2002.11.012004.12.11




三上里恵女の句碑

むさし野にらちなく老いし柳かな

野遊亭里恵女の句碑が市内・薬王寺境内にあります。
自分を「老いし柳」になぞらえて、埒なく、つまりとりとめなく、
たわいもなく老いてしまったと自嘲する句です。

三上里恵は江戸後期に活躍した所沢の女流俳人です。
里恵は宝暦三年(1753)に中藤村(東京都武蔵村山市)に
生れ、所沢の三上半次郎に嫁ついできました。
一説には所沢の生れとも言われています。
「武蔵野話」の著者斉藤鶴磯は、里恵女の句集「屏風形画頌」序文を寄せています。
そのなかで「里恵女は、野老沢邑の産也」と記している。
つまり里恵女が頼んで書いてもらった序文だから、所沢生まれだと言う説です。

三上家は、酒造りのほか、米屋・『角三上』という宿場、
馬継場(問屋)などを業する豪商でした。
夫半次郎は俳句を学び野遊亭一巣(いっそう)と号し、
江戸の俳人・雪中庵三世大島蓼太の門人でした。
里恵も共に蓼太の門人となり句作に励んでいました。
当時の所沢の商家では夫婦で俳諧を楽しむのが一つの教養で
あった様です。
一巣は文化十四年(1817)に66歳で亡くなられています。
先だった一巣は
「人間は花をは見にといふておけ」 という辞世の句を残しています。

その追善句集「ひととはは」文化十五年(1818)が
里恵や息子の巣谷等により刊行されています。

夫の没後,里恵は八朶園蓼松の一門となり江戸と所沢を往来し
活躍していたことが「蓼松日記」にも見られます。
里恵は老年になっても風流の道に遊び句作を続け
77歳のとき喜寿の記念に句集「屏風形画頌」(文政九年)83歳の時
に句集「牡丹帖」を編んでいます。
近隣にその名の知れわたった彼女も天保八年(1837)九月三日に
八十五歳の長寿を全うし、世をさりました。
お墓は薬王寺にあります。



里恵女の墓

里恵女の作品

山くさや雪の中より春みゆる

うらなきを照らさせたまへ夏ころも

花の上に夜のひきあまる牡丹哉

菊の花寝覚めは旅にしくそなき

明ける夜を呼合するや稲すヽめ

葉かくれのほたんに下りる日あしかな

所沢から生れた将棋の名人・福泉藤吉は、俳諧も好んだと云われています。
俳号は「豆人」と言います。
一巣や里恵と同じ時代に所沢で生活していましたので、
当然里恵との交流もあったと考えられますね。

参考資料;小峰孝男氏 所沢今昔集(新聞記事)他