力と呉景濂を国務総理にしようとする勢力が激突、国会で信任案が得られなかった高凌weiはやむ得ず12月20日、辞職を提出する。一度は曹kunに慰留させられたが、1924年1月11日、高凌weiは再び辞意を表明、1月12日、曹kunは孫宝gを国務総理に任命する。

第三十五期内閣(1924/1/12〜1924/7/2)

役職
名前
国務院総理 孫宝g
外交部総長 顧維鈞
内務部総長 程克
財政部総長 王克敏
陸軍部総長 陸錦
海軍部総長 李鼎新
司法部総長 王寵恵
教育部総長 範源濂・1月31日から張国淦
農商部総長 顔恵慶
交通部総長 呉yu麟
参謀部総長 張懐芝
 孫宝gはもと清朝の官僚で、北京政界の重鎮であり、曹kunは彼を推し立てることによって、国会内の不満を解消しようとした。孫宝gは就任するとすぐ「憲法の遵守」「和平統一」を内閣の二大方針として発表する(この憲法は曹kun就任時に制定したもの)。もともと傀儡内閣としようと考えていた曹kunにとっては、責任内閣を標榜する孫宝gの態度は計算外のことであり、両者の対立が徐々に深まっていく。こうした対立に嫌気を差した孫宝gは7月2日、辞表を提出。曹kunはこれを受理すると外交総長顧維鈞に代理総理を命じる。

第三十六期内閣(1924/7/2〜1924/9/14)

役職
名前
国務院総理 顧維鈞
外交部総長 顧維鈞
内務部総長 程克
財政部総長 王克敏
陸軍部総長 陸錦
海軍部総長 李鼎新
司法部総長 王寵恵
教育部総長 張国淦
農商部総長 顔恵慶
交通部総長 呉yu麟
参謀本部総長 張懐芝
 7月5日に曹kunは顔恵慶内閣同意案を国会に提出するが、国会の意見がまとまらず、9月になってやっとそれが可決されると、9月4日、曹kunは顔恵慶を国務総理に任命する。

第三十七期内閣(1924/9/14〜1924/10/31)

役職
名前
国務院総理 顔恵慶
外交部総長 顧維鈞
内務部総長 顔恵慶
財政部総長 王克敏
陸軍部総長 陸錦
海軍部総長 李鼎新
司法部総長 張国淦
教育部総長 黄郛
農商部総長 高凌wei
交通部総長 呉yu麟
参謀本部総長 張懐芝
 この内閣が誕生してまもなく、第二次直奉戦争が勃発する。第一次直奉戦争の敗戦以来、東三省に引きこもり、軍備増強に努めた張作霖率いる奉系は、戦争を始終優勢に進めた。10月23日、直系の将軍馮玉祥が直系に対し反旗を翻し、奉系に呼応する形を取って北京政変を発動、大総統曹kunは囚われ、内閣も瓦解する。勝敗は当然、奉系に軍配が上がった。教育総長黄郛が総理代行することになる。

第三十八期内閣(1924/10/31〜1924/11/25)

役職
名前
国務院総理 黄郛
外交部総長 王正廷
内務部総長 王永江
財政部総長 王正廷
陸軍部総長 李書城・11月24日から呉光新
海軍部総長 杜錫珪(未就)・11月24日から林建章
司法部総長 張耀曾・11月24日から章士zhao(左金+右り)
教育部総長 黄郛・11月10日から易培基が代行・11月24日から王九齢
農商部総長 王迺斌
交通部総長 黄郛・11月24日から葉恭綽
参謀部総長 張懐芝・11月5日から李烈鈞(未就)
 北京政変後、北京を統制下に治めた馮玉祥の支持を得た黄郛臨時内閣は、大総統不在によって再び「摂政内閣」となった。馮玉祥は清朝廃帝を故宮より出宮させた後、張作霖と図って段祺瑞を迎え入れて、臨時総執政府を組織することに決定した。11月24日に入京した段祺瑞は翌日、臨時総執政就任を宣言する。

第三十九期臨時執政兼内閣(1924/11/25〜1925/12/26)

役職
名前
国務院総理 『臨時政府制』に基づき総理職を置かず、国務会議は執政によって開催される。
外交部総長 唐紹儀(未就)・1925年2月21日から沈瑞麟
内務部総長 gong心zhen
財政部総長 李思浩・1925年12月3日から陳錦涛
陸軍部総長 呉光新・1925年12月1日から賈徳耀 
海軍部総長 林建章
司法部総長 章士zhao・1925年7月28日から楊庶堪が代行
教育部総長 王九齢・1925年7月28日から章士zhaoが代行
農商部総長 楊庶堪・1925年7月28日から莫徳恵が代行
交通部総長 葉恭綽・1925年11月28日からgong心zhenが代行
参謀本部総長 李烈鈞・1925年5月16日から楊森が代行(未就)
 1925年2月から善後会議を招集するが、「金法郎案」や「五三〇運動」など問題が山積する。1925年12月26日には『修正臨時政府制』を発布、国務院を復活させ、臨時執政段祺瑞は許世英を国務総理に任じる。

第四十期内閣(1925/12/26〜1926/2/15)

役職
名前
国務院総理 許世英
外交部総長 王正廷
内務部総長 于右任
財政部総長 陳錦涛
陸軍部総長 賈徳耀
海軍部総長 杜錫珪(未就)
司法部総長 馬君武(未就)
教育部総長 易培基
農商部総長 寇遐
交通部総長 gong心zhen
参謀本部総長 楊森・1926年1月9日から劉汝賢が代行
 国務総理に就任した許世英は臨時総執政段祺瑞に責任内閣制の強化を訴えたが聞き届けられず、1926年2月15日、辞表を提出。段祺瑞の慰留を経て、3月4日に正式に受理された。後任総理は陸軍総長賈徳耀。

第四十一期内閣(1926/2/15〜1926/4/20)

役職
名前
国務院総理 賈徳耀
外交部総長 王正廷・3月4日から顔恵慶・3月25日から胡惟徳
内務部総長 于右任・3月4日から屈映光
財政部総長 陳錦涛・3月4日から賀徳霖
陸軍部総長 賈徳耀
海軍部総長 杜錫珪
司法部総長 馬君武・3月4日から盧信・4月17日から王文豹 
教育部総長 易培基・3月4日から馬君武・3月31日から胡仁源
農商部総長 寇遐・3月4日から楊文ト(否認) 
交通部総長 gong心zhen
参謀本部総長 劉汝賢(代行)
 所謂「大沽口事件」とそれに続く「三一八惨案」を通じて、国民軍系と奉系、そして段祺瑞の三者関係が急速に変化しだし、4月20日、総執政府を国民軍によって包囲された段祺瑞は下野を表明、離京する。辞意を表明していた賈徳耀を解任して、代理総理を胡惟徳に命じた。

第四十二期内閣(1926/4/20〜1926/5/13)

役職
名前
国務院総理 胡惟徳
外交部総長 胡惟徳
内務部総長 屈映光
財政部総長 王克敏
陸軍部総長 陸錦
海軍部総長 杜錫珪
司法部総長 王文豹
教育部総長 胡仁源
農商部総長 楊文ト
交通部総長 呉yu麟
参謀本部総長 劉汝賢
 国民軍による再度の北京政変によって、北京政府は完全にその機能を停止した。胡惟徳には北京の治安維持さえもままならず、第二次直奉戦争以来実質的に下野していた呉佩孚は顔恵慶内閣復活とその内閣による大総統職務の代行を要求、5月13日、胡惟徳は下野せざるを得なかった。

第四十三期内閣(1926/5/13〜1926/6/22)

役職
名前
国務院総理 顔恵慶
外交部総長 施肇基
内務部総長 鄭謙(未就)・劉馥が代行
財政部総長 顧維鈞
陸軍部総長 張景恵(未就)
海軍部総長 杜錫珪
司法部総長 張国淦
教育部総長 王寵恵(未就)
農商部総長 楊文ト
交通部総長 張志潭
参謀本部総長 劉汝賢
 奉系と連絡を取り、呉佩孚は曹kunの正式な辞職表明と1924年9月に成立した顔恵慶内閣を復活させ、これを「摂政内閣」にすることに成功する。呉佩孚の独走に張作霖は不満を隠さず、奉系出身の閣員に就任を拒絶させる。各国公使からの承認も得られず、この内閣は行き詰まり、後、張作霖と呉佩孚の間で話し合いが行われ、この内閣の成立は承認するが、すぐに総辞職する、という異常事態となった。6月22日、この内閣の最初で最後の閣議が行われ、自身の持つ代行大統領の命令によって、自身の辞職を許可するということになる。後任は海軍総長杜錫珪。

第四十四期内閣(1926/6/22〜1926/10/1)

役職
名前
国務院総理 杜錫珪
外交部総長 蔡廷幹
内務部総長 田応huang(左王+右黄)・7月6日から張国淦が代行
財政部総長 顧維鈞
陸軍部総長 張景恵(未就)・8月12日から蒋雁行が代行
海軍部総長 杜錫珪
司法部総長 張国淦・7月6日から羅文幹が代行
教育部総長 任可澄
農商部総長 楊文ト
交通部総長 張志潭
参謀本部総長 劉湘(未就)
 軍閥各派の抗争が激しくなる中、杜錫珪はその圧迫に耐え切れず三度辞表を提出する。最後の辞表表明は、張作霖・呉佩孚・孫伝芳・張宗昌に通電するという異例の形式が取られ、10月1日、国務院は代行大総統権を執行して、その辞職を受理、財政総長顧維鈞に総理代行を命じる。

第四十五期内閣(1926/10/1〜1927/6/17)

役職
名前
国務院総理 顧維鈞
外交部総長 顧維鈞
内務部総長 張国淦・1927年1月12日から胡惟徳
財政部総長 潘復・1927年1月12日から湯爾和
陸軍部総長 蒋雁行・1927年1月12日から張景恵
海軍部総長 杜錫珪
司法部総長 羅文幹
教育部総長 任可澄
農商部総長 楊文ト
交通部総長 張志潭・1927年1月12日から潘復
参謀本部総長 劉湘
 1927年6月17日、顧維鈞は辞意を表明する。後任に内務総長胡惟徳を指名するが、6月18日、国民革命軍の北伐に対抗するため、張作霖を陸海軍大元帥とする安国軍政府が樹立され、張作霖は6月20日、潘復に国務総理を命じる。

第四十六期内閣(1927/6/18〜1928/6/3)

役職
名前
国務院総理 潘復
外交部総長 王蔭泰・1928年2月25日から羅文幹
内政部総長 沈瑞麟
財政部総長 閻澤溥
軍事部総長 何豊林
司法部総長 姚震・1928年2月25日から王蔭泰
教育部総長 劉哲
農工部総長 劉尚清・1927年10月3日から莫徳恵
実業部総長 張景恵
交通部総長 潘復
 軍政府ということで従来の内閣とは機構など若干変化が見られるが、北京政府最後の内閣であり、業績と呼べるものはほとんどないが、一年近くの任期によって、北京政府史史上最長任期の内閣となる。6月3日、北伐軍に押し出されるような形で、張作霖が東三省へ退去(途中に関東軍によって爆殺される)、国務総理潘復もそれに従って離京、ただし、潘復は天津で途中下車したため、災難から逃れることができた。こうして北京政府最後の内閣が終焉した。
 四十六期に及ぶ北京政府の内閣の変遷は現在に至るまで中国史史上唯一の責任内閣制の歴史でもある。わずか16年の間に、大総統及びそれに準ずる職に就いた者10人、国務総理及び総理代行職に就いた者29人、というこの数字はこの時代の混乱と昏迷を象徴しているようである。



「北京政府考」

北京政府内閣更迭表 / 北京政府中央組織機関北京政府地方民政・軍政長官表
北京政府歳入出:民国二年と三年の歳入・歳出,民国五年と八年の歳入歳出北京政府外債概略北京政府内債表

参考文献はこちら



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