水戸学について

水戸学について

幕末、明治維新を語るとき水戸学が歴史に与えた影響は多大なものがあったにもかかわらず
いまいち世間の評価が低いような思いが私自身の中にあります。
そして水戸学を語る前にまず義公と大日本史について簡単に説明します。


水戸黄門様として今も親しまれている徳川光圀公(とくがわみつくにこう)(1628〜1700)は、
寛永五年(1628)水戸城下、柵町の三木之次(みきゆきつぐ)という家老の屋敷で生まれ、事情があって5歳まで身分を
隠して三木夫妻の養育を受けられました。
6歳のとき、長兄頼重(よりしげ)を越えて(次兄は幼いとき死亡)、世継ぎに決められると、江戸小石川の水戸邸へ移り、
父のもとで武士的教育を受けられました。
ところが、15〜6歳のころから何故か脱線し、江戸の繁華街を放浪したり三味線を楽しむようになられたので、守役が熱
心に諌めても効果がありませんでした
しかし後で述べますが十八才の時に史記の伯夷伝を読まれた事により大きく変貌していきます。
    
諡(おくりな)を義公(ぎこう)といいました。
    
明暦三年(1657年)30歳のとき、
江戸駒込の屋敷で学者を集めて『大日本史』の編集をはじめられ、(この時はまだ書名は決まっていませんでした)の
ちに、これを小石川の屋敷に移し(今の東京ドームのあたり)
「彰考舘(しょうこうかん)」と名づけました。
わが国では最初の大文化事業で、多くの人手と年月をかけて、
250年後の明治39年(1906)に完成しました。
光圀公自身は、全国漫遊をしておられませんが、
彰考舘のすけさん、かくさんを派遣して多くの資料を京都をはじめとし全国に広く求められました。
初めに修史の発起とその構想の拡大でありますが、光圀公が、いつどのような気持ちから大日本史の編纂を計画され
たかということは、周知のように正保二年十八才の時に史記の伯夷伝を読まれた事であります。
初めてその時自分の大きな過ちを発見されて、これはいけなかった、こういうことでは自分は申し訳無い、
慚愧に耐えないという気持ちをお持ちになって、それからの第一歩を踏み出されたのであります。
その大きな反省とは何であったか、史記の伯夷伝を読んで、どういうことを考えたのか。
第一に父から相続を命ぜられた叔斉が、兄伯夷を気の毒に思って家出すると、伯夷もまた父命を重んじて家出するという、
兄弟の思いやりの問題でありました。義公自身にとりましては兄の頼重 がいるのに六歳の時跡継に決められており、
しかも、これまでわがままな少年であって、学問を進められても関心を持たない少年であったから兄の気持ちも考えず、
自分の態度を悪いとは思いませんでした。これをはじめて自分で反省されたのでありました。
史記の伯夷伝という本を読むことによって、今までの自分は大きな過ちを犯していると言うことに気づかれたのであります。
光圀公の偉大さは、これに気づいて志を立て、それを己を律し改めた事であります。
そのときから学問を始めて、正しい人間の在り方、つまり人倫ということをどこまでも追求しようと思われ、
このような研究や学問を一生涯続けられたことではないでしょうか。
これはなかなか容易な事ではないはずですが、さらに義公は史記をよく読み直して、こういう書物があったからこそ私
は、これだけの自覚をすることが出来た。この史記は私にとって大変にありがたい書物である。しかしそういうものは今ま
で日本に出来ていたかというと残念ながら出来ていない。中国には史記あり漢書があり宋書がある。日本には古事記・
日本書紀・続日本紀など朝廷の編纂した歴史はあるけれどもすべて編年体で、しかも途中でそれは絶えてしまってい
る。十世紀ころから歴史の編纂は行われなくなった。また、行われないばかりでなく、資料はどんどん兵火にあって焼けてしま
い、いま残っているのは非常に少ない。こういうことを考えて、日本の史記を造るということには、非常な困難があること
を知りながら、決意されたと思います。これは義公薨後五十年(寛延三年に河合正修編)に『史館旧話』という書物が編
集されています。
 
 真の史学は、過去の事実を明らかにするばかりではありません。ことに国の歴史を作ることは、国の本来の姿を明ら
かにして変遷の跡を見定め、将来のあり方、理想を掲げ得るものであります。
それと同時に歴史は人が作るものでありますから、読む人は人物を批判し、自己のあり方を正すことができます。
紀伝体の歴史は本紀すなわち天皇の伝記と、列伝つまり皇妃、皇子皇女、諸臣(後にこの中に将軍やその家族、
家臣をまとめて配列します)の区別をはっきり示しますから、革命のない日本の国体、君臣の名分が明らかになります。
その他に文学者、歌人、孝子、義烈、烈女等の伝や罪人 (叛臣・逆臣)の伝までまとめて、また新羅、百済、等から
随・唐・宋・元・明、その他の国々など国外の諸国伝も設けました。
そして次には神祇志以下仏事志までの十志と、臣連二造、公卿、国郡司等五種の在任年表を加えたので、
全三百九十七巻という巨大なものとなり、完成したのは明治三十九年で、目録を附けて四百二巻を水戸徳川家の
徳川圀順氏から、明治天皇、皇后両陛下に献上し、また常磐神社に奉納したのであります。
 この間約二百五十年、義公の始められた修史事業は、その根本方針は代々の藩主である水戸徳川家が受け継ぎ
実際の研究と執筆は代々彰考舘員が苦心努力しました。 しかし明治維新が達成され藩が廃止されてからは、
徳川家の事業として完成されました。
この大事業を遂行するために、代々彰考舘員は、史料の蒐集、その鑑定、解釈、立稿、校訂など様々に工夫をこらし
多くの独創、発見をされました。ことにこれらの業務に携わる史臣の採用は、浪人や庶民でも有能なものを全国的に
選抜採用し、各自の能力を発揮できるように任務を与えましたが、史料の最も多い京都の人を多く採用し、朝廷・公
家・社寺との交渉に力を入れられたことは、自然に京都において水戸の信用度を高め、意志の疎通を深める一方幕府
の嫌疑を招くこともありました。
 また義公は編纂上の必要と、史臣の才能を活用して史学以外に新しい学問を興されました。すなわち和文・和歌等
の国文学、天文、暦学、算数、地理、神道、古文書、考古学、兵学、書誌等々で、それぞれ貴重な著書編纂物を残さ
れました。中でも古典の異本を集めて異同を考証し、諸種の校正本、参考本を造り校刻しました。こうしたことから他学
派との交流も盛んになりましたし、水戸領内の各地に郷校が建設され学問が普及し、後世農商の間から藩士に抜擢登用されて
藩のエネルギーを高めたことも意義が深いことでしょう。
 義公は後世を考えて、考証の経過を註記させたり、史料も六国史以外は註記することなど近代史学の先駆というべ
く、また古墳の発掘調査も終了後は保存のための財的処置をとっておられます。
 史論の上でも三大特筆は義公の深い思慮決断の結果でありますが、中でも南朝正統論は湊川に楠公の墓碑を建て
られたことと相俟って、後世の志士を感奮させ、王政復古の運動を導く大きな役割を果たしました。
 そればかりではなく、義公胸中の理想は後世史臣に深い思索と発明を促し、薨後百年藤田幽谷の出現によって
尊王攘夷の運動を起させ、烈公の大改革を生んで、西洋列強のアジア侵略の怒濤の中で、日本ひとり独立を全うし、
国体に基く明治維新の礎となった事は明白であります。

義公がお亡くなりになったとき、江戸の町には次のような狂歌が広まりました。
「天が下 二つの宝つきはてぬ 佐渡の金山 水戸の黄門」
このように人々は、なげき悲しんだと言われています。
    

「水戸学」とは・・・(概説)

『大日本史』の編纂事業を続けて行く間に、水戸藩の中で次第にできあがって来た学問のことで、

光圀公時代から18世紀の始めまでの『大日本史』の本紀・列伝・論賛の編纂に取り組んだ前期と、

斉昭公の時代の18世紀末期から幕末にかけての、『大日本史』編纂事業の継続と、

当時の時局問題の解決にも目を向けた後期とに区別して論じられている。

水戸の学問が他藩からも注目されるようになったのは天保年間以後の頃で

「天保学」「水府の学」などと呼ばれた。

明治以後になって「水戸学」というようになった。

現在では前期・後期を含めて「水戸学」と言われている。

水戸学

 18世紀の末から幕末の時期にかけての水戸藩の学問は、内憂外患のものでの国家的危機をいかに克服するかに
ついて独特の主張をもつようになった。それが水戸学と呼ばれるものである。
 その主張をまとまったかたちで表現した最初の人物は藤田幽谷(ゆうこく)で、幽谷は寛政3年(1791)に「正名論」を
著わして、君臣上下の名分を厳格に維持することが社会の秩序を安定させる要であるとする考え方を示し、尊王論に
理論的根拠を与えた。

 幽谷の思想を継承・発展させたのが門人の会沢正志斎(あいざわ・せいしさい)と幽谷の子藤田東湖(とうこ)である。
正志斎は文政8年(1825) 3月、「新論」を著わした。

 『新論』は、同年2月、江戸幕府が外国船打払令を発布したのを好機とみて、国家の統一性の強化をめざし、このた
めの政治改革と軍備充実の具体策を述べたものである。
そのさい、民心の糾合の必要性を論じ、その方策として尊王と攘夷の重要性を説いた。ここに、従来からの尊王論と攘
夷論とが結び合わされ、尊王攘夷思想が形成された。また、日本国家の建国の原理とそれに基づく国家の体制という
意味での「国体」という概念を提示したのも『新論』が最初である。
9代藩主徳川斉昭(なりあき)のもとで、天保期(1830-44)、藩政の改革が実施され、この改革の眼目の一つに藩校弘
道館の建設があった。この弘道館の教育理念を示したのが「弘道館記」で、これは斉昭の署名になっているものの実
際の起草者は藤田東湖であり、東湖は斉昭の命でその解説書として『弘道館記述義』を著わした。『新論』が日本政治
のあり方を論じたのに対し、これは日本の社会に生きる人々の「道」すなわち道徳の問題を主題とし、『古事記』『日本
書紀』の建国神話にはじまる歴史の展開に即して「道」を説き、そこから日本固有の道徳を明らかにしようとした。東湖
は、君臣上下が各人の社会的責任を果たしつつ、「忠愛の誠」によって結びついている国家体制を「国体」とし、「忠愛
の誠」に基づき国民が職分を全うしていく道義心が「天地正大の気」であると説く。
したがって、「天地正大の気」こそ建国以来の「国体」を支えてきた日本人独自の精神であり、内憂外患のこの時期に
こそ「天地正大の気」を発揮して、国家の統一を強め、内外の危機を打開しなければならない、とするのが東湖の主張
であった。要するに、水戸学の思想は、天皇の伝統的権威を背景にしながら、幕府を中心とする国家体制の強化によ
って、日本の独立と安全を確保しようとしたのである。
しかし開国以後、幕府にその国家目標を達成する能力が失われてしまったことが明らかになるにつれ、水戸学を最大
の源泉とする尊王攘夷思想は反幕的色彩をつよめていく。そして、吉田松陰らを通して明治政府の指導者たちに受け
継がれ、天皇制国家のもとでの教育政策や、その国家秩序を支える理念としての「国体」観念などのうえにも大きな影
響を及ぼしていくのである。
水戸学者には、会沢正志斎・藤田東湖のほか、青山延于(のぶゆき)青山延光(のぶみつ)父子、豊田天功、菅政友、
栗田寛(ひろし)らがいる。

 江戸時代の後期水戸藩に成立した国家主義思想。広義には,徳川光圀が『大日本史』の編さんを始めて以来興起し
た水戸藩の学問全体をさすとも考えられるが,本来の意味では,19世紀になってから水戸藩に成立した独自の学風を
さすと狭義に解するのが適切である。すなわち,水戸学は,江戸時代,「水府の学」「天保学」などと呼ばれ,水戸学と
いう呼称が一般的になったのは明治時代に入ってからであって,「天保学」の呼称は,この時期から水戸藩の学風の
独自性が全国的に注視の的となったことを端的に示している。水戸藩における学問の興隆は,2代藩主徳川光圀が,
1657年(明暦3),史局を江戸の藩邸に開設して『大日本史』の編さんに着手したことに始まるが,修史事業を中心とし
た前期の学問と尊王攘夷思想を説いた後期の学問とのあいだには性格上に無視しがたい差異が認められる。まず前
期についていえば,光圀の招きに応じ修史事業遂行のため参集した学者には,儒者とくに朱子学の歴史思想にもとづ
いて,日本の歴史を理解しようとする傾向が強かった。したがって,史局員にとっては『大日本史』の本紀・列伝に記述
すべき,歴代天皇を含む史上の人物に対し,道徳上の評価を確定することが最も重要な任務とされていた。光圀が晩
年,修史事業を回顧して〈皇統を正閏し,人臣を是非し,輯めて一家の言を成す〉と『梅里先生碑文』に述べたのも,既
成の通念にとらわれない独自の判断を史上の人物に下すことができたという自信の表明と解される。前期の代表的学
者には『大日本史』の「論賛」を執筆した安積澹泊,史料収集に活躍した佐々十竹,『保建大記』の著者栗山潜鋒,『中
興鑑言』の著者三宅観瀾などがいる。これに対し後期は,朱子学を批判して荻生徂徠(1666〜1728)が唱えた新しい儒
学の思想と,本居宣長(1730〜1801)の唱えた国学の思想などから影響を受けて独自の思想が形成された。したがっ
て光圀時代の学風は後期のそれの源流とみることは可能でも,思想上の差異が認められるので,水戸学の呼称を広
義に使う場合にも,前期水戸学と後期水戸学とにこれを区別して示すのが一般的である。
【成立】水戸学の思想を体系的に表現した最初の人物は藤田幽谷(1774〜1826)である。幽谷は『正名論』を著し,君
臣上下の名分は天と地が変わらないのと同様不変であるべきで,これが確立して初めて社会の秩序を維持することが
できるとし,尊王思想のための理論的根拠を与えた。幽谷の思想は門人会沢正志斎と子息東湖に継承された。会沢
は1825年(文政8),『新論』を著し,現実に直面する政治上・軍事上の諸問題を取り上げて熱烈な尊王攘夷論を主張し
た。その主張は,藩財政の窮乏,農村の疲弊,士風の弛緩などに現れた内政問題と,西欧列強の圧力が増大する対
外問題との,両面から迫りくる幕藩体制の危機を深刻に受けとめ,その危機打開策として,まず民心の統合を実現し,
国内政治の改革を断行して国家の統一強化をはかることの必要性を説いた点に特色がある。また東湖は藩主徳川斉
昭(とくがわなりあき)の信任を得,天保の藩政改革を推進する斉昭を補佐した。その主著『弘道館記述義』は,改革政
治の眼目の一つとして開設された藩校弘道館の教育目標を示した『弘道館記』の解説書であるが,東湖は記紀の建国
神話に始まる歴史過程に即して「道」を説き,日本社会に固有の道徳理念を明らかにしようとした。東湖はまた,『回天
詩史』『正気歌』を述作し,これらは幕末志士のあいだに愛誦された。会沢が国家的視野から政治論を展開したのに対
し,東湖は国民が実践すべき道徳論を説いたといえる。

【影響】水戸学は,天下有識者の注目を集めた水戸藩天保改革の思想的裏付けとなっただけでなく,吉田松陰らに多
大の感化を及ぼして幕末に高揚した尊王攘夷運動の指導理念となり,さらには明治国家の支配原理ともいうべき「国
体」思想の源流ともなった点で,重要な歴史的意義をもつ。

郷校というのは、郷学とも言い、江戸時代における教育機関として大藩では藩校に準じ領内各地に設置されたもので
あるが、郷校が担ってきたもう一つの役割は、庶民の教育機関としてのものである
水戸藩の郷校
校 名  

稽医館(小河郷校)    小川町 文化元年(1804)に、南郡紅葉組の郡宰(郡宰とは郡奉行のこと)であった小宮山
                昌秀によって、茨城郡小川村(現東茨城郡小川 町小川)に稽医館(のちの小川郷校)が設
                立された。一番最初にできた郷校である。

延方学校          潮来市 文化三年(1806)には、行方郡延方村(現行方郡潮来町延方)に延方学校(のち 
                の延方郷校)が設けられ、地方村医の研修場、或いは庶民教轤フ場としての役割を果たす 
                ことになる。  

敬業館(湊郷校)      ひたちなか市  斉昭の代に開校

益習館(太田郷校)     常陸太田市 旧久慈郡太田村 天保8年(1837)になってこの地に太田郷校(益習館)が開 
                かれた

暇修館            

(大久保郷校)興芸館     日立市 多賀郡大久保村(現日立市)に天保十年(1839)興芸館(のちの暇修館)が    
                設けられた。
                大久保村の医師で、天保五年には水戸藩士分の待遇を受けた大窪光茂が中        
                心となって、旧大窪城跡の一部の常光寺境内に建設したもので、敷地は光茂が提供し、建
                設費は有志の寄附や藩からの補助でまかなわれた。設立当初は、村医の研修が主として 
                行なわれていたが、やがて神官・郷士・村役人などの教育機関になり、さらに一般の人々も
                出 席が認められるようになった。 弘化元年(1844)四月一五日、名称が「余暇に学習す 
                る 」という意味の暇修館と改めらた。

時雍館(野口郷校)     御前山村   時雍館は徳川斉昭が設置した郷校の一つで、弘化元年(1844年)に建設さ 
                れ、和漢・医学・武芸などを学び、県内及び県外からも数多くの生徒が集まり、明治維新で 
                活躍した幾多の志士を生みました。香川敬三などもこの郷校で学んだのかもしれない。
                田中愿蔵は一八四四年、久慈郡東連地村(現水府村)で生まれた。野口時雍館の館長を務
                め、一八六四年三月、水戸学の指導者藤田東湖の子、藤田小四郎らとともに筑波山で挙兵
                し、天狗党幹部になった。

大宮郷校 

秋葉郷校 

鳥羽田郷校

小菅郷校  

町田郷校  

大子郷校

潮来郷校          潮来市 

馬頭郷校  

文武館(玉造郷校) 玉造町内宿 一番最後にできた郷校 鈴木暎一氏がその著『水戸藩学問・教育史の研究』 
                (吉川弘文館、昭和六二年)の第九章で「医学研修の場としての役割をもっている」と玉造郷 
                校の性格を書いておられる。


十五の郷校のうち、安政以前につくられた六つの郷校、すなわち稽医館・延方学校・敬業館・益習館・暇修館・時雍館
(文化・天保・嘉永年間設立)と安政期につくられた九つの郷校、大子・小菅・大宮・町田・秋葉・鳥羽田・玉造・潮来・馬
頭郷校とは開校した目的が大きく違っていることである。すなわち安政郷校は「文武館」としての性格が強く、郷士・庄
屋などの農民や神官などの文武の修練の場として開かれたものであったということである。このことは、一般農民にま
で文武を藩が奨励する必要に迫られていたこと意味しているのではないだろうか。長い鎖国体制の中で、ラックスマ
ン、レザノフのロシア人の外交接渉や、日本近海に出没する異人に対する備えということである。現に水戸藩では、文
政七年(1824)五月末日、大津の浜に異人が上陸した。漁師達は平然としていたが、役人は驚いて水戸へ早馬を走
らせたという(瀬谷義彦「大津浜異人上陸の歴史的意義」 『北茨城史壇』創刊号)。海に面している水戸藩では、外敵
に対する備 えが急務であり、そのため郷校においてもその中心が「武」へ移行した のではないだろうか。 
  さらに「文」の方は、私が考えるには、有能な人材を、藩が、在野の、武士以外の階層に求めたのであろう。現に郷
士の場合、旧来の十八郷士といわれる人々にたいして、並み・格という新しいタイプの郷士層がでてきたのもこの頃で
ある。以前よりも幅広い階層の人々が学習できるようになった。時代が郷校に求めたものは、もはや「医学」の普及で
はなく「文武」の役割が追及されたことは容易に推測されよう。以上のような役割を担いつつ郷校は幕末を迎えたので
ある。 

水戸藩では、天保十二年(1841)に藩校として弘道館を開設した。敷地は三の丸に居住する家老山野辺氏(のち助川
海防城主)ら十二人の屋敷を移した跡地約五万四000坪ほどであった。藩校としては、全国 的には寛永十八年(16
41)の岡山藩の花畠教場(のちの岡山藩学校)がもっとも古く、以後明治四年(1871)まで302校が設立されている
が、そのなかでも弘道館は最も広大な敷地を持つものであった。加賀の明倫堂が約1万八000坪、萩の明倫館が1万
四九00坪であるから、弘道館の敷地がいかに広大であったか推測できよう。敷地の中には、正庁・文館・武館・医学
館・鹿島神社・孔子廟・八掛堂などが建設され、調練場・馬場なども整備された文武医の総合学校ともいうべきもので
あった。今も県庁の裏方にあたるこの跡地は、梅の花が咲きほこり行きかう人々を楽しませている。 
  しかし、ここで不思議に思えるのは、この藩校(弘道館)の開設が天保十二年と比較的遅いことである。『大日本史』の編さん
と水戸学の発達に代表されるように、文教重視の藩とみなされている水戸藩が天保期に到るまで藩校を持っていなか
ったのである。 なぜ藩校の開校が遅れたのかそれは水戸藩においては郷校の充実があげられるのではないだろうか。
     そしてのちの天狗党(主に郷校出身者)と諸生党(主に藩校出身者)の争いもなにか興味を引く物である。