2002.9.22
2004.12.11


大正時代には「湖月縮・ちじみ」という新しい織物が川越染色学校(現川越工業高等学校)第一期卒業生の青年達により考案されました。
これは、極細の木綿糸で織り上げた夏物の着物地で、東京、京阪神の百貨店等でも販売され、女性達に高い人気を得ました。

所沢は関東地方でも有数の織物産地として発展しました。
大正後期から昭和期にかけて所沢の織物業界のリード役として高級綿着尺地としての名声を大いに高めたのが
「湖月会」でした。
湖月会は業界有力の「平岡徳次郎商店」が夏物に関する新製品の開発と販促進のために、
大正6年(1917)に設けた組織です。


平岡徳次郎商店;昭和6年

湖月会は有力で技術力を備えた10名程度の専属的な機屋を擁するいわば試作研究を行なう
一種のプロダクション・チームとして機能しました。
時代により多少変動がありますが、主に旧元加治村(入間市)や旧入間川町(狭山市)、旧飯能町などの入間川河岸周辺の有力機業家が結集し、当時の県立工業学校(旧川越染色学校・現川越工業高等学校)卒業などの経歴に準ずる学識と
技術力を兼備していることが会員のなる不可欠な条件でした。

「所沢織物誌」(所沢織物同業組合・1928年)も「湖月会」は会員間に一種のトラストとも言うべき経済的連繋を有し
強固なる結束とよき統率のもとに、所沢織物の最高標準を示す優秀品を提供し、特に夏物における所沢織物の進歩は同会に負う処甚大なるものがある」と記しています。

こうして「湖月会」は経糸に八十番手の瓦斯糸を用い、緯糸に玉糸を織り込む「湖月」や「明石湖月」といった
絹綿交織(けんめんまざりおり)を応用した夏物の「新銘仙」を次々と市場に送り出し、
特に京都や大阪の有力な集散地問屋と特約関係を結んで、主に関西方面に販路を広げて行きました。

ちなみに、当時の織物事務所での取り扱い品目の記録をみると、湖月、新湖月(銘仙)、
ちぢみ、綾織、大島絣、青縞、夜具地、朱子、別珍、綿服地、シャツ地、敷布等多様でした。

これらの製品を全国に売るために当時のファッション雑誌「婦女界」に
毎回広告をだすなど宣伝活動やマーケッティングを精力t的に推進していきました。
中山晋平に作曲を依頼し
「所沢小唄」のレコードを作製しました。


クリックして下さい。歌が聴けます。

作詞・永井白作曲・中山晋平、歌は地元の名妓「千両」「小蝶」、

竹久夢二には絵葉書を依頼して所沢織物の宣伝活動もしていました。


竹久夢二が大正5年に所沢織物の宣伝の為に描いた絵葉書、所沢小唄の歌詞が入れられています。



当時の大女優・岡田嘉子をモデルにした湖月明石の宣伝ポスター・昭和12年