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明治19年(1886年)入間郡三ヶ島村大字堀之内(現・所沢市堀之内)生まれました。
本名をよしといい、寛太郎(三ヶ島小学校長)、さわの長女として生まれました。
父の転勤に伴い槻川村(東秩父村)、小手指村(所沢市)、児玉町など各地の小学校を転々としました。
埼玉県女子師範に学び、「源氏物語」「帝国文学」などに親しみましたが、肺を患って中退し、小学校の代用教員として勤めながら、新詩社、青鞜社に入り、「女子文壇」「青鞜」「スバル」などに短歌を発表し、与謝野晶子の指導を受けました。
大正3年(1914)教職をやめて、同5年(1916)アララギに入門し、島木赤彦の指導を受けて作品を発表します。
文学を通じて知り合った倉片寛一氏と結婚しました。

倉片家は所沢・御幸町の曽根の坂の近くで「倉片牛乳」の名で牛乳搾取業を営んでいました。


 



所沢に関する歌も残しています。
牧場から飛行場は近いので、彼女は所沢の家に来ると散策かてら、
たびたび飛行場の野原で遊んでいたのでしょう。


飛行場の出来て変れる
所沢 この道のところ我が家なりし 

(大正7年作)

わが家のまうへをとおる 飛行船 
大いなるもの 空をゆくかも




同10年 (1921)には、生前唯一の歌集「吾木香(われもこう)」を出版しました。

大正13年(1924)脳出血のため半身不随となり、いったん回復したものの、昭和2年(1927)再発し、
東京麻布で生涯を終えました。享年42歳でした。
告別式には北原白秋秋等文学界の著名な方達も参列しています。
個性派俳優として活躍した故左ト全は異母弟です。



倉片よし
(1886-1927・
明治19年-昭和2年)
昭和2年3月26日歿 42歳 
(浄貞妙芳大姉) 
三ヶ島葭子の墓は実蔵院にあります。
彼女が嫁いだ倉片家の墓に眠っています。
毎年、彼女の命日、3月25日前後の日曜日には墓前で「吾木香忌」(われもこうき)が行なわれます。




しみじみと障子うすぐらき窓のそと
音たてて雨のふりいでにけり


神明神社の境内には三ヶ島葭子(よしこ)の歌碑があります。






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