クマラのファイル集

じゃがいもはインドネシアからやって来た

 


      毎日のように食べているじゃがいも、馬鈴薯ですが、ジャガタライモなどいくつもの名前を持っています。じ    ゃがいも→ジャガタライモ→ジャガタラ→ジャカルタ、つまりじゃがいもは昔、ジャカルタからやって来たので    す。時は1601年(慶長6)、ジャワ島のジャカトラ港(現在のジャカルタ)からオランダ船によって長崎県の平    戸に運ばれたのが最初で、ジャガタライモと名づけられた。それが略されてジャガイモと呼ばれるようになっ    たそうです。

     本来じゃがいもはジャワ島が原産地ではなく、遠く南米はペルー・ボリビアの標高4000mにあるティティカ    カ湖周辺で、世界中に広まったのは新大陸発見以後である。1570年にメキシコからスペインに導入された    のを始め、ヨーロッパ各国へ、そして16世紀にはオランダによってインドネシア、中国へもたらされた。その    ついでに日本へ来たと言う次第です。当初は南京いもの名もあったそうだがそれも不思議ではない。18世    紀後半にはロシア人が北海道や東北地方に伝え、えぞいもの名で広がった。従ってじゃがいももルソンイモ    とか、場合によってはカンボジア経由であればカボチャイモになった可能性もある。ジャガイモがかぼちゃ    で、カボチャがジャガウリになっていたかもしれない。なんともおかしな南蛮貿易の名残です。

     しかしである。オランダの船がもたらしたと言うことは、オランダの統治時代、つまり当時のジャカルタの名    前はバタビアのはず。したがってジャガイモではなくバタビアイモ、あるいはバタイモではないのかな。ジャカ    ルタで当時有名なものに「ジャガタラお春」がある。ジャガタラ文というやつである。

     16世紀初めころから現在のジャカルタはパジャジャランの国の貿易港、スンダ・クラパとっして知られ、胡    椒の取引が盛んであったが、1527年ファタヒラー(後のスナン・グヌン・ジャティ、バンテン王国の始祖)に占    領され、ジャヤカルタ(勝利の町、それが詰まってジャカルタ)と改称された。日本では訛ってジャガタラといっ    た。16世紀末、オランダ人が来航して商館を建て、1619年オランダ東インド総督クーンは、東洋経略の根    拠地としてバタビアと改めた。(1621年公認)その後オランダ人勢力の発展に伴い、市街は繁栄していった    が、第二次世界大戦中の1942年、日本軍政が行われた時以後、ジャカルタの旧名に復した。じゃがいもの    伝来があと20年遅かったら、バタイモになっていたかもしれない。

     ついでにジャガタラ文も。歴史の時間に習ったことはあるのだが。

     江戸初期、鎖国政策により帰国を禁ぜられたり、追放された日本人、日系混血児らがジャカルタより故国    にあてた手紙。日本人の海外進出により南洋各地に移住する日本人が増加したが、江戸幕府は1635年に    日本人の海外渡航と帰国を厳禁したので、彼らは中国船やオランダ船に託して故国との交信や取引を行っ    ていたが、これも1640年ごろから禁止された。またヨーロッパ人との混血児とその母親も海外に追放され    た。当時オランダが領有していたジャカルタはバタビアとよばれ、同地にもかなりの日本人が居住していた。    ジャガタラお春の名は、西川如見が潤色して「長崎夜話草」に載せたためよく知られている。

     その後、鎖国体制が整備され、キリシタン宣教師潜入の途も絶たれるにつれ、幕府は1655年ごろからバ    タビア居住の日本人の故国との交信を緩和したので、彼らは故国の親戚知人らと音信を交わし、金品を送    り所用の物品を注文した。今日長崎県の平戸観光資料館には、日系混血児らが故国にあてた書簡5通が    ジャガタラ文として伝えられている。

     当時、日本の鎖国政策上唯一の交流のあったオランダが東南アジアの本拠地としていただけに、日本に    入ってくる情報のほとんどがジャカルタ経由であったようだ。ヨーロッパ文化に関しては、ジャカルタは日本の    先輩であったのだ。

 


              


 

クマラのファイル集 02/09/20  

 


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02/09/20