末期医療について
 1996年夏に、父をガンでなくしました。それを機に、病院のことなどを考え るようになりました。だって、自分もいつか死ぬんだし、おそらく病院のお世話 に
なるんだから。その時には、安心して病院、そしてお医者さんにみてもらいた い。そんなことを思ってます。


【INDEX】

第一章 <父が亡くなりました>

  父がガンだ!

  院長との信頼関係

  父の最期

第二章 講演会「私がガンになったとき」

第三章 まとめ「信頼できるお医者さんって」
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第一章 <父が亡くなりました>

父がガンだ!

 父がすい臓ガンであることを知ったのは、新年度が始まった直後の1996年の 4月中ごろでした。それとほぼ同時に、元々しんどそうだった父の具合がさらに 悪くなり、父に仕事を休むように説得を始めました。毎朝、仕事に行く父と、そ れを引き留める母と私で、喧嘩をしていました。
 父を病院に連れて行き、主治医の説得でやっと仕事を休養させることができ ました。父の主治医は、峰山の丹後中央病院の、笹野満院長でした。父が40代の 頃、胃の検診に引っかかってから、ずっと世話になっていました。父はこの2年 の内に2度、大きな手術を受けましたが、どちらも院長に執刀して頂きました。 この辺りでは権威のある先生で、父は院長を信頼していました。
 私は何度も病院へ足を運び、院長と話をしました。最初の内は、私の質問に も快く答えてくれました。もう、病院としても施す手だてがないということで、 こちらの希望も聞いてくれました。抗癌剤もおそらく効かないし、それを投与す るとものが食べられなくなるなどの副作用があるので、使わないと言われました 。

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院長との信頼関係

 6月に父が入院してから、抗癌剤の投与をめぐって、院長との信頼関係がお かしくなりました。
 最初は効果がないだろうから使わないと言っていた抗癌剤なのにどうして、と疑問に 思いました。週に二度、腹水を抜き、その後抗癌剤を投与するとのことでした。
 全身投与でなく副作用の現れない程度、試してみる。腹水が治まるかも知れ ない。と、院長は言いました。私は、慎重に使ってもらうようお願いしました。
 腹水を抜くことと、抗ガン剤投与を始めてから数週間、父の容態は悪化して いきました。特に抗癌剤を投与した日の夜は苦しんでいました。そして、次の日 、その次の日と日がたつにつれだんだん楽になり、また投与した日には苦しんでいるのです。
 私は見かねて副作用ではないか?と訊ねました。すると院長は副作用ではな い、病気の進行だ!と、私に怒りました。知識のない私は、反論できません。で も、最初期待していた効果は現れていない(腹水の量は減らない。これは院長も 認めた)ので、抗癌剤の投与をやめて頂くようお願いしました。
 もう1つ、院長にとって気に入らないことがありました。独自の療法を行っ ている高知県の土佐清水病院のことを、知人から教えてもらいました。この病院 の丹羽先生が書いた本を読み、その丹羽医師の診察が京都市内で受 けられるということなので、受けたいということを院長に話しました 。院長は渋々認めましたが、「そんなものはインチキだ。わざわざ京都までいく必 要があるのか」と言いました。
 施す手段がない状況で、そしてどんな治療かも聞かずに、何を基準にインチキと言っているのかわかりません でしたが、とにかく手をつくして、患者が少しでも楽になるようにしたいと言う 意志を伝えました。
 ところが、その日が来る直前に、父は急激に悪 くなり、父を京都まで連れて行くことができなくなりました。そこで、今かかっ ている病院からデータをもらい、私一人で京都に行き、高知の医師と会ってくる ことになりました。しかし、丹後中央病院では京都行きの前日に、前からお願いしてあったデータ の一部を「知らない医者に渡すことができない」と言われもらえませんました。そして、もらうことができたデー タも、2週間も前の検査結果で、内容も「このデータでは何もわからん」と丹羽 先生から言われるようなものでした。
 しかし、悪いことばかりではありませんでした。父が京都まで行くことがで きなくなった
時点で、土佐清水病院の医師に、丹後まで診に来てもらえないかという相談を 持ちかけました(以前にそういう例があったらしい)。すると京都行きの数日前に、「京都での診察日の 翌日、土佐清水病院のスタッフが丹後に行く」と言う連絡が入りました。
 そして、京都では丹後に来てくれる医師にも会いました。それは、井手先生という若い医師で、感じも良く、で きるだけ患者を診て力になりたいという熱意に希望が湧きました。その医師が診 に来てくれることを早く伝えようと、その夜丹後に帰りました。

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父の最期

 ところが、事態は最悪でした。もう、父はもたないとのことでした。夜に病 室につくと、父はベッドの上でのたうち回って苦しんでいました。今は、家族が 側についていることしかできません。明日になったら、良い先生が診に来てくれ るそう言って励ますと、苦しくて喋れない父は、私に力なく抱きつこうとしてき ました。
 翌朝、苦しんだ挙げ句に、父は亡くなりました。その間、主治医である院長 も当直医も病室には来ませんでした。最後の人工呼吸や心臓マッサージ、もう回 復の見込みはありませんが…という判断も、看護婦によって行われました。何も かも終わってから院長が来て、既に止まった脈をとり腕時計を見て手を合わせま した。
 その日、井手先生は(丹後に来て欲しいと)電話をもらった時点で、私が診る べき患者だと思っていましたと、家まで来てくれました(丹後でもう一人患者を 診るという目的もあったが)。前夜の様子を話すと、せめて、苦しみを押さえる だけでも、役立ちたかったと動かない父の枕元で涙を流されました。治療の仕方 についても、いろいろ話して頂きました。主治医のやり方と食い違うところは幾 つもありましたが、医学の知識のない私にはどの医者のやり方が正しいか判断で きません(知識があっても無理?)。患者に対する医師としての熱意で判断するし かありません。
 私の知人のAさんのお父さんもガンでした。Aさんは、できるだけ自分達で 面倒をみたいと、入院させずに家で看病されていました。点滴も、酸素吸入も家 でできるのです。そして、在宅医療に理解を示し、バックアップをしてくれる病 院、医師が丹後にもいることが驚きでした。
 高知の医者に、丹後まできて頂くようにお願いするとき、Aさんにもその医 者に診てもらわないかと話を持ちかけました(診てもらう患者が多い方が、来て もらえる可能性が高いのではないかという計算もありました)。私の父は間に合 いませんでしたが、Aさんのお父さんは高知の医者に診てもらい、特効薬を処方 してもらいました。しかし、その効果が現れるより前、私の父の後を追うように 亡くなりました。とにかく、早い対応が必要だということが身にしみてわかりま した。

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第二章  講演会「私がガンになったとき」

 父が亡くなった年の秋、ガンの末期医療についての講演会「私がガンになっ たとき」を開催しました。と言っても、開催に協力したという程度ですが。
 内容は、お医者さんによる、「癌末期の痛みのコントロール、癌告知につい て」「在宅ターミナル・ケア」の講演と、お医者さん、看護婦さん、一般市民を 交えたパネルディスカッションです。
 詳しくは、「知的野生人のためのぷらっとふぉーむ」のホームページに出て います。
 開催前は、どのくらいの人数の人がやってきてくれるのか読めなかったので すが、ふたを開けてみれば続々来るわ来るわ。会場の席はなくなり、100部用意 した資料はなくなり、会場のスリッパはなくなり…。やっぱりガンって身近なん ですね。
 やっぱり、3〜4人に一人はガンで死ぬわけだから、ほとんどの人は、身内 にガンでなくなった人がいるんだろうと思います。
 私は、もっと情報交換をするべき、というか是非やりたいと思います。
 パネルディスカッションで、「ガンでは、あまりにもひどい死に方をしてい る。(たとえば、苦しんだり、病院のベッドの上でたくさんの管を体に差し込ま れたままだったり。)そして、看取った家族は、そのことを語りたがらない」と いう話題が出ました。
 その結果、いざ自分や自分の家族がガンになっても、あまり身近な情報がな いし、医者もあまり人に知られる心配もないから、好き放題やれる。
 こんなことでは、死ぬのが、そしてガンがこわいです。自分や、自分の家族 もいつか死ぬ訳だし、不安です。
 でも、お医者さんの講演で「ガンの痛みの99%は軽減できる。そして、死 の直前まで、物を食べたり、トイレに行ったり、考えたり、はなしたり、という 人間的な暮らしができる。」ということが話されました。
 また、「在宅での末期医療は、都会よりも『丹後』という小さな器の方が、病院 としては対応しやすい」ということも、病院のお医者さん自身の口から述べられ ました。 
 ガンという病気は、きっちり向き合えば、自分に与えられた人生を有意義に締 めくくることができるよい病気ともいえると思います。
 誰の人生にも、限りが あるわけです。ガンという病気は、そのゴールを見せてくれるのです。そして、 ゴールにたどり着くまでの残された期間を、人間的に過ごせる病気なのです。

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第三章 まとめ「信頼できるお医者さんって」

 父が亡くなってから、私は悩みました。私がおとなしくしていれば、父はこ んなに苦しい最期を迎えることはなかったかも知れません。でも、父は自ら今日 は入院してくるつもりだと言って病院に行きました。入院したいはずがありませ ん。一向に良くならない自分の体が不安で、助けて欲しい!と病院を頼って行ったのです。家族が、できるだけのことをして欲しい、と病院に、医者に願うのは当然ではないで しょうか。
 父の主治医だった笹野院長は立派な先生であり、医学の知識もないくせにう るさくつきまとってくる生意気な若造が、しゃくにさわったことでしょう。でもその対象は、患者当人ではないのです。多くの患者の中の一人、しかも治る見込みがなくても、まさか、苦しんでいる無防備な患者を見捨てると は思いませんでした。世の中こんな医者ばかりだとしたら、安心して病院に命を 預けられません。
 父は、1994年に黄疸の、1995年に十二指腸潰瘍の手術を受けています。どち らも、丹後中央病院の笹野院長に執刀していただきました。
 父にガンの疑いがあることがわかったのは、1996年の3月の検査の結果から でした。笹野院長の話では、「前年の十二指腸潰瘍が良性だったので、それまで(1996年3月)ガンの検査はしていなかった」とのことでした。
 それから4ヶ月ほどで、亡くなっていることからわかるとおり、かなり進行 した状態で見つかっていると思われます。
 3月のCTスキャンの写真を借りることができ、7月に京都市で土佐清水病院のお医者さんに会ったときに見てもらいました。そのガンの大きさに、驚いてお られた様子でした。
 1997年の秋の講演会の時にあったお医者さんに父のいきさ つをお話しすると、「前年の(十二指腸潰瘍の)手術で胃の摘出をしたときに、本当にガンがわからなかったのだろうか?」と言われました。
 でも、笹野院長にしか本当のことはわかりません。主治医に「進行が速い」と言われたら、それを信じるしかありません。
 信じられるお医者さんとは、どんなお医者さんなのでしょう?
 もがき苦しむ患者の病室に来なかった主治医。診察する前に亡くなった見ず 知らずの患者の家をわざわざ訪れ、涙を流した医者。講演会を通じて、一般市民 に本音で語ってくれた医者。
 あなたが信頼できるのは、どのお医者さんですか?
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 この話題は、プライベートなことであり、こういった場に発表するには抵抗 がなかったわけではありません。
 しかし、誰かが口火を切らなければ、何も変わりません。こう書くと自分勝 手ですが、私は父のような死に方をしたくありません。そのために、父親に甘え ました。きっとこれを発表しても、父は許してくれるのではないかと。
 文中にも述べましたとおり、ガンについての情報交換をしたいと思っていま す。よろしければ、メールをいただきたいと思います。


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