最近思っていること、考えていること。


最近の話題について思ったことなど・・

ソ連崩壊時(という題で他の掲示板に書いたもの)(06月17日(土)22時45分57秒)

 1991年8月21日、僕はジュネーブで、国連陳情団の到着を待っていた。
 通訳をすることになっていたからである。(自慢)
 その日、ユースホステルを出て、路面電車(だと思ったな)で、中央に向かったら、通って ゆくおっさんが持っていた新聞から「さよならゴルビー」(au revoir Gorby)の文字が見えた ので、驚いて新聞の売っているところへ言ってみると、いろいろな新聞で、ロシアでのクーデ ターを報道していた。
 今考えれば重要な事件だったが、陳情団はモスクワ経由で来るけど、無事に来れるだろうか? というのが正直最初に考えたことだった。大事な話だとは思っていたものの昼は眠かったので、 その日はソシュール縁のジュネーブ大学の構内の芝生で昼寝をした事を覚えている。
次の日の国連人権小委員会では、早速ソヴィエトのクーデターに対する非難決議(?)が 出されていた。

カザフにいたカルミック人の話(11月21日)

いつの間にか日がずいぶんあいてしまったなあ。
ここに書きたいことはずいぶんあるんですがまあ、ここから始めます。
金曜日に某外務省外郭団体の電話関係の集団研修にきていた中央アジアの人々のさよならパーティに出かけました。その中にカザフにすむカルミック人の女性がいまして、しばらく話をしました。第二次大戦末期、そういえば、カルミック人たちはカスピ海沿岸からカザフスタンへ強制移住させられたんだなあというこうと改めて実感。
 それにしても、歴史というのは事実としては知っているもののこういう風に どんと目の前に出されると重いなあ。(まあ重くなったのは帰りの電車の中でだけど)
 少数民族っていえば、小島剛一氏の『トルコのもう一つの顔』は素晴らしい本だった。ああいう本が書きたいなあ。


これからどういう論文を書こうかねえ(種になる話)(11月21日) 

 これからたぶんライフワークになるであろう研究のためになにをすべきかということを考えてみよう。ということで、今回研究目標の羅列をしてみることにした。
 今これから研究の対象とするのは言語の思想面に関する研究をしたいと考えるがその発端となったのは、アルタイ語学だった。
 アルタイ語族の言い出しっぺはフィンランド人のラムステッドという人です。実はこの人が近代言語学における日鮮同祖論の生みの親でもあります。確かこの人、日本大使かなんかもつとめたんだったかと思います。
 修士論文のテーマとして取り上げたブリヤートも最初の文法書を書いたのはフィンランド人でした。
 ということで、じつは、アルタイ語族を成立させようとする活動にはイデオロギー的な側面があるのではないかということも、少しおわかりいただけたかと思います。(結構無理矢理な論の展開)実はこの辺が、私が言語政策に首を突っ込んだきっかけなのです。
ところで、turanismという言葉をどこかで聞いたことがあるのではないでしょうか?現在でいうところのアルタイ語族とフィン・ウゴル族は昔一つのトゥラ民族であったという、壮大で変な理論です。僕が初めて、この言葉を知ったのは、ジヤ・ギョカルプの『トルコ主義の原理』ででした。後に知ったことですけど、ギョカルプは一度はturanismというイデオロギーにはまっていたようですねえ。永田先生の『中東現代史』やホサムの『トルコ人』などでみる限りトルコでも、時と場合においてトルコ主義とごっちゃの状態で出てくる思想のようですねえ。
 この思想の源流はどこかに関してははっきりしませんが、日本にも昭和7年くらいにすでにトゥラニズム関係の本ができています。この本によると、日本にこの思想を持ち込んだはのハンガリー人だということ、ホサムの本にもやはりトルコに持ち込んだのはハンガリー人だと同様のことが書いてあったような気がします。(因みにハンガリーの皇帝に日本の皇室から人を取ってこようという議論がハンガリーでなされた。という話からこの本は始まっています。)
   トゥラニズムの源流はまだ勉強不足ではっきりと言えません。日本では朝鮮、満州、そしてモンゴルへとその勢力圏をのばすために使われました。
 フィンランドに話を戻しますが、19世紀後半からドイツロマンティシズムの影響で、フィンランド・ロマンティシズムというのが始まりフィン族とは何かという議論が盛んに行われました。だからブリヤート語の文法書ができたんですけど。彼らの民族学的調査などももしかしたら、トゥラニズムの誕生の鍵を握っているのではないかと考えています。
 さて、トルコ現代史にはトルコ主義の話が出てきますが、トルコ主義に関してはlandau氏の本をざっと読んだだけなので、具体的にはなにもいえません。あまり影響力はなかったのではないでしょうか?
 以上結構乱雑な説明ですけど、僕自身は実はトゥラニズムやチュルキズムというような思想が近代的な言語改革の面でどのようにして理論としてではなく原動力として働いたのか、というのを実はみていきたいと考えているのです。
で、今引っかかっている人の一人が、アフンドザーデだったりするのです。
でそれで出てきたのが言語連合という考えたかたです。
 印欧語族論やアルタイ理論では、類似の言語は元々一つの民族であったと考えられているが、実はそうではなく同じ地域にいると自然に言語は互いににてくる。そういった同じ地域にすんだ民族が、時間とともに結合されていった結果として言語もにてくるのである。大ざっぱにいうとこれが言語連合の考え方です。アルタイ語族は証明できないだけでなくイデオロギー的にもこの発想からの挑戦を受けることになりました。
 で、ちょっとねじれた発想になりますが、そういった諸民族連合の支配者は人々のよい点をもらった人々がなる。だから支配者であるロシア人は優秀であり、だから、ロシアの周りにいる民族はロシアの支配を受けるべきであり、宗教的にも正教を受け入れるべきであるという理論が打ち立てられたのです。
 このような地域的な連合という発想がが肯定的であれ、否定的であれ、現在ロシアまたはCISのこれからのアイデンティティの問題として盛んに議論されています。カザフスタンのナザルバーエフも発想は違いながらユーラシア主義に関して本を出してますよね(日本語訳あり)

東チモール問題(9月8日)

悪化してますね。かなりやばい状況になっているようです。
実は1991年夏に、ポルトガルで東チモールの難民の人たちに会いました。
僕はあまり役に立たない通訳としていきました。リスポン郊外の谷の下につれられ、
そこで日本のあるクリスチャンの家族がコンサートをしました。
彼らのコンサートの持ち歌には、東チモールの言葉であるティトン語の歌があります。
マウベレという歌でそこやいろいろなところで何度となく、彼らは歌いました。
奴隷という意味らしいですが、南国らしい曲調の音楽で、
彼らの前でこの歌を歌ったときが一番盛り上がりました。
アンコールがあって二度か三度歌ったんではないでしょうか?
そのときの写真は残念ながら残ってませんが、
「東チモールで会いましょう!」といったのがいまだに耳に残っています。
「東チモールと連帯する会」(現在の名称はわかりませんけど)の中心人物の一人であり、 今回、選挙管理関係でも活躍したであろう
大阪外国語大学インドネシア語の松野先生
(松はこれではなくて木偏にハと口なんですけど)にはそのときにかなりお世話になりました。
今回の混乱ではちょっと心配ですが、無事帰ってきていることをお祈りします。



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