2002.11.202004.5.52004.12.12

東一番街交差点を北の方へ向かう坂道が飛行機新道です。戦前は所沢飛行場への道でした。
現在は航空公園へ行く道です。



飛行機新道の入口右側には大正時代からの火の見櫓が
残されています。
 戦争中は飛行場に度々米軍の艦載機が飛来し
この火の見櫓を目印に急降下し機銃掃射や爆撃をしてきました。
私が外国人の姿を見たのがこの時が初めてでした。
明治43年に我が国で初めて所沢に飛行場が出来ると、
うっそうとした竹林(2町5反といわれた)の真中を切り開いて新田(日吉町)から
東川に至るまで広い坂道の道路が造られました。
所沢停車場から飛行場まで飛行機を運ぶ為に出来た道路から飛行機新道と呼ばれています。

当時は飛行機を運ぶには牛車に分解した機体を運んでいました。
   

坂を下ると洒落た橋が懸かっています。旭橋です。

橋を渡り西武線のガードを潜った左側に長い石段があり上には御幸町駅が昭和47年までありました。

飛行機新道の入口にある火の見櫓の所に明治9年に所沢警察署の前身、
大和田警察署所沢分室が設置されました。
一般に巡羅路(たむろ)と呼ばれていました。


私の祖父の話として囚人が詰問を受ける時に上げる叫び声が時々聞こえてきたそうです。

左の写真は火の見櫓上から飛行場方面の展望です。
左の白い洋館は大正4年に開館した所沢演芸館の建物です。
昭和初期の頃、右側が飛行機新道、人が歩いています。
明治43年に我が国で初めての飛行場が出来ると、物珍しさに遠方から多数の人々が連日見物にやってきました。
飛行場に通う人々、遥々遠方から兵士に面会に来る家族や外出する兵隊達の為に種々の店が出来始めました。
飲食店、菓子屋、ダンゴ屋、刀屋、うどん屋、射的屋、絵葉書屋、模型飛行機屋等、又蓄音機を備えてサービスするお店もあったそうです。
土産には「飛行場見学記念」の旗、絵葉書、模型飛行機等が人気があったそうです。
坂の途中にある喜多川写真館では飛行士になった兵士が記念写真を撮りに来たそうです。
当時こちらのご主人が飛行場内で唯一撮影を許され、貴重な飛行機の写真を撮影し沢山残されています。
現在では海外でも飛行史として貴重な資料として利用されています。

私の姉達の話では夜間飛行訓練の時にサーチライトに照らし出された飛行機が綺麗だったそうです。
毎日午後6時になると真っ白い体操着を着た陸軍少年航空学校の生徒が隊列を組み、飛行機新道を上がり旧町の町を行進して行く凛々しい姿が見られたそうです。

所沢飛行場の飛行機   所沢飛行場の歴史年表  日本航空発祥地の由来
 私の子供の頃は写真館の前に小川接骨院がありご主人が柔道の道場も併設していました。沢山の子供や青年が稽古する姿を道から見る事もできました。
ウサギ屋さんもあり、ここでウサギを買って飼っていた事もありました。
御幸町駅へは勤めに出ていた父親を迎えに母親、妹と一緒に迎えに行き、待ち時間の間、ジャンケン遊び(グリコ、チョコレート、パラシュート)をしたり土手のススキを取ったり、
帰りにはガラス細工の動物を買って貰うのが楽しみでした。
旭橋の際には公衆便所もありました。お医者さん、豆腐屋さん、八百屋さん、時計屋さん、新聞屋さん、荒物屋さん等沢山のお店が立ち並ぶ商店街でしたが、
戦後駅が無くなり、米軍基地も縮小され人通りも少なくなり、現在は高層マンションが立ち並ぶ通りに変貌してしまいました。






ご意見、ご感想をお聞かせ下さい。

【著作権をお持ちの方へ】
 このページは、個人の趣味で非営利で作成しております。
もし不都合がありましたら、大変お手数ですがメールにて
連絡をお願いします。
このホームペイジに使用している画像データー等の著作権は、全てそれぞれの原著者に帰属します。
商用目的での二次的利用などは制限されています。ご注意下さい。