横浜駅周辺年表

横浜駅周辺略年表(1)
池部雅文、『横浜駅周辺うつりかわり』、横浜駅東口開発公社、1980、pp.58-63

西暦
1266(文永3)「神奈川」の地名、初めて鎌倉八幡宮文書北条時宗の下知状にみえる。

1507(永正7)7月10日権現山の戦い。北条早雲初の武蔵侵攻、上杉朝良を攻める。上杉から謀反人。下克上のはじまり。

1590(天正18)青木城、秀吉に攻略さる。秀吉全国統一。

1601(慶長6)東海道の宿駅、伝馬の制が定められる。神奈川宿設置・

1603(慶長8)家康江戸幕府を開く。

1687(貞享4)帷子川流域開墾。

1695(元禄8)帷子川流域検地。

1707(宝永4)11月23日午前10時富士山大爆発。降砂80キロ四方に及ぶ。

1718(享保3)幕府は隠娼の禁令を解き一戸二人に限り飯盛り女を置くことを許可。青木町、神奈川町に散在。

1754(宝暦4)尾張屋大仲、南浅間町の埋立完成。

1770(明和7)大飢饉のため神奈川宿に百姓一揆が起きる。

1782(天命2)藤江茂右衛門、浅間町の埋立完成。

1786(天命6)神奈川宿に大火三百軒焼く。

1787(天命7)6月神奈川宿民飢餓により打ち壊し。

1805(文化2)品川宿からの抗議で、代官が神奈川宿、保土ヶ谷宿などの舟持ちに対し、海路で富士山や大山に参詣するものの便宜を計ることを禁止。

1833(天保4)岡野良親、良成父子、岡野町の埋立完成。

1839(天保10)平沼九兵衛、平沼町の埋立完成。

1850(嘉永3)11月2日神奈川宿民、米価騰貴によって権現山に集まり騒動。

1853(嘉永6)ペリー浦賀来港。

1854(嘉永7、安政1)日米和親条約締結。2月24日駒形(大桟橋付近)でペリー寄贈のアメリカの模型蒸気機関車を試運転。

1857(安政4)松山藩主松平隠岐の守定成神奈川付近防衛、幸ヶ谷に陣屋、権現山頂上を遠見番所に当て移国船警備。

1858(安政5)日米修好通商条約、神奈川沖で米軍鑑ポーハタン号上で締結。米公使ハリス、日本側井上信濃守直清、岩瀬肥後守忠震。

1859(安政6)6月2日横浜開港。本覚寺初代アメリカ領事館となる。(6月1日)
神奈川宿宮の河岸ー州干まで通船。ヘボン上陸。
神奈川宿飯盛旅館の営業を禁止(1863年解禁)。浅間町ー戸部道路開通。
10月英国総領事オールコックの要請により神奈川台下、石崎、吉田橋など10カ所に関門を設ける。

1860(万延1)神奈川台場完成(6月)勝海舟設計、大砲14門。

1861(文久1)江戸にもどる英仏公使に対し神奈川砲台から21発の礼砲を放つ。

1862(文久2)8月21日生麦事件で英人本格寺に逃げこむ。
本覚寺で石橋六之助はヒュースケンのボーイとなる。また小林平人はコックとなる。高杉晋作、久坂玄瑞ら外国公館襲撃を策し神奈川宿に集合(未遂)

1867(慶応3)1月28日英人ウエストウッド江戸横浜間の鉄道建設を申請。
12月23日小笠原長行、米公使館書記官ポートマンに免許。

1868(慶応4)神奈川宿大火。良泉寺、長延寺、熊野神社焼く。

1869(明治2)横浜船渠株式会社設立。11月政府は東西両京を結ぶ鉄道を幹線と定め、東京ー横浜を支線とする。
12月政府はホレーシォ・ネルソン、レイと百万ポンドの借款契約(東京、横浜間)

1870(明治3)本陣の制度廃止。野毛町海岸埋立完成。花咲5丁目に高島嘉右衛門、西洋木造2階建を新築。
米国人、ジョンバラを招き英学校を開設。
3月9日エドモンド・モレル横浜着(鉄道の父)
6月1日英人レイの資金調達方法に不満を感じ借款契約解除。

1871(明治4)横浜を官軍に引き渡す。8月9日、日本最初の陸橋青木橋完成。9月関門廃止。
2月高島嘉右衛門、野毛浦ー青木町の埋立完成。初代横浜駅完成。

1872(明治5)権現山を切開き、鉄道敷設。
5月7日品川ー初代横浜仮営業。6月5日神奈川駅、川崎駅ともに完成。
9月12日新橋ー初代横浜営業開始。(9往復)初代横浜駅、神奈川駅開業。高島町遊郭設立。
11月現横浜駅東口5橋に不二見、万里、月見、碧海、漣(さざ波)の名称を付す。

1873(明治6)9月15日新橋ー横浜間貨物取扱はじまる。

1874(明治7)戸部にマッチ工場。7月宝町埋立完成。

1875(明治8)戸部に横浜牧畜会社。

1879(明治12)青木町大火220戸焼く

1881(明治14)高島町遊郭が取り払われ、長者町、不老町へ(6ヶ年限り)

1886(明治19)7月19日政府は明治16年8月6日、中山道を幹線とすることにきめたが、これを変更、東海道線に改め公布。

1887(明治20)7月1日初代横浜ー国府津開業。*保ヶ谷、戸塚駅開業。麻真田工業、戸部を中心に発達。
→1931年に保ヶ谷駅を保土ヶ谷駅と改称

1888(明治21)高島町遊郭が真金町、永楽町へ。

1889(明治22)4月16日東京ー浜松間開通、6月16日横須賀線開業、7月1日東京ー神戸全通。

1890(明治23)真金町遊郭、神奈川七軒町に移り神奈川芸者と合併。←原文のまま

1891(明治24)横浜船渠工場操業開始。

1894(明治27)12月軍用線3・5K(神奈川ー保土ヶ谷)開通。

1896(明治29)神奈川ー初代横浜間の鉄道を支線とすることに市会は反対建議したが失敗。
横浜電線平沼町に創業。東海道線複線工事開始。船舶工業飛躍的に発展。
帷子川、大岡川流域に染物工場、ハンカチのふちどり工場発展、製糸工場群生。
6月29日西平沼町に横浜電線製造KK設立。

1899(明治31)軍用線を営業線に(遠距離直通列車)

1900(明治33)神奈川町埋地の遊郭が反町に移転(神風楼は明治17年真金町と神奈川七軒町に移転したがこの年廃業)
5月10日鉄道唱歌「東海道編」発行。

1901(明治34)平沼駅開業。12月29日東海道線急行列車に食堂車。

1904(明治37)神奈川・大江橋間に電車開通し大正10年市電となる。

1905(明治38)7月19日平沼亮三の母千代子、出征兵士の歓送でホームと列車の間に落ち死亡。1月幸ヶ谷・宮前町前海岸を大野某埋立(大野町)12月林某により林町(現金港町)完成。
12月京浜急行品川ー神奈川開通。
メリヤス工業始まる。

1906(明治39)6月11日東神奈川八王子起工。

1907(明治40)スタンダード・バキューム石油神奈川油糟所西口に置く。

1908(明治41)本覚寺山門修理。(1226年草創)開港の歴史を物語る寺院としての遺構はこの山門のみ。
平沼の漁民、原油もれに抗議。
9月23日東神奈川ー八王子開通。

1909(明治42)山内町埋立完成、森谷此助により守屋町埋立完成。

1911(明治44)神奈川の神風閣(元神風楼)が消失、イギリス人と邦人3名焼死。
農民、浅野セメントの降灰に抗議。
橋本町埋立完成

1912(明治45)8月鶴屋八郎左衛門、鶴屋町の埋立完成。
新浦島埋立完成、千若町埋立完成。
横浜駅周辺略年表(2)
1914(大正3)12月20日高島駅開業。東京ー高島町パンタグラフによる運転開始。
3月茂木六兵衛、北幸町、南幸町の埋立完成。

1915(大正4)8月15日第2横浜駅開業。初代横浜駅を桜木町と改称。平沼駅、高島町駅廃止。
12月30日貨物駅東横浜駅開業。(東神奈川駅1)
中村房次郎神奈川に化学工業のパイオニア舎密(セーミ)研究所を設立。

1917(大正6)横浜船渠工場敷地を10万4千坪に拡大。
職工8千人を超える。

1921(大正10)5月15日神奈川県匡済会「横浜社会館」(労働者合宿所)開館。

1923(大正12年)関東大震災、9月1日第2横浜駅倒壊。平沼のスタンダードの貯油糟爆発。西口反対運動のもととなる。

1926(大正15年)2月多摩川園ー神奈川開通(東横線)
5月厚木ー二俣川、12月厚木ー上星川開通(相鉄線)京浜第一国道完成。

1927(昭和2)8月渋谷ー多摩川開通(東横線)出田考行により出田町埋立完成。

1928(昭和3)2月桜木町ー赤羽開通(京浜東北線)3月匡済会を民間経営とする。
5月渋谷ー高島町開通。(東横線)横浜駅名物シウマイ弁当登場。
10月15日第3横浜駅完成。市営バス運転開始

1929(昭和4)厚木ー西横浜開通(相鉄線)

1930(昭和5)3月15日横須賀線を列車から電車運転に。3月28日湘南電鉄浦賀ー黄金町開通。
5月宮前町に船舶修理業・野村合資会社新鉄工場発足。

1931(昭和6)1月20日東横線渋谷ー桜木町全通。
新労農党中央委員長、参院議員大山郁夫夫妻、横浜港からアメリカへ亡命(1947年帰国)
11月1日程ヶ谷駅を保土ヶ谷駅と改称。
12月26日京浜電鉄、湘南電鉄と連絡、横浜ー浦賀全通
青木町に岩井胡麻油工場開設

1932(昭和7)横浜社会館を横浜新興クラブと改称、男子独身アパートとする。

1933(昭和8)12月27日相鉄、厚木ー横浜全通。
州崎神社境内に青木小学校第1回卒業生により雪中庵蓼太の「ふところへ入りくる帆あり夕涼」の句碑が建立された。

1935(昭和10)横浜市電営業開始(神奈川ー大江橋を買収)

1936(昭和11)第二京浜国道起工。宝町、大黒町埋立完成。

1940(昭和15)3月13日横浜線桜木町ー原町田開通。

1942(昭和17)1月15日横浜駅西口振興期成同盟結成、横浜初空襲

1943(昭和18)10月17日匡済会、東急に賃貸。横浜駅シウマイ弁当、肉の入手難で製造中止。

1945(昭和20年)5月29日横浜大空襲、被災者31万(死者3650人)
11月進駐軍輸送指揮所(RTO)開設。横浜駅前に天幕村。
6月25日匡済会、勤労者宿泊所を開設。

1946(昭和21)9月横浜駅前天幕村全面撤去。東神倉庫出島に開業。

1948(昭和23)西口庁舎完成。

1949(昭和24)東神倉庫、菱光倉庫に買収さる。
3月15日反町で日本貿易博覧会。
6月28日市警本部建設(現スカイビル)木造2階建。

1950(昭和25 )市役所、日本貿易博覧会あとへ移る。

1951(昭和26)5月2日匡済会、社団法人を社会福祉法人に組織変更
7月14日高島桟橋からニューヨーク定期航路再開。
東口石炭置場埋立、県により開始(5月)

1952(昭和27)相鉄、西口広場24700uをスタンダード・バキューム石油から買収。
12月東口石炭置場埋立完成。

1955(昭和30)6月30日市警本部廃止。
10月10日三ツ沢競技場で国民体育大会が開かれ西口周辺道路が整備される。

1956(昭和31)4月2日横浜駅名店街(57店)、映画館、高島屋ストア営業開始。

1957(昭和32)9月20日相鉄文化会館開業。
※山口辰夫では6月21日相鉄文化会館オープン

1958(昭和33)4月16日横浜高島屋仮設店舗営業開始。
9月4日横浜駅北側自由地下通路完成
横浜、県央の住宅化始まる。
開港百年祭

1959(昭和34)相鉄会館完成。横浜高島屋営業開始。市役所庁舎、現在地へ移る。
崎陽軒社長野並茂吉氏ら地元有志で、「横浜駅前復興促進会」結成。
全港湾労組事務所、出島に移転。

1960(昭和35)4月、市長の諮問機関「横浜駅東口開発対策審議会」(会長津村峰男市会議長)設置。

1961(昭和36)12月12日相鉄ビル営業開始。西口5番街完成。
9月27日横浜駅前振興株式会社(現横浜スカイビル)設立。

1962(昭和37)2月28日東急ホテル開業。
11月23日西口駅ビル開業。
市会、工業立市を表明
県人口379万人(昭和20年の2倍)以後7年間で3倍547万人。その92%は市部。

1963(昭和38)12月東口駅前広場整備完了。

1964(昭和39)5月19日桜木町ー磯子開通。
10月1日新幹線東京ー新大阪開通。
10月10日第18回オリンピック東京大会開催
12月1日ダイヤモンド地下街完成。
12月16日駅ビル地下街連絡口開口

1965(昭和40)12月19日第三京浜道路開通。

1967(昭和42)7月29日東口にスカイプール開業(温水プール)
11月3日横浜センタービルオープン

1968(昭和43)3月8日スカイビル完成。サンコー、オープン。
4月22日横浜市人口2百万人突破
4月25日東名高速東京ー厚木開通
5月11日桜木町ゴールデンセンターオープン
8月1日県人口5百万人突破
11月3日横浜岡田屋開店
11月28日首都高速羽横線開通

1969(昭和44)5月25日東名全線開通
7月8日横浜駅周辺地区総合開発協議会発足(会長内山岩太郎)

1970(昭和45)3月17日桜木町ー洋光台開通。
※山口辰夫では磯子ー洋光台開通
3月18日横浜そごう出店許可(営業許可面積7400u)
5月1日横浜都市開発株式会社設立。三菱造船所移転跡地の再開発に当たる。

1971(昭和46)3月5日相鉄ムービル、オープン
8月1日新相鉄ビル相鉄横浜駅、オープン
10月21日横浜駅東口開発公社設立。
10月30日新相鉄ビル高島屋増築、オープン
市電横浜駅ー山元町廃止となる。

1972(昭和47)3月31日トロリーバス廃止
4月5日ダイエースーパー、オープン
6月西口に県政総合センター完成
※山口辰夫では10月23日
12月16日地下鉄伊勢佐木長者町ー上大岡開通

1973(昭和48)2月19日天理ビル、オープン
4月9日国電桜木町ー大船完成
※山口辰夫では根岸線洋光台ー大船開通
5月1日県人口600万突破
10月10日横浜高島屋増築完成
11月20日相鉄ジョイナス完成(総工費360億円、地下2階地上5階、専門店270)
※山口辰夫では11月8日
11月23日三越横浜店開業
12月25日横浜駅東口開発公社起工式

1974(昭和49)11月29日ダイヤモンド地下街増築完成(店舗1583u)
※山口辰夫では11月30日地下街西通り、オープン

1975(昭和50)4月2日相鉄いずみ野線開通

1076(昭和51)9月4日地下鉄上永谷ー横浜全通

1977(昭和52)3月7日首都高速横浜公園まで延伸
4月4日ヨコハマスタディアム竣工
7月31日匡済会ビル解体
10月29日マリナードオープン
11月23日三ツ境忠実屋オープン
11月30日天王町ショッピングデパートオープン

1978(昭和53)3月7日首都高速道路羽横線延伸工事(横浜駅ー花園橋)完成
5月1日横浜市人口大阪市を抜き全国2位となる
5月25日相鉄ジョイナス第2期工事完成。(総工費百億円地上8階に増築、延床面積20万余uとなる)
※山口辰夫では5月23日高島屋増築部分、オープン
9月9日大通り公園開園
9月20日東海プラーザニチイ、オープン
9月28日横浜高島屋第3次増築完成。売り場面積5万7千uとなる
※山口辰夫では5月23日
10月6日ニチイショッピングデパート、オープン
東口出島地区帷子川埋立完成。
11月11日イセザキモール、オープン

1979(昭和54)10月1日新貨物線、鶴見ー東戸塚間開通。
10月1日第2バスターミナル、オープン
12月4日YCAT大野町で営業開始

1980(昭和55)9月30日ダイヤモンド地下街102番通り、オープン
11月7日東西連絡自由通路開通
※山口辰夫では自由通路1/3完成
地下街ポルタ、地下駐車場営業開始。
第4代横浜駅完成。ステーションビル・ルミネ営業開始。

1981(昭和56)3月15日ホテルリッチ、オープン
4月25日自由通路2/3開通
11月20日自由通路36メートル完成(日本一)

池部雅文、『横浜駅周辺うつりかわり』、1980、横浜駅東口開発公社,pp.58-63
山口辰夫、『横浜三街物語』、1982,有隣堂pp.157-160

『横浜日記』の年表,横浜駅前変貌の年代記
終戦直後の西口

山口辰夫、横浜三街物語、1982年,有隣堂,p.142

米軍資材置き場
鶴屋橋、南幸橋、二ノ橋
岩崎(洋裁学院)
新田間川(あらたまがわ)がダイヤモンド地下街、岡田屋モアーズの方向に流れていた。

ー横浜駅西口荒廃地24700uが相鉄の手に帰すまで。ー

1907年(明治40年)アメリカのスタンダード石油会社が神奈川油槽所を開く。
1923年(大正12年)9月1日第2横浜駅倒壊。平沼のスタンダードの貯油糟爆発。
西口油槽所再建反対運動のもととなる。
スタンダード石油、油槽所の再建が出来ず鶴見区安善町に移転。
(ある時は材木置き場となり、またある時は石炭、砂利の原っぱとなる。)
戦時中に敵性財産として接収され、海軍の資材置き場となる。
終戦を迎えて米軍の砂利置き場として接収される。

1956年(昭和26年)スタンダード石油会社に戻る。
1957年(昭和27年)相鉄、西口広場24700uをスタンダード・バキューム石油から買収。土地買い受けについては、相鉄のほかに横浜市ほか一社の三社共願となった。
池部雅文、「横浜駅周辺うつりかわり」、1980年、横浜駅東口開発公社、p.50
1950年代横浜駅西口
1,横浜駅西口(1950年頃) 



駅舎は右奥の建物で、庇部分の4本の柱が手前に白っぽく写っている。中央コート姿の人物の右は土管。砂利舗装。

2、横浜駅西口改札口(1954年) 三村 守



左から2〜7番までの出札、その上に路線図、東横線10円区間、入口、たばこ、駅や車内をきれいに、手洗所、入口、一方通行などの文字が読める。

3,横浜駅西口(撮影年不明)



▲終戦後、西口玄関にたって眺めるとこの有様、正面に岩崎洋裁学校が目立つ。pp.142-143

4,横浜駅名店街と高島屋ストアー(1956年頃)



5,横浜駅名店街(1956年頃)



右は水信、向かいは鈴木カメラ

(写真@BCD山口辰夫、『横浜三街物語』、1982年,有隣堂,pp.142−143)
(写真A神奈川県写真家協会、『フォト・ドキュメント・ヨコハマ』、1983年,p.16)

赤塚行雄(1930ー)
1930年横浜生まれ。評論家。中部大学名誉教授。
栗田谷国民学校→斎藤分国民学校→神奈川県立横浜第二中学校(現・県立横浜翠嵐高校)

有島生馬(1882−1974)
画家、小説家。有島武郎の実弟として野毛山の税関官舎で生まれた。明治29年、「白樺」の創刊に参加、セザンヌらの画家を紹介したことは有名。1914年(大正3年)、二科会を創立、洋画壇の重鎮となった。

有島武郎(1878−1923)
小説家、評論家。東京小石川に生まれ、父が横浜税関長になったため、少年時代を野毛山の官舎で過ごした。代表作には「或る女」、「一房の葡萄」などがあるが、それぞれ紅葉坂、野毛山が舞台として登場する。


大川常吉
・(1923年)関東大震災の時、多くの朝鮮人の命を救った当時の鶴見警察署長大川常吉氏を記念する碑が横浜市鶴見区の東漸寺にある。
・在日コリアンの間では、ユダヤ人を救ったドイツ人実業家オスカー・シンドラーのような勇気を持った日本人と評価する声も出ている。
・70年ごろから大震災の研究をしている元小学校教諭の山本すみこさん(64)によると、大震災後、約300人の朝鮮、中国人が寺に保護され、その後、同署に移された。自警団が詰めかけたが、署長の大川氏は、朝鮮人たちを自警団に引き渡さなかったのだという。
2003,10、4、朝日朝刊神奈川版

岡倉天心(岡倉覚三)、(1862−1913)
桶谷秀昭訳、『茶の本』、1983年、平凡社
彼は横浜で生まれ、士族ではあるが貿易商である父の方針によって、国文、漢文を習得するまへに英語をおぼえた。その抜群の語学力が、東京大学の学生の天心を、アメリカ人宣教師フェノロサに結びつけたのであり、天心の日本の伝統美術に対する開眼は、フェノロサからの刺激なしには考へられない。法隆寺夢殿観音像の扉を敢えてタブウを破ってフェノロサと共にひらいたといふ行為は、近代的進歩的な文明開化の意識なしには不可能である。
一等先鋭な文明開化の生んだ子が激しい伝統の自覚者になるといふ天心における逆説は、彼の前半生の輝かしい世俗的栄光と後半生における失意、敗北をいろどってゐる。
天心はこの敗北の自覚において、従容と死に旅立つ利休を描いた。pp.112-113

大佛次郎
『なぎさ』、05年2月1日、京浜急行電鉄株式会社
おさらぎじろう(1897−1973)
1897年10月9日、横浜市英(はなぶさ)町に三男二女の末っ子として生まれた。
第一高等学校、東京帝国大学政治学科へと進み、外交官を目指すが、文学の道へ。
生活のために娯楽小説誌に大佛次郎の筆名で書き始めた『鞍馬天狗』が評判となり
一躍流行作家になる。代表作はほかに『赤穂浪士』『風船』『ドレフュス事件』『パリ燃ゆ』
『天皇の世紀』など、本名は野尻清彦。
愛猫家としても知られる。pp.2-7


快楽亭ブラック(1858−1923)
明治始めに活躍した英国人落語家。
1858年、オーストラリア生まれ。6歳の時、開国から間もない横浜に両親と来日し、横浜市内にあった外国人居留地で育った。
手品の一座に雇われるなどしているうちに芸人の世界に入り、1878年に横浜の居留地で初舞台を踏む。江戸っ子も顔負けのべらんんめい口調を操り、時事ネタを盛り込んだ新作落語に定評があった。1923年、東京でなくなった。
外国の伝記物を紹介。
2002,8,24朝日朝刊


高祖保
1945年1月ビルマの野戦病院で亡くなる。
1947年岩谷書店より『高祖保詩集』出版。堀口大学が序詩を、城左門が覚書を、岩佐東一郎が追悼記を書いている。
「山下町の夜」
―横濱 山下町の、ここから海が展けるところ……


中村汀女(1900−1988)
女流歌人の第一人者。昭和7年に大蔵省官吏の夫と月岡町(現老松町)の税関官舎に住む。


根岸正吉
・根岸正吉は1919(大正8)年に横浜に移り、三年後の1922年に、肺結核のため横浜で亡くなった。根岸正吉・伊藤公敬、『労働詩集・どん底で歌ふ』、1920年、(日本評論社)はその間に出ている。
p.260
和田博文、テクストのモダン都市、1999年、風媒社


長谷川伸(1884−1963)
本名・伸二郎
横浜で生まれ育ったハマッ子。
家の貧窮で10歳からドック建設など土木や建築の現場で働いた。満足に学校は行けなかったが、本が好きで、新聞のルビで字を覚えた。
27歳、都新聞(東京新聞の前身)に入社
「一本刀土俵入」、品川で遊郭の仕出し屋の出前持ちをしていたときの経験が生んだ。
「ある市井の徒」「新コ半代記」、自伝の白眉
「夜もすがら検校」で40歳の時、本格デビュー
「沓掛時次郎」、劇作家としての出世作
若い作家たちと勉強会を持ち(後の「新鷹会」など)をもち、村上元三、山岡荘八、山手樹一郎、池波正太郎、平岩弓枝らから、文学の師、人生の慈父と慕われた。
「日本捕虜志」で1956年菊池寛賞に選ばれる。
2004,1,31、朝日新聞、be on Saturday

原三渓
原三渓(本名、富太郎1868〜1939)は岐阜県の出身。生糸を扱う豪商で知られていた原家の養子になり、家業をさらに発展させた。財力を背景に野毛山から本牧三之谷に移り、水田や湿地、畑だった約18ヘクタールに三渓園を造った。園内には京都、鎌倉などから移築した十指に余る貴重な建築物が点在する。
2003,5,8朝日新聞神奈川版

原節子
保土ヶ谷生まれ、保土ヶ谷尋常小学校卒、私立横浜高等女学校(現在の横浜学園)中退


紅沢葉子(べにさわようこ)
曙町生まれ
県立第一高等女学校(横浜平沼高校)
大正活映(1920−1922)
映画女優

メアーリー・K・バレンタイン
キリスト教の伝道師として36年、米国から来日。戦時に帰国した一時期を除いて77年まで、横浜共立学園や共立女子聖書学院で女子教育に打ち込んだ。
阿部純子、日本を愛した宣教師―ミス メアーリー・K・バレンタインの生涯―、2004、つなん出版
(04/9/1,朝日朝刊神奈川版)


山本周五郎(1903−1967)
西前小学校を卒業後、商店員、雑誌記者を経て文筆業に入る。「季節のない街」は野毛町がモデルになったといわれている。

本名は清水三十六(さとむ)
1903年、大月市初狩町で生まれる。
1916年、西前小学校卒業
1946年、16年住んだ東京都大田区馬込より本牧元町39−39へ転居
1948年、旅館「間門園」(中区本牧間門51付近)を仕事場とする。
1954年、「間門園」別棟の独立家屋に移る。
・馬込時代から散歩が日課の周五郎は、午前10時半頃間門園(まかどえん)を出発する。まず根岸の坂の上の方へ向かい、アメリカ人居留区の周りを回って、山手駅に降りてくるルート。現在は根岸森林公園になっている、その手前あたりでタクシーを拾って伊勢佐木町へ繰り出すこともあった。
よく立ち寄った店は、そば屋の「田毎」やレストランの「かをり」、中華街の「海員閣」など。
※「かをり」は伊勢佐木町にも店があり、、、
p.21

月刊 おとなりさん 12月号、特集 山本周五郎、ハーツ&マインズ、2004.11.25


吉川英治(1892−1962)
根岸競馬場近くで生まれ、少年期に赤門町、西戸部に移り住んだ。横浜ドックに勤めたが重傷を負い野毛山の十全病院に入院、退院後上京。大正3年から小説を書き始め、以後大衆小説の第一人者となる。代表作は「宮本武蔵」などがあり、生い立ちを描いた「忘れ残りの記」には、明治大正の西区の情景が描かれている。


チャールズ・ワーグマン
チャールズ・ワーグマンが描いたイラストは、開港間もないころの横浜を紹介する書物などでしばしば目にする。
イギリス生まれとされるワーグマンは『イラストレイテッド・ロンドン・ニューズ』紙の特派員として来日した。日本で最初の漫画雑誌『ジャパン・パンチ』を編集発行。『ジャパン・パンチ』は1862(文久2)年創刊、1887(明治27年)年まで25年間続いた。
主に居留地に住む外国人向けの英文の刊行物で、和とじ木版刷り。内容は、競馬やテニス、クリケットなどのスポーツやクラブ活動で余暇を楽しむ外国人居住者の日常生活、日本の風俗、居留者社会と日本の役人との争いなど。ときに「ミスター・パンチ」という分身を主人公にして風刺的に描くのが特徴だったとされる。

ジョゼフ・ロガラ、THE GENIUS OF MR.PUNCH、2004,有隣堂
日本文献研究家のジョゼフ・ロガラ(横浜在住)の解説と解説の日本語訳がついている。
04/10/16,朝日朝刊神奈川版


渡辺はま子
チャイナメロディーの女王と呼ばれた横浜出身の歌手。フィリピンのモンテンルパ刑務所に収容されていた日本人が作詞作曲した「ああモンテンルパの夜は更けて」を同刑務所で歌い、フィリピン政府に約150人の解放を嘆願したという。(横浜夢座)
2002,11,24朝日新聞神奈川版
関東大震災と横浜
市内の被害状況
 未曾有の大被害でした。早い段階の9月9日の調査 では、世帯数は震災前の約74.3%に減り、住家数のう ち約59.5%が焼失、約19.4%が倒壊、残ったのはたっ た21.l %という惨状です。9月19日調の人口は、日本 人が約29.I %減少したのに比べ、外国人は約95.6%と、 ほとんど居なくなってしまいました。同じ19日の警察 部調査ですが、死者が2万3,440人、行方不明者が3,183 人、同日の県総務部調査では、海と陸路での避難者の 数はl l万2,357人で、残存人口は30万9,560人でした。 面積で被害をみますと、10月8日調では、約58%が 家屋焼失区域、約22%が家屋倒壊区域となり、合わせ て約80%が大きな被害を受けています。橋は市内に206 か所ありましたが、約36%の74か所が被害を受け、護 岸では総延長の約40%が崩壊、がけ崩れが約5()か所起 きました。公の機関は43のうち、焼失33、半壊10。外 国領事館は26ありましたが、全て焼失という有様でし た。このため、横浜は復興できないのではないかと言 われたそうです。

小学校の被害
 横浜市立の小学校の被害ですが、当時の市域内の全 36校を表にしてみます。

|被害状況|校数|学校名|

 全焼|17|
横浜、本町、老松、戸部、西戸部、 西前、岡野、浦島、吉田、南吉田第一、南吉田第二、南吉田第三、日枝第一、日枝第二、元街、北方、平楽

全壊|3|
西平沼、本牧、磯子

大破|4|
江吾田、二谷、子安、石川

大部倒壊|3|
南太田、大鳥、神奈川

一部大破、一部焼失|
大岡

一部倒壊、一部焼失|
寿

一部大破、一部倒壊|5
宮谷、立野、根岸、太田、一本松

一部大破、破損|2|
青木、稲荷台

 これによれば、47.2%に当たる17校が全焼し、全壊 と大破とを合わせれば24校となり、66.7%を占めるこ とになります。結局、全焼から破損まで差はあります が、全校が被害を受けたことになります。 また、教員と生徒を見ますと、次の表になります。
 (単位:人)
  災前(8月末)   災後(12/1)   差   死亡者
 教員    997      941     -56     15 
 生徒   54,962     37515   -17,447   903

 死亡者は、職員では吉田小学校の3人が最も多く、 生徒で多かった順に並べると、次のようになります。

 (単位人)
|人数|小学校名

|145|元街

|137|吉田

|89|横浜

|84|本町・南吉田第一

[50|南吉田第二

|40|老松

|38|寿

|25|日枝第一

 (以下略) 

天幕(テント)学校始まる
 小学校で、使用に耐える程度に残った教室の数は、全 市でわずか39教室にすぎず、災前には特別教室も足し て776教室ありましたので、残ったのが5%という状態 では、授業再開は難しいものがありました。 まず破損校舎を応急修繕し、雨天体操場に間仕切り などをして144教室っくりだそうとしたのですが、市で は他の建築もあって思うように進ちょくしませんでし た。野外でやむなく授業をしたこともありますが、雨 天の時に困りました。 そこで天幕を張って一時の教室にすることとし、東 京での例を参考に、555張を臨時震災救護事務局から融 通してもらいました。全焼した吉田に37張、横浜に36 張、西前と岡野にそれぞれ39張など、12月8日までに 442張が各学校に配られ、そのうち校舎がなく天幕のみ の学校は10校で、これで数か月しのいだのです。授業 が再開されたのは10月11日でした。写真は子安小学 校の開校を知らせたビラです。写真省略(縦書き)


開校
子安小学校の児童
(新たに入学を希望する児童も)
は十月一日午前九時に
運動場に集まりなさい。

 
教室の次は教科書と学用品です。これは全国各地か ら、市または直接学校に寄贈されました。教科書は国定教科書で全国同じだったため都合がよかったのです が、実に細々した物まで届けられました。消ゴム、ク レヨン、硯、墨汁、インキ、机、腰掛、傘、虫眼鏡、 裁縫用具などもありました。その数量は261万7,l 19点 に達しています。pp3-4

横浜市立図書館報『横浜』、第50号、特集、関東大震災と横浜 2004.1.22


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