2001.1.30作成

2002.12.03





所沢ファルマン通りのイメージキャラクター・ファルクスです。


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私が誕生した頃(昭和12年・1937年)は入間郡所沢町でした。



両親共所沢の商家の生まれでした。

曽祖父ー天保元年(1830)誕生
祖父ー文久元年(1861) 誕生
父親・明治25年 誕生
母親・明治35年 誕生


家は江戸時代からの煙草屋と雑貨屋で化粧品、薬、小間物を販売していました。
現在も甥が5代目として引き継いでいます。

専売公社になる以前からの煙草屋で曽祖父が刻み煙草を売っていました。
曽祖父は煙草の入った引出しがついた箱を天秤棒にかけ売り歩いていたそうです。
所沢では一番古い煙草屋で
坂のたばこ屋と呼ばれていました。

母親の祖父は江戸道(現・銀座通り)で油商・父親は小間物商を営んでいました。
明治32年所沢商店便覧図にも名前が残されています。

明治32年のファルマン商店図

今でも当時の看板(天狗煙草)が保存されています。

「観斎筆 煙草屋図大絵馬」

山口観音に奉納されている市指定有形文化財・「観斎筆 煙草屋図大絵馬」は
私の祖先が奉納したのではとの言い伝えがあります。

生家の右隣(現うどん屋)は人力車の停車場だった様です。

人力車場 

私の兄以上は皆覚えています。私の記憶の中では並木ダンゴ屋でした。

坂のランプ屋

次のお店がランプ屋(渡辺金物店)で裏の納屋には沢山のランプが残っていました。

商店街の四つ筋交差点(通称・根岸の交差点)の坂の途中にあり左向かい側は飛行場(陸軍航空士官学校)への道で
飛行機新道といわれ軍人さんが大勢往来していました。

毎朝起床ラッパや飛行機のエンジンの音を聞いて育ちました。

先ずは生家の近所の想い出からつれずれなるままに書いてゆきましょう。




植の町・ファルマン通り近辺



植の宿・東町・御幸町

この周辺を「植の宿」と言われ、江戸末期から栄え、旅館、料理屋が軒を連ね文人もいれば
侠客(関東一の親分小金井小次郎の一の子分勘七)、江戸時代の将棋の名人(福泉籐吉)
所沢まつりでお馴染みの市無形文化財「重松流祭り囃子」の始祖、古谷重松もここに住んでいました。
籐吉、重松の墓は近くの川端霊園にあります。
将棋の名人・籐吉の墓は将棋盤の上に駒の乗った珍しい墓です。

戦前には加藤隼戦闘機隊の歌でお馴染みの彼も一時近所に下宿していたそうです。

根岸の交差点
マルマン通り交差点


         

私の生家前・プロペ通り・根岸の交差点より駅方向を望んだ写真
左・大正初め?    右・昭和60年頃
右平屋は現在、今田履物店とコーヒーハウス・グリーン、以前は魚屋でした。

左上のほうに見える樽は共同の水を貯めて置いた貯水槽です。



    
            
  平成10年撮影・右奥には未だグラシス・タワービルはありません。 昭和26年頃・銀座通り方面 左側が生家                               

農家の方が各家からくみ取った糞尿を桶に入れて馬に引かせた荷車で運んでいました。
家の前は少し坂になっていましたので馬が滑って桶が道に落ち異臭で大変な騒ぎとなりました。



左端に尾張屋菓子店があり、右側正面には山口屋(荒物店)がありました。右端・鍋屋米穀店・鍋屋横丁入り口

大雨が降ると側溝の溝が溢れ道は川の様になり商店の品物等が流れてきたこともありました。



昭和30年代のファルマン通り・現グラシス・タワー前より根岸交差点方向を望む
正面奥・松葉屋さん、現在はマンション


大きなメンチ(メンコ)の真中を星状に切って羽根を作り北風に吹かれて転がって行きます。
幼い頃はここの大通りも遊び場でした。

ファルマン通り(旧日吉町1番街商店街)もグラシス・タワーの高層ビルが出来たり各お店もビル化したりして昔の面影も少なくなりました。

昭和七年のファルマン通り商店街

戦後から昭和30年頃までのファルマン通り(旧日吉町商店街)の店舗を私の記憶の中から書き出してみました。
ご覧下さい。


昔からある店舗
きみや子供服店、半田時計店、理髪くわばら、コスゲ、いとや、岩田荒物店、丸政園、シマムラ、イイノ酒店、白山堂、
昭和屋、鈴木書店、メガネの田中(以前はうどん屋)田畑食品(以前は佃煮屋)、根岸菓子店、鍋屋米穀店、かわせや、
今田履物店、
コーヒーショップ・グリーン(以前は魚屋)、まるみや、麺工房くるみ(以前はおもちゃ屋)、
こばやし履物店、松葉屋商店、カメラの山口、
グラシスタワー内・中島魚店、錦華園本店、グラシャス(以前は早川散髪店)おがわや、

現ヤマハの所に広沢医院があり私の子供の頃は大変お世話になりました。


ダイエーの斜前には立派な蔵造りの平岡徳次郎商店がありました。
終戦直後。ここで英語学校が開かれ私も小学生時代にアルファベットの書き方を教わりに通った事もありました。
後に3階建てのエスカレーターもある高島屋ストアーに建て替えられ、現在は再建されゲームセンターになっています。




ダイエーの角を左に曲がった道路が学校新道です。
私の母校・所沢小学校があります。

思い出の所沢小学校へ


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旭町・浦和方面

根岸の交差点を浦和方面に歩いてみましょう。

市街道

交差点を起点として川端霊園の前の道を市街道と言い
牛沼村で「江戸みち」と「八王子みち」に分かれ、江戸時代は東部にあたる柳瀬・大和田・志木方面より買い物に来る人、
又所沢の三・八の市に商品を運ぶ荷車等庶民の往来で賑わっていました。



ねぎし菓子店と尾張屋菓子店の間・旭町方面(浦和方面)の道でお正月になると羽根突きをして遊びました。
突き当たりに駄菓子屋さんがあり、畳の部屋でお好み焼きやもんじゃ焼きが食べる事ができました。

現在はありません

このお店を左に行くと川端霊園があります。


私の家の墓地も此処にあります。
我々は墓領と呼んでいました。

この霊園には
江戸時代の将棋の名人、福泉藤吉の墓があります。

古い地図を見ると現在鍋屋米穀店の所に彼の地所が明記されています。

又、所沢の無形文化財重松流祭り囃子の始祖・古谷重松氏のお墓もここにあります。


この霊園の前に庚申堂があります。
この庚申堂は江戸末期頃建立されたもので、内部には青面金剛が奉られています。
境内には今から337年、302年、290年前の浮彫庚申塔3基と260年前の野老沢村の文字が刻まれている六十六部供養塔があります。
子供時代はここにあったサルスベリの木に登ったり、樫の実(ジンタンボウ)を拾ったりした格好の遊び場でした。

踏み切りの際に借りていた畑がありました。戦後の食糧難当時はここで野菜を栽培していました。
踏み切りを渡ると桑畑が広がり道端にはお茶の木が連なり、この道で自転車の稽古をしていました。
時々桑の実(ドドメ)を食べては口の周りを紫色にして帰り、母親からいつも怒られていました。
桑畑の中に大きなクヌギの木があり、夏になるとカブトムシ、玉虫、カナブン等が沢山捕れました。

現在は住宅地になっています。



真すぐ坂道を上がると浦和方面に行く大きな道に西武新宿線にかかる七世橋があります。
この道は旭町のはずれにあった陸軍病院(現・市民医療センター)があり、
急病、負傷した軍人を急いで搬送する為に軍の命令により昭和16年に完成しました。
謂れは一刻も早く病院に運び、再起の為に治療し七度生まれ変り国に尽くす、
いわゆる「七世報国」の言葉から「七生橋」と名付けられたそうです。
現在は「七世橋」と表記されています。

ここの土手で遊んだり、
当時は汽車が煙を吐いて走っていましたので、橋の上で煙に巻かれるのを楽しんだりもしていました。

線路に大きな釘を置き電車が通り過ぎると平たくなった釘で小刀を作ったりした事もありました。

東所沢駅

七世橋を渡り坂を下りきった所の十字路を右折して西武池袋線の踏み切りの所に東所沢駅がありました

志木又道

七世端が出来る前は根岸菓子店の裏の道が本道でした。
志木又街道と呼ばれていました。


この道には沢山の商店が建ち並んでいました。
所沢から志木、浦和、清瀬方面に行く重要な道路でした。
道路の両側には酒屋、だんご屋、足袋屋、魚屋、荒物屋、旅館、その他軍人さんの下宿屋ら賑わっていました。
所沢の無形文化財重松流祭り囃子の始祖・古谷重松氏もここに住んでいました。

昭和16年以前の町並み


昭和の初期頃、この辺には朝鮮人の方が住んでいてお正月には綺麗な民俗衣装を見る事が出来たそうです。

ねぎし菓子店の裏の道におかめの面や熊手を作っていた家や石屋さんもありました。

こちらで作られた熊手はお正月に神明神社の境内で売られ、商売繁盛を願う人達が買い求めていました。
我が家も全員で大晦日の除夜の鐘を聞きながら神明神社で初詣をして熊手や張子の獅子等を買い肩に担いで帰ってきました。





神明神社の熊手市

飛行機新道と御幸町駅

 生家の斜め正面に飛行機新道(坂道)があります。

明治43年に我が国で初めて所沢に飛行場が出来るとねぎしの交差点から
東川に至るまで鬱そうとした竹林を切り開いて道路が造られました(大正元年)。
この道を
飛行機新道と呼ばれ土橋が架けられましたが、飛行場の拡張等に伴い連日見物客等も増え
ヨーロッパ風のモダンな橋・旭橋が昭和5年に完成しました。
旧町の一番東側にあるのでこの名がつきました
戦前は橋の欄干にガス燈が取り付けられていました、
戦時中に供出されてしまいました。
西武線のガードを潜った際にガードの上まで長い階段を登った所に駅がありました。
昭和13年に「所沢飛行場駅」として開設され後に「御幸町駅」と呼ばれ
飛行場に通う人達が利用していましたが昭和26年に廃止されました。




        

当時は砂利道で右側に現在も半鐘(火の見櫓)があります。
戦時中、飛行場へ攻撃する飛行機が火の見櫓スレスレに下りてきて機銃掃射をする米兵の顔が見えました。

火の見櫓の下にあった土蔵作りの家が火事になり兄が櫓に駆け登り半鐘を叩いていました。

根岸の交差点に尾張屋菓子店があり小学生時代に野球選手のカードが入った紅梅キャラメルを毎日買うのが楽しみでした。

旭 橋



東川に懸かる旭橋のの左側には公衆トイレがありました。(現在駐車場)

御幸町駅

つき当たりの西武線のガードを潜ると左側には長い石段があり、上がると御幸町駅がありました。
中学生時代はここから都内の学校へ通学していました。

所沢駅からあまりにも近いのでその後廃止されましたが、
この階段で良くジャンケンをして「チヨコレイト」「グリコ」「パイナップル」と進むゲームをして遊びました。

坂道の途中にガラス細工の店があり、母親と一緒に当時陸軍省に勤めていた父親を迎えに行き
帰りに動物のガラス細工を買ってもらうのが楽しみでした。

喜多川写真館の真向かいに接骨院(小川接骨院)と柔道場があり暫く通っていました。
喜多川写真館で時々記念写真を撮っていました。
ご主人が昔の飛行場や飛行機の写真等貴重な写真を残しています。


昔の所沢飛行場にあった飛行機をご紹介します。
喜多川さんが撮った貴重な写真です。

坂の稲荷

 

プロペ通りと銀座通りの境にある神社


創立は寛政年間(1789〜1800)と言われています
所沢宿の下町(御幸町・東町)の商人を中心に信仰を集めたお稲荷さんで通称『坂の稲荷』と呼ばれています。

300年の伝統を誇る「所沢の三・八の市」は、ここを起点にして上町(金山町)まで露天商が出て賑わっていました。
昭和初期までは、三月の初午の日に行なわれていました


家の直ぐ近くにお稲荷さんがあります。坂の稲荷として親しまれていました。ここが毎日の遊び場でした。
狐の石像に上がったり、奉納されたお人形等で遊んだり、社殿の周りには桜の木もあり春には満開の桜も楽しめました。

周りの垣根は棘のある萱の木があり雨上がりにはカタツムリ、アゲハ蝶の幼虫も沢山いました。


右隣が草加屋さんと言う和菓子屋さんでお餅を突く音が良く聞こえました。
左側はお茶屋さんがあり村野さんの叔父さんから火鉢にあたりながら昔話を聞くのが楽しみでした。

叔父さんが時々境内で焚き火をしてくれ焼き芋を作ってご馳走してくれました。


坂の稲荷のペイジ
現存する石造物等を紹介しています。


松葉屋さん

家の真向かいは炭屋さんでした。
今は大きなビルで一部マンションになっていますが、
江戸時代は多分料理屋さんだった様な沢山の部屋がある家でした。
立派な作りの大きな家で軒先にはツバメが巣を作り、
その下で石蹴りをしたりして遊んでいました。
裏庭は広く樫の木に囲まれた蔵や炭小屋があり、かくれんぼや野球をしたりして遊びました。


鍋屋横丁


現在のグラシスタワーの右側と米穀店(鍋屋さん)の間の道は鍋屋横丁と言われ幼い頃の遊び場でした。
田中医院の前に小さな広場があり、紙芝居がいつもやってきました。
拍子木と太鼓を持って近所を一周したりしていました。
水あめを練って白くする競争をして一番早く白くすると景品が貰えました。
駄菓子屋があり、新聞紙の袋に入った野球選手のブロマイドを引いてホームラン賞等が当たると
大きな選手のブロマイドが貰えました。

この時集めた野球選手のブロマイドをご覧下さい。



町の横丁を紹介しています。


映画館(演芸館)



飛行機新道を下って途中を左に行くと所沢演芸館がありました。
大正4年、御幸町に創立された所沢演芸館、
その後名前を名邦座、所沢日活、名画座と変え長い間市民に親しまれていました。





幼年時代は良く姉に連れられて映画を見にゆきました。
「踊る狸御殿」や嵐寛十郎の「鞍馬天狗」「丹下左膳」等を見ては手ぬぐいで変装して
チャンバラごっこをして遊んでいました。

当時(戦前)の映画館は2階に上がるときは下駄を脱ぎ下足札をもらってから一部畳敷きの席について見ていました。
冬は火鉢があり炭火で暖を取りながらの鑑賞でした。

ニュースでは必ず戦争の場面が出てきて日本軍の活躍が紹介されていました。


銀座通りにも
「歌舞伎座」「後に所沢中央」がありました。
明治36年雛沢座として開館、後に歌舞伎座と改名しました。
自由民権運動期には、ここを会場として盛んに政談演説会が催されました。

終戦後は勿論暖房など無く、だるまストーブの近くの席が特等席でした。着込むだけ着込んで行きました。
当時は映画の前に実演が良くあり「田端義夫」「岡晴夫」等のマドロス・スタイルの歌手達も来ていました。

小学生時代の同級生の家が持ち主でしたので、時々連れていって貰っていました。

現ダイエーの所に昭和29年に所沢東映映画館も開場され、中村錦之助、美空ひばり等の映画を観ていました。
昭和42年に全焼して閉館してしまいました。


 
現・ダイエーにあった東映映画館とダイエー前の広場(昭和30年代)

ギブミー・チョコレート


戦後間もなくアメリカ兵が進駐してきて近所(現・ダイエー前)に歩哨小屋がたちMPの腕章をした兵隊が立ちました。
初めて見る外国人でした。初めは皆恐がり遠目に見ていましたが、そのうちに子供達にお菓子等をくれる様になりました。
いわゆる「ギブ・ミーー・チョコレート」です。


空襲の思い出

お昼頃2階の物干しから立川、八王子方面の軍事工場等へグラマン機の編隊から一機づつ急降下して爆撃しているのが見えました。
のんびりその飛行機を見ている時、大きな音と共に地響きがしました。
近所のプール(裏宿にありました)に爆弾が落ちました。
初めて空襲の恐ろしさを感じました。

防空壕の蓋を恐る恐る押し上げて外を見ると家の前の火のみ櫓すれすれにロッキード機が飛行場に機銃掃射を浴びせていました。
操縦するパイロットの姿も見えました。
空襲が終わると担架にのせられた負傷者が新井病院(昭和通り)へたびたび運ばれて行きました。
姉も臨時教員で基地の近くの学校の帰りに機銃掃射に遭遇したそうです。

我が家にも機銃掃射の流れ弾が2階の柱を突き破り壁に弾が刺さっていました。
外のアスファルトの道には高射砲の破片が突き刺さっていた事もありました。

空からは紙幣の裏に早く降伏するように書かれた物や電波妨害の銀色のテープ等が落ちてきました。


ラジオで敵機の飛来を聴くと母親と一緒に乳母車に荷物を積んで久米にある親戚の家まで時々避難していました。
途中に豚小屋があり、側を通ると強烈な臭いがしていたのがいまだに思い出されます。

防空壕

家の下から表通りに通じる防空壕を堀り壁には古い看板等を張り付け家財道具等を運び込み、
毎日のようにサイレンの音とB-29の爆音が鳴り響きそのたびに防空壕へ退避しました。
あのB-29の爆音と防空壕の土の匂いは今も鮮明によみ帰ります。

B−29が飛来すると下の方で高射砲の煙が空しく漂ようだけで弾は届きません。
日本の飛行機が体当たりをするのをみました。

東京大空襲の日は東の空が真っ赤になり、キラキラと光が絶え間なく落ちていきました。
その下で多くの犠牲者が出ているのに幼い私にはまるで花火を見ているようでした。


学校へは防空頭巾を持参して登校。


二年生の時に終戦を迎えました。

終戦の日(小学校2年生)

ラジオの前に近所の人達も集まってきました。
天皇陛下の声が流れてきましたが、何を言っているのかサッパリ分かりませんでした。
後で日本が負けた事が分かりました。


米軍基地の町

飛行場の跡には米軍基地ができ米兵が駐留するようになり、
ジープや今まで見たこともない車等が町の中を走り初めました。

女性の兵隊が自動車を運転しているのを見てビックリしました。

パンパン事件

当時生活の為に多くの女性は米兵相手に体を売って生活する人達が目立ち始めました。
その人達の事を「パンパン」と言っていましたが幼い私には意味が分からず
米兵と腕を組んでいる女性に向かって「パンパン」と言ってしまい家に怒鳴り込まれ、米兵に殺されるのでは思いました。




次のペイジ
所沢駅プロペ通り周辺)









航空公園で出会える野鳥をご紹介します。

我が家にやって来る野鳥達をご紹介します。
 戦前所沢飛行場にあった懐かしい飛行機の写真をご紹介します。
 毎年10月に開催される商工祭・沢山の山車等をご紹介しています。



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