新・東京の博多ラーメン!!

  

第二部  第一章  天国と地獄

二  贋ラーメンつくり

マスコミの影響力の強い東京では、ほとんどあらゆる情報をマスコミから得る事になる。博多ラーメンは流行り物なのだから、なおさらそうである。私も暇を見てはマスコミで紹介されている店に舌のノスタルジーを求めてせっせと通うようになった。しかし、最初の期待はつかのまで、店に通う毎に喜びを得るより期待を裏切られるという経験が余りに多く、私は次第に苛立ちを深めるようになった。具体的に言うなら、ノスタルジーを求めて行ったはずなのに、神経を逆撫でされる経験をして苛立つということが余りに多く、ホトホト嫌気がさして来たのである。その理由はただ一つ、ここ東京では地元感覚と遊離した常識がまかり通っているから、に他ならない。例えば小さなことだが、博多トンコ「ク」ラーメンという表示を見ただけで、地元民なら一気に苛立つ事は確実だろう。それでも肝心のラーメンそのものがおいしいなら表記上の問題などまだ我慢ができるはずである。しかし問題はそのラーメンそのものにあったのだ。その様々な実態を紹介して見よう。

まず具に関することから。地元では御飯を食べる時の為のタカナは、こちら東京ではラーメンに入れるものとして受け取られている。地元でどれだけ多くの人がラーメンにタカナを入れているかは知らないが、それはまあ好みにしても、遂には博多ラーメンは途中でタカナを加えて味を変えて飽きないようにするのが通だと言うものまで出る始末。また地元ではキワモノ扱いの極一部の店のみで見られる「トッピング」とやらが、こちら東京ではほとんどすべての店にあるのはに驚いた。ネギ(多くの店では博多万能ネギではなく、関東風の根深ネギが使われている)やヤキブタ(こちらでは例外無く「チャーシュー」と呼ばれている)を追加するというのならまだしも、明太子とか角煮、煮卵、コーン、ワカメなど明らかに異質なものまでそろっている。店によっては最初からこれらを乗せたメニュー(「全部乗せ」というおぞましいものまである)があり、東京に来た地元民は「博多ラーメンの店なのになんでラーメンだけでこんなにメニューがあるんだ?」と驚く事間違いなしだろう.だが、その実態は単に「色々なモノ」を載せたラーメンをすべて別のものとしているだけである。しかし、これもまだ無視すればよい、という手があるだけましだろう。自分の隣の人がコーンやワカメの乗った博多ラーメンを食べているのを見るのは何とも情けないし、気持ち悪いのだが。

次に麺に関して。一般にラーメンの麺は材質、形状とも多種多様だが、こと博多ラーメンに限ってはほぼ一種類に限定されると言っても過言ではない。カン水を含んだストレートな細麺、これに尽きる。もちろんその中でも様々なヴァリエーションがあるが、スープの多様性に比べればその範囲は狭いと言えるであろう。いくらスープが正統派とんこつスープであっても、もし麺にこのジャンルを大きく外れたもの、例えば太麺、ちじれ麺、半透明麺等を使ったラーメンがあったなら、それは地元のスタンダードからは「博多ラーメン」とは呼びにくいものであることは確かである。東京の「博多ラーメン」でこの点で大きく逸脱している店は(皆無ではないが)少ないと言える。

だが、麺に付いても具同様東京ならではの奇妙な現象が見られる。博多ラーメンでは常識の「替玉」はそれ以外のラーメンのジャンルでは見られないものだ。従ってこの習慣は知らない人に取っては新奇なものであり、ブーム当初は「替玉とは何か」という解説がマスコミのラーメン記事や店内の断わり書きに溢れていた。それは良いのだが、今度は麺の茹で具合を指定するのが「通」という風潮が広まった。これも別に悪い事ではない。しかし問題はその注文の仕方だ。「はりがね」「粉落し」「湯気通し」「べたなま」「べたかた」…と地元民なら苦笑するしかない文句のオンパレードだ。(これはそういう張り紙をしている店もあるし、書いてない店でもそう注文する人さえいる。)まあ「麺固めで」で通じなかった店はないし、これは麺そのものの問題ではないだけましだと言える。「トッピング」同様無視すれば済む話だ。しかしそれでは麺に付いて大きな問題は無いかと言うと、そうではない。東京では「博多ラーメンの面は細い」という伝説が歪んで伝わっているらしく、地元のスタンダードから見ると異常に細いものを使う店が見らる。その細さは丁度「○タイ某ラーメン」と同じくらいで、それがインスタント麺を食べている気を起こさせ、違和感が倍加さる。せっかく美味しいスープなのに…と悲しくなることもしばしばだ。これは無視すれば済む、という問題ではない。だが味そのものは博多麺であり、良く噛めば同じと自分をだます事が、努力すれば可能でなくはないであろう。

しかしどう自分を欺いても無視できない、見逃し難い問題がある。それはスープに関する問題だ。こちら東京では地元の普通の博多ラーメンとは別種としか言えない、一群の「博多」ラーメンが存在する。私がその存在に気付いたのは、私がおいしいと評価する一群の店をまずいと評価する人々が、また同時に私がまずいと評価する一群の店をうまいと評価する傾向にあることに気が付いたことがきっかけだった。これらの店のラーメンは見た目は白濁細麺の博多風なのだが、私はその香りと白湯にどうしても拭えない違和感を感じる。香りに付いて言えば、あのトンコツの強いアンモニア臭がほとんど取り去られているし、またスープも骨を煮込んだと言うより、何か出来合いの粉を溶かしたようなのっぺりした力の弱さを感じる。簡単に言うとインスタントラーメンのスープのようなものだと説明すれば良いかと思う。(このあたり言葉で説明しても不完全なので、後に挙げるラーメン店紹介の解説を読んでもらって、実際に食べて比較することをお勧めする。)

やがて、これは私だけがそう思っているのでなく、一般的傾向であること、すなわち一般に私のような元地元民には不評であるラーメンはこちらの人には好評で、反対に元地元民に人気のある店は、こちらの人にはまずいと不評であることに気付いた。したがって東京には「元地元民からは不評だが、こちらの人には好評な博多ラーメン」という不思議なラーメンが存在するということになっている。最初私はこれをひどく不思議に思っていたが、それはどちらの側の人もとっても同じらしく、ネット上にもなぜ××がうまい(まずい)と言われるのか分らない、という疑問が溢れている。しかも相手の好きな=自分の嫌いなラーメンをけなす言葉が激烈であることが多いことを見ると、それは単なる嗜好の違いに留まらないものらしいと思い始めた。そのうち私は、彼らが「まずい」と言う時には、もっぱら彼らはその匂いに抵抗を感じていること、そしてその抵抗は彼らにとって単なる嗜好の問題を超えた強烈なものであることに気付いた。ここに至って、やっと東京で起きている事態の背景が分った。

地元の人に取って博多ラーメンの命はまず何と言ってもその香りであろう。店の前を通った時のぷーんと匂うあの匂いで思わず店に入ってしまったという経験のない人はいないと思う。従って地元民に取ってあの匂いの無いラーメンなど何の魅力もない単なる白湯麺に過ぎない。しかし、小さい頃からあの匂いに馴れていない人に取っては、あの匂いは生理的嫌悪感を伴う「悪臭」なのだ。ちょうどこれは、納豆やブルーチーズ、香菜、くさや等と同じで、馴れた人には食欲を誘う匂いだが馴れていない人には悪臭でしかない、というのと同じことである。博多ラーメンは「ダメな人はダメ」な食べ物であるということなのだ。非地元民は博多ラーメンの匂いが苦手だという事実は比較的広く知られているが、それは単なる「苦手」ではなく生理的嫌悪感を伴う悪臭でしかないという事実はあまり知られていないのではないだろうか。

同じ匂いが、ある人には生理的快感を引き越し、別の人には生理的嫌悪感引き起こす、ということに気づいた時、なぜここまで評価が完全に逆なのか、そしてなぜそれが激烈なものなのかという疑問が氷解した。これに気づいてからは、さらにこれまで抱いていた様々な疑問も一気に解けた。例えば、こちらでは「臭みがまったくない」という文句が、あるラーメン店に対する称賛を表すと言う事態が生じている。これは私には大変不思議だった。地元の人に取って見れば、ある店のラーメンが「臭みがまったくない」と聞いたなら、ほとんど誰もそんな所に行かないはずだ。ちょうどある喫茶店のアイスコーヒーが「冷たさがまったくない」とか、ある店のうどんが「硬さがまったくない」等と紹介されていたら誰もそんな店に行かないのと同じことだ。しかし博多ラーメンの匂いに生理的嫌悪感を感じる人に取ってはこれが称賛を意味するのは当然なのである。

さて、東京では博多トンコツラーメンに馴れていない人が多いのだから、数の多さで言うとこの匂いが苦手だと言う人の方が多いのは当然である。従って売上をあげる為にラーメンそのものをそのような嗜好に合わせてしまう店が出て来て来るのもまた当然なのである。これこそ、これら一群の「不思議な博多ラーメン」が現われた原因だったという訳なのだ。私はこれらのタイプのラーメンを「擬博多系無臭白湯麺」あるいは略して「博多風白湯麺」と呼ぶことにしている。(無臭と言っても匂いが完全に無いのではなく、地元の博多ラーメンだったら当然期待される匂いが欠けているという意味でそう表現している。)なぜこのようなものが現われるのかは理解できたが、何とも言えない違和感は残った。「元地元民からは不評だが、こちらの人には好評な博多ラーメン」というのはいったい何なのだろう。それはそもそも「博多ラーメン」と呼べるのか…?スープだけでなく、麺にしろ具にしろ、東京でしか見られない流儀が溢れていることに、私は漠然とした違和感を覚えながら、それでもこの時点ではまだ何かをしようとは考えてはいなかった。

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