逸脱への助走
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'00. 02. 1 Tue.

二九の品 『苺ジャムな昼下り』


新年を迎える熱気が冷めたころにスーパーの食料品売場で苺を買った。苺の季節っていつなのだろう。春だったような気がするんだけど、違ったかな。温室で栽培するから一年中いつでも食べることができる。いい時代になったものです。素直に喜びましょう。

値段は安かった。賞味期限が切れそうだから投げ売りになっていた。苺の形も崩れており、ところどころがねっとりと色濃く熟している。年の変り目をはさんでいたから買う人が少なかったのだろうな。おかげさまで、三十個ほどの苺を 300 円ほどで購入できた。

こういう熟しきった苺はジャムにするのが最善の調理だ。洗っただけの苺を前歯でかっぷりと噛み切るしあわせにも私は首肯しないものではないが、そういった作法は新鮮でさっくりした果肉でないとはたせない。対して、ほどよく熟した苺はとろりとした果汁をたっぷりと含んでいる。おろそかに指でつまもうものなら指が苺の色に染まってしまう、そんな状態の苺は、ジャムにしたら最高においしい。こんな良い苺が安い値段で買えるのだから、正月もそう悪くはない。

まず苺を洗う。身が柔らかいから、崩さないように丁寧に。あまりにもろいようなら、流水にさらすよりも、水を張ったボウルのなかにひたして掌の上で転がすようにして洗う。水から取り出した苺は水滴がついたままでかまわない。

つぎにへたをとる。まないたにのせて包丁で切ってもよし、指でつまんだまま果物ナイフでこそげてもよしだが、なにぶんやわらかいので潰さないように注意すること。ジャムにするのだから潰れてもかまわないのだが、まないたや流し台に苺のかけらを食べさせてやるのは惜しい。いちばん簡単な取り除き方は、親指と人差指との爪でへたの根本をちぎること。ここで、味見と称して、つまみ食いをするのが自炊者の作法である。私は鮮度が高そうなものを三個ほど選んで失敬した。きっひー。

焦げ付くのを防ぐために、鍋の底に少しだけ水を入れる。そうね、底を覆うぎりぎりの量で十分。へたを切った苺を鍋に入れる。ここで砂糖なり蜂蜜なりで糖分を加えるか、いやいや、自然の恵みをそのままにするかの議題で一週間は論じることもできる。そんな生活も楽しいだろうなと私は憧れるのだが、いそがしいあなたが迅速な決定を望むならば、ジャムを十日以内に食べ切るなら糖分は不要。それ以上もたせたいなら糖分は足したほうがいい。糖分が腐敗を遅らせる原理を私は知らない。たぶん、砂糖や蜂蜜の妖精さんが魔法の力を発揮しているのだろうと私は睨んでいるのだが、あなたならどう表現なさるだろうか。もちろん、甘いものが好きだという理由で砂糖なりを加えても一向にかまわない。私の場合は風味をつけるためにちょっとだけ蜂蜜を入れた。水飴を混ぜてとろみを出すのが好きだとおっしゃった方もいたな。

以上の準備が終わったら、ことことと弱火で煮る。最初のうちは木ベラでごしごしと苺を潰そう。これまでの優しい扱いを一転して、ここでは激しく大胆に。はあはあと息を荒げるほど。

蓋はいらない。蓋をしたら沸騰してしまって、泡がぷくぷくとふきこぼれる。文字どおりストロベリー色の泡が鍋の側面をとろんと彩ったさまはあでやかで目を楽しませるが、食べられる量がそれだけ減ってしまうのでもったいない。ここは視覚さんには涙を飲んでもらって、味覚さんと嗅覚さんとに席を譲っていただこう。

さて、煮る時間だが、苺の数と火の強さ、鍋底の厚さに熱伝導率、その日の気温にその日の湿度、あなたの好みとあなたと食卓を囲う大切な人のお好みとに依存するのでひとくちでは説明できない。ご心配召さるな。数分おきに味見してみて、ご自身で満足したなら、そこが最良の加減ですよ。

ジャムを作る楽しみのひとつが部屋いっぱいに広がる香りだ。とりわけ苺ジャムは素晴らしい。ねっとりとした香り。ミントのように鼻の孔を駆け抜けて、一気に頭の奥まで達する清涼さとは、また違う。粘液にからみつき、這い回り、じわじわと染み込んでくる甘い香り。この抱擁に身を任せる喜びこそがジャム作りの醍醐味だ。

ついでにホームベーカリーでパンも焼いた。こちらはぱりっと乾いた香ばしさを運んでくれる。焼きたてのパン。まわりをくるむ皮が木のように硬くて、ばきっと音を立てて折れるような焼きたてのパン。あつあつのところを贅沢にぶあつく切り、できたてのジャムをべっとりと塗ってかぶりつくあの至福の瞬間。料理という技術の習得に参加して良かったと、これまでの自分に感謝する時間。

さあ、ジャムはガラス瓶に移した。パンはぶあついのを三枚も用意した。豆から挽いたコーヒーは暖かい湯気を昇らせている。午後の二時。空はまっさお。冬だというのに窓を開け放しても決して不快ではない澄んだ空気。掃除が済んだ部屋。流れる音楽。ありがとう。いただきます。

かぷり。

きっひー! たまんねえぜ。

頬が落ちる。これほどこの表現にふさわしい食べ物はないだろう。苺ジャム。あのねっとりとした香りとは裏腹に、苺の味は鋭く激しい。酸味が甘味を強暴に駆り立てる。口内に歓迎した瞬間に頬の内側のお肉がぎゅうんぎゅんと引っ張られる。ば、ばかばか。いたい、いたい。私の頬はゆるみっぱなしである。体中から湧き上がる随喜を体内から外界に発散させたい。この感動を振り回したい。私はもうそわそわとしてしまって、長い歴史が積んだ教養とか嗜みとかの陰に潜んでいる本能が命じるところに素直に従うなら、私はいますぐ床を転げ回りたい衝動にのっかられていた。

なにかオチをつけたいのだが、なんも思いつかん。ひたすらうまいもん食っただけです。すみません。もうしばらく、私はひとりで堪能しています。かぷり。きっひー! これではまるでキじるしですが、ジャムだけにムジャキにいただきました。


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落ちつけ『ふぁっきんくっきん』