2002.8.25

2002.9.222006.8.15


所沢織物の起源は明らかではありませんが、所沢織物資料によると、
自給自足からだんだんと副業化し、鎌倉時代には商品化し嘉吉元年(1441年)に青梅の織物市場で青梅縞として地縞を取引したのが最初であろうとされています。

「所沢絣」

青梅縞はその後次第に元加治(入間市)、入間川、柏原(狭山市)所沢方面(現山口地方)に広がり、
狭山湖の湖底となった勝楽村や上山口を中心に山口村全地域で生産されるようになり
農業の副業的生産が増加し、産地としての独立が確保される様になりました。


そこで、取引も文化、経済の中心である江戸に近い所沢に移り、弘化元年(1844年)頃所沢織物の基礎ができた様です。

三・八の市の隆盛と共に織物の取引も盛況となり多くの織物関連の店が立ち並ぶ様になりました。
綿糸商(御幸町・井筒屋、金山町・伊勢富)等や染料商(現佐野屋文具店)等、買継商の縞屋(金山町・正芳、斉半)等が続々と開業しました。

このようにして、明治時代から昭和初期にかけて、織物の町として栄えました。

なかでも木綿紺絣の「所沢絣、飛白・かすり」は庶民の仕事着として人気を博していました。


「湖月縮」


大正時代には「湖月縮・ちじみ」という新しい織物が川越染色学校(現川越工業高等学校)第一期卒業生の青年達により考案されました。
これは、極細の木綿糸で織り上げた夏物の着物地で、東京、京阪神の百貨店等でも販売され、女性達に高い人気を得ました。
ちなみに、当時の織物事務所での取り扱い品目の記録をみると、湖月、新湖月(銘仙)、
ちぢみ、綾織、大島絣、青縞、夜具地、朱子、別珍、綿服地、シャツ地、敷布等多様でした。

これらの製品を全国に売るために「所沢小唄」のレコードを作製し竹久夢二には絵葉書を依頼して所沢織物の宣伝活動もしていました。
作曲・中山晋平、歌は地元の名妓「千両」「小蝶」、



近在の農家では養蚕で多忙になり、非農家の娘さん達は機
(はた)を織り、町内でも数多くの家々で機織りの風景が
見られました。

あちこちからカタン、コトンと機織の音が聞こえ、主として「絣」が多く織られ、チャンカランと音がするので「チャンカラ織り」等とも呼ばれていました。


町内には織物関連の蔵造りの綿糸問屋、織物問屋、仲買商のお店が立ち並び、これらの店の荷を積んだ手車、馬力の往来がしきりでした。


山口村での機織風景 所沢飛白が織られていました。
絵画は故峯岸正雄さん著・「むかしのところざわ百景」より

所沢はかっては入間・多摩地区の織物の集散地として賑わい、
ここで取引される織物は「所沢織物」と称されていました。

大正時代には所沢界隈には大小の機屋が80軒もあり、大正8年にそのうちの15軒で「湖月会」を結成し盛況を極め、
大正11年に当時の一等地、元角三上という宿屋の跡地・181坪(現元町交差点)に事務所を建設しました。
1月3日に起工式が行なわれ、同年11月15日に完成という超スピード工事でした。
総額60,000円、正面玄関から階段には赤い絨毯が敷かれ、二階は100余畳の大会議室、天井にはシャンデリア、屋上には避雷針が取り付けられ、
外装はタイル張りの豪華なもので、当時は「白レンガの西洋館」などと呼ばれていました。

盛大な記念祝賀会が行なわれ、組合の若い衆による仮装行列も行なわれ、口々に織物振興の歌を唄いながら大通りを練り歩いたそうです。
巨大な事務所には連日近在の人々が見学に訪れ、大会議室は陳列会、雄弁大会、活動写真、時局講演会等が開催され、現在の市民会館や文化会館の役割をしていました。

昭和に入り織物の衰退と共に織物事務所の役割は終わり、昭和46年4月に同事務所は入間市仏子に移転しました。
その後取り壊され「織物の町・所沢」の象徴的建物は姿を消しました。 残念な事ですね。 市として保存出来なかったのでしょうか・・・