初めまして。羽鳥純二です。インタラクティブ・バイブル・スタディ・ネットにようこそ。

ここは貴方と私が、顔を合わせて語り合い、教え合いながら、聖書を学んでいく広場です。私は1926年に生まれた貴方にとってはおじいさんのような者です。しかし意外に感じられるかもしれませんが、8才の時、つまり小学校三年生の始めに、先生から国語辞典を皆が買うことを求められました。そしてそれから「読み方」(現在は国語と言うようですが)は一方的に先生が教えることはありませんでした。次に学ぶところの段落が指定されて、全員辞書を用いて予習をしました。授業になると、読めない字はないはずですから、いきなり指名されて読まされます。もちろん、間違えたりすると別の生徒が当てられて、正しい読み方を答えさせられます。一応正しい読み方を全員理解したとなると、それからはすでに決められているグループに分かれて、その段落に書かれていることの意味、どんなことが教えられているか、などと言うことについてグループの中で話し合います。グループ内の意見がまとまると、それぞれのグループの中から代表を選んで、代表がグループの意見を発表します。発表者の意見が違っていると、それから討論(ディベートですね)となるわけです。私たちのクラスは大抵かなり激しい論戦となりました。それでも次第にみんなが一致する点が見つかります。そしてそれが正解だと先生が認められると、「まあ、それで結構でしょう。いいですね」そして次の段落に進むわけです。あるいは大変驚かれると思いますが、これが1930年代の進歩的な教師が行っていた自由主義教育という方法でした。日本の各地で、こういう教育がされていました。愚かな人々がめちゃめちゃにする前には、日本にも本当の教育らしいものがあったのです。戦後のデモクラシーに対して、これが大正デモクラシーと言われている、日本の社会に根ざし始めていたデモクラシーでした。私が貴方とやってみようと思っている学びはこれに近いものです。一方交通ではない双方向の(インタラクティブな)聖書の学び、それも誰でも手を取り合って考えていける(ネットの)学びです。私がみなさんに何かを教えるだけではなく、私も貴方から教えられていく学びです。

どうぞ、よろしく。

羽鳥純二 Who?


「誕生から高校まで」

私「羽鳥純二」は、前に述べましたように、1926年に群馬県に生まれました。父親は小学校教師でした。それだけではなく、私の姉も兄も教師でした。私の母は結婚前は近所の娘たちに裁縫を教えていましたから、母も教師だとも言えました。つまり教育者ばかりの家族だったのです。あなたは司馬遼太郎の「坂の上の雲」という作品を読んだことがありますか。これは明治維新の頃から、日露戦争までの日本人の姿を描いた長編小説です。私がこれを読んだとき、「これは私の家の物語だ」と思いました。この小説の主人公としてまず現れるのは松山の青年たちでした。彼らは貧しい士族の家に生まれました。しかも松山は「賊軍」つまり当時明確に「新政府」つまり「薩長土肥」の側につかなかった藩に属していたのです。彼らは生きていくためにただ一つの道しかありませんでした。それは学ぶこと、新しい時代に役に立つ人間となるために学ぶことでした。そして貧しいものたちが学べる道は一つありました。教育者となるために、新政府によって作られた「師範学校」に入学することでした。私の家族が皆教育者だったのも同じ理由でした。時代は大正となっていましたが、この点ではまだ日本は全く同じだったのです。こうして、貧しい破産してしまった家に生まれた父は、師範学校で学ぶしかありませんでした。そして彼の娘だった姉も、知識を持って生きていく女性として生きていくためには女子師範学校で学ぶ以外に選択肢は持っていませんでした。兄も同じような道を選びました。ただ男性でしたから、高等師範学校に進むことは許されました。実を言うと、無料で学べる道はもう一つありました。それは「坂の上の雲」の中にもありました。主人公の中の秋山兄弟が、ついに選んだ道でした。兄の選んだ海軍、弟の陸軍、つまり軍人です。そして私の父が私のために選んだのは陸軍でした。それも中学の二年生から入学できる、幼年学校という少年時代から職業軍人を養成するためのコースでした。しかし、私はそれがいやでした。私は後にそれが自分が年少の時から、平和主義的な考えを持っていたからだと思い込むようになっていました。確かに私は高校生の時代には「反軍的」「平和主義的」な精神を抱くようになっていましたが、それは高校時代の教育の結果でした。本当の理由に最近気がつきました。実際は私が音楽が完全にだめだったためでした。私の父も音痴でしたが、私の音楽的才能は最低でした。私が小学校に入学するとすぐ唱歌の時間が最も苦しい時となりました。特に、一人ずつ歌わされる試験の時は地獄でした。今でも覚えています、田中実というレストランのオーナーの息子に、虐められたというか、嘲られたのは忘れられません。彼は「今日は唱歌の試験がある。楽しいな、羽鳥の歌が聞けるな」などといつでも言いました。私にとってそれは身の置き所もないような辛い日でした。私には彼と争う力などありませんでしたから。そんなときに英雄が現れました。清水という、勉強の出来は悪かったけれども(その小学校は入学試験がある師範学校の付属小学校でしたから、一般的な子供と比べれば、そんなに偏差値が低かったわけではなかったのでしょうが。)私のいつも親しくしているような友人と比べるとクラスの違う、喧嘩の強さはずば抜けているような男、ガキ大将と言うタイプの男でした。この清水が田中を含めて、クラスの皆の居る前で宣言したのです。「いいか。これから羽鳥のやつを馬鹿にするやつが居たら、俺が相手になる。いいか、羽鳥じゃなくて俺が相手だぞ。」それが虐めの終わりでした。虐めの問題が出る時、私はいつでもこの男たち(二人とも亡くなりましたが。)を思い出します。そして今の学校に「英雄」「ガキ大将」が居なくなったことを残念に思うのです。そういう子供を育てられない学校教育を悲しく思うのです。話が横道に逸れました。とにかく私は音楽が嫌いでした。ところがそのころの中学校教育では、音楽は二年までで終わりでした。それで私は永遠に音楽の授業と縁が切れるはずでした。ところが、幼年学校には、いやその上の士官学校にも音楽の授業はあったのです。軍人と軍歌とは昔から切っても切れぬ縁があったのです。それが判ると、私は断固として幼年学校入学を拒否したのです。実は私は最近まで自分は小さいときから戦争や軍人が嫌いなので、あんなに一心に幼年学校に入れないように父にお願いし、兄にも取りなして下さいと頼んだのだと思いこんでいました。ところが正直に古いことを思い出してみると、音楽が嫌いなせいだったと気がついたのです。私が「平和主義者」「反軍的」になったのは、高等学校での教育のためでした。でもこの時幼年学校に入っていたら、クリスチャンになる可能性はずっと少なくなっていたでしょう。私は結局幼年学校の入学試験を受けさせられました。しかし最初に受けた体格検査で落ちました。そして落第してにっこり笑っている私の顔を見て、父も諦めてくれました。ここにも主の摂理の御手がありました。音楽嫌いも私を救って下さる主の手の中にあると「全てのことが、主が愛していて下さるので、私のために益」となるのです。しかし、ここに「主のユーモア」とも言える御業も見えるような気がします。ところが、ちょっと思いつかないかもしれませんが、軍人の他に、音楽を学ばなければなれない「職業」があります。それは牧師です。賛美の重要性を考えれば判りますね。私も聖書学校に入って、音楽、それもオルガンの授業があることに気がついたときはもう遅かったのです。しかし主は憐れみ深いお方です。私がオルガン相手に四苦八苦しているところに通りかかった聖書学校の校長先生が、私に声をかけて下さいました。「羽鳥。音楽が一番苦手か。」「勿論です。」そしてその夜の夕食の時、特別な発表がありました。「これから音楽は男子には選択科目にする。」そして先生は、私と二人きりになったとき言われました。「羽鳥。お前、オルガンが弾ける奥さんが与えられるよ。」そして私は今聖書神学塾の塾長ですが、私の長男が先日こんな申し入れをしました。「お父さんの学校で、名古屋で教会音楽の訓練を受けている聖歌隊のメンバーと合同の学びをできないかと、岳藤先生がおっしゃっておられるんだが、できるかなぁ」岳藤先生とは、長男の出た神学校の「教会音楽部」の責任者つまり学部長とでも言える方です。長男は名古屋のその聖歌隊の理事の一人で、私の神学塾の教師の何人かも理事になっていますから、勿論この計画は問題なく進むでしょう。しかし神様はちょっぴり皮肉な方でもあるようです。


「父について」

また本筋から離れすぎました。結局末っ子で甘やかされていた私は高等学校に進むことになり、家族の中でただ一人月謝を払わなければならない教育を受けられたのです。でも皆さんはなぜそんなに教育を受けると言うことに私たち家族が執着したのかと、不思議に思われるかもしれません。前に「坂の上の雲」について述べたときに、これは私の家族の物語だと感じたと思い、この物語の主人公たちは、新しい時代のために「教育を必要と感じた」と書きました。私にとっても、これは大切なことでした。父は私たちに「勉強しなさい。」といつも言いました。現代の親たちのよく言う言葉です。しかしそれで終わりではありませんでした。必ずそれに続けて「お祖父さんが勉強して、社会に役立ったように、おまえたちも勉強しなさい。」と教えたのです。ここでお祖父さんというのは私の父の父のことですが、私の祖父は上野国(こうづけのくに)の高崎藩の、昔の言葉では一介の百姓つまり庶民でした。当時の日本の庶民の一人として当然祖父も寺小屋で読み書きを学んでいたと思います。(当時も日本は世界で最も高い識字率を誇っていました。)しかし祖父は仮名の読み書きだけで満足しなかったようです。「お祖父さんは貧乏の中で苦労して、辞書を手に入れたのだよ。」つまり祖父は漢字を読み書きできるようにと考えたのです。それは維新の時でした。新政府は「新しい政治の始まりを知らせる高札」を各地に立てました。各地と言っても、各藩は依然として行政・司法の権威を持っていましたから、高札が立てられたのは勿論は「徳川家の直轄地」つまり「天領」だけでした。ですが関八州と呼ばれた地方の高崎藩のすぐ隣国は天領でした。そして倉賀野と言うところに奉行所がありました。これは例の国定忠治が切り込んで、その罪により死刑になった奉行所です。祖父はそこに立つ高札を見たのです。書かれていたのは、勿論一般庶民のことなど、気にしない「日本のお役所」の初めですから、漢字交じりの布告でした。でも24才だった祖父には理解できたのです。それにはこんなことが書かれていたようです。「新しい天朝様の政府ができた。これはすべてのものに天皇の慈悲を示す政府だ。古い政治の下に苦しんでいるものがあれば、奉行所に申し出なさい。適当な処分をする」祖父は急いで村に帰りました。そして庄屋の間を走り回りました。私はその時代の歴史の本を読んで、高崎藩の租税が「八公二民」だったという記録を見て、祖父の気持ちが分かったような気持ちがしました。つまり「税率80パーセント」だったのです。相談がまとまりました。十何ヶ村の農民が、おきまりの筵旗を立てて、奉行所に押し掛けたのです。世に言う「五万石騒動」です。結果は哀れでした。責任者と認められた8人が死刑になりました。ところが、首謀者の中の最年少の祖父「羽鳥権平」だけは無事に逃れて、東京(そのころはまだ江戸だったかもしれません)に行くことができました。父が教えてくれたことは、祖父はそば屋の出前持ちに化けて、一揆の群衆を包囲している高崎藩兵の中をくぐり抜けて、東京に行き、時の新政府の指導者大久保利通に遭い、まもなく廃藩置県、つまり藩がなくなる時がくるから、しばらく東京にとどまっているようにと忠告されて、それに従ったと言うことでした。父が亡くなってずいぶん経ってから、地方史研究家の中になぜ羽鳥だけ助かって、結局市町村制が成立して、祖父が第一代村長になることができたのか、問題視する人もいると言うことを知りましたが、私たち兄弟は父親に教えられたことを信じていたいねと言う気持ちで一致していると言うところです。とにかく、これが私たちの家族が教育と言うことに執着し続けた理由です。「学べ、そして社会の役に立て」


「高校から」

長くなりますが、羽鳥純二という男の人格形成に関わる次の経験をお話ししましょう。結局私が高等学校に進むようになったと言うことは申し上げました。ただここで当時の高等学校というものについて一言お話ししないと、誤解を招くと思います。当時の高等学校というのは、現在の高校とは全く違います。現在の高校は、私の時代の中学校です。そして高等学校は、今は旧制高校と言われていますが、現在の学制になったときに、大学に吸収されて大部分教養部となりました。しかし、制度が違った問いより本質的にかなり違っていました。教養部(教養学部と違います。)となったのにも現れているように、学生に「教養」を付けるための学校でした。私が入学したとき、阿刀田令造という、第二高等学校の校長は式辞の中でこう言いました。「君たちは今日から第二高等学校の生徒である。高等学校の生徒は大人である。大人だから、やりたいことは何でもやれ。しかし、やったことの責任は全部自分でとれ。それが大人というものだ。」実はこのときの式辞の原稿が数十年後に発見されました。そして同窓会誌に発表されました。ところがこんな言葉は一言もありませんでした。「この非常の時に諸君はよく学び、皇恩に報いなければならない。」と言うような、当時誰が見ても文句が付けようもない、無意味の決まり文句がつづられていました。私はそれを見て、心がふさがれるように思えました。原稿は残ります。誰の手にはいるか判りません。「憲兵」や「特高(特別警察)」などに見られたら大変です。ただでさえ生徒たちのために自由や自治を守ろうとしているために、彼らに目を付けられている校長(私の在学中にも、生徒が軍人を殴ったというので、抜刀した昇降に追いかけられたことがあります。)がどんな目に遭うか分かり切ったことでした。そんな時代でした。でも彼は原稿から離れて、それこそアドリブで本音を言わずにはおれなかったのです。「お前たちは自由に何でもやれ。自分の生き方に責任をとれることが今大切ではないか。」それが命を懸けるような気持ちで、私たちに教えたかったことだったのです。私はそれを受け止めました。それが私の生き方の土台となる一つの「石」としておかれました。同じ日に、もう一つのことがありました。私の父が「これより先両親、保護者などの立ち入りを禁ず。」と書かれている、私がその日からはいることになっている寮のドアに貼られている張り紙の前で、父は私の手のひらの中に、小さなものを押し込んでくれたのです。それは「羽鳥」と刻み込まれた認め印でした。「今日からはお前がこれを使うんだな。」こうして私は責任を負う一人の人間、個人となったのです。私が16才の春でした。そして太平洋戦争が始まった翌年でした。


「戦時中」

それからあらゆるもの、当時の権威・時流に対する抵抗・反抗が始まったといってもよいかもしれません。責任がとれるような生き方をしようとしたらそうなったのです。学校にいる配属将校に怒鳴り込むことから始まって、ナチズムに心酔しているドイツ語の教師ともぶつかりました。配属将校は結局私に謝り、ドイツ語教師は学校の構内で私の姿を見ると彼の方から横道に逸れて、顔を合わせないようになりました。気に入らない授業には出ません。登校拒否第一号かもしれません。しかし、学校に行かなかったのではありません。教室には行きませんが、自分が参加している「科学部」の実験室には必ずいっていました。ですから友人たちは私に会うのにはどこに行けばいいかは知っていました。ですから「羽鳥たまには教室に来いよ。お前の机に今日、蜘蛛の巣が張っているぞ。」こんな調子です。ですから成績は最低でした。担任の教授に呼ばれました。「この学科も悪い。これも落第だ。」一つ一つの点数を調べながら文句を言っていましたが最後は「結局出席天が足りないんだな、少しは出ろよ。」で釈放される始末です。ある化学の授業の時、教授が計算問題を板書して、私を指名しました。「出来ません。」私の返事に「見ろ、判らないじゃないか。」「いいえ、先生、それでは必要な数値が一つ与えられていませんから、解けません。」教授は問題を自分で読み返してみて「羽鳥。お前も出席しさえすればいい男なんだがなぁ。」それで終わりと言うこともありました。実に嫌みの生徒ですね。でも、それでは進学は出来ないでしょう。どこでもいいというのでは、卒業生と入学生の数が釣り合っていましたから、どこかには入れますが、しかし当時の食糧事情では知人も居ない、親戚も以内という町の大学では餓死をしに行くようなものです。私はその時、名古屋か京都に行きたかったのですが、私の家族は東京にしか居ません。それで東京しかありません。そのころの東大というのは現在のように特別な大学とは考えられてはいませんでしたが、しかし私の成績では当然だめです。しかし、私には鼻っ柱の強さの他に、悪知恵がありました。そのころ、東大には「火薬学科」という日本にたった二つしかない変わった学科がありました。(もう一つは秋田工業専門学校の鉱山学部にあっただけ)それで考えたのです。こんな負けるに決まった戦争のただ中に軍のためにしか役に立たない学科に当時の大学に入ろうという優秀な学生で入りたいと思うものなど居ないだろう。それでそこに申し込んだのです。そして私の考えはぴったりでした。志願者が少なかっただけではなく、定員割れでした。正に悪知恵が回った羽鳥純二でした。無事大学生になれました。しかし、在学中に敗戦、この物騒な学科はなくなり、おかげで卒業するために、応用科学科に転科する必要があると言うことで、卒業するまで六年かかりましたが。しかし、その結果私が卒業するときには、朝鮮戦争が始まっていて、日本の工業は息を吹き返して、私は四年で卒業した同級生とは相違して、大企業の技師として就職できました。同級生たちは就職先がなくて、殆どが大学に残りました。それで私の同級生は大学の名誉教授が一番多いのです。私は基幹産業に入りましたから、そこでレッド・パージになり、結局キリストに出会い、救われると言う道を歩めたのもこの私の自己中心の決断の故でした。しかしこの悪知恵が産んだ大学生活は決して、幸いなものではありませんでした。授業嫌いの「性格」は東京に移転してもなくならず、精神的な弱さが表面に出てきて、この数年の間の大きな経験は、催眠薬を一瓶飲むという「自殺未遂」だけでした。後に治療を必要になった鬱病の最初の発症だったかもしれません。これは30時間ほど眠るという、「休養」だけで終わりました。そして私の個性、強さというのは、ただ反抗に於いてだけ現れると言うことが、明確にされただけでしたが、その事実に気がつく知恵はまだ与えられていませんでした。


「就職」

人に遅れてでしたが、卒業して就職をしたのはもう申しました。入社したのは日本鋼管という会社でした。給料は高かったです。数年前に教師となっていた兄より、私の方がずっと高かったのは覚えています。「金と命の鋼管(交換)会社」と言う歌があったくらいです。そして、命との交換というのは文字通り本当でした。私が入社した年にも、一年間で四人の工員が現場で死んだのです。その位、ひどい労働条件でした。それで持ち前の反抗精神に火がつきました。私は労働組合の中で発言をし始めました。それは勿論行員の方々の側にたった発言でした。当時、職員が行員の側にもっぱらたって、意見を述べるというようなことは珍しいことでした。戦後の意識改革はまだそこまで徹底してはいませんでした。ですから、私は目立ちました。私は職員、それも大学での職員でしたから。大学教育を受けているものは3パーセントという時代でした。その上、私は尚、他のことを始めたのです。朝鮮の戦争は私の平和を望む思いをかき立てずには置きませんでした。それで私はただ一人でストッホルム平和宣言(原水爆反対運動の宣言)の署名を、路傍に立ってやり始めました。こんな私に、当然のように共産党側からの接近が始まりました。そして私の入党、それからレッドパージによる解雇というコースを取ることになったのは、誰の目にも明らかでした。


「クリスチャンに」

ずいぶん長くなりましたが、ここまでお話ししましたのは、私が全然理解も、期待もしていないのに、不思議なように私が自分の意志に従って生きる男として育っていき、やがてマルクス主義者からキリスト者になる道を歩み続けたと言うこと、そしてそれが実はそのころ私が考えても居なかった神の導き、摂理というものであったのです。これから私たちは聖書を、一緒に学ぼうとしているのですが、その聖書の学びというものも、自分で考えていくこと、それから聖書から学ぶときも聖書だけを見るのではなく、その周囲の事柄、社会・文化・歴史なども考えていくことも大切です。それは、そういう一切の事柄の中にも神の意志・御心が潜んでいるからです。そういう、奥深い学びを一人ですることは絶望的に難しいことです。だからお互いに考えを分かち合い、助け合って、考えていこうと思うのです。それも二人きりでなく、手をつなぎ合ってネットを、人の輪を作り上げながら、学んでいきましょう。

そして、現在まで隠していた、私の肩書きをお教えします。肩書きなどどうでもいいのですが、ここはやはり日本ですからね。

日本福音キリスト教会連合 自由ヶ丘キリスト教会名誉牧師。東海聖書神学塾 塾長。これが私の名刺に書いてある肩書きです。しかし、このネットは私だけのものではないのは勿論です。ネットですから、多くの方が手を結んで網の目を造っています。私の仲間の牧師たちがいます。いろいろの面で私を助けて下さる方々、弁護士、学者、技術者、いろいろの職業のキリスト者が居ます。波瀾万丈という人もいる私の経歴の中で、私を助けて下さった恩師・同僚・友人・実業家等々主にある兄弟姉妹が居ます。キリスト者ではありませんが喜んで知恵を出してくれる文化勲章をもらった学者も居ます。皆さんに必要な助けを与えて下さる方が続々現れることを確信しています。では、開いてみましょうか。