副島種臣

 種臣は佐賀城下の南堀端・枝吉家の次男として生まれました。次郎と名づけられました。枝吉家は昔から立派な家柄でした。父、南濠は弘道館の先生をしていました。種臣の父母は子供達を賢くて強い人に育てようと思っていたそうです。そのせいか、種臣の兄神陽はひまさえあれば本を読んでいました。それを見てうらやましそうにしていた種臣をみて父は“素読”(本を声に出して読むこと)を教えました。また、父は槍の稽古もしてくれました。
 種臣は、大きくなるにつれて兄神陽を目標にするようになりました。
 種臣が、14歳になったとき神陽は江戸に勉強に言ってしまいました。兄のことを思うと寝る間も惜しんで本を読みました。
 20歳になると、江戸から戻ってきた神陽の教えを受けながら、江藤新平や大隈重信らと日本の将来について真剣に考えるようになりました。そして、鍋島直正に選ばれ、京都にも勉強に行きました。「佐賀に枝吉次郎あり」と呼ばれるほどに力をつけました。31歳のときに次郎は佐賀藩士・副島和忠の養子となり名前を種臣と変えました。その3年後兄の神陽がコレラでしんでしまいました。種臣は兄のぶんまでがんばっていかなければならないと思いました。
 種臣は1865年大隈重信が発案した英語中心の長崎学校、致遠館の監督になってくれと頼まれそれを引きうけました。漢学の時間は先生として英語の時間は若い生徒に混じって授業を受けました。(その熱心な様子は校長のフルベッキが日記に「私は2人の優秀な生徒を持った大隈重信と副島種臣である」と書き残したほどですした。)
   明治の時代になって種臣は政府の外務卿になりました。明治5年の6月にペルーのマリア・ルーズ号という船が修理のために横浜港につきました。その船から中国人の木慶と言う人が夜の海に飛び込み逃げてきました。そして、近くのイギリス船に仲間を助けてくれと逃げ込みました。調べて見るとマリア・ルーズ号は人買い船でした。船の中には客として231人の中国人がいましたが、実際には奴隷扱いされていたのです。
 これを聞いた、種臣はマリア・ルーズ号を日本の裁判にかけようと言いました。しかし他の人たちは外国を恐れて「外国の船のことだ。日本には関係ない。」とか「触らぬ神にたたりなしだ、見て見ぬふりが一番いい」といって種臣の意見に反対しました。しかし正義感の強い種臣は、マリア・ルーズ号を日本の裁判にかけました。途中いろいろな問題はありましたが、裁判に勝ち231人の中国人は国に帰ることが出来ました。これを解決した種臣は、「正義人道の人、副島外務卿」と世界中に知れ渡りました。
 種臣は、外交だけでなく、漢詩や書家としても有名で「青海」という名で2000点もの作品を残しました。種臣は77歳で亡くなりました。翌日、日本中の新聞が種臣の遠い旅立ちを哀しむ記事を載せました。
 種臣は広く豊かな知識をもった立派な政治家であり、平等に人々を愛した世界的外交官だったのです。


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