将棋盤の上に墓石が乗り、線香立てが将棋の駒になっています。
福泉藤吉は、明和三年(1766)所沢村植の宿(現・日吉町)で生まれました。
家業は紺屋だった様です。藤吉がいつ頃から将棋を指し始めたかはわかりませんが、寛政年間に入ると藤吉の名前が棋書に見え始められます。
江戸時代の将棋界は、大橋本家、同分家、伊藤家の三家が、家元として君臨していました。
三家は幕府から家禄を賜る一方、徳川家に対する勤めとして、毎年11月17日に江戸城内御黒書院で将軍に将棋を披露していました。
これを御城将棋と言います。

藤吉は主に大橋分家の会所に通っていたと思われます。
少なくと、寛政九年(三十二歳)には五段に、文化八年(四十六歳)には六段に上がっています。九世名人大橋宗英の選になる「将棋奇戦」(文化八年)「将棋粋金」(文化九年)といった棋書の名寄の上位に藤吉が名を連ねていますので、この頃には彼は宗英門下の重鎮とみなされていたと考えられます。

藤吉は家業の紺屋の仕事をしながら民間棋士として活躍していますが、俳諧を好み「豆人」という俳号を持っていたと言うことから
、当時の所沢村の俳人三上一巣(半次郎)や三上里恵らと、俳諧を通じて交流していた可能性もあります。

所沢村という田舎からやってくる風変り名将棋指し「所沢の藤吉」は当時の将棋愛好者達の間でかなりの人気を博していたようです。晩年になっても藤吉の人気は衰えず、天保六年(1835年)七月に発刊された将棋番付「将棋相撲」・国立国会図書館所蔵では藤吉は西大関に格付けされています。(上の写真参照)
天保八年(1837年)五月二十六日に七十二歳で歿し、市内御幸町にある川端霊園に葬られています。
2001.NOV.01