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終章:研究筆記


研究中に感じた様々なことを日記風(毎日更新ではありませんが)に綴っていきます。
時には、作者の独断と偏見に満ち溢れていることもあるでご注意ください。
この項の一部または全体の無断転載を禁じます。
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五四と六四・ファシズム・満族・革命政治文化・開明専制

過去ログ2
三序・中国武術・「近代」について・「社会矛盾を解決しようとする過程」としての近代史・汪精衛政権について・
黄興・昨今の台湾的考え方・中統と軍統・単位・張騫

過去ログ3
陳納徳航空隊・第三党・陳独秀・少年中国学会・洋務運動と愛国主義・
蔡鍔・『清史稿』・日中両国近代史と近代日中関係・文体と識字率―漢字について



2000年3月25日
「五四」のイメージ

 卒論の都合上、最近五四前後の当時の新聞や雑誌などの資料を漁ることが多い。
 五四といえば、革命史観では、近代初の徹底的な反帝国主義反封建の運動。「新民主主義革命」の発端でもある。今でも大陸では基本的にこの評価は不動であり、中国で歴史を学んでいる私としてはこの影響を受けざるを得ない。が、日本では疑問が呈されている。最も著名なのが斎藤道彦『五四運動の虚像と実像』。それによれば、「狭義」の五四は1919年5月4日の運動に限定すべきであり、その運動は、山東問題が中心であって(「広義」の五四も結局は同問題を中心として語られるべきで、つまり1915年の二十一ヶ条から、1922年ワシントン会議の結果による、山東の喪失から回復までの運動を見ていかなければならない、とする)、反日の運動ではあるが、「徹底した」反帝国主義運動とは言い難く、また反封建にいたっては、論外。というのも、五四では、「売国賊」の罷免要求だけで、確かに少しばかりの反政府的要素は見られるものの、反体制、とはいえず、時の大総統なり、国務総理の退陣までは求めていない(ただ、この運動を契機に時の国務総理銭能訓とその内閣が瓦解している)。
 まあ、何はともあれ、強烈な反日運動であることにはかわりない。私のイメージの中でも二十一ヶ条以来培われてきた日本に対する反発が一挙に爆発した運動、というものがあった。しかし、当時の新聞や雑誌などを読んでいると、当時の人々の感じ方では、今伝えられているようなものではないことが分かってくる。
 当時最も「進歩的」(つまりは反政府の急先鋒)と思われる新聞「民国日報」にしても、雑誌「毎週評論」にしても、日本攻撃がそれほど目立っていない。攻撃の矛先は三人の「売国賊」に集中している。
 これはちょっと意外だった。当時からすでに反日のプロパガンダがばしばし報じられている、という錯覚をもたらされる現代の歴史叙述では、ある意味拍子抜けしてしまうぐらいである。それに反し、「売国賊」に対する攻撃はほとんど容赦がない。著名な学者梁漱冥が五四を評して、学生の行動は違法であり、法廷によって裁かれるべき、という論評をした(個人的には先見の明があるなー、さすが、と思ってしまう)が、それに対しては、当時からすでに冷眼視され、「売国賊を攻撃することは妥当」という意見が多数を占めている(『毎週評論』)。
 もっとも、日本に対する攻撃も全くないわけではない。当然、パリ講和会議での強引なやり取りや、それを根拠付けている「秘密外交」には強烈に反発し、「侵略主義」として攻撃している論調もちらほら見受けられる。
 しかし、それでも、現在伝わっている「五四」のイメージは大幅に訂正されなければならないだろう。五四は「反帝国主義」の運動でもなければ、完全な「反日」運動でもない。むしろ、それは「売国賊」排撃運動を中心としたものであった、としたほうがよい。当時においては、日本の強引さ、さらには侵略的行為よりも、中国外交の不甲斐なさ、さらには「売国賊」の存在の方が問題視されていたのは間違いない。中国における売国観というものを探るのも面白いし、それにはこの五四は格好の材料となる。
 もちろん、「売国」と「侵略」は表裏一体をなしている。「侵略」があるから「売国」があるのだ。だから、大陸でも「売国」、「侵略」ともに攻撃の対象になる。しかし現在の風潮で言えば、「売国」よりも「侵略」の方が重大に受け止められ、厳しく攻撃される。「売国」は中国人の行為であるが、「侵略」は外国人の行為であるからだと思われる。
 だから、現在では「侵略」に対する評価が厳しくなっている、というよりは絶対化している。特に日本のあらゆる行為はすべて「侵略」として片づけられ、それにともない「売国賊」に対しては寛容になってくる。そうした風潮が、現在の「五四」の風潮を作り上げ、定説化させている、と言えるのではなかろうか。
2000年2月20日
西原借款

 前々回もこの項で取り上げた西原借款、私がなぜここまでこだわるかというと、実はこの西原借款が私の修論のテーマであるからだ。今回は、卒論執筆の途中ではあるが、私自身の確認・整理のためにもう一度取り上げてみる。
 この西原借款、実のところ日中両国で相当の研究がすでになされている。細かい研究史は省くとして、例えば日本では鈴木武雄監修『西原借款資料研究』(東大出版社・1972年9月・絶版)という同問題の主要資料を網羅し、その解題のための論文をも含む優れた資料集的専門書がある。その他、私が調べただけでも十数本の論文が発表されている。中国でも専門書こそないが、論文の数は日本と拮抗するぐらい盛んに研究されてきた。資料的にも借款実行者である西原亀三の自伝『夢の七十余年』(前々回で紹介)やその他公文書もかなり整理され、正直なところ、新資料の発掘、という論文の生命線にあたるものはあまり期待できない。もっとも、新資料が全くないわけではなく、私も日本でそれを見つけることができたから、このテーマに取り組めるのではあるが。
 とにかく、日中両国でいろいろな観点から議論され、研究され尽くしている問題であることにはかわりなく、この「古い」問題をほじくり返すことに何らかの学術的意義を見出せるのか、と問われれば少し自信がないと言わざるを得ない。それでも、あえてこの問題を修士論文で取り上げたのは、やはり自分自身、期するところがあったからであり、それを以下に説明する。
 まず、私の先行研究に対する調査が確実ならば、90年代になってから同問題を全面的に取り上げた論文が出ていない、80年代にも数本を見るのみ、ということが挙げられる。それはとりもなおさず「研究され尽くした」ことの証明、と言えなくも無い。しかし日本の中国に対するODA、つまり政府開発援助は1979年から始まったが、その一大部分を占める対中円借款は1980年から始まったのであり、今年で20周年を迎える、という節目であって、対中借款の嚆矢ともいうべき西原借款を現在から振り返るのも有意義であると思う。現在の日本による対中円借款の先駆としての西原借款という観点から着目した研究は現在に至るまで、ほとんど皆無である。
 が、これは重要な点ではあるが、問題の選択理由としては後付けの感は否めない。私がこの問題を選択した動機の第一は、日中両国の認識の違い、にある。日中双方、多くの研究成果がありながら、同問題に関する論文を多く読んでみると、余りにも食い違っている点が多すぎる。具体的には、日本側の研究では、日本の対中政策の変化や西原個人の思想と行動などに焦点が当てられることが多い。これは勿論西原借款の全貌を解くためには必要な議論であるが、その相手である当時の中国の内情を軽視しては、片手落ちといわざるを得ない。また中国側の研究では、如何に日本の侵略行為を暴き、それを攻撃するか、という関心のみに集中している。その過程で出された結論に見るべきものはあるものの、それですべてが理解できる、とは到底考えられない。
 日中双方のこうした認識の違いは、この西原借款に限らず、中国近代史では普遍的に見られる現象ではある。南京事件の例を挙げるまでもなく、またこの項でも取り上げた田中上奏文もその例だろう。こうしたことをただ「歴史認識の違い」というひどく曖昧な言葉で片づけてしまっていいものではないと思う。同じ歴史的現象で、二つの真実は有り得ない。特に私は日本人でありながら、大陸で研究しているため、それを痛感する。その是正、といえば大層傲慢ではあるが、少なくともその第一歩を踏み出せれば、とは思う。
 そこで私は、この西原借款について、それを提供した日本側の意図を探り(これは勿論日本の対中政策の変化を論じなければならないし、西原の思想や行動についても問わなければならないから、先達の研究成果を大いに活用させて頂いている)、同時に、その資金の用途を詳細に考察していくことで受け入れた中国側のねらいを見極め(従来、同問題において、最も軽視されていた問題)、更に日中両国のそれらの意図やねらいがどのような結果を招いたかを論じ(この点においては中国側の研究も一部活用できよう)、この借款の全貌を見極めたいと思う。

 西原借款は大戦勃発による未曾有の経済発展を遂げた日本が、大隅内閣から寺内内閣への転換とそれにともなう対中政策の変化によって、余剰資金を経済的提携の強化を痛感されていた中国に対して投下することで、原料確保と市場の拡大を円滑に進めるためのものであって、そのための、当時の中国の段祺瑞政府を中国全土に影響力を行使することのできる強力な中央政府に仕立てるための梃入れであった。借款は様々な名目で提供されたが、日本にとっては余剰資金の放出が第一義的であり、さらに段祺瑞政府の梃入れのためのものであったから、名目上のプロジェクトが進もうが進むまいが、また元利が返済されようがされまいが、その当時としては、そうした問題は問題としてはあまり認識されていなかった。あくまで経済提携のための「捨て石」とも言える。もっとも、経済提携とはいえ、日本主導の、日本の利益が優先された、日本に資する考え方であったから、この点では「侵略」と攻撃されてもやむを得ない。「日支親善」と銘打って行われたにもかかわらず、結果的には北京政府の内部分裂を引き起こし、南北対立を激化させてしまったことにも問題があった。二十一ヶ条以来の中国の反日感 情を和らげるつもりで行われたものが、逆にそれをエスカレートさせてしまったのは何とも皮肉である。
 一方、段祺瑞政府は日本政府の意図とは別に、独自の方針として、あくまで強力な中央集権を主体とした中央政府の確立を目指したが、清末以来の極度の財政難に陥っていた中国で、段祺瑞政府は政権の維持・強化のためにも「現金」が必要であり、この点で両者の利害が一致した。日本の暗黙の了解の下で、段祺瑞政府は借款を続々と政費や軍費その他政権維持に必要な経費に回す。それは段祺瑞政府が莫大な借款の返済を全く考慮していなかったことでもうかがえる。そのため、名目的には主権に関わる事業を日本資本に提供する形となったものの(この点で陸宗輿が「売国賊」としてののしりを受けることを恐れた)、それら名目とされた事業はほとんど行われず、したがって実際には全く主権を売り渡すことなく、借款返済を度外視して、膨大な資金は段祺瑞政権の維持・強化のために費やされたことになった。
 しかし大戦の終結が近づくと、日本では原内閣が誕生することで対中政策もまた一変、それにともない段祺瑞政権も崩壊、寺内内閣と段祺瑞政権の「提携」構想は白紙に戻った。この「提携」構想の破綻がもたらしたものは、日本においては、戦後恐慌を背景として浮上した莫大な借款の元利回収問題、中国においては、名目的とはいえ、主権を売り渡したことによる段祺瑞及びその集団に対する攻撃、であった。こうした過程で、二十一ヶ条以来の懸案である山東問題が噴出、1919年のパリ講和会議では日中両国が同問題で激突、中国では有名な五四運動が起こることになる。
 1920年に完全に政治的に失脚した段祺瑞及びその集団に返済能力などなく、その後も北京政府は慢性的な財政難が続き、元利返済はほとんど実行されなかった。この西原借款は後に国民政府の時代となって、中国によって返済を拒否され、この借款による損失は結局、日本政府が補填する、つまり日本国民の税金によってまかなわれることで決着する。西原借款がなぜ今に至るまで内外に評判が悪いのか、悪名が轟いているのか、と言えば、この借款が結局は日中双方にとって全く利益がなかったどころか、結局は中国を更なる混乱におとしいれ、更に日本の政策失敗のつけが日本国民の負担になったところにある。
 事後、寺内内閣や西原個人、または中国側をこの点で攻撃することも実際に行われたが、計画的な失敗、先見の明のなさなどはともかく、当時資本の輸出は日本にとって急務であったこと、当時大戦によって変動する国際社会に適応するためにも中国との連携が必要であったことは事実であり、また、中国側にとっても中央集権による強力な中央政府の出現は、その方法がまずかったという点は否めないものの、やはり必要と感じられたのもまた事実であり、全責任を彼らに押し付けるのは少しばかり酷なことであろう。日本側の、日本主導による「日支提携」はともかく、「資本輸出」そのものも含めて、これを「侵略」という言葉のみで表わし、中国側の、方法的な問題はともかく、「中央集権」の確立という側面があったことを見逃して一方的に「売国政策」とするのはやはり一面的な歴史認識である、と言わざるを得ない。
 現在行われている対中借款の嚆矢とも言うべき西原借款はこのように完全な失敗に終わったが、この失敗した借款の歴史的教訓を活かすことで日本による対中借款が行われ、それが日中関係の良好な発展に寄与することを望むばかりである。
2000年1月19日
政治と歴史研究

 金両基著『物語 韓国史』(中公新書)を読んだ。
 恥ずかしながら、朝鮮の歴史にはとんと無知なので、いい勉強になった。やはり東アジア全体の歴史を分かっていなければ、中国史も理解しがたい。朝鮮史もその重要な一部分であることは言うまでもない。
 同書は全体的に筆者の母国に対する愛情によって貫かれている、といっても過言ではない。それは時に行き過ぎの感も否めないが。
 ただし、同書「あとがき」に次のように記している。これは特に歴史研究者は肝に銘じなければならないことだろう。
  
 歴史書の多くは、歴史的事実を学問的に整理しようとするためか、えてして表現が無味乾燥で、遊びがほとんどない。(中略)本書は、歴史家でない私が、その枠を打ち破り、歴史を生活の周辺に呼び戻しながら味わってみたい、という想いにかられて書いた。
 日々の生活が、時を経て歴史になっていくのだから、歴史そのものは、決して難しいものではない。難しくては困るのである。(P292)
  
 筆者は「韓日併合」とそれに伴なって出現した「日鮮同祖論」に対して非常に反発している。それがこの著作を書かせた原動力となっている。
 「日鮮同祖論」とは、その字句の通りの説ではあるが、ポイントは、日本が朝鮮の兄貴分である、ということだ。例えば、朝鮮の建国は神話上紀元前2333年であるが、日本の皇紀は紀元前660年、どう考えても、日本が「兄貴」になれそうもない。そこで、朝鮮の神話はすべて後世の偽作であって、史実として検証する価値が無い、という暴論に発展する。もちろん、日韓併合の正当性を打ち立てるための手段の一つであった。もっとも、筆者は日本人学者の間ではこの考え方が依然として残っている、朝鮮神話を軽視し過ぎている、と指摘している。
 神話は史実を忠実に反映している、とは言わない。しかしそれが成立するための環境は無視できないし、それを研究することも大切であることは間違いない。だから「日鮮同祖論」によって否定された朝鮮神話について、同書では比較的詳しく説明しているし、その姿勢には共感できる。
 前から不思議に思っていたことがある。日本の「天孫降臨」はなぜ「天孫」であって「天子」ではないのか。普通に考えれば「天子」の方が通りがいいし、「天孫」という発想はどちらかといえば非凡である。しかし同書によれば、朝鮮のそもそもの建国神話も「天孫」であり、各王朝の建国神話にも「天孫」がベースになっていることが珍しくないとしている。
 余談ではあるが、朝鮮と比べると日本の神話は正確には「天孫」ではない。朝鮮は天帝の息子である桓雄と熊から人間になったと伝えられる熊女との間の子、檀君が降臨するという、非常にストレートな「天孫降臨」であるが、日本の場合、伊邪那美神の伊邪那岐神との間の子である天照大神の、更に孫の邇邇芸命が降臨するという話しであるから、あえて言えば「天曾孫降臨」である。朝鮮には、少なくともこの『物語 韓国史』では天地創造神話がでてこないから何とも言えないが、日本では、高天原の主神としての天照の孫が降臨したのだから「天孫」と呼ばれているのだろう。
 古代の日本と朝鮮の関係から考えれば、朝鮮にもとからあった「天孫」思想が日本に渡ってきたことは疑いのないことだろうし、同書もそれを強調している。しかしそれを強調するあまり、肝心の「天孫」思想がどうして生まれたか、という疑問に回答が与えられていないのが残念ではある。同書は「日鮮同祖論」を否定するためのものである、というのはこの点でも分かる。それは時として過剰に日本を貶めかねない記述に発展することもある。例えば、新羅の建国神話を紹介するにあたって、次のような記述がある。
 日本の天孫降臨神話は、民の要望や要請によって天降るのではなく、天孫族が民意などにお構いなく、勝手に天降ってくる。新羅の始祖となる朴赫居世は、六村の村長たちの強い要請によって天降り、王におさまるのだが・・・・・・(P84)
 これを見た時、大学のゼミでの出来事を思い出した。確か、日中の文化比較について意見を交換していた時だったと思う。ゼミ生の中国人留学生が、歌謡曲の歌詞を比較する、という方法を提唱した。彼はそこから発展して、日本の恋愛歌の歌詞には失恋のものが多いが、中国では逆に恋するものが多い、だから日本は後退傾向があり、中国は進歩的傾向がある、と結論づけた。その時は反論しなかったが(今から考えるとなぜ反論しなかったか不思議である)、これはとんでもない暴論といわざるを得ない。確かに歌詞の比較を通して文化的差異を探るという発想は奇抜であり、面白いものであるが、それだけによって他の要素を考慮しないで結論を下すのはあまりにも乱暴である。では、例えば、大陸や台湾、香港では海賊版が横行している、また特に大陸では日本のヒット曲を盗用した曲が多数ある、だから、中華系の人々は日本人に比べて独創性がない、としたら、これもひどい結論になってしまう。その中国人学生も、その事実(海賊版や盗用)を多かれ少なかれ認めざるを得ないだろうが、その結論(独創性の有無)を承服するとは思えない。
 上記引用部も同じことで、筆者は「朝鮮は神話の時代から民主的であり、日本よりもこの点で進んでいた」ということを暗にほのめかしている。神話の比較研究というのは大事だが、他の要素を考慮しないでそれだけの検討で結論を下すのはあまりにも危険極まりない。私の同級生の中国人留学生も、同書の記述も、この点で冷静に分析を加えているとは言い難い。その原因は多々あると思うが、幅広い意味での「政治」と無関係ではあるまい。
 朝鮮の神話を多数紹介することで、同書は日本の「天孫降臨」も朝鮮の影響を多分に受けて成立したものであり、朝鮮に「天孫思想」があったからこそ日本にも「天孫思想」が存在したのであって、その逆ではなく、だから「日鮮同祖論」も成立しない、という意図があるのだろう。筆者が「日鮮同祖論」を強烈に批判する気持ちも分かるし(筆者は1933年生まれ、12年もの間、最も多感な時に屈辱を受けてきたことになる)、日韓併合に伴なって生まれた「日鮮同祖論」を否定することは正しい。また、日本の神話が朝鮮の影響を受けて成立したものである、というのもおそらくは否定できない(日本が朝鮮の兄貴分、という説さえなくなれば、「日鮮同祖論」もあながち見当はずれの説ではない)。しかし日本の特殊性も無視できない。
 日本の神話でもう一つ不思議に思っていたことがあった。それは天照大神がなぜ女性なのか、ということである。天照は実質上の最高神である。最高神が女神というのはおそらく世界に例がない。少なくとも私は寡聞にして知らなし、実際、そのような例はほとんどないのではないだろうか。一番有力視されているのはヤマタイ国の女王ヒミコ=天照というものである(倭の歴史が大体紀元後から始まることは間違いないだろうが、それ以降、はっきりと確認できる史実が登場するまで数百年もの間があるにもかかわらず、「たまたま」中国の史書に掲載された「ヒミコ」を天照に比定するのもいささか無理があるように思われる)が、天照は実は男神だった、という説もないことはないし、また、説得力のある説としては、『日本書紀』が編纂された時期の皇統を反映しているのではないか、つまり持統帝を天照に見立てているのではないか、という説(梅原猛氏など)もある。後者の方は、なぜ日本の神話は「天孫」なのか、という問いにも答えられる(持統の次はその「孫」の文武が即位している。日本の「天孫降臨」はこの変則的な皇位継承を正当化するために創作されたとする)点で優れてもいる。まあ、それは ともかく、例えば、この特殊性だけに目をつけて、日本の最高神は女神であり、女性原理が尊重されている、一方朝鮮は・・・・・・、と主張すれば、非難轟々は目に見えている。もちろんそんな主張は正しくない。
 同書は他の点でも日本を不当に貶めている(少なくともそう受け取れる)個所が少なくない。穿った見方をすれば、そうすることで朝鮮という国家の正当性を際立たせようとしている節さえある。また、日本との関連がなくとも、神話や歴史を都合のいい方に解釈する傾向も目立つ。同書は「日鮮同祖論」を反発、否定することで成り立っているが、それは時として行き過ぎて反動になってしまっている。つまり、新たな「日鮮同祖論」が形作られる危険性がある。
 先に触れた通り、全く字義通りの「日鮮同祖論」ならば考慮の余地はあるし、これからの孝古学調査などでも明らかにされる確率は非常に高い。また、同書は朝鮮史の入門書としては読みやすく、非常に参考になるものではある。しかし、例えばどちらか一方を優位とする「日鮮同祖論」に代表されるような非常に政治色の濃い考え方は、いたずらに歴史の真実を歪めかねない危険なものであることは間違いない。それはすでに日韓併合に正当性を持たせようとした元祖(?)「日鮮同祖論」が証明している。同書は「あとがき」にあるように「父が子に語る韓国の歴史」というコンセプトで進めているのだから、なお更こうした問題は是正されなければならない。
 歴史研究はそのような政治に左右されて進められるべきものではないし、そこからは真実は得られない。それは中国近代史研究にも大きな示唆を与えてくれている。
1999年12月24日(2000年1月6日校正、1月12日改題校正)
西原借款と売国賊

 1914年7月第一次大戦が勃発、このヨーロッパ全土を巻き込んだ戦争は中国とそれを取り巻く環境を一変させた。それまで中国「進出」に最も積極的だったのは世界最大最強の帝国イギリス、それにフランスなどが続いていたのだが、大戦の拡大と延長は、これらヨーロッパ各国から中国を遠ざけた。その機に乗じて、中国「進出」の主導権を取ったのがアメリカと日本だった。
 アメリカはこの大戦を経ることによって世界最強国にのし上がっていくことになるのだが、その国が中国の広大な市場と莫大な利権を見逃すはずもなく、着実にその在華勢力を伸張した。一方の日本、これは出足から躓いていた。列強が中国を顧る暇がないのを見て取って、日英同盟を盾に、ドイツに宣戦、ドイツ権益の集中する山東省に出兵してこれを占拠、更には二十一ヶ条を中国政府に突きつけて、この修正案を強引に当時の袁世凱政府に認めさせた。結果、中国の反日感情が爆発、最も中国と緊密にならなければいけない時期に、相手に嫌悪されてしまったのである。
 その反省の中から出てきたのが「日支親善」というフレーズである。そしてこの「日支親善」のもと、二十一ヶ条に代表されるような強硬な外交政策が見直され、そうして生まれたのが「西原借款」だった。西原借款は当時の日本政府に委任された西原亀三という個人の手によってまとめられた、総額一億四千五百万円にのぼる大借款の総称で、この金額は当時の中国政府の国家予算三分の一に相当する。大戦で得た資本の過剰を防ぐために、さらには「日支親善」のために投じられた、ほとんど無担保の借款だった。
 この西原借款は、日本が史上初めて本格的に行った資本輸出(第一次大戦以前、日本はまだまだ「貧国」でとてもではないが、そんな余裕はなかった。所謂「帝国主義」としての日本はこの戦争を契機として誕生した、という説が有力なのはこのためである)であり、現在も行われている対華借款(円借款)の先駆的な役割もあるのだが、現在の大陸での評価は、総じて日本の経済的侵略という一面を強調して日本を攻撃する、近代史教育の中の愛国主義発揚の一つの教材となっている。
 その西原亀三、彼には『夢の七十余年』という自伝がある(平凡社の「東洋文庫」40、北村敬直編、1965年出版)。この自伝の中には中国当局との借款などに関するやり取りが書かれてあったりして面白い。その一節、P185に1918年4月13日の日記として次の記述がある。
 本日午後三時、北京飯店に於て陸宗輿氏と会し、曹汝霖氏と会談協定せる日支永遠の親善に関する覚書を交換す。覚書は曹汝霖氏が段祺瑞・徐世昌両氏の承諾を得て陸宗輿氏を代表として署名せしめたるものなり。本日はまことに小生一代における記念すべき日なり。但し陸宗輿氏はこの覚書の署名にあたり、将来売国奴たる謗りを受けんことを恐れ、戦々恐々として署名せり。
 陸宗輿も曹汝霖も西原借款における中国側の責任者である。この覚書とは、中国の税制改革と日中貨幣の統一、中国国営の製鉄所の設立と日本によるその借款、また日中両国間における鉄供給、日中両国による鉄道建設のための銀行資本団の組織、日本が中国からの賠償を返還し、その資金で産業の開発と振興を図ること、などが記されていた。その内容こそが「日支親善」による「日支経済提携」を目的とする西原借款の本質だったのであるが、日本から「日支親善」「経済提携」の根本策として提案されたものが、中国当事者にとっては売国奴といわれる恐れがあった、というものだったことは確かである。
 西原借款そのものは1918年9月、米騒動などが原因となって寺内内閣が倒れると、それとともに終結した。その後、元利の回収を含めた様々な問題が噴出、日本国内でもこれを指弾する声が大きくなった。というのも、当時の借款は、一般に利権拡大の一環として受け止められていたのだが、「日支親善」による「日支経済携帯」を究極的な目標とした寺内内閣や西原は、「西原借款」をそのための土台作り、捨て石、として用いたため、莫大な資金を用いたにもかかわらず、形として日本が手に入れたものはほとんど残らなかったからである。中国でも、国民政府が成立すると、西原借款の大部分の元利返済を放棄するに至る。売国借款の返済は不要、しかも西原借款はその大部分が秘密裏のうちに行われた、いわば非公式借款である、という認識に基づいている。日本ではこれに反発する声が当然上がったが、結局、その損失は日本政府が補填することになった。
 それはともかく、もともと中国ではもっとも忌み嫌われることが、「売国賊」(売国奴)と呼ばれること、そのように歴史に記されることだったのである。このような価値観が生まれ、育まれてきた原因は多々あるが、これに関連して、貝塚茂樹は責任編集した『世界の名著J 司馬遷』に非常示唆的なことを述べている。
 この影響(司馬遷『史記』とその歴史観の影響−引用者注)を受けた、のちの中国人たちが、自分たちの行動が歴史によって批判されることを意識し、死後、歴史に書かれてその名が残るように心がけて行動することになる。現世で成功することもたいせつだが、歴史著述にその名が書きとどめられることのほうがよりたいせつである。
 このような国柄で何をすき好んで「歴史に汚名」を載せようとするだろうか。西原の自伝に出てくる陸宗輿、彼は確かに後に「売国賊」と呼ばれ散々な目に遭うことになる。そしてその「汚名」は「中国史」の中で確固不動のものとなっている。
 彼が歴史上において「売国賊」と呼ばれたのは確かである。しかし今現在彼を「売国賊」と指摘して人物評価をするのは非常に容易なことではあるが、中国では最も忌み嫌われていると分かっていた「売国賊」になぜ自ら進んでならなければならなかったのか、という彼自身の心理状態と当時の彼を取り巻く環境、ということを等閑にしては真の歴史研究とは言えないだろう。この点が現在、非常に見過ごされている。陸宗輿も曹汝霖も、あとこの西原借款に関わり、後に親日派として排撃されることになる章宗祥を含めて、幸い、それぞれ回顧録を記しており、我々に資料として提供してくれているにもかかわらず、である。
 歴史学の使命があたかも「売国賊」を見つけ出し、それを糾弾するものとなってしまっているのが、大陸の近代史研究の現状である。しかし歴史研究とは、彼ら「売国賊」の心理状態とそれを取り巻く環境を冷静に分析して結論を出さなければならない。それを知るためには「歴史の被害者」たる彼らの言い分に耳を傾けなければならないのはいうまでもない。その結果として、時には彼らを弁護する形になろうとも、それはやむを得ないのであり、そろそろ歴史研究から「売国賊」に対する偏見が消えなければならない。
1999年12月1日
ダーディン記者報道

 まず何に対しても疑ってみる、というのは大事なことである。
 そこからいろいろ調べていってみようという意欲が湧いてくるからだ。つまり、自分の頭で考えるということが重要になってくる。それには自分で資料を集めて自分で読みこなして、それから自分で考えていかなければならないのは言うまでもない。
 しかし一般の人でよっぽど自分に直接関わってくること、とか、ものすごく興味がある、とか以外、普段の日常生活の中で、それほど時間的に余裕のある人は少ないのではなかろうか。
 例えば南京事件。今私が翻訳連載を行っている同問題、日本国内では専門的に研究している人の間で議論百出、一般の人は誰のどのような説を信じていいのか分からないというのが現状であろう。一番いいのが、同問題では「虐殺肯定派」「中間派」「否定派」のそれぞれの代表的著作を読むこと、さらに進んで、自身で資料を収集して読んでみること、である。しかし先に述べた通り、一般の人ではなかなかそこまでの時間は作れない。実際問題として、三派の代表的著作を読み比べることさえ、かなり大変なことであると思う。
 結果、どうなるのか、というと、自身の主観によってこれが説得力ありそうだ、というものを知らず知らずのうちにも信じ込んでいくことになる。そこには当然「批判」というものは介在していない。これはかなり危険なことである。
 日本人としてあらゆる意味で南京事件は気になる問題だと思う。だから本当は詳しく知りたい、と思っている人が多いのではないだろうか。しかし時間的制約がある。
 そこで一つ提唱したいのが、とりあえず「事件」の第一報を初めて世界に発信したといわれるダーディン記者の『ニューヨーク・タイムズ』の同事件に関する報道全文を読んでみたらどうであろうか。報道の全文は翻訳されて洞富雄編『日中戦争史料9』(東京・河出書房、1973年)に載っている。
 ダーディン記者報道は第三国人による極めて中立的なジャーナリストとしての使命感に溢れる報道であり、「肯定派」「中間派」はもちろん、欧米人の資料は「敵性国人」の資料として重きを置かない傾向の多い「否定派」も、それぞれの著作で必ず引用される最高級の資料ともいえる。ただし、その三派が引用する個所が違うだけの話だ。ちなみに、同資料は広範に引用されているにもかかわらず、その全文を引用した研究を私は知らない。
 とりあえずこれを全文一読してみることをお勧めしたい。「報道全文」といってもそれほど大した量ではない。一時間もかからないで読める程度の分量である。
 その中にはもちろん彼自身で見たもの以外に、聞いたもの、つまり伝聞も含まれているが、かなり当時の事実に近い状況を伝えているように思う。当然、これを読めば事件全体を完全に理解できる、というわけではないが、事件の全体像の把握には役立つ。少なくとも三派の代表的著作を三冊読むよりは手軽であり、更に自分自身で思考することを可能とする資料となるのは確実である。
 と言っても、『日中戦争史料9』自体、図書館にでも行かなければ見れないし、やはり手間ではある。そこでいずれは、このHPでその全文を掲載したいとは思っているが、今はとりあえず標題を示すのみとする。


 『ニューヨーク・タイムズ』南京特派員 T・ダーディン記者報道
一九三七年十二月十八日号掲載記事(第一報)
一九三八年  一月  九日号掲載記事(第二報)

一九三七年十二月十八日号掲載記事
(大見出し、と思われる)
捕虜全員虐殺さる
南京における日本軍の暴虐拡大し、一般市民にも死者
アメリカ大使館襲撃さる
蒋介石の戦術不手際と指揮官らの逃亡により首都失陥
(小見出し、と思われる)
多数の市民虐殺さる
アメリカ外交官私邸襲わる
南京陥落の惨害
はじめは守備も強力
中国軍の三分の一、袋のネズミ
一般市民に死傷者多数

一九三八年  一月  九日号掲載記事
(大見出し、と思われる)
南京侵略軍二万人を処刑
日本軍による集団虐殺-一般市民を含め死者三万三〇〇〇
征服者の無軌道なふるまい
暴虐によってしみこまれた根深い憎しみ
中国軍の焼き払いによる被害甚大
(小見出し、と思われる)
攻撃されやすい地点にある南京
退却は問題外
将校は知らされなかった
広東軍の死者多数
中国軍による焼払いの狂宴
砲兵ほとんど役立たず
日本軍はスパイの助けをえた
中国軍なおも持ちこたえる
激烈な機関銃戦
軍服も武器も捨てて
中国軍の集団投降
外国人建物も略奪を受ける
両軍の死傷者多数


 上記標題において、括弧の部分は『日中戦争史料9』には何ら触れていないが、(大見出し)とした方はそれぞれの号の最初に大きな文字で羅列されており、(小見出し)とした方は、その後にその題名に関連した記事が続いている。
 本来ならば原文にあたって比較することが必要なのであろうが、時間的にも、私の能力的にも及ばないことだ。しかし同事件の研究で引用されるダーディン記者報道はほとんどが『日中戦争史料9』によっており(編纂者の洞氏は虐殺派ではあるが、否定派の著作でも同書をテキストとしているものが多い)、同書にクレームがついたという話は聞かないので信頼できるものなのだろう。
 この全文を一読すれば、間違いなく、「当時の南京では何にもなかった」などと言うことはできないし(これを読んで更にそう主張するならば、この資料を引用できるはずもなく、更にこの報道の資料的欠点も指摘しなければならない、が、ほとんど不可能のように思われる)、南京の当時の混乱はすべて日本軍によって引き起こされたものである、とすることも難しい。もちろん侵略したのは日本であり、その非は完全に日本にあるが、「事件」の一つ一つを分析すれば、今まで中国で言われているような日本軍によって起こった「事件」全体の規模はかなり見直されなければならない。残念ながら、少なくとも大陸では彼の報道全文を訳出したものを見ることはできない、私はそれを寡聞にして知らない。
 もちろん、この報道はあくまで一つの「資料」であるから、それを全く鵜呑みにすればいいというものではないが、最も基本的な資料として、最も真実に近い描写をしているものとして、また比較的手軽に入手できるものとしてお勧めしとく。
1999年10月22日
田中上奏文

 1998年度の前期(9月〜翌年2月)だったと思うが、学校の規定上、四年制の授業を何コマかとらなければならなくなり、「中国現代史」という授業をとった。扱う期間は五四運動から共産党政権の成立まで、つまり1919年から1949年、特に1931年以降の所謂「抗日戦争期」は先生が交代して教えていた。その「抗日戦争期」の授業の第一回で、新しく授業をとることのなった先生がはじめに問題にしたのが所謂「田中上奏文」だった。
 「田中上奏文」と聞いてピンと来る日本人は少ないだろう。その時期の歴史に興味を持っている人か、もしくは研究者ぐらいしか知らないはずである。それも当然で、おそらくは日本の教科書には全く記述がない。というのも、日本では昔からこの上奏文が全くの偽造、という説が有力であるからだ。現在に至っては、日本ではどんなに「左寄り」の研究者も完全に偽作として断定している、と言ってもよいだろう。
 この問題では秦郁彦氏が『昭和史の謎を追う』(上下二巻、文芸春秋、1993年3月)の上巻第一章で取り扱っているが、日本では全く問題にされないこの上奏文、しかしながら、「もし(日本の)教科書に“上奏文は本物”と書いて文部省が検定で削除を命じれば、たちまち“外交問題”として爆発しかねない不発爆弾か時限爆弾のような亡霊なのである」。なぜならば「中国や台湾は、現在も上奏文を本物と見なす公式見解を変えていないし、欧米諸国でも類似の史観がかなり根強く残っている」からである。
 最初に戻るが、中国の大学(南京大学であるが、同大学は中国の国立大学であり、一般論として語っても問題ないと思う)では最も重視される近現代史教育、その中でも「抗日戦争」については半年中の半分近い時間が割かれているのだが、その最初がこの上奏文であり、その講義した先生は完全に本物である、と認めていた。
 そもそも「田中上奏文」とは何か?
 1927年6月27日、国民革命軍の北伐と国共分裂など、流動化する中国情勢に鑑み、時の日本首相田中義一が兼任する外相の立場で、外務省と陸軍の幹部を招集して、主に満蒙問題を議題として「東方会議」を開催、同会議の内容は八項目からなる所謂「対支政策綱領」として発表された。「田中上奏文」もしくは「田中メモランダム」と呼称される文章は、「対支政策綱領」が発表された十八日後、7月25日に田中首相が天皇に上奏したものである、とされ、その内容は「漢訳」されて1929年12月南京の雑誌『時事月報』第一巻第二期「特件」欄に掲載された。二十五項目四万字を数えるこの長文の「上奏文」、最も有名なのは「対満蒙之積極政策」にある次の一文であろう。
 「惟欲征服支那、必征服満蒙、如欲征服世界、必先征服支那・・・此乃明治大帝之遺策、是亦我日本帝国之存立上必要之事也」(日本語訳は不要であろう)
 上の文章は、私の手元にある標準的な大陸の現代史の本に、「田中上奏文」の何たるかも説明されないまま、東方会議の成果として無条件で引用されている一文でもある。
 この上奏文自体、首相の天皇に対する上奏にしてはあまりにもケアレスミスが目立ち、その存在が発覚した当時から、日本では全く相手にされず、むしろそれを中国側より提唱させることでその偽作を論証しようとする手段が考えられたほどである。そうした動きを察知したのか、1931年九一八事変が勃発する以前は中国側も公式にはこれを取り上げなかった。彼らもうすうすは偽作であることに気付いていたのだろう。
 しかし九一八事変が勃発した後、1932年11月の国際連盟理事会の席で顧維鈞中国代表は「この問題(上奏文)の最善の証明は、実に今日の満洲における全事態である」と言い、真偽はもはや問題ではなく、上奏文が出た後の日本の行動が事実で証明している、という論法によって、「上奏文」弾劾を展開、顧維鈞のこの論法は現在に至るまで「上奏文」を本物として疑わない中国側の一貫した主張の根底に流れている。私が聴講した授業でも、先生は「真偽両説あるが、事実としてその通りに起こったのだから本物である」と言っていた。
 さすがに大学の授業だけあって、偽作説があることを明言したものの、よくよく考えれば顧維鈞や私の先生の論法は論法として成り立っていない。九一八事変以後の日本の行動は疑いもなく侵略であり、事実であるが、それと事実としてなかったものを結び付けているため、どうにもならない矛盾が吹き出してしまっているのだ。
 中国にとって「田中上奏文」は何がなんでも抗日戦争の始まりでなければならない。というのは、もはや学問上の立場ではなく、政治的配慮からであることは明白である。「田中上奏文」問題が国際的に取り上げられた、というのは事実であるが、事実としてなかったものを歴史叙述で何の註釈もつけずに書いてしまうところに最大の問題があるのはいうまでもない。
1999年8月17日
反「半植民地半封建」論序説(下書きvol.1)

 私もはやくから疑問があり、このHPでも頻出し、その度にその解説を後回しにしてきた「半植民地半封建」について、日本に帰ったこのおりを契機とし、初歩の初歩的にまとめてみたいと思う。
 残念ながら、大陸ではこれに反対する意見は全くない。それどころかこの概念は「中国近代史を最もよく言い表すもの」としてかなり根強く全般的に支持されている。
 そんな概念も日本では80年代のはじめ頃からかなり批判的に検討されてきているようである。最も早いものでは久保亨「戦間期中国経済史の研究視覚をめぐって-「半植民地半封建」概念の再検討-」(『歴史学研究』506号、1982年)がある。その後も1989年の天安門事件を境として急激に「否定」の方向に向かっているものと思われる。

 まず半植民地半封建とは一体どういう社会を指すのか。伝統的解釈で以下に説明する。
 中国はアヘン戦争以来、帝国主義に実質的支配され、収奪の対象となり、そのためにその発展を押さえられ、帝国主義列強は中国の後進性を維持しようとする。
 無論完全な植民地ではなく、清朝・北京政府・国民政府という中央政府は存在するが、それらはいずれも封建的地主と官僚買弁ブルジョワジーを基盤とした買弁的・封建的権力で、列強の収奪に手を貸しておこぼれで肥え太るに過ぎない。
 したがって中国における資本主義的発展は必然的に大きな限界を持ち(持たされ)、また奇形的なものにならざるを得ない。すなわち外国資本とそれに従属した官僚資本・買弁資本のみが奇形的に発展する一方、国民経済の担い手たるべき民族資本は没落していき、中国経済は崩壊に向かう。 
 こうした社会であるからこそ、勇敢な中国人民は愛国精神をたぎらせて「偉大なる中国共産党」に指導されることでこれらと闘争し、「新民主主義経済」を発展させていく。こうして新民主主義革命が必然的に引き起こされることになる。
 二三解説を加えるとすれば、まず、「買弁」という言葉であろう。簡単に言えば、外国資本が中国市場を「侵略」するにあたって、その仲介役的な役割を果たすものだと思えばよい。外国資本の「侵略」の手先なのだから、通常は否定的に捉えられている。またここでいう「封建」も日本語の封建ではなく、中国的マルクス主義の、つまりは単線五段階発展論のうちの一つの段階のことである。だから、買弁も封建も官僚も革命によって倒されるべき対象と考えられている、と認識していれば誤りはない。
 結局のところ、この半植民地半封建社会論は中国共産党の指導とそれに伴う新民主主義革命の必然性と正当性を立証しようとするものばかりか、中国共産党による社会主義が「封建主義」から「資本主義」を飛び越えて直接的に実現することを説明するものとしても使用されている。
 帝国主義は中国社会に対して、一面では旧来の秩序、つまり「封建」的な生産関係を破壊して資本主義化の条件を作るとともに他方ではその崩壊を推し止めて資本主義化を阻む。
 したがって、帝国主義の中国侵略を形式的には二元論的に捉えていることになってはいるが、半植民地半封建社会論が資本主義を飛び越えて社会主義化することの必然性を示すためのものである以上、前者は副次的でしかなく、後者が本質的となる。
 この問題に対して、前出の久保亨論文をも含めて、従来の概念に批判的総括を加えた奥村哲「旧中国資本主義論の基礎概念について」(中国史研究会『中国専制国家と社会統合-中国史像の再検討U』第四章、東京・文理閣、1990年)では「(半植民地半封建という概念による歴史の)単純化の結果は、形式上は帝国主義に言及して世界史的体裁をとりながらも、実質的には「発展を抑圧する」と一言言えば捨象できる、一国的把握を導かざるを得ないのである。当然、現実の社会・経済のダイナミズムは失われ、極めて固定的な像しか描けなくなる」と痛烈に批判している。

 問題点を総括すれば、以下のようになるだろう。
@アヘン戦争以来の百年間の複雑を極めた中国の歴史を一つの概念によって単純化してしまったこと。
Aそのために帝国主義の「侵略」のそれぞれの時代における質的違いを完全に無視して一元化してしまったこと。
B中国資本主義の発展という問題に対し、「民族」と「外国・買弁・官僚」それぞれの資本というように機械的に分類をしてしまったこと、またその結果後者の積極的役割が過小評価されてしまうこと。
C植民地と半植民地の質的差異を強調しない(国家に主権があったかどうかがあまり問題にされない)ため、清末の政府や民国後の北京政府、南京国民政府がただ単に帝国主義列強の傀儡政権としてしか見なされず、主権を持った政府としての主体性が見失われ、それらがやはり過小評価されてしまうこと。
D問題点の少なくないマルクス主義の社会の単線五段階発展論が教条化されているため(これも是正されなければならない問題ではあるが)、ただでさえ曖昧な「封建」というものを深く解釈することなく、さらに曖昧に「半」という言葉を付け加えてしまったために、全く不可解なものとなってしまったこと。



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