2002.8.112005.10.20~2012.1.31.




大正5年頃の三・八の市の風景

現・銀座商店街駐車場附近




昭和初期の現柏屋陶器店前
梅の季節には「梅市」とも呼ばれていました。







絵画は故峯岸正雄さん著・「むかしのところざわ百景」より
三・八の市
宿場町として発展してきた所沢は周辺の経済的な中心地となり、
寛永16年11月3日(徳川三代将軍家光の頃1639年)所沢を中心に扇町屋(入間市)入間川(狭山市)の商人達の代表が坂の稲荷を起点に江戸道・上宿、中宿、下宿(現・銀座通り)に沿った道路の両側に向かい合って、都合4列の店が並んで市が開かれました。

月に三回の三の日(三日、十三日、二十三日)に開催された三斎(さんさい)の市は文化年間(1804〜1817)には月三回の八の日(八日、十八日、二十八日)にも開催されるる様になり、三、八の六斎となって「三、八の市」と言われ拡大され絹織物、古鉄、古綿、古足袋、古衣服、古陶器、鉄。ざる、かご等の農具の売買、農産物や塩魚、干物等の日用品の交換も行なわれた様です。

文政期(1818〜1830)に編さんの「新編武蔵野風土記」にも「家数265、月毎に三・八の市をたてり・・」と記されています。

昔から「三八の市」は「所沢のぼろ市」として知られ、近郊の農家や商人が店先を借り庭銭を払い出店していました。

遠くは東京、八王子、近くは川越、田無、飯能から来所し、客は近郷近在より、しかも老若男女を問わず市に群がり、米麦雑穀を始めとして、大正から昭和にかけては鉛筆、だんご、甘酒、種子、鯉、ウナギ、時季によっては苗木、梅の実、バナナのたたき売りらが加わり大通りは人で埋まっていました。
やがて町に定住し店を構えた商人も多くいました。

「ぼろ市」とは別に織物の取引も盛んに行なわれ、

所沢織物の取引を円滑にする為に明治22年(1899)頃、所澤の織物買継商が相談のうえ、金山と坂下(現御幸町)に間口6間、奥行25間の市場(縞座)を設け、三・八の市の日の三の日に金山で取引が行なわれました。
このような関係で金山には多くの有力な織物買継商が集まっていました。

元町交差点にあった「所沢織物同業組合事務所」を境に、東側の銀座通りには「ぼろ市」
西側の金山町寄りは「織物市」がたっていたのです。

終戦後一時期まで金山町界隈では多くの露天商が並び賑わいました。
戦後は「進駐軍の命令で人が集まることが禁じられ、又車両の通行の邪魔になる」などの理由で金山町に移動しましたが、徐々にさびれて、実蔵院の参道で植木市の形でわずかに面影を残すだけになってしまいました。

三八の市は 宿場町の様相を呈していた所沢は農産物の集散地として賑わい、商家が立ち並ぶ町へと発展し、
明治、大正と時代が進むにつれて盛大になり、有力商人が多く生まれ、所沢の町を発展に導いてきました。



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