2002.7.24 8.12008.6.29.

明治21年に甲武鉄道株式会社が飯田橋ー新宿ー八王子ー甲府を結ぶ鉄道の計画があったので、これが所沢を経由して八王子に通ずるように運動しましたが、成功せず、この鉄道は明治22年4月1日(1889)に開通しました。
その後国分寺から所沢を経て川越に至る川越鉄道の敷設計画をたてたところ当時は汽車が通ると火の粉が飛んで危ないとか地響きがするなど一部の人から強い反対がありましたが、熱心な発起人の人達により、明治25年6月21日(1892)に会社を設立し直ちに着工し、明治27年(1894)には国分寺から東村山、翌28年3月に所沢を通って川越まで開通、川越ー入間川ー所沢ー東村山ー国分寺のルートで鉄道が開設されました。
川越鉄道と呼ばれ現在の西武新宿線の誕生です。
所沢にも「所沢停車場」が誕生しました。当時は町場から離れ、人家もまばらで地名も新田とよばれ、所沢宿の場末で竹林と畑も多いところでした。
間もなく汽車を利用する人々の為に「待合茶屋」の小澤屋、神藤屋が開業されました。
明治38年4月に停車場の傍らに所沢警察署の派出所も出来、やがて人力車の常駐する俥屋も出来る様になりました。
一日の乗降客はわずかで、周辺の農村から大八車で甘藷や麦、薪、ごぼうなどの荷物ホームにを運ぶ人、貨車から物資を下ろして、得意先に運搬する馬方、大八車の往来も多く、多くの馬が集まるので金靴屋(馬蹄屋)、獣医も多忙だったそうです。
大正4年、武蔵野鉄道(現・西武池袋線)が池袋ー飯能間が開通、昭和2年に高田馬場まで開通し、電車になりました。




大正初期の所沢停車場上空です。家並みも少なく周辺は畑でした。

所沢停車場





戦争中は現在航空公園に還ってきた
我が国航空史上最初の犠牲者、木村、徳田両中尉の銅像が
停車場の構内にそびえ、空都所沢のシンボルになっていました。ときおり、紅顔の少年航空兵が上官に引率され銅像の周囲を清掃する姿も見られたそうです。


大正初めの所沢停車場
上空を飛行機が飛んでいます。



昭和10年代の所沢駅
右端に航空犠牲者木村・徳田両中尉の碑が見えます。

大正13年5月に宮寺(入間市)出身の本橋氏が当時画期的な乗合自動車を開業しました。
所沢ー川越間、所沢ー田無間、所沢ー田無間の営業をはじめました。
その後、志木町の旧家(生薬屋)村山氏が米国製のフォードの乗合自動車を買い入れ、志木の「いろは橋」から所沢停車場までの営業を始めました。
乗合自動車も当初のものは天井も低い10人乗りで、時々オーバーヒートし、又道路も舗装されていませんので、パンクも珍しくなかった様です。

停留場に赤い旗を出していけば止まり、また乗客が手をあげれば、どこでも乗合は止まってくれたそうです。


大正13年、駅前に橋本乗合自動車商会が開業しました。
川越ー所沢ー箱根ヶ崎ー青梅の路線を走りました。


昭和30年頃の改札口付近のプラット・ホーム
柱には町の商店の看板が沢山並んでいました。


駅弁売り



明治28年に川越鉄道がひかれ、所沢停車場が出来ると暫くして
停車場前に「待合茶屋」の小澤屋、神藤屋さんが商売を始めました。
神藤屋さんは、ホームニ汽車が入ってくると駅弁を売りでました。
のり巻き、叺(かます)すし(油揚げ)、時には水菓子(果物)も
売っていたそうです。