2002.7.1  2008.6.9=2011.11.7.


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ファルマン通りの東一番の交差点(通称・ねぎしの交差点)を右折(旧浦所線)し50メートル程行き左の狭い道を進みます。
この道が市街道の起点で、この周辺を「植の宿」といい、江戸末期に栄え、旅館、料理屋が軒を並べ、文人もいれば、侠客なども住んでいた所です。
明治時代にはこの交差点に庚申堂がありました。

左側に墓地(川端霊園)があり、墓地の斜前に庚申堂があります。
この庚申堂は北向きのお堂で珍しいものです。

柴又、浦安のものと並んで関東三大御堂と言われています。

昔は町内の人達が集まりお日待ちの行事を行っていました。



子供の頃は家が近所でしたので境内でいつも遊んでいました。
夏はハンモック木と木の間に吊って昼寝をしたり、鬼ごっこ、かくれんぼう等をし
お堂の左側にサルスベリの木があり、いつも登っては遊んでいました。

市街道

牛沼の中央で「江戸みち」と「八王子みち」に分かれています。
江戸時代には東部にあたる、柳瀬、大和田、志木方面から庶民が所沢の三・八の市に買い物に行ったり、市に商品を運ぶ荷車などで
賑わっていたことでしょう。私の子供時代は道の両側はお茶の木が続いていて、自転車の練習に使っていました。
北の斜面には沢山の桑畑があり、桑の実(ドドメ)を良く食べては口の周りを青く染め母親から怒られていました。
今はすっかり住宅地に変貌してしまいました。


明治時代までは庚申堂はファルマン交差点にありましたが、後に市街道の墓陵:川端霊園前に移されました。
寛文2年(1622年)に祀られたそうです。


庚申堂のご本尊「青面金剛像」は、人の生死を預かり、
疫病を退散させる偉大な力を持っておられる仏さんです。

庚申信仰は中国で発生した民間信仰で、我が国では室町時代から流行し江戸時代に繁栄をみました。
 江戸時代、道教の影響を受けて人間の肉体には三尸蟲(さんしのむし)というものが巣くっていて、寝ている間に天に昇り、その人の罪を天帝に密告し、それによって人の寿命が決められるとされていました。その為、六十日に一度めぐってくる庚申の夜には、誰もが眠らずに徹夜して、三尸蟲が抜け出さないように見張る庚申待の信仰が生まれてきました。

庚申講は、供養のためにこの様にお堂を建てますが,
庚申塔の多くは道標を兼ねて,辻などに建てられています。

境内に入ると右側の足元に石塔が並んでいます。
笠付き型の庚申塔です。
この庚申塔群もねぎしの交差点や下新井から庚申堂の庭先に移されたそうです。

庚申塔



三基の庚申塔の内
左側の庚申塔の上の部分には月、日が刻まれています。
これは月が沈み日が昇る意味で
一晩中をお守りする意味だそうです。
宝永7年(1710年)

左から二番目の庚申塔は中央に「青面金剛」両側には二童子、
その下に肩をいからせた四夜叉がが二列に並び、
その下に猿と鶏が刻まれているという複雑な図像で
ユーモラスな感じさえうけます。
寛文3年(1663年)

三番目の庚申塔
元禄11年(1698年)

右端の石塔は六十六部供養塔で国内、
六十六国を巡拝してきた記念碑です。
天文5年(1740年)

いずれも相当古い庚申塔が並んでいます。
厄神社



境内の右側に厄神社があります。

 庚申堂の前の墓地に行ってみましょう。
将棋の名人、福泉藤吉、重松流祭りはやしの創始者古谷重松のお墓があります。


飛行機新道に架かる旭橋へ



我が家にやって来る野鳥達をご紹介します。




航空公園で出会える野鳥を紹介しています。
 戦前所沢飛行場にあった懐かしい飛行機の写真をご紹介します。

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