翻訳の部屋


ロシア語、英語、モンゴル語、中国語、ブリヤート語などから自分が興味を持っている事柄を翻訳していきます

昔々、翻訳した物ですけど・・(@3月16日掲載)

    日本語の知識はゴキブリにも役に立つ。(95年あたりのイズベスチャより)

 問:「去年十一月、私は「スモルナヤ・ショッピングセンター」でソニー製の335ドルの テレビを買いました。ちょうど一年経ってテレビが動かなくなり、私はテレビを補償の効く サービスセンターに持っていきました。サービスセンターのサービス員がテレビを解体してみたところ 、テレビの中に故障の原因となったゴキブリを見つけました。「このような故障は補償の範囲外だ と言って、修理を拒否されました。補償義務によって修理してもらうか新しいやつ(もの)に交換して 貰えるように助けてもらうことをお願いできませんか。(助けて貰えませんか)
 答:このようなセンチメンタルな手紙が市民Оからモスクワ市とモスクワ州独占禁止管理局 (公正取引委員会のようなものか?)に届きました。
そして、助けを求めるアピールは聞き届けられました。まず、独占禁止管理局は「アムテル・ エキスポート」サービスの管理者に市民Оの補償サービスを拒否することは消費者保護法に 違反していると指摘しました。その後、「スモルナヤ・ショッピングセンター」の(orで営業している) 有限会社「ディツィヤ」に対する調査(監査)が行われ、「ソニー」「フナイ」「パナソニック」や 他の会社のテレビの説明書が外国語だけでしか消費者に与えられていないのも、また法律違反であった。 従って、独占管理局は次のように考えた、購入者はテレビの中で生活している昆虫の「居住」に関連する テレビの故障は保障の権利から除外されていることについて(最低限、理解できる言語で)知らされなかった、と。 このような議論に販売人は返す言葉がなかった。結果的に市民Оはテレビをゴキブリの死体とともに返し、 代わりに「スモルナヤ・ショッピングセンター」から新しいの(テレビであってゴキブリではない)をもらった。 これは勿論、上述のショッピングセンターの名を高めるものとなるだろう。
 「ディツィヤ」は法を重んじることを必要性を確認し、市民Оは外国語の重要性を認識した。 彼らの目の前のゴキブリの運命ゆえになおさら(そう感じるの)である。もしゴキブリ君が 「消費者保護法」を知っていたら、日本語を知っていたら、行ってはいけないところに入り込まず、 現在も市民Оの家で元気に生きて走りまわっていただろうに。

 六階の馬(やはりイズベスチャから)

 アルハゲンリスク市のボローニン通り39番のアパートの住民の静寂を大きな嘶きと 蹄の響きで破る(っている)のは誰かを調べるために到着した警察のパトロールは、 六階の踊り場で・・・馬を見つけた。明らかになったところによるとこのアパートの 住人の一人のところに近郊の村から馬に乗ってきていた。外においておいたら 「交通機関」が乗り去られることを恐れ、彼は六階に馬を引っ張り込み、手すりに 結びつけ、 そして彼自身は親戚を酒にふけってしまったとのことである。 これほど皆を愉快にさせた「駐車(パーキング)」もこの機転のきく男性を罰金から 救い出す(救う)ことはできなかった。本紙記者ビクトル・フィリッポフ

ウクライナの出版業界ゆっくりと死を迎える。(ウクライナの英字新聞『キエフ・ポスト』1999年12月23日より)

 「British history of Europe」は1500頁にもおよぶ大作であり、この本のウクライナ語版はまさにいまウクライナ本屋に並ぼうとしている。
 さて、この大作の出版という大仕事をやり遂げるのに、どれだけの翻訳家、編集者、監修者の「部隊」が必要だっただろうか?
 三人の「部隊」、出版者一人、編集者一人、翻訳家一人だったのである。
 これはウクライナ語の本を出版する者の能力を表すものだろうか?いや、というよりはウクライナ語の出版業界の哀れな状態を表しているのである。
「同様の本のポーランド語の出版には7人の編集者がいる」とウクライナ語版の編集者のヴィタリー・ミハイロフスキーは語る。「結果として、ウクライナ語版の質は、損失を蒙る運命にある。」と彼はいう。
 

 ロシアからの侵略者

 しかし、これは国家の援助を受けたロシア出版界によってなくなろうとしているウクライナの出版業界の消滅というのものの一章の小さな話にすぎない。
 ウクライナ出版協会長のオレキサンドル・アフォーニンによれば、ウクライナの出版社の数は二年前の800から、今日100にまでなったという。今年、(1999年)12月1日までにウクライナの印刷社は2747タイトルの本を作り、1390万部を刷ったという。ウクライナの出版社が昨年出した3840万部と比べると出版部数は3分の1になってしまったのである。
 今も生き残っている出版社は、彼ら自身が犠牲にならないよう必死である。ユーリー・フルホリイェフはウクライナの哲学者の本を出版し、ウクライナの歴史と文化に関する本を出版するウクライナのアビリス出版社の編集長である。「極端に重い税金がアビリス出版社の人材と利益を洗い流している。」と彼はいう。アビリスは今年、60人いた社員の23人を一時的に解雇せざるを得なくなったのである。
 出版社、編集者そして販売者は重い税金の存在をウクライナの出版業界の衰退の主な原因として挙げる。それに加え、業界の専門家によれば、ウクライナ国内に本を作るための資材がないということが、ロシア製の本よりもウクライナ製の本の値段を二倍にしているという。
 ロシアでは、対照的に、1995年からの様々な政策上の優遇措置によって、出版業界は国内総生産の中の第四位につける業界となったと、フルホリイェフはいう。
 そのロシアの出版業界が弱いウクライナの「同胞」に目を向けたとしても、驚くに値しない。ロシアの出版社の支部がキエフにたちはじめ、多々単純にロシア語の本のロシア語のフォントをウクライナ語に変えることによって機械的に本を出版している。
 ウクライナ人がウクライナ語よりもロシア語の本をよく読み、よく理解すると宣伝し、ロシアの出版社は山ほどのロシア語の本をウクライナに持ち込んでいる。
旧ソヴィエト時代を通じて行われたロシアの出版社がよく使った策略である。  

攻撃を受けるウクライナ語

このような時代の流れは、ウクライナの出版業界に損害を与えるだけでなく、ウクライナ語にとっても脅威なのである。
 「ロシア語の本のプレッシャーが存在する間は、ウクライナ語はウクライナで二番目の言語なのです。」とフリホリイェフは語る。
 キエフでのウクライナ語の本の選択肢は極めて少ない。本の多くは、二色刷でソフト・カヴァーの本であり、本というよりは小冊子である。ウクライナ語の本で目に止まる本はといえばロシア語-ウクライナ語の辞書くらいである。
 「ウクライナ語の良い本は高い」とウクライナのRepublican marketで本を売る女性はいう。「多くの人はロシア語の本を選んで買ってゆく。隣の売店に行けば理由はわかるわ。」
 隣のブースには人々が並んでいた。市場のほとんどの本屋と同様、そこでは人々を引きつける様々な選択肢のある、そしてウクライナ語の本よりも安い、きれいなロシア製の何百という本が売られていた。小説、歴史、地理、探偵ものそして詩がロシア語で全て揃っていた。
 ウクライナ語の本を買おうとしている人は、多くの場合運がなかった。
 「本を買いに来る人はお伽話や他の本がウクライナ語でないかと聞いてくるが、ないの」とロシア語の本を売るナターリアさんは言う。「人々は怒っている。彼らはウクライナ語の本がないかとあっちこっちを探し回っているのよ。」
 「もしこの流れが続けば、ウクライナ語の本はなくなっていくだろう」とフリホリイェフはいう。
 フリホリイェフは、ロシアの出版社は現在ウクライナの学校の教科書を作ることを計画中であるという。彼はウクライナの生徒達がまもなく学校で、彼が「排外的」で人を誤解させるような本と評価するロシアの本を使って勉強しなければなくなるのではという心配を口にした。そして彼はその例として、ロシアの歴史の本ではよくロシア帝国の起源をキエフ・ルーシではなくノヴゴロドであると書いていることを挙げる。
 歴史家としての教育を受けたミハイロフスキーもそれに同意する。ロシアの歴史家はロシアだけを強調し、ウクライナを時においては無視していると彼はいう。 「我々は世界を彼らから見た見方で見ることになる」と、ウクライナの市場に出回っている一番新しいロシア語の子供向けの事典『ロシアとその隣人たち』という本をさしながらミハイロフスキーはいった。
 とはいえ、ロシアの出版業界が多々単に市場獲得の機会を狙って入ってきていることを非難することはできない。
 1995年、ロシア大統領エリツィンが出版業界に関わる業界の税金を大きく軽減させる大統領令を出した。ロシア議会はこのほどこの措置を3年延長することを決めた。
 ウクライナの出版社は、今、ロシア市場での本の価格はウクライナの2分の1であることといっている、そして一人当たり本の生産量は少なくとも10倍も大きいのである。
 フリホリイェフは輸入する紙に掛ける関税を廃止し、支払う税金を軽減することを政府や、法律を作ることに携わる人々に何とも掛け合ったという。しかし、そういった努力は何ももたらさなかったのである。
 

 サヴァンテ・E・コーネル
「自治の概念の無価値化:旧ソヴィエト連邦における少数民族」(9月18日より)

 1960年以降、世界の大部分の場所で民族政治的な衝突が国際的な舞台において、問題の発生源となってきている。アフリカや南アジア、東ヨーロッパやユーラシアの旧共産主義諸国や同様に西ヨーロッパにおいても昔の悲しみが息を吹き返し、民族的に違った社会グループの間での新しい衝突が起こり始めた。この結果、民族衝突とその解決に関する研究が最近は雨後の竹の子のように増えた。民族衝突の解決のための基本的でもっとも効果的な解決方法の一つは地域的な自治である。それ故、テッド・R・ガーは次のように言う。「話し合いによる地域自治は西欧や第三世界における分離・離脱を目的として民族政治戦争に効果がある解毒剤であることが証明された。」
 しかし、もし、誰かが、旧ソヴィエト圏、特にカフカス地方の衝突にこのモデルを当てはめようとするなら、自治の将来性ははっきりとわからなくなるだろう。他の多くのケースでは国家権力が最初に同化政策を行い、それが衝突を巻き起こしているように見える。同時に、少数集団は自治や分離独立を唱道し、最後には、この問題は国家が少しの自治を少数者に認めることで落ち着くしかし、кのも伝は旧ソヴィエト圏には当てはまらない。そこで我々が見るのは、それとは逆に国家が少数者に自治を唱道し、少数者の側は独立以外のどんな解決策も認めないという状態である。
 このような状況は必ずしも、その地域の分離独立派の運動が、ニカラグアのミスキートや、インドのナガスやトリプラス、それにスペインのバスクのような地域自治によって解決された衝突よりも本質的に急進的であり、妥協する用意がないということを意味してはいない。むしろ、ソヴィエト的な連邦制を経験した人々によって自治全体の概念がどう見られているかというのが問題なのである。言葉の受け取り方の違いの原因を探り、この問題に関する可能な解決方法を考える前に、現存する自決権(SELF-DETERMINATION)の有様を再度把握する必要があるだろう。

 連邦制、自治、そして独立

 
ウルジン・ガルマエフ生誕110周年の記念会議のパンフレットより(1999年9月8日:ロシア語より)

 ウルジン・ガルマエフはトゴートという現在チタ州ボルジンスキー地区のハダ=ボラックという場所で生ました。モンゴルの民族の慣習では、人の年齢を数えるとき、母親のおなかにいたときの9ヶ月を足し数えますが、それを加えた上で、1888年の太陰暦での2月8日に生まれたので、今年、ウルジン・ガルマーエフの生誕110年周年記念をすることになりました。
 彼の両親、父親のガルマ・ブッディンと母親のノルブは中流の牧民でした。兄弟で一番年長だったウルジンは小さいときから、知識欲旺盛な、努力家でありました。地元のアラ−ボルジンスキー小学校を卒業した後、アガの中学校で学び、さらにチタ市の学校(Училище)で4年間学びました。チタ市の学校を卒業した後は、ザバイカリア地域のタブタン、ドコイ、ハダボラックの学校でモンゴル文語とロシア語の教師として長い間働きました。
 10月革命、内戦は人々やウルジン・ガルマエフ自体の人生や運命を激しく替えてゆきました。異郷へのブリヤート民族の一部の悲劇的な逃亡はこの教師であり啓蒙家であった人物のその後の人生を決めてしまいました。家族とともにウルジン・ガルマエフは満州にはいり、そこで彼は親類たちの利益を守るため、軍務に服することとなりました。結局ウルジン・ガルマーエフは満州国のブリヤート人、モンゴル人混成軍を指揮する陸軍中将の位にまでなりました。1945年8月30日ガルマエフは自らの意思でソヴィエト軍に投降しました。そして、彼はモスクワに移送され、すぐに軍事法廷参与会の決定によってウルジン・ガルマーエフは死刑を宣告されました。判決は1947年3月13日に執行されました。
 1992年6月23日のロシア連邦中央検察局参与会の決定によってウルジン・ガルマーエフは名誉を回復されました。
 ウルジン・ガルマエフの3人の子供の内今日、息子のダシニマはウランバートルに在住し、また、娘サンジドマとその婿ツィデプはウランウデの「鉄道」地区に在住、つい最近ロシア国籍になりました。
 民族の運命やウルジン・ガルマエフ個人の運命の有為転変にも関わらず、彼はブリヤート史において重要な人物であり、ブリヤート民族の歴史において傑出した社会活動家であり、軍人でありました。そして、それ故、彼の人生や活動の軌跡はその全面的な研究と公正な扱い方に奉仕するのです。

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