2002.8.242004.12.7〜2006.6.11


私が所沢小学校に入学した年は昭和19年(1944年)4月でした。
戦争の真っ最中で学校も所沢国民学校と
言われていました。

 

帽子には学校の校章がついています。
胸には真っ白いハンカチ・チーフに名前が書いてあります。
上履きを持って記念撮影。(喜多川写真館で)





一年生の遠足で行った荒幡の富士






小学校運動場・後方に奉安殿等が見えます。
昭和12年・所沢実科高等女学校生徒の薙刀の演技






写真は昭和30年頃の校庭です。
私の勇姿です。





私が所沢小学校に入学した年は昭和19年(1944年)4月でした。
戦争の真っ最中で学校も所沢国民学校と言われていました。
一年一組に入学、担当の先生は加藤チヨノ先生でした。
正門を入ると左側の二階建て校舎の前に二ノ宮尊徳の像がありました。

正面と右側の校舎は平屋で一番北側の校舎は二階建で音楽室がありました。
正門の左側の校舎には立派な入口があり教員室、衛生室もこの建物の中にありました。全ての校舎と校舎の間は渡り廊下で繋がっていました。

衛生室の近くには山羊小屋があり、奥の方にはブタ小屋もありました。
上級生が動物の世話をしていました。
校庭には桜の木が沢山あり入学式も桜が咲いていました。
ランドセル中には真新しいクレパスや教科書が入っていました。
国語の教科書は「サイタ、サイタ、サクラガサイタ。ススメ、ススメ、ヘイタイサン、ススメ」だったと思います。

校庭からは裾野まで広がる富士山が良くみえ、初めての写生の時間には富士山の絵を書きました。今でもこの絵を書くことが出来る程気に入った絵でした。
校庭の西側にはポプラ並木があり、道を隔ててテニスコートがありました。校庭にはコンクリートのバックネットの台座が残っていました。
ここにボールを投げてはピッチングの練習をしていました。
校庭の塀際の左側には鉄棒が並び、南側の奥に竹のぼり、ロクボクがあり前には直径10メートル、
深さ5メートル位の穴が二つあり、この円錐形の穴をグルグル回って走る遊びをしていました。
雨水が沢山溜まり危険な為直ぐに埋められてしまいました。
南側の奥には、太い枝を横に張り出した大きな月桂樹の木があり、裏の麦畑から取ってきた実をガム代わりに噛みながら枝にまたがり青年団の野球の試合を観戦したりしていました。
南西側には天皇陛下を祀った奉安殿等がありました。

学校の裏の周辺は畑で溜池があり蛙などもいました。うらの道には赤いタンクがある家があり、
この家の所で二股に道が分かれていて久米へと続く道がありました。

赤門

校門の前の女学校の脇の道には赤い大きな門があり、材木屋さんの門で、あたかも昔話に出てくる鬼が島の門の様な重厚感のある立派な門でした。

正門の他に講堂の入口と運動場の入口に石の門がありました。
現在も校門と塀は昔の面影が残っています。

運動会の思い出

勿論軍国主義教育で鬼畜米英でした。
運動会は玉入れでは無く、アメリカのルーズベルト大統領とイギリスのチャーチル首相の似顔絵を篭に張り付けボールでこのカゴを早く打ち落とす球技でした。
歌も「出てこいニミッ、マッカーサー、出てくりゃ地獄へ逆落とし」と唄っていました。
秋には青年団対抗の運動会が開催されていました。一町六ヶ村の対抗で派手な応援合戦や騎馬戦、
棒倒し、リレーなどを競っていました。

遠足の思い出


一年生の時の遠足は荒幡の富士まで歩いて行きました。
4年生の時は井の頭公園、6年生の時は江ノ島から箱根での一泊旅行でした。
謄写版で修学旅行の学校新聞を発行しました。
ガリ版に筆耕で文字を書き、上からなぞる印刷機です。
職員室の隣の部屋で刷って,作っていました。

終 戦


国民学校2年生の時に町にも空襲が始まりました。
学校へは防空頭巾を持参して登校。
空襲が激しくなると、ほとんど学校へは行けなくなりました。
二年生の夏・8月15日に終戦を迎えました。
11月には小学生一年生と2年生には”ふかし芋”が配給されました。

G・H・Qから「修身」「日本歴史」「地理」等の廃止の指令があり教科書の中で軍隊や戦争に関係のあるものは全部塗り潰されました。
教科書不足で「スミ塗り」教科書が使われ、運動靴や学生服はくじ引きで支給されました。
貧しい家の子供はお金が無く、買えない人もいました。

小学生4年生 の時に六三制の義務教育が始まり所澤国民学校は廃止され、6年制の所澤小学校になりました。学校給食が始まり、脱脂ミルクが配られました。
これがアメリカの味かと思いながら飲んでいました。後にトン汁らしきものも配られたと思います。
生徒達はランドセルにアルマイトのお椀を入れた布袋を下げて登校していました。

小学生5年生 の時に職員室の前のプラタナスの木に新生の鐘が付けられました。授業の開始、終業の合図に鳴らしていました。
これは新生教育ほ始まりで
「自由の鐘」「創造の鐘」「共同の鐘」の三つの鐘の歌が出来皆で歌っていました。♪自由の鐘は何処で突く・・海の向こうの国で突く・・いえいえそれは違います・・それは楽しい組の中♪
この三つの鐘をテーマーに自分で演劇の台本を初めて書いて演じました。

6年生の夏に子供郵便局「光局」が出来、私設のポストに手紙を入れると学校に集められて、夏休み中「はとの便り」として各児童の家に配達されました。



終戦後は唯一のスポーツは野球でした。
空き地や学校の校庭で日が暮れるまで楽しんでいました。

校庭にはバックネットの台座のコンクリート壁があり
ここにボールを投げてはピッチングの練習をしていました。
学校から帰って来ると家の前の尾張屋菓子店で紅梅キャラメルを買うのが楽しみでした。
キャラメルの箱の中のカードを集めていました。
鍋屋横丁にあった駄菓子屋で新聞紙の袋に入ったプロ野球選手の写真を買って集めていました。
中にホームラン賞等が当たると大きな選手の写真が貰えました。


小学生時代に集めたプロ野球選手のブロマイドをご覧下さい。

校庭の南側の奥に竹のぼり、ロクボクがあり前には直径10メートル、
深さ5メートル位の穴が二つあり、
この円錐形の穴をグルグル回って走る遊びをしていました。
雨水が沢山溜まり危険な為直ぐに埋められてしまいました。
南側に横に張り出した大きな木があり木登りをしながら青年団の野球の試合を観戦したりしていました。


昭和24年頃の校舎配置図
思い出しながら作成してみました。
ご覧下さい。