舞鶴ヨット協会の変遷


京都北部ヨット黎明期

 わが国のヨッティングは、他の近代スポーツに比べ大幅に遅れていた。幕末の開国時に来日した西洋人によってもたらされ開校当時外国人居留地の神戸、横浜はヨットが浮かんだ。アジアでは、インドに居留していた英国人がヨットを持ち込んでセーリングしておりインドは、わが国よりおよそ50年ヨットについては先進国であった。
 日本人がヨッティングに関心を持ったのは大正末期から昭和初期になってからである。京都では、組織として活動を始めたのは、日本ヨット協会創立に先立つこと10年、大正11年琵琶湖に設立された「日本ヨットクラブ」(日本ヨット協会と紛らわしいので後に琵琶湖ヨットクラブと改称 現在のBYC)が最初であり日本ヨット協会の創立は昭和7年11月27日であった。
 昭和12年支那事変が勃発し同14年には明治神宮大会から敵国のスポーツとしてヨット協議が除外されそうになったが関係者の努力で無事参加できた。
 京都北部では、昭和32年宮津の故足立覚爾(同大OB)が同志社のA級ディンギーと廃艇5隻を私財を投じ府中市宮津高校に寄贈、ヨット部創立に尽力し自ら指導を昭和38年には念願の国体出場を果たした。昭和35年4月には福井県立小浜水産高校ヨット部が創立された。
 わが舞鶴のヨッティングは、日本のヨット界と同じく他のスポーツに比べ遅れていた。舞鶴港が要港として軍の管理下にあったことと、推進的な役割を果たしてきた学連、事業団、一般社会人の組織がなかったことに加え艇購入の経済的面も影響してマイナースポーツとなっていた。
昭和29年5月、現海上自衛隊北水桟橋の山手にあった舞鶴製油所に、工場長として赴任した京都ヨットクラブ(KYC)のメンバーだった戸田和夫がスナイプを琵琶湖より移送し東港でセーリングしたのが戦前戦後を通じて最初ではなかろうか。当時は個人で艇を所有するなど夢のまた夢であった。同艇には中学時代(旧制)ヨット経験のあった村井清一がクルーとして乗艇していた。後にそのスナイプは、長浜の京大水産学科の学生が京大合唱団を招き東公会堂で公演会を催し入場料の資金で譲り受けた。その後村井は、京都ダイハツ社長安藤氏が琵琶湖から搬送したシーホスのクルーを務めた。
昭和32年6月、当時上安にあった聖母病院長の狭山信敦(京大OB)が合板製Y−19クルーザーを建造、艇名「あおば」と冠し、三重医大生の子息と西港でセーリングを始める。
 昭和37年、堀江謙一が太平洋横断航海に19フィートのスモールサイズで従来の常識を覆す艇で西宮からサンフランシスコを94日間で完走、合法を欠いた航海であったが米国の寛大な処置で世界的英雄となった。
 昭和40年7月、市消防署勤務の小森幸男が15カ月を要してキングフィッシャー(19フィート)を自作完成させ艇名「CRANE」と称した。シングルハンド太平洋横断に成功した堀江青年のヨットと同タイプである。
 昭和41年6月、隅山陣(前会長)のL型ディンギーが帆走する。同型は東京、横浜で外国人が多数乗っていた。日本人の体格ではハンドリングの難しい船であった。
 昭和41年5月、「あおば」号のオーナー狭山信敦は2隻目の艇シードルフィン25フィートを建造、当時としては舞鶴最大の艇であった。その後「あおば」1世を村井氏が譲り受け「あずさ」と称しスキー仲間の嶋崎七朗(故人)と若狭湾を帆走する。
 昭和43年4月、消防署勤務の古田晋(旧石原)が20フィートクルーザーを自作完成させ若狭湾をセイリングする5月には、日立造船がY−15 2艇を入手しヨット部誕生、遠藤義之(横浜国大OB)がキャプテンとして指導を始める。
 12月、日立ヨット部、遠藤義之の21フィート(BW21)が浸水、わが国初のFRPのJOGである
 昭和45年5月、舞鶴海上保安部より海上諸法規、海難防止、安全航行の指導を行えるようヨット所有者の組織設立を要請される。

 

設立発起人会

昭和45年9月、海上保安部の要請に基づく団体設立の発起人は3名であった。
(舞鶴ヨットクラブ1名、日立造船ヨット部1名、あずさクラブ1名)
発起人会を持つこと5回、設立準備会を早期に開催すべく資料作成のためヨット愛好者の調査を始める。すでに舞鶴製油所を退職した戸田と村井は市内海岸線に係留、陸置きされている艇を捜し歩き所有者の確認作業を始めた。

 

設立準備会

昭和45年10月、すでに調査した団体個人等で設立準備会を実業会館で開催、準備委委員は次の8名である。
 舞鶴ヨットクラブ 2名
 日立造船ヨット部 2名
 あづさクラブ 1名
 MATYクラブ 1名
 あおばクラブ 1名
 CRANEクラブ 1名

以上8名により設立総会の準備を始める。重責を担う会長職をヨット歴も永く人格者である狭山氏を推する意見が多数を占めた。当時、狭山氏は居を京都に移し休日のみの舞鶴で職をまっとうするのは困難だと固辞、外部から推挙することにした。
 10月も半ばを過ぎたある日に、村井氏が所用で和田線(海岸道路)を走行中、匂ヶ崎の橋立造船所近くの飯田造船に1隻のヨットが陸置きされているのを目にし、所有者を尋ねたところ松陰の隅山医院の船と聞き、失礼は承知のうえ、ノンアポイントで面会、協会設立の経過を伝えたところ、隅山氏は、「私の家内の父は琵琶湖の古いヨット乗りだといった」氏名を尋ねると「安田禎一郎」京都ヨット界の長老である。関東でもその名を知られたシーマンで、大正11年琵琶湖で最初に設立された「日本ヨットクラブ」(後に京都ヨットクラブと改称)創立者のひとりである。
 設立準備会4回目を開催、会長職について各委員の推薦を求めたところ、村井氏の推薦する隅山以外に各委員の推薦がなく、海事関係の公職にも就いていて海洋事業にも堪能でヨットマンでもある隅山氏こそ最適任であると出席委員全員が賛同する。

 

設立総会

昭和45年11月1日 発起人、設立準備委員の努力によりようやく設立総会の開催にこぎつけることができ、東舞鶴実業会館で設立総会を開催する。

協会名 舞鶴帆走協会

所属艇 ディンギー 12艇
     クルーザー 5艇
会員数 63名

運営方針
1 ヨットの基本であるディンギーの育成に重点をおき、基礎的なトレーニングから始めレースへと移行する。
2 ヨット教室を開講し同行者の拡大を計る。
3 ヨットハーバーの建設を関係機関に請願する。
4 港湾関係諸官公、漁業団体との密接な関係を保つ。
同年12月9日 舞鶴市体育協会加盟申請を承認される。


<日本ヨット協会60年史より一部引用>