この文章は99年6月に書いたもので、そのころ考えたことを簡単にまとめたものだ。私は古代史に興味があり、子供のころから歴史の謎解きを楽しんできた。以下のような発想を時に文章にまとめたりもしている。今後もそれらを公開したい。
 天智・天武が兄弟ではなく、天武は天智の盟友で、もとは九州の王であったとの発想はその後も広がり、小説にもした。機会があればアップロードしたい。

大海人皇子の研究
瞬間的にはっとした。はっとするのはいつも瞬間的である。大海人皇子は九州王朝の最後の王ではなかったか。壬申の乱とは九州勢力による大和征服ではなかったか。

天武持統から称徳に至る王朝は、光仁以後忌避されている。
桓武は王朝の始祖を光仁として、平安朝を新たな王朝であると認識している。 光仁は天智天皇の孫である。平安時代には、王朝の始祖を天智ともしている。桓武の考えはもう一つ分かり難い。
天智天武が兄弟ではないとする説には説得力がある。

私はこれまでそのような奇説には耳を傾けまいとしてきた。奇説は面白いが、面白がっているだけでは歴史の真実は見えない。奇説はあくまで奇説として接するべきである。
だが時として奇説は真実を含む。私は天武が王朝の簒奪者であると言う説を心に留めておいた。

壬申の乱で皇統が天武系に移って以後、称徳帝が没するまで皇統は天武系で占められた。50代、桓武以降は天武系の復活はない。他戸親王は粛清されて暗殺された。ここに天武系の血統は絶えている。

藤原氏についても考えねばならないが、おいておく。

関係年表
645  乙巳の変。蘇我入鹿暗殺。孝徳天皇即位。中大兄立太子。
 古人大兄殺害。
 難波遷都。
646  改新の詔。
647  皇太子宮焼ける。
649  蘇我倉山田石川麻呂、謀反を疑われ自殺。
650  白雉改元。
651  天皇、難波宮へ移る。
この年、新羅の使者を放逐する。
652  難波宮完成。
653 この年、中大兄、皇祖母、皇后らを連れ飛鳥河辺行宮へ移る。
654  孝徳天皇難波宮に没。
655  斉明天皇即位。
この冬、飛鳥板蓋宮焼け、飛鳥川原宮へ移る。
656 この年、後飛鳥岡本宮へ移る。両槻宮・吉野宮造営。狂心の渠。
657  有間皇子、狂人を装う。
658  天皇、紀伊の湯へいく。有間皇子暗殺。
660  百済の使い、唐・新羅連合により百済が滅亡したと伝える。
 百済、日本の応援と王子の返還を要請。
 天皇、難波宮へ移り戦争の準備をする。
661  天皇、瀬戸内海を西へ向かう。
 朝倉橘広庭宮へ移る。
 斉明天皇朝倉宮に没。中大兄称制。
 天皇の殯を飛鳥の川原で行なう。
662  百済王子を即位させる。
663  白村江の敗戦。
 日本軍、百済遺民と共に帰国。
664  唐使、筑紫へ上陸。入京を許さず。
この年、対馬、壱岐、筑紫に防人。筑紫に水城を築く。
665  筑紫、長門に築城。
666 この冬、百済人二千人を東国へ移す。
667  近江遷都。
 大和、讃岐、対馬に築城。
668  天智天皇即位。
 新羅使来朝。
669  藤原鎌足没。
670  庚午年籍。
 斑鳩寺炎上。
671  大友皇子太上大臣に。
 大海人皇子、出家して吉野へ。
 二年前に来日していた唐使の意が対馬から大宰府へ伝わる。
 天智天皇近江宮で没。
672  大海人、吉野から東国へ。壬申の乱。
 大海人、伊勢で天照を遥拝。
 大海人、美濃から近江、大和へ侵攻。大友皇子自殺。
 大海人、伊勢を経て飛鳥の岡本宮へ入る。
この冬、飛鳥浄御原宮に移る。
673  天武天皇即位。菟野皇女立后。
674  対馬から銀産出。
 刑部皇子に石上神宮の神宝を磨かせる。神宮の宝物を諸氏に返還。
675 この後、様々な改革を断行する。

以上の年表は大化の改新から天武即位までの流れである。
この中で注目すべき点は661年の九州遠征である。斉明女帝以下皇族全員が九州へ下向している。その筑紫朝倉宮に老齢の女帝は没する。
異様である。
女帝没後、軍隊を残して皇族は大和へ引き上げる。その間に決定的な敗戦を喫す。667年、近江遷都。翌年天智即位。669年、藤原鎌足没。
ところで大海人が政治の表舞台に立つのは天智の没する671年である。
病身の天智は枕元に大海人を招き、皇位を譲るという。
大海人は辞退して出家、吉野へ引退する。もし承諾していたら謀反の意ありとして殺されたであろうといわれる。
天智が没すると大海人は近江方に追討の意ありと見て出陣。壬申の乱の始まりである。
前後の関係を調べてみなければ分からないが、白村江の敗戦の後、間を置かず唐は使いを寄越している。新羅も天智即位後の668年に使いしている。
唐・新羅との関係が悪化する以前に頻繁に遣唐使を送っているので帰国する船に唐使が便乗してくるのだろうか。

私はこのように考える。

大海人は九州の王である。
大和は百済に近いが、九州は新羅に近い。九州と新羅の関係は継体朝の磐井の乱での新羅の動きから推理される。百済が新羅に侵され、大和に救援を求めるが、大和軍は新羅に呼応した磐井に阻まれて半島へは向かえなかった。
百済滅亡は、唐・新羅の連合によった。以下全くの空想である。
百済は応援を要請し、大和はそれに答えて軍を派遣した。
九州はどうしていたのだろう? 幾つか考えてみる。
1、大和と同盟していた。
2、静観。
3、大和軍によって滅ぼされた。
4、新羅側について大和と戦った。
この点については保留するが、大海人はこのとき歴史に登場したのではないか?
斉明女帝が没し皇族一行は大和へ帰還。
大海人は九州の王として畿内に入る。
すぐに戦争が始まっていないところを見ると、大海人は中大兄と盟友関係にあったのではないか。大海人の宣戦は天智没後である。或いは策略か。
大化後の大和は不安定であった。
中大兄の独裁によって新制が敷かれていたが、土木工事の好きな斉明女帝が次々に大工事を行なうので民心は離反していた。暗殺も絶えなかった。
その頃、百済が滅亡する。
皇族挙げての百済救援は工事好きの女帝の発案ではなかったか。天智の母であるこの女帝は何かおかしい。
この頃、九州王大海人は新たに出現した独裁者中大兄に対して静観していたのではないか。そして九州下向に際していち早く盟友関係を結んだ。女帝没後、大和へ上り、政権奪取の時期を狙っていた。
中大兄の恐怖政治と斉明女帝の大工事で疲弊した大和は攻略しやすいと大海人は踏んだ。中大兄の娘、菟野皇女を娶ったのも作戦である。

天武朝に歴史編纂が始まる。今日の『古事記』『日本書紀』に繋がる大事業である。我々は『記紀』からは九州王朝の存在を読み取ることができない。
それは、九州王朝が大和政権を収奪したからである。