2002.7.11

2003.7.17



明治五年(1872)八月三日、文部省布達13号として「学制」が頒布されました。
所沢(村)でもこの学制に基づいて所沢学校を創立しました。

明治六年(1873)3月に校舎を浦町(有楽町)の薬王寺を充てました。

明治8年(1875)1月、文部省通達で小学校生徒の学齢を満6歳から満14歳までと定められました。
この年所沢学校の児童数は、男子52人、女児54人でした。
平民に必ず苗字を称することになったのも、この年からです。

翌明治九年(1876)に薬王寺の西側に板葺二階建ての校舎を新築しました。
階下3室、二階3室の6教室で、児童数は男97名、女107名、教員は7名でした。
この年の所沢(村)の人口は2,428名、429世帯でした。

薬王寺西側に新設された小学校
私の父親が通っていました。

明治12年に教育令(文部省布告)により、学校を、小学校、中学校、大学校、師範学校、専門学校、その他学校と定められました。

明治19年(1886)に勅令第14号を以って小学校の課程を4ヵ年、高等小学校を4ヵ年と定められ、
この年に校舎西南側にも平屋建ての校舎1棟が新築され、
高等小学校に備えました。

明治20年には高等小学校を設置し、同25年には所沢町ほか2ヶ村(松井村、富岡村)組合高等小学校になりました。




明治21年生徒募集の広告です。

明治22年(1899)6月に学務委員の制度がきまり、所沢地区の初代学務委員に斉藤与惣次さんが就任しました。
毎朝校門の前に立ち先生でも遅刻をすると怒られたそうです。

この方の家は明治天皇がお泊りになった行在所としても使われました。


明治32年(1899)4月 現在の場所に新たに校舎が建築される。



明治38年頃、右校舎が明治32年、左校舎は明治35年に建てられたもの
昭和初年まで一部は存続していました。


写真は校舎建築の様子です。
明治32年(1899)4月に所沢町大字三本木(現在の小学校)に新校舎が建築され、組合高等小学校のみ移り、
尋常小学校は従来通り薬王寺の西校舎を使用していました。





所澤男子尋常高等小学校
所澤女子尋常高等小学校



明治41年頃の所沢小学校
私の母親が通っていました。

明治41年、所澤高等小学校を廃し、男女別々の尋常高等小学校になりましたが
明治43年には男子・女子の両校は廃きされ、所澤尋常小学校となりました。
この名称は昭和16年、国民学校と変わるまで続きました。
所澤尋常高等小学校学校園(明治44年頃)




所澤尋常高等小学校(大正5年頃)



校内に大正5年に町立実科女学校・所澤図書館が併設されました。
手前の畑は学校園です。
明治41年(1908)に校舎新築と校門前に道路を隔てて、学校園を設置し各級毎に草花を栽培していました。
当時の新聞にも校門前の500余坪あり、斉藤与惣次さんが草花の苗を数百株を贈ったと記されています。

明治43年の教職員は17名、児童数は994名で所沢町の人口は6442人、
世帯数1258世帯でした。




写真は大正6年頃の所沢尋常小学校と学校敷地図です。




昭和5年頃の所沢尋常小学校正門です。
門柱は今でも残っていますね。


明治45年7月に雨天体操場が出来ました。
後に講堂と呼んでいました。




昭和7年頃の中央校門 左側に雨天体操場



私が所沢小学校に入学したのは昭和19年(1944)第二次世界大戦の真直中でした。
私の思い出話をお聞き下さい。