
2002.9.22![]()


武蔵野台地のほぼ中央にある所沢市にはいつ頃から人が住み始めたかは明らかではありませんが
昭和41年に三ヶ島の砂川遺跡、その後下安松、荒幡、北野からも先土器時代の石器が多数発掘されていますので
少なくとも一万年以上前から人々が住みついていた様です。
奈良・平安時代になると、中央官庁と武蔵国府とを結ぶ主要道路が市の中央を北から南へ走り、旅人の難儀を救う為に
天長10年(833年)に武蔵国悲田処が市の南端にあたる大字久米付近に造られました。
鎌倉時代になると、この道路は鎌倉街道と呼ばれ、これを主軸として元弘3年・小手指ヶ原の戦い等が行われました。
中世に新光寺界隈の「鎌倉街道」沿いに民家が出来始め、
江戸時代に江戸と秩父を結ぶ往還道「江戸道」(銀座通)沿いに広がり宿場町・街道町が形成され
「三八の市」が立つ町場として地域経済の中心として発達しました。
江戸後期から明治期にかけては「所沢飛白」と呼ばれる綿織物の一大集散地として賑わい、
明治30年代には全盛期を迎え、「蔵造り」の商家が競い合う様に軒を連ねていました。
明治9年に埼玉県に所属し、同14年に所沢町となりました。

明治28年に鉄道が敷設され、明治44年に日本初の飛行場が開設され、「織物のまち」「飛行機のまち」として発展してきました。
昭和12年には上水道が完成して市街地は次第に大きくなりました。
昭和18年・所沢町と吾妻、山口、小手指、富岡、松井村とが合併し
昭和25年11月3日市制施行、同30年に三ヶ島、柳瀬村を合併し、新所沢地区の団地をはじめ、分譲地の整備
返還された米軍基地跡地は計画的に行政の中枢機関が完成し21世紀の新たな町へと発展しています。
かっては商店街の中心として栄えていた旧町付近は、現在は高層マンションが立ち並ぶベット・タウン化になりつつあります。
人口約320、000人 面積約72.00ku
市の花ー茶の花
市の鳥ーひばり
市の木ーいちょう
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