池田  鮮さんのページ  
                                         2004年9月作製

        私の戦争と兵隊生活を語る

清瀬・戦争を語りつぐ会の顧問である、池田 鮮(いけだ あらた)さんが「私の戦争と兵隊生活を語る」の小冊子を出されました。 ご本人からお許しを得ましたので、私のホームページに編集いたしました。本文は縦書きですが、横書きにしました。
  池田さんは現在92歳ですが、とてもお元気です。今日の日本の政治状況を憂い、平和への思いを熱く語られる方です。

 ※少し時間をかけて、読みやすい工夫をしたいと考えています。






私の戦争と兵隊生活を語る










 池田 鮮 



           


























 
            
著者 池田 鮮

一九一二(明治四十五年)生まれ。昭和十三年、青山学院神学部卒、直ちに中国北京へゆき清水安三指導の下に、中国関係を学びつつ、学校、教会に奉仕、翌年秋、北京日本人YMCAに参加、十八年、憲兵隊の強制帰国命令を受く。十九年、上海日本人YMCAに転じ二十一年まで勤務。帰国後、日本YMCA同盟学生部主事、札幌総主事、同盟総主事、昭和四十七年停年。香港YM研究所を経て、東海大相模高校校長、同大学ヨーロッパ学術センター所長など歴任。



(序)三十二歳の二等兵

(一)私を変えた手紙

(二)独立歩兵第二大隊

(三)班の生活

(四)さらば李村

(五)行く手も知らずたヾ前進

(六)兵隊になる前のこと

(七)敗戦の報

(八)武装解かれ再び南京へ

(九)無蓋車で上海へ

   (十)除隊後の七ヶ月に何をしたか

(十一)兵隊の経験と現在

(十二)兵隊物語に加えたい一つの事件

@北支方面軍区放逐事件

A清瀬市に於ける戦後五十年の一九九五年に戦争謝罪と不戦の誓いが三月二十七日市議会で全会一致で決議された件



(序)三十二歳の二等兵

 それは敗戦の年(一九四五年[昭和二十年])の五月一日、中国南京(ナンキン)の部隊に集まれという召集令状が、当時、上海(シャンハイ)に居た私に届けられた。そんなことは絶対に無いと思っていたのでビックリした。どうして絶対に無いなどと思っていたかというと、一九三八年(昭和十三年)春まで学生だった私は徴兵延期をしていたので、卒業と同時に中国北京の崇貞学園に着任して暫くして五月、北京の日本人居留民団で徴兵検査があった、国民の義務だから躊躇なく会場に出向いた。すると徴兵適齢期の男どもが、裸になって次々と体重、身長、健康状態とかを調べられていた。私は自分は甲種合格ときめていたし、検査にも問題は無くすんだので、その思いはさらに強くなった。そして検査の最後に軍医中佐の判定官の席にいって検査表や略歴などが書かれているものを差し出した。彼はそれを見ていたが、私に目を移して質問した。「お前は今、何をしているか」と。私は中佐が甲種合格の判を押すだけと思っていたので、この質問は意外だったが、ためらわずに「中国人へキリスト教伝道の準備をしていて、今、中国人学生らと聖書の研究をしています」と答えた。すると彼はちょっとの間をおいて「よしっ、丙種合格!」と叫んで、ゴム印をバンと押した。あっ気にとられたのは私であった。甲種、甲種と思っていたのに丙種とは!何でと思いながら一礼して彼の前から去った。帰り道で「ああ、これで兵隊とは縁切りだ、それにしてもどうして中佐が丙としたのだろう」と不思議に思った。(注1)

このようなことがあってから六年間を北京で過し、ついで上海に移って二年目の生活をしていた時に突如、召集ではないか、あり得ないことが起こった、私まで召集されるとは、これで日本は最後だなと思ったし、又この召集は「最後の召集だ」と言われているのを知った。召集は上海から沢山の在留者を南京に集めたからであった。

 私と軍隊とは全く無縁ではなかった。私が鉄砲をかついで「学校教練」と言われる軍事教練を受けたのは一九二七年(昭和二年)、年齢十四歳のときから、一九三五年
(昭和十年)までの十ヵ年近くであった。一九二五年(大正十四年)に旧制中学から高等学校、専門学校など各校に現役の将校が派遣されて学校の授業として教練が始められた。十七歳位の時、配属将校から士官学校に入ったらどうかと個人面談を受けたことがあった。私の二歳の時に病没した父は、現役将校であったが、それを知っている配属将校が私にも父の後をつぐようにすすめたのであったが、私がお断りしたのは、別に反戦思想からでは無く単に、その気になれなかったからである。これだけ軍事教練を受けた者は兵隊にとられても幹部候補生の受験資格は充分にあった。

   

(一)私を変えた手紙

それはそれとして、上海で召集された時代の私はハッキリ戦争に対し、軍事占領に対し、ある反対姿勢を持っていた。

 それは一つの手紙が私をそうさせたのであった。昭和十一年のことであったが、中国南京にあった金陵大学神学院の学生と教授の署名がある手紙で、内容は「中国の東三省(日本では満州国と言っていた地域)で日本軍がケシからアヘンをつくり中国民衆に吸わせているという事実があるけれど、それに対して貴下らは何か対策をなされていま
すか、もしされているとすれば、それについてお返事を頂きたい」というものであった。

 それを読んで、私は全く知らなかったし、クラス全員に廻覧させたが、誰一人としてこの手紙に回答しうる者はいなかった。

 我々の無知は、当時、満州国(一九三二年建国)は五族(満州、漢民、蒙古、朝鮮、日本人等の諸族)で協和して建国する理想の楽土であるという声のみが聞こえていて、その他のことは一切知り得なかった。ことにアヘンは日本も参加している国際協定で、医薬上での使用は認められていたが、一般に吸咽は麻薬患者になるので禁止されていた。ことに中国では蒋介石は全土に禁止令を出していたのであるから、日本軍がそれを破っていても秘密にしている可能性がある。国会でも軍の専横に対し斎藤隆夫議員の粛軍演説とか、翌年の浜田国松議員の軍部攻撃の演説などがあり、又さまざまな陸軍の行動上の諸問題があるなどの状況から、私は戦争とか軍事支配に対し強い疑問を抱くようになり、金陵大学への返事を書けない状態になったということから、中国民衆に対する負い目をいかにすべきかに関心がうつり、神学部二年、三年生時代の研究をさらに深めてゆこうという方向よりも緊急事と思われる中国問題へと心が移っていった。

 この中国への関心が、「中国人の足を洗おう」という決心へと導かれ、幸いに北京朝陽門外で中国女性のために崇貞学校を開いていた清水安三氏を知り、彼も招いてくれたので昭和十三年卒業すると同時に北京に行ったのであった。

 そうして北京での六年の働きのうちに太平洋戦争が始まり、それに関連して北京の日本憲兵隊に拘留処分のことは、後で書くが、拘留の結果は北支方面軍管轄地域から退去命令を受け、一旦日本に帰ったが、新たな任地が上海になり上海は中支派遣軍下であったので、上海に奉仕の場として二ヵ年を過すことになった。

 さて召集のことを知った人々が送別会をしてくれたが、中でも強い印象を残した会は、仕事上の先輩で中国YMCA全国協会の顧問をしている末包敏夫さんが幹部の人に私の召集されたことを伝えたので集まってくれた会である。

 
 中国と日本とは戦争中である。中国の前線へ行くようになる日本人兵士の為に送別会をするということを中国官憲が知れば、「漢奸」通敵者或いは売国奴とされる可能性が十分にある。危険を犯してまで集まってくれた人々に対し末包さんは、池田は若くはない三十二歳で、妻と長男は日本に居る。しかも彼は最下級の襟に星一つの二等兵としてとられた。彼の為に祈って欲しいと私を紹介した。それに応えて総幹事のK・Z・LO(陸幹臣)は、池田の襟の星はダビデの星である。彼は必ず軍隊でよき働きの証人となるであろうと答えた。その他の一切のことは今記憶に無い。国と国とは敵対していたが私共は同じ目的の為、働いている同志で、敵、味方を超えていた。その同志の一人が死ぬかもしれぬ別れであった。私は彼ら中国YMCAの幹部たちの友情に感謝した。

   
(二)独立歩兵第二大隊

 上海の友人の一人、水谷勝夫夫妻の所に出発の前に行った。壁にかかっていた軸に王翰の涼州詞がかかっていたがその後半の句「酔臥沙場君莫笑」「古来征戦幾人回」とあった。(しみじみ戦争から容易なことでは帰れないと感じた。水谷とは召集が終わって上海に帰った直後、又会うことになった。

 上海北駅から列車で南京に着いた。南京の日本人YMCAにゆき主事の井口保夫に会った。井口は豪快な笑いが印象的な、バイアス湾敵前上陸で金鵄勲章を貰った召集兵だったが、もともと若い時から大阪YMCAで働いていた人で、南京で中国人のためよい奉仕をしていた。私を見るなり「イケダはんまでとられるなんて」と絶句したが「元気で、おかえりやっしゃ」と送り出してくれた。

 
 入隊した部隊は金陵部隊と言っていたようだが、正式の名かどうか判らない。私物は全部一括して、そこに置けと言われて着ていたものは全部脱ぎ捨て、小型聖書とパスカルのパンセも、そこに置いてフン
ドシ一つになり、頭から足まで兵隊の装いになった。これで二等兵になり誰と会っても誰を見ても敬礼、敬礼の最下級の兵になったが、夜には変わった、というのは暗いので誰が誰か判らない、身体が大きかったので行き違っても知らん振りをしていると相手も判らずに敬礼をするのであった。

 この召集兵ばかりの集団は独立歩兵第二大隊となり、ある時大隊員全部が集まり、大隊長が訓示をした。「名古屋のお城は、それを支える石垣と、石垣の一つ一つの石がなければ、あのお城はありません。そのように諸君一人一人がこの大隊を支えなければ、いい大隊と成り得ません」と。大隊長も召集でやってきた予備大尉で土木やさんだと聞いた。それで名古屋のお城物語だったのかと、それっきり大隊長に会うことは無かったし、お坊さんだという中隊長の中尉、小隊長は実直な会社員らしい召集の少尉、これらの予備将校たちとも二度会わずに終わった。

 
 この歩兵大隊の任務は馬輸送ということで、次の日から班毎に馬をつれて南京の紫金山麓をぐるぐると歩く訓練に入った。馬に乗ることならば北京にいた時に友人に馬部隊の中尉がいたので、借出して郊外で、勢いよくぶっ飛ばして爽快であったが、今度は乗るのではなく轡をとって馬とともに歩くのだそうだ。やがて訓練が打切られ、大隊は貨車に詰め込まれ江蘇省南京から長の旅路を北上した。何処を見ても一面の麦の野であった。西へと列車の方向は曲がり、徐州で停車し、ここが何で有名であるのか「じょしゅう、じょしゅうと軍馬は勇む、じょしゅう居よいか住みよいか」と歌の断片を思い出した。それからさらに西行して、右へ曲がり北へとゆき李村という、河北省新郷の近くの村で班は下車し、そこで馬の到着を待つ身となった。部隊が集まって相撲大会があり私は元来、学校ではサッカー部員であったが腰が強いので相撲も柔道の試合にも引っ張り出されていたので、難なく兵隊相撲では優勝で、そのために好感が班内にあった。


 これらは、「敵」とは全く距離がある地点での生活でノンビリしていた。


(三)班の生活

 馬輸送部隊として一箇大隊が行動するとすれば、相当長い列になるので、行動上最小限の集団である班毎に編成になった。我々が何中隊、何小隊の何班なのかは判らなかった。班は伍長の班長と上等兵、衛生兵(階級判らず)と「古兵殿」との四名に二等兵が六名であった。「古兵殿」は以前彼が現役兵時代に二等兵から昇進せずに二等兵どまりで除隊したが、召集されて入隊したので二等兵である我々と区別して「古兵殿」となった。

 そのうちに班長がいなくなった。彼は山口高商卒と言っていたが、中隊か大隊の経理担当となったという噂だった。すると又彼の後釜の班長に兵長があらわれた。兵長は上等兵の上であるが、下士官でないので長い剣が吊れないので格好がつかないのだろう。日本刀のような短い刀を腰にしていた。すると今度は衛生兵の「おっちゃん」が又何処かへ転属で何時の間にかいなくなった。彼が居たら助かったのにと思うことが後で起こる。長沢上等兵は明大出身とか言うことで、現役兵時代は朝鮮の龍山の連隊にいたと言い、彼は大いに存在感のある男であった。体格も血色もよく、又よく朝鮮語の歌、たとえば「トラヂ」など「トラヂ、トラヂ、トラアヂイイ、ジムシムサンチョネ、ベクトラヂ」と我々も覚えてしまう程、歌った。「エエヘエヤアー、エエヘエヤアー、エエヘエヤーア!」の掛け声のところは身振り手振りが勇壮だった。又此処では書けない婦人問題なども得意気に話した。行軍が始まってある村の近くで宿営した翌朝、我々に百姓家に忍びこみ「して来た」と得意気であった。それが彼の上海での日常であり仕事だったとは考えたくなかったが、洋酒の瓶(たとえばジョニーウオーカー)の底の部分を切断して、中身を抜き安ウイスキーを代わりに詰めて底をくっつけた偽ジョニーを高く売りつけていたという。

 我々は彼に話させるのではなく彼が我々に進んで話をするのであった。長沢と上等兵をのぞくと班長以下が何もしゃべらぬ無口の班であった。

 馬が北方から来るのを李村で待っていた。ある日、野原で昼寝をしていた。すると機関銃の激しい音にビックリして起きると頭上を双胴の戦闘機が前方に通過した。てっきり私が狙われたと思ったが、そうではなく遥か前方の何かを狙ったものであった。大隊は散在しているが、P三八とかのアメリカの戦闘機が狙った何かが近くにあるらしかった。

 我々も鉄砲を持っていたが班全部で三八式歩兵銃が四丁あるきりだった。三八式は五発のタマを一緒に装填するが一発毎、引きがねを引き直さねばならない。機関銃のように連発など出来ない。何にしろ明治三十八年製という四十年前の古いものを「精英無比」と言う日本陸軍では使っていたのだ。而も兵が一丁ずつでなく班にたった四丁では戦闘には役立たない。これで敵が戦をしかけてきても逃げた方がよい。下手にこちらも発砲などすると反って危険である。だから一丁も持っていない方がよろしいということになるが、誰もそんなことを口にする者はいない。ただ黙々と馬の轡をとる兵と鉄砲かつぐ兵が交替しながら歩くのみとなる。これが独立第二大隊の装備の現状だった。



(四)さらば李村

 そのうちに馬がやってきた。日本馬もいたが、ラバといって牝馬と雄ロバから生まれた力の強いのも混じっていた。やっぱりわが班に割り当ては四頭ぐらいだったと思う。それをつれて北京から武漢、その頃は漢口(ハンカオ)といっていた京漢線に沿って南に下がることになった。河にさしかかり、これが有名な黄河だという所に来た。鉄橋は破壊されているらしく、我々は水の浅いところに架けられた木橋の板敷きの狭い幅を用心しつつ渡った。渡り切るのに三十分もかかったであろうか、大河という感じはしなかった。そこから鄭州(チョンジュ・河南省省都 注2)に間もなくたどり着いた。鄭州までは昼間の行軍であった。無論列車は通っていない。そして後々わかったが日本軍が確保しているのは面ではなく「点と線」だと言われて、面には新四軍とか八路軍とかが播居しているが、その線も怪しいということは現に京漢線も北京から新郷あたりまで列車は通っているが、黄河近くから漢口までは確保されていない。鄭州からは夜行軍となった。

 
 六月の鄭州で暫くの時を過した。棗の実と黒皮の西瓜が安くておいしくて、兵隊は少し金を持っているので買ってきて食べた。無論我々は鄭州の町からどの位離れているのか判らなかったが、農園があったり気候はちょうど心よく、まだ疲れもしていず、私は班の炊事を引き受けていたので、ある時生うどんが配給されたので、それを茹でてうどんを食べた。そして茹で汁をどうしようかと考えて、ちょうど兵隊全員が新品白木綿の靴下に一杯白ザラメに金米糖が混じっているのを配給されていたので、白ザラメを入れて甘くし、それに生姜をすりおろした汁を混ぜて皆に飲ませた。このスープというか飲み物は大いに受けてイケダうまいなあと喜んでくれ、元気も出た。又もう一つの傑作は、南瓜をこれも兵隊が皆持っている飯盒を使って中蓋ははずして中に種をとった南瓜に豚肉をミジンにして塩をしてつめ、ふたをして火にかけ即製オーブンにして焼いたものを食事に出した。これもうまい、うまいと喜ばれた。こんな生活も夜行軍が始まる前のことで時間の余裕もあった班毎の生活単位の時である。

 然し班生活の外には軍隊らしい非合理の世界があった。私共の班長は大人しく、長沢上等兵だけは勝手なことをするが兵隊たちとは友達であったから、所謂「内務班」的、兵隊いじめなど皆無であり、又馬輸送が任務だから、それ以外の訓練など一切無しだったが、宿営の関係などで他の班と一緒になることがあった。そんな時のことだが、見知らぬ班の伍長か軍曹の班長が私に何か命令をしたので「何のことでしょうか」と聞き直すとその班長は「文句を言うな!」と言うので「文句ではありません、よく判らないのでお聞きしているのです」と言うと、彼はお茶を飲んでいたのだが、私に「それが文句だ!」と言って、お茶を私の顔にぶっかけた。これが軍隊なのだと思った。つまり上官の命令は訳が判っても判らなくても「ハイッ!」と答えてやるだけで、問うてはならぬのである。炊事班と言うのは特に挨拶に気をつけなければ怒鳴る「炊事上等兵」が居て「飯あげ(班の食事を受け取りにゆくこと)」のたび毎にビクビクものだった。

 又こんなことがあった。どこかの班の上等兵がウチの班長に「使役の為に池田二等兵を出して欲しい」と言うので班長は上等兵と一緒に行くようにと私に命令したから、上等兵について中隊か大隊の炊事班に行くと炊事曹長が「馬車を持ってゆけ」と言うので、その通りにして上等兵と私は町に行った。すると此処だと上等兵が馬をとめた一軒の飲食店か料亭らしい所に入っていった。私も入ると畳の間があって下士官らが数名宴会の最中で、近いところに顔見知りの松岡伍長がいた。彼が上がれというので上がると「のめ」と杯を私に渡した。私は、その頃全然呑まなかったのだが、受けて呑むと彼は又一杯ついだ。そんなことが何回かあり他の下士官たちは私などにかまわなかったし、又何か食べ物などが出ていたが喰えと言われなかった。すると松岡がもういいから帰れというので「ハイ」と答えて私一人が表に出て馬車に乗って来た方向に向かった。すると道の両側に電信柱があったが右の柱が行く手真正面に近づいて来るので、これはいかんと馬を左に向けると、今度は左の柱が真正面に迫ってくるではないか、そこでこれは酔ったということかと思っているうちに寝てしまった。馬は道を知っていると見えて、私の知らぬ間に隊炊事班まで来た。すると不思議、私はパッと目が醒めて、曹長に「池田二等兵、只今使役より帰りました」と報告、曹長は「よしっ!ご苦労」で終り。一体これは何のことか全然訳がわからぬ事であった。使役といえばその任務は町から何か馬車にのせるだけの物を大隊炊事班まで持って帰ることであろうが、ただ酒を呑まされて何も持たずに帰り、それで曹長はよしご苦労とは。そして下士官が軍隊を牛耳っているのでないか、大隊に将校は何人いるのか知らないが下士官は相当数いるのであろうし、彼らは将校よりも軍隊の事を知っているということだ。酒を呑んでいたあの下士官らはただ呑んでいるのではなく何かを相談していたのではないか。なんでそんなところに馬車で私が行く意味があったのか。後でよく考えて見ると、馬車に積んで帰るほどの何かが町では入手できなかったので、下士官が馬車を空で帰させたということだったのかと。然し、そのときは「すべて不可解なことばかり」であった。

 夜間ばかり歩いて南方へ馬と共に前進が始まった。暫く歩いた。前から伝令の声が響いた。「しようきゅうし!」〔小休止〕と言うことである。すると我々の方から又後方の班に同じく「しょうきゅうーし」と送る。我々馬をひいている兵隊は、すぐ馬の鞍を下ろし、鞍下の毛布をはがして、すぐ馬の背中を按摩してやる。何分かたって「しゅぱあーつ」と前から伝令が伝わると、すぐ毛布を背中にのせ鞍を置いて腹帯をしめる。そして歩き出すから馬係兵隊には休みなど無い。これが朝何処かに着いて班は休むが、馬係は馬糧をやったりいろいろの世話をする。又、時に脱走馬が出たりすると、馬を探しにゆくということがある。天皇の菊花紋が刻まれている銃などと同じく馬は兵よりはもっと大切な兵器で、無くするものなら大変なことになる。馬を探す、その見当は馬は馬のいる所に集まるから、他の班の馬のところで見つかるだろうと見当をつけて、他の班を訪ねてゆくが、班長に会って、こんな馬は来ていませんかと馬の特徴を言うと、すぐそこにいても「いねーよ」とからかわれる。仕様が無いから、又他の班を訪ねて歩く。又居ない、然し言葉のやりとりから、やっぱり馬の居る班は、此処だと見当がつくので又その班に行って頼んで返して貰ったことがあった。無駄な労力をさせれたが、然し、それに代えられぬほど馬は人よりも大切な兵器ということであった。

 行軍が始まってから班毎の炊事は無くなって何処からか、食物が廻されて来るようになったが、疲労のせいかも知れないが、食べる気が起こらなくなった。そして下痢が続くようになり、ますます疲労が増したが、何処かに軍医か衛生兵がいる筈と思ったが、長い距離に広がっている大隊の何処に居るのか、あの衛生兵の「おっちゃん」が居たらと思った。通過する部落は夜のことで家々は真暗で戸は閉じて、人気も無いしクスリ屋など目につかない。全くあきらめざるを得なかった。大陸の夜は全く暗く、光一つ見当たらない。こちらも光はつけないから、前に行く兵隊の上衣の端をつかんで歩く、目は役に立たない。馬は馬の感があるんだろう、馬と歩く場合は馬が目となってくれた。

 
 大雨の夜、夏服の私共はびしょ濡れのまま歩く、すると木綿のズボン下が固くなって股のところが歩くたびに擦られるので痛い。乾ている時のやわらかな木綿の服があんなに固くなるとは思わなかった。どんなに痛いか、嘘だと思われる方は、お試しください。ようやく空家があって、そこで服を脱いだ。

   


(五)行く手も知らずたヾ前進

 「戦友」の北川とは敗戦後の上海で再度会うことが出来た。在留日本人は総引き揚げになったが、彼はある工場の運営上、責任がある技術者で中国政府の要請で「徴用」となり留まることになっていたが、兵隊の頃はただ一介の二等兵で馬とともに何処までゆくのやらも知らされず、何で生産に必要で政府が特に徴用しなければならぬ人物を、これらの馬が何の役に立つのかも知らされず、三八式銃を担ぐか馬を引っ張るかで過すことの意味がわからぬ毎日の繰り返しであった。これは北川だけの問題ではない、歌といえば「ベロベロのカミさんは……」しか唄わぬ関西弁の奴、大工をしていたという日焼けした背の低いヤツ、正木と言う何をしていたか不明だったヤツ、ぼやっとした顔の腹痛で夜中中苦しむので、腹をさすってやったヤツ。それらの友達も召集までは地域社会で働き、夫や父であり、意味ある生活をしていたに違いない。今は全く単なる消耗品で、考える葦でも最早無くて、鉄砲や馬より価値なき存在であった。これらの馬は自動車も列車も使えぬ戦場で俺達以上に戦争に必要な兵器なのか。いろいろの想像がぐるぐるめぐりした。重慶方面の山地作戦に使われるのかもしれないなどと。むろんこんな話は誰ともしなかった。誰に聞いても答えは出ないから「知らぬがホトケ」と言うが正にその頃の我々はそうだった。何も知らぬので、これから我々も馬も、どんな運命になっていたかを知ればそれはゾッとするものであった。もし入隊時に、これから、何処へこの独立歩兵第二大隊はゆくのかを知っていれば果たして、大隊は成立していたであろうか。正に軍隊は「由らしむべし、知らしむべからず」であった。(注3)読者は必ずこの(注3)を読んで頂きたい。

 ある時、夜行軍している我々が大砲の攻撃を受けた。わが班と言うことではない、先頭の部隊が受けたというので、我々は退避した。それよりよい戦法はないのである。我々は鉄砲四丁の非戦闘部隊でしかない。そこで私はこれは正に私が予感していたことだったと思った。


 召集令状がきた時の私は北京に行った頃の反戦平和に燃えていた時から既に八年経過し、様々な状況に出会い、新聞やラジオ報道のまやかしや、うさんくささから上海では一切のそれらの情報に耳を傾けないことにしていた。随分とぺシミステイックになり、或はニヒリステイックと言った方がよい精神状況だったからYMCAの友人たちに送られて入営する頃は、どうにか戦わないことになるだろうと考えていた。その気持ちが大砲事件でハッキリとさせられた。「我々は非戦闘部隊である」ということの確信になった。どうにかなると思っていた予感が「戦争回避の非戦部隊」にいるのだという発見は、偶然では無い。日本は戦うことができない現実に直面していることの確認であり、入隊前の予感が現実になった。


 (六)兵隊になる前のこと

 青山学院を卒業して北京に行った。多忙な清水安三先生の仕事の代理など色々して華文学校で中国語や中国事情を学び、これからの中国を動かす中国人とはどんな人物かと考え、軍人、学生が先ず挙がったが、私が実際に中国人の「足を洗う」ということの協力者として軍人は力はあるが協力できない。

 そこで輔仁大学を選んで日本から同大学に来て居られた細井次郎教授にお願いして、聴講生に推薦して頂き学生として張星烺(CHANG HSING LANG)教授の「中西文化交流史」に出た。学生、知識層に近づくためであった。そのうちに日本YMCA同盟が日・中青年層の為に北京に日本人YMCAを設け、又日本軍占領地域にあるアメリカ・欧州各国キリスト教施設が軍に勝手に使われていて、困っている諸問題解決に力を貸す仕事を始めたので、君の参加を願いたいと神戸YMCA総主事奈良伝氏の直接の話があった。

 それは一九三九年十月のことで、これで私の念願が果たせると思ったので、お受けして四十三年四月の憲兵隊から退去命令が出されるまでの丸四ヵ年、その線で働いた。

 どんなことをしたかの事例を書いてみると、


 一つは、米人宣教師HUBBERDが北支で集めた鳥類見本二千種の剥製が日本兵によって、何処かの中国人学校に、本人の合意を得ずに移されたという件。幸い日本人YMCA理事長富田三郎が北京大学教授であったので、同大学理学院に話をして剥製を安全に保管して貰える確認を得たので、その事件の現場、保定に行き特務機関長は老少将だったが、面会して、中国人学校から理学院標本室に移管したいと申し入れ、幸い解決した。(戦後、HUBBERDは再び保定にアメリカから戻り無事に標本を返還されたと言う)

 
 次は場所は忘れたが中国人教会の牧師が私を訪ねて来て、自分の教会の重要役員某が同地の憲兵隊に拉致されたまま戻って来ないのでと訴えたので、北支方面軍第四課浅井参謀の所に牧師を連れて行き、浅井に調べて、早く帰して欲しいと申し入れた。浅井参謀は既に日本YMCA同盟斉藤惣一総主事が日本外務省アメリカ局(局長寺崎太郎)、陸軍省アメリカ班(杉田一次大佐)との間でこの種の任務をYMCAが現地ですることの了解を得ている事を知っていたので、浅井は一寸待ってください、調べてみるからと、私達を待たせたが、暫くして戻り、日本語で、その者は既に処分されている、あなたから宜しく伝えて欲しいと言った。既に「処分」されたとは、その理由があってのことだろうが、それは言わなかった。理由を言っても果たして牧師を納得させるものか、納得させるような行為がありそうな人物ならば、遠路、私の処までは来ないであろう。これは言われぬようなことで「処分」されたのだ。それを浅井は私に宜しく伝えてくれとは!

 私は無言で立ち上がると、牧師も立ち上がり、二人は浅井を後にした。牧師も聴かなかったが、何があったかは二人の間では通じ合えた。こんな不合理なことをコトバに出来ようか。

 長くなるので話は省くが、周冠卿という既に現役を引退していたが、この時局に再度、引張り出されていたYMCAの老主事が故郷に用があるので、一緒に行ってくれないかと汽車で二時間ほど、いわばBODY GUARD役をさせられたことがあった。途中、日本軍の検閲や何かで拘束されないようにということからであった。幸い何事も起こらず帰りの汽車に乗り頭上の網棚に荷をあげて汽車は走り出した。向かい側の椅子に日本の将校が座っていた。するとアッと言って周老人が立ち上がって軍人の頭の上の棚に手を伸ばした時には、そこから水が落ちて軍人の服を汚していた。私もビックリして老人を助けて水の元である棚の荷を降ろした。それは酒瓶の口が緩んで酒がこぼれたことが判った。軍人がハンカチで服を拭い始めたと同時であった。周老人も私も同時に済みませんと言いつつハンカチで拭った。軍人は落ち着いて「いや」とか言いながら拭っていた。周老人は全く慌て、又お詫びを繰り返した。

 
 こんな例は書くに足りない例だが、ともかく日本軍占領下、問題は幾つとなくあった。


 私が一つの医院の理事と二つの学校の教師を頼まれたのは、日本人がこの施設の重要な責任を持つ「親日的施設である」という危険除けの看板役のためで、これも大切な任務であった。馬小屋に使われていた教会堂、兵隊の酒保となった教会等に、大、小の問題が幾つかあった。大きな問題は華文学校校長J・Dヘイズと奈良伝とがコンビで、日米戦争にならぬように努力した物語がある。これは奈良伝著「千里の道」を御覧下さい。

   


(七)敗戦の報

 
 そのうちに、ヒロシマに超爆弾が落とされたというニュースが広まった。「超」と言うのは何だろうと思ったがニュースはそれっきりであった。夜行軍が北へと向かう戦車隊とすれ違ったので何処の部隊かと聞くとヒロシマだと言い、何処に行くのかと聞くと満州だと言う。然し間もなくソ連軍が満州に入ったと聞いたとき、あのヒロシマの戦車隊は間に合わずソ連軍とは戦うチャンスは無かったであろうと思った。又北上する別の部隊とも会ったが、コトバは交わさなかった徒歩の兵隊たちと馬上で眠っているのか或は意気消沈しているのか、首うなだれていた将校が印象に残った。我々は南へ行くというのに、彼らは北へ行く。お互い何のために行くのか判らなかった。

 我々は李村を出発し鄭州から二百五十キロの信陽近くのある河原で昼間大休止をしていた。この場所名も距離についても、当時は知らなかった。戦後、地図を見ての確認である。その河原で休んでいると噂が広がって、日本は敗けたと。そのニュースが入ったので我々の大休止となったのであろうか。皆は何やらゴソゴソ、ソワソワして落ち着きが無かった。日本の敗戦だが、戦争は終わった。「これで解放された」と疲れ切った身体を横たえながら嬉しさがこみ上げてきたことは忘れられない。痩せ衰えて、タマに当たって死ななくてもこのまま戦争が続けば、私は死んでいただろうと思った。暫くして何故、神さまに真っ先にこの戦争が終わったことを喜び感謝せずに、自分だけが喜んだのか、それでもクリスチャンかと思った。それは八月の十七か八日頃のことだ


 河原にはそれから、もう一日居たのではないか、そうして、恐らく皆も戦争が終わったことを喜んだに違いないと思うが、「敗戦」と言うどうにもならぬ事態に直面して、喜びを率直にあらわせなかったので、無言でただソワソワ、ゴソゴソしていたのであろう。そして今度は夜行軍で無く昼間歩いて目的地に行くことになったので、河南省から湖北省にまたがる大別山を越すことになった。今度は恐らく村人全員と思うが、道路の両側に立って通過する我々を黙って見守り、見送るのであった。後で知ったことだが敗戦した日本や兵士たちに「怨みに報ゆるに徳を以ってす」と老子のコトバを引用して中国人の日本軍に対する姿勢とすることを示した蒋介石総統の、この心が、そんなにも早く、これらの村人たちにまで徹底していたのであろうか、或はこのような村人たちは老大国民の心構えをもっているからなのであろうか。それは兎も角、彼らは中国を侵略し長期にわたって中国民に被害を与えた日本兵に唾をはきかけず、石を投げつけず、静かに見送るので返って、我々に反省があった。

 (八)武装解かれ再び南京へ


 やがて我々は漢口に着き、その地の日本軍の手で武装解除を済ませ、馬を渡し、鉄条網で囲われた収容所に入れられた。そして軍は私たちに新品の革靴二足や毛布などを手渡したが、我々は荷物になるそんな物は全部網の外側に集まっている中国人に安く売って、得た中国貨幣を持って外に出た。そして第一番にしたのは中国菜館に行って、うまい中国料理を、と言ってもせいぜい焼き飯とか、そんな物だったが、何と旨い飯かと、一気に元気が恢復する思いをするのであった。


 どの位の日数の後か、我々は上海から召集された部隊で早く帰そうということが理由でもあったのだろう、漢口から団平船と言うか砂利積み船のような屋根もない船に乗って揚子江を南京まで下った。その間のことは何一つ記憶に無い。あるのは南京の鉄道引込み線のプラットホームのような所に居る自分を発見したことである。二〜三日はかかったであろう南京までの船中が何一つ記憶に無いのは恐らく船に乗り込むと同時に人事不省となり昏睡していたのであろう。


 南京では支那派遣総軍が残務処理や何かで未だ撤退していないらしく、我々兵達一人一人に米一袋の配給があった。それで思い出したことは二等兵生活四ヶ月間、あるべき給与が一銭も渡されなかったことだ。例の山口高商卒の伍長らが大隊の経理担当だったが、ドサクサ紛れに我々に支払うべきものもせずに済ましたのではないか。


 或る日南京市中に黄包車(ワンポツ=人力車)に三人の兵と一緒に乗って行った。すると先方から乗馬姿の将校がやってきた。すれ違ったが我々は彼を無視した。すると将校が引き返してきて「そこの兵隊!」と呼びかけたので、私が「私ですか」と言うと「そうだ、何故敬礼せんのか」と言うので「戦争は終わりましたヨ」と答えると将校はちょっとコトバが無かったが、「そうか」と言って引き返していった。頃は九月のはじめと思ったが、あの将校は敗戦という事実を今、始めて確認したのであろうかと思った。同僚の二人の兵隊が「イケダ、どうなるかと胸がドキドキだったよ」と。


 私はもう一度南京日本人YMCAに井口保男を訪ねた。彼は大いに喜んで「ほんま、可愛そうやった」と入営見送りの日を回顧し、早速風呂に入れと私を風呂に誘った。私は風呂で手足を伸ばして、その心よさにうっとりとしたが石鹸で身体を洗い出したが、こびり付いた垢がなかなか落ちなかった。そうだろう五月から九月のその日まで風呂はむろん行水もできなかったから垢も「名残惜し」くて離れがたかったのであろう。それからベッドで眠れとすすめられ横になったがフワフワして気持ちが悪いので下に下りて固い床(ゆか)に眠った。

醒めて、日本はどうなっているかと考えたが、それは判らないことであった。そこで私に何が出来るだろうかを考えた。現在の自分を考えると、このように固い床や草原やで眠るのが日常であったこの四ヶ月余り、碌なものも食わず、風呂にも入らず、着たきりで、恐らく千キロも歩いてきたことを考えると、そうだ、乞食はやれる、雨でも傘や雨衣もなかったナ。そこで一先ず最低の生活は出来ると見当をつけて起き上がり井口が注いでくれたコーヒーをうまいナと言って上海トリコロールで井口と飲んだことを語ってから、又飲もうねといって別れた。煙草とコーヒーが大好きな井口であった。

   

(九)無蓋車で上海へ

やがて我々は南京から無蓋車に乗せられて上海に向かったが、敗戦国の兵隊を乗せた列車には優先権など何も無い。お情けで貨車にのせられているだけだからスケジュールどおり走る訳でない。夕方になってあるどこかの駅で何度目かの停車をした。すると反対方向から電気を煌々と点けた、と我々には眩しく見えた客車が停まり軍楽隊の奏楽が聞こえ、金ぴかの中国軍の将校が下りてゆくのが見え、ああやっぱり日本は敗けたんだと思った。そのうち雨が降ってきて貰った米なんか、どうしたか、放っておいた。貨車は走ったり、停まったりで一応進んでいった。もう上海も近いという感じになった頃、長い停車があったので、私は立ち上がって腰をおろしている兵隊たちに「もう、此処は上海の近くだろうと思う。何時まで停まっているのか判らないから、此処で降りようと思う。戦争は終わっているんだから誰の命令も待つ必要が無い、私は降りるから、一緒に行きたい人はゆこう」と言って貨車から降りると「私もゆきます」と一人の兵隊が私に続いた。少し歩いてからその兵隊を見ると、いつか、どこであったか、大休止している時、この兵隊が中国服を着て誰かに何かを報告していた兵隊、その人である。中国服の兵と言うのは、中国人から何かの情報をとる為の服装であろうという印象があった。その兵が、私に「私は上海YMCAの上海語コースに出ていたMという者です」と言ったので、私はMを知らなかったが、彼が私を知っていたの
であった。二人は歩いたが、後続する兵隊はいないようだった。どこまで命令なしでは動けないという戦争が終わっても続いているこのあわれさ。命令も無いのに降りた我々はさしずめ彼らには最後の「脱走兵」と言うことになるのか。それにしても、何時までもあの兵隊たちは「命令」を待ったのだろうか。




 (十)除隊後の七ヶ月に何をしたか


こうして私は島津岬先生の日記を見ると「九月十二日(木)此朝池田鮮君、二時頃帰宅す」とあり、四ヶ月と十二日間、二等兵生活をした訳であった。島津先生は上海老鞄子路の日本人YMCAの四階のさらに上にペントハウスに先年夫人を失い、中国人アマの阿珍(アチン)が家事を引き受けていた。日記は必ずつけていると言っておられた。後でそれを見て私の「除隊日」を確認できた。

宿舎に帰ったものの、残していった衣服はじめ私の一切が何者かに持ち去られていた。そこで友人水谷勝夫を訪ねた。水谷はこれを着てみよと彼の一着を渡したが彼は痩身であるから到底、私には着られないと思ったが、着てみたら合うではないか、これにはビックリした。自分がどんなに痩せたか鏡を見ず体重を量る余裕が無いので、判らなかったのだ。

 島津日記によると十月四日になってYMCA真向かいの同仁会経営の仁済病院に入院し十三日に退院しているが、同病院で私を担当したのは医大YMCA会員であった顔見知りの駒野丈夫医師であったのは幸いで、彼の治療を充分に受けた。何の病気だったかと聞くと熱帯マラリアとアメーバー赤痢だったと言う。ついでに治療薬はと聞くと、プラスモヒンとアテブリンでドイツの薬だということで、流石は外国貿易港上海のことだけある、ドイツの薬剤ストックがあったので助かったのであろう、と思った。後遺症は一切なしに完治した。然し私はこのように戦場でタマに当たらなかったが、医療に無縁で病死した兵士は沢山居ったに違いない「戦病死」した兵たちは、さぞ残念であったろう、本人だけではない、彼の友人、家族はもとより、彼が健康で戦後、社会で活躍できた可能性やその影響などを考えると、無限に失われたものの大きさを思わせられた。


 すっかり身体が回復したが、すべての日本関係者の商店、銀行はじめ日本大使館、領事館、日本人民団など公私とも一切のものは閉鎖していたが、人々は引揚げを待って家財を整理し、換金の為、古着市などが立ち、又引揚げ船を待つ間も生活の資金の必要から小屋がけの食べ物売りまで虹口(ホンキュウ)地域の日本人の多い所で普通に見られる光景であったが、一種異常な雰囲気であった。YMCAは何をしたらよいかと思案していたが、奥地から列車で日本引揚げ船の出る上海に次々到着する老若男女の人々が待船の間にもお産する母親、病気にかかる人々、死人など、いろいろな問題が起こっていても、それらを世話する公、私の機関が全部閉鎖している現状であったので、早速YMCAに、中国YMCAの主事、そして彼の紹介で外国人宣教師、クエーカーの医療関係者、新聞記者などに集まって貰い、引揚げ待機者の中から代表的な人物に来て貰い、彼らの助けを必要とする問題を話して貰った。日本語からの英語の通訳は、私の友人で貿易商の宮部正男君がやってくれ、充分、皆のすべきことを理解してくれたので、それ以後、始めて待船者の問題が好転した。後で聞くと老上海の代表内山完造氏らが自治会を中国側の命令で十万の日本人居留民の纏めをすることになったと内山の「花甲録」に書いているが、何しろ混乱の時機であったから、私共はそのような働きがあったということは知らなかった。さてYMCAらしいことをせねばと思っている時に英字新聞のコラムに「今、日本では英語が非常に大切で、もし英語が使える人の給与は例えばエンパイア・ステートビルの屋上から下を眺めた時のように目がグラグラする程である」と書かれているではないか、これだと早速、日本語に訳しYMCAの表にそれを張り付けたところ、忽ちYMCA英語学校三クラスに一杯の二百名の申込があり、教師三名には大使館通訳官で、元ハワイYMAで働いたことのある夫人がアメリカ人の川崎寅雄氏、それに前記宮部正雄君は夫人がアメリカ二世、三人目はシカゴYMCAに四十年間勤めた島津岬老、いづれも英語の達人が快く働いてくれ、初等・中等・高級に分けて、引揚げを待つだけで時間と金に余裕のある人々で盛況のクラスであった。お陰で私や末包氏らの生活も保障されて翌年四月の帰国まで八ヶ月楽しく過した。日本の書物も沢山売りに出されていたので名著好著など買入れて図書室を作ったが、これは全く外れで、誰一人時間があるのに読書に関心が無かった。


 このように公にYMCA英語学校を開いたが、何の障害も干渉も受けずに過した。日僑管理所という中国政府の軍管理があり湯恩伯第三方面軍司令官が長であったが何のトラブルも無かった。

   

(十一)兵隊の経験と現在

私個人は上海から敗戦翌年四月に日本に帰りYMCAに停年六十歳まで働き、それから東海大学〔付属相模高校とヨーロッパ学術センター〕で働き、七十五歳以後,ヴォランテイアとして平和運動、キリスト教伝道、YMCA史学会、社会福祉関係などに関係して九十二歳になった。


 私の兵隊物語は期間は短く、「敵」との交戦の経験は無いが、日本軍の当時の実態を、そのまま書いた。既に沢山の悲惨、残酷、非人間的戦争と兵隊の実際を書いたものが他にある。ただ今の日本がどう変わってゆくのかを考えると黙って居れぬ、既に九十二歳を過ぎようとして時間は無い。これからの日本がまた近隣諸国と平和友好国とならず、武器を以て、相互に殺しあいをし得る国となって欲しくない。既に日本は敗戦し、戦争を決してしない国を望み、新憲法と前文と第九条とで、その決意をあらわした。それが今また戦争が出来る国にしようと言う日本人が多くなりつつあるのかと思わせる状況に、戦争になると、こうなるという事実を書いた。今後の戦争はさらにそれらを上回る事を考えて欲しい。今イラクでのアメリカ軍のやり方を見て、その被害者イラクの立場に日本を置いてみる事をすすめたい。日本がどんな国になるか。それでよいのかと、それをすべての日本人が納得するかと。世界から戦争を無くしよう、お互いに害者にならず被害者にならず、平和を実現する国の幸いを世界の現実にしようではないかと訴えたい。



(十二)兵隊物語に加えたい一つの事件

私の兵隊物語の最後に二つの物語を加えるが、それは兵隊としてではなく、二つとも、私が民間人であったが、(一)は北支方面軍から退去命令を出された事件と(二)は一九九五年、衆議院「戦後五十年国会決議」に先立つ、清瀬市議会に「不戦決議」を清瀬市民として陳情した件である。


 @北支方面軍区放逐事件

 一九四三年四月のこと。私は北京で、憲兵隊に拘留され、その結果は日本に強制送還と言う結果になった。話は単純な内容である。

 
 私が中国語と中国事情などを北京東四牌楼頭條胡同の華文学校で学んだ。それは一九三九年のことである。華文学校は
(COLLEGEOF CHINESE STUDIES)はカリフォルニア大学の協力校で中国にきて各種の勤務につく外国人(日本人を除いて)欧米人が学ぶ学校であった。立派な白大理石の校舎、教室、図書館、チャペルなどと二棟の学生宿舎、三棟の校長などの住宅やテニスコートと美しい庭園があった。

 
 そして一九四三年に飛ぶが、日本人YMCA同盟の派遣員となり北京日本人YMCAの主事として青少年を対象にしたプログラムに専念していたが、日本が対米・英に対して戦争に入ったので、北京などの「敵性人」は山東省濰県」の集中営に収容されることになった。無論、華文学校長ジョン・ヘイズも例外で無かった。ヘイズは敵産となる華文学校を放置する訳にはゆかないから、日本YMCAに資産保管者(CUSTODIAN)となって欲しいということで、日本YMCA現地代表として私共が、その頼みを引受け、私は直ちに日本大使館第四課に行き、その件を伝えた。一九四二年四月に新婚の私共は華文学校の住宅二号館に移り住み、十一月にヘイズたちは濰県の集中営に収容され北京を去った。

 
 ヘイズたちが集中営に去った後の華文学校には米英人ではない外国人学生、デンマークなど三十人以上が中国語の勉強をして居り、宿舎で寝食をし、それを世話する中国人が居った。


 つまり経営者の不在となった華文学校の責任をYMCAが負う責任者となった。私は二号館に住み、別所健二郎君、松田広君らに事務を、松沢光茂さんに宿舎の運営の面倒を見て貰い、私は学生の勉強と教授たちとの接触をしていた。


 ところが、北支方面軍が、この華文学校を将校宿舎(であろうと思うが)に使いたくなったので、こっそり私共の宿舎などを見て廻った。その結果、軍は私に立ち退き命令を出し、やむなく私は転居。翌日学校に行ったが憲兵が待っていて私を拘束して北支方面軍の経理部の目黒大尉の所に引き立てられた。初対面の目黒は私を見るなり「この大泥棒め」とか言ったと思うが華文学校を私有した事を罵ったので、「それは違います。管理を委託されたので……」と言い始めたら、「そんなことは憲兵隊に行ってから言え!」

 かくて北京憲兵隊に拘留二週間の身になった。そのうち私の担当憲兵はミモリ軍曹という人物であったが、四、五日経ったであろうか彼の部屋に呼び入れられて「これを読め」といわれた文書、いわゆる調書を読むと、私自身がYMCAで何をしてきたかについて入念な調べが書かれていた。正直に言って、まあよく調べたものだと思った。「どうだ」と彼が言い、「池田はYMCAの為には、よくやったが、天皇様の為には何一つやっていないじゃ無いか」と言うので、そう言えば、天皇の為に何かをするなど一度も思ったことは無いナと思ったが、そうは言えないから「YMCAの為にしたことは天皇の為になることではないか」と言うと黙っていた。それで留置場に帰ってから天皇とは何かを知りたいと思って「古事記」を取り寄せて貰って読んだが、何と内容の空疎な書であるかと思った。(然し、この書を読んだことが、後で海外同胞中央練成所に入ってから私が評価されることになるとは、思いがけぬことだった。)私が憲兵隊に拘留されたとの知らせを神戸で受けた上司の奈良伝が北京に急いでやってきて、北京憲兵隊長のO大佐(注4)に会ったところ「この件は上級司令部からの指示で捕らえたので仕方が無い。憲兵隊だけの見解でうやむやに釈放はできない」と言うことだったとは後で聞いたが、第二回の調書を読めとミモリの部屋に呼び出されて読むと、敵産の華文学校を私物化したとあったので「これは違う」とヘーズとYMCAの間で管理人となったので、この件を日本大使館には報告してあると言うと、「お前は、そんな事を言って大使館を困らせるつもりか」と言うので、ああ、これは軍の意向を大使館は受けて、両者の間で既に話がついているのだなと思ったので、それ以上のことは言わないことにした。そしてその翌日、准尉の階級章をつけた人物がたった一人でこれも弁護人もついていない私一人に対して宣告した「敵産横領のかどにより北支方面軍管下より退去を命ず、四日以内に帰国せよ」と言うようなことで一九四三年四月、私共は帰国した。


 これを書くのは旧日本軍というもののやり方の実際の一つを示す為である。戦争になったらもっと意外なことが酷いことが起こるかもしれない。私達が突然華文学校から去ってしまった後の、外国人学生たちと中国人教師達はどうなったか。気になることだったが、どうにもならなかったのは残念であった。


 ちなみに華文学校から移転した時に持ち出した私財は全部軍が私の移転先から持ち去った。中には結婚記念に贈られた物もあり贈り主は怒って軍に申し入れたが、その物件に池田或は贈主の名が付いていないでは、証拠にならぬと取り上げなかった。軍隊では物品には一品毎に兵士の名札をつけて、盗まれた時に証拠とするが、民間では一つ一つ自分の物に名札などつけはしないという軍と民との違いなど問題にしない、名札が無いのは所有権が無いと断じて少しも反省は無いのが軍隊であった。




A清瀬市に於ける戦後五十年の一九九五年に戦争謝罪と不戦の誓いが三月二十七日市議会で全会一致で決議された件

 
 一市民である私が三月六日に陳情したのを受けて、三月十五日、ちょうど私の誕生日に総務委員会から陳情書の説明をして欲しいと連絡があったので委員会に行くと、議長が説明して下さいと言うので、どの位の時間をくれますかと聞くと、なるべく短くということだったので私は「何故このような陳情をするのかと言うと、私は戦争に参加した、戦争の経験がある兵隊だったからです」と口を切って説明した。その結果、市議会では四人の議員が陳情を取りまとめたものを市議会では全会一致で決議された。

私の陳情は「アジア太平洋地域で、日本軍による殺害・略奪と戦争に動員された朝鮮、台湾人が被った肉体的、精神的苦痛、中でも『従軍慰安婦』とされた女性たちが受けた人間的尊厳への侵害などを内容とする太平洋戦争への反省と謝罪をする(以下略)」「この意見書は一市民の陳情を四人の市議が推薦し……」と後記の横田氏が書いているが、その一市民とは私のことで、陳情書の全文が市議会で決議されたのではなく、私は市の決議を国会に送り、国会決議されるようすすめること及び市内各学校では授業で取り上げることも陳情したが、この二つの希望は市議会では提案されなかった。

 この私の陳情をきっかけにして市議会議員の中でも共産党が別箇の提案を市議会に提出した。その内容が新聞にも報道されたので、右翼が街宣車を使ってこの提案の撤回を求める運動を始めた。それは共産党の提案の文言に「絶対主義的天皇の植民地主義の下に迫害にあった方々への責任を果たすべきである』との条項が追加された戦争の反省と謝罪であった点に右翼が反対し市議会議長にも面談して議長の歴史観を問いただし、もっとよく勉強せよ等と発言したとこと、又遺族会も市議会に陳情して共産党の提案の撤回を求めた。

 このような事情については岩波書店発行の『世界』創刊五十年記念誌、一九九五年十一月号所載、「ルポ地方議会『不戦決議』逆流の構図(二六四〜二七一頁)横田一氏の報道を是非お読み頂きたい。


 ここでは清瀬市の逆流の現状だけではなく塩釜市於いても市議会の決議に反対した右翼が行動し、それを受けて改めて決議し直したなど両市のことが細かに述べられている。

 市民のつとめとして、又戦争を経験した者として、そして平和憲法が世界に広められるべきものとして、戦後半世紀の今、改めて日本が世界に、戦争について真摯に謝罪し、更に平和に生きる覚悟を述べるべきだと思い、先ず清瀬からと思って陳情したのであった。

 市議会の再度の決議案が上程された日、百名以上の傍聴者が議場に詰め掛けた当時のことは忘れられない。それ程の関心が今やありや?

 日本国憲法は、そのまま実行されず、解釈改憲というまやかし手段によって過し、改憲すると言う現状の日本の大勢に対し、私は日本国憲法は未だ成就されていずに改憲する事は反対であるから、青年達よ、平和憲法を世界の理想として掲げ実践するVISIONをもって欲しい、そして九十二歳の老人も、その希望を失わずに進むことを誓う。


注1 これは私の知識の無いことから起こっていた。兵役に就くには甲、第一乙、第二乙の合格者から選ばれるが丙は第二補充兵で、いよいよ兵員が不足して補充せねばならなくなった段階で徴兵される者であることを戦後になって知った。ただあの中佐が私を丙にした理由は疑問のまま残された。これも戦後に知った実例であるがE牧師が戦時中、朝鮮にいた時、召集令状が来て、集合所に行った。すると軍医が、やはり判定官で、牧師は戦争に向かないからと言ってE牧師をすぐ召集解除にされたとE牧師から聞いた。もっともその軍医はキリスト教主義の病院の院長の長男であったがとE牧師の話であった。その例と私の場合の判定官の決定理由が同じであったか、どうかは一切不明である。


注2 鄭州に暫く居ったと書いたが、後で知ったが、ここは北支那方面軍に属する第十二軍の根拠地であった。此処での炊事は恐らく十二軍の炊事場を使ったのだろう。永久に使えるような設備で、そこに毎食、我々は食缶(バケツのようなもの)をぶらさげて「××二等兵○○メシアゲに参りました」と大きな明瞭な声で炊事上等兵が三角眼で何か文句をつけようとでもいうように見張っている炊事場に入ってゆくのであった。馬車で町に物資受け取りにいったのも、この鄭州での事だったのであろう。


注3 芷江作戦の全記録(佐藤鉄章)によると、私共が南京に召集される直前の四月五日頃、彼の所属の輜重輸送の馬部隊は漢江対岸の武昌から長沙を経て、アメリカ空軍基地芷江方面(貴州に近い湖南省の西南部)攻略に向かっている日本軍に物資を送り届けようとしていたが連日、完全に制空権を持った米軍のB二九の大編隊の空襲を受け、漢口の日本軍大貨物廠は壊滅し、前線からは撤退してくる乞食そのものの姿の兵隊たち、皮膚は裂け化膿し、蝿が巣食っていて何を聞いても目を見開いたまま答えようともしない有様、前線への物資を運ぶ馬も倒れ腐敗している。米軍給与で最新装備の国民正規軍の圧倒的武力攻撃とマラリヤ、赤痢にやられている日本軍は作戦中止をして撤退を余儀なくされた(五月九日)。それから一ヶ月余り、悲惨な撤退戦となり、戦死一万五千名、戦傷五万名と言う壊滅的打撃を受けて敗走し中国に於ける最後のもっとも悲惨を極めた作戦であったと著者が言っている。(河出書房新社『召集兵』佐藤鉄章著)

その戦線に我々は馬を連れてゆくのが使命であったようだ。全く『知らぬが仏』の大隊であったが然し六月になっても大隊長や中、小隊長らは行く先とそこでの戦況は知っていたか、或は下士官たちは知っていたか、知っていたとすれば、やはり兵には「由らしむべし、知らしむべからず」であったか。そして敗戦前に、我々がその戦場に行ったとすれば、我々も全滅する運命にあった訳だ。



注4 北京憲兵隊長O大佐の実名は当時、私は知っていたが、奈良伝「千里の道」では奈良氏は私の事件以前に、北京YMCAの仕事を始める前にO大佐と会って奈良の任務について了解を得ていた関係があり、私の事件が起こってから大佐にあっているが同書では実名を書かずO大佐とだけ記しているので、やむを得ず私もO大佐とした。

 奈良伝著「千里の道」、昭和四十九年八月二十日、奈良伝手記隋筆集刊行会発行、製作者創元社には三〜四三頁にヘイズ博士との平和運動や、五「戦時下の結婚と憲兵」など参照、全二三八頁



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