心理学小史







 心理学は若い科学であるが、人々は歴史を通して心理学的問題に関わってきた。心理学の歴史書は、古代のギリシャ哲学者、特にプラトンとアリストテレスの見解について論じている。ギリシャ時代以後、セントアウグスティヌスは、幼児や馬車レースにおける群衆の行動を含む、心理学的現象についての内観に対する関心と好奇心のために、現代心理学の次代の偉大な先駆者と考えられている。デカルトは、他の機械は学習されるけれども、動物は学習され得る機械である、という理論を立てたことによって心理学において彼の名を残した。彼はまた反射作用の概念を導入した。それは心理学において重要な位置を占めている。17、8世紀の多くの傑出した哲学者たち−ライプニッツ、ホッブズ、ロック、カント、ヒューム−が、心理学的問題に取り組んだ。


現代心理学のルーツ


初期の2つのアプローチ

 19世紀、2つの心に関する理論がその支持をめぐって張り合っていた。一つは、能力心理学として知られるもので、遺伝した心的力の学説である。この理論によれば、心は少数の別々な独立した「能力」や心的作用−思考、感情、意志など−を持っており、それがその活動を説明するという。これらの能力はさらに下位能力に分解される:我々は記憶の下位能力を通して覚え、想像の下位能力を通して想像する、などである。能力心理学は、脳の異なる領域に特殊な能力を位置づける試みをした19世紀初頭の心理学者、ガルなど、を奨励した。

 連合心理学は反対の見解をとった。彼らは生得的な心の能力を否定した:その代わり、彼らは心の内容を、感覚を通して入り、類似、対照、接近などの原理を通して結び付けられる、観念に限定した。彼らは、全ての心的活動を観念の連合−主にイギリスの哲学者によって発展された概念−を通して説明した。

 能力心理学と連合心理学の両方は、現在でも対照的なものを持っている。心理テストの要因としての心的能力の調査は、能力心理学と関係している。記憶や学習における現代の調査は、初期の連合理論と関係している。能力心理学は行動の遺伝的面に注目しており、ところが、連合主義は行動の決定因としての環境を強調している。環境対遺伝の問題は、心理学の歴史を通して続く。


ヴントの研究室

 ヴィルヘルム・ブントは学問の一分野としての心理学を創始したという名誉を与えられた。その創始の日は、普通1879年として引用されており、その年はヴントがドイツのライプニッツ大学に最初の公式の心理学研究室を設立した年である。ヴントの研究は主に感覚、特に視覚に関わっていた;しかし、彼と彼の共同研究者は注意や、情動、記憶についても研究していた。

 ヴントの心理学は、心的過程を研究する方法として内観に頼っていた。内観法は、哲学から受け継がれたものであるが、ヴントはその概念に新しい次元を付け加えた。純粋な自己観察は十分でない;実験によって補われる必要がある。彼の実験は刺激の物理的次元を体系的に変化させ、内観法はこれらの物理的変化がどのように意識を変化させるかを測定するために用いられた。

 研究に対するヴントのアプローチは、反応時間における彼の実験の一つによってよく説明される。この実験では、被験者は光の点灯の後できる限り速くキーを押すことが要求され、被験者の反応時間が注意深く測定された。ヴントは、被験者の注意がキーを押すために素早く指を動かすことに向けられているときよりも、被験者が光の点灯を見つけることに注意が払われている時の方が、反応時間が長いことを見いだした。被験者はどちらの場合でもとても速く反応したが、約.1秒の反応時間の差異があった。この奇妙な結果を説明するために、ヴントは「知覚」と「統覚」とを区別した。注意が指の動きに向けられているとき、単純な知覚が起こり、光は反応を敏速に引き起こした。しかし、注意が刺激に向けられているとき、付加的な統覚の活動が起こり、それは光の「より豊富な」知覚を含んだ。ヴントはこの統覚が約.1秒を必要としたと考えた。彼の解釈はもはや受け入れられない。それは、我々は今や刺激と反応とを仲介する過程はもっと複雑な様式で組織されていることを知っているからである;しかし、そのような研究が実験的科学としての心理学の開始を助けたのである。

 彼が1920年に死ぬまで、心理学に対するヴントの個人的影響は非常に大きかった。アメリカの心理学の多くの草分けは、ヴントの研究室で鍛えられた。アメリカの最初の公式の心理学研究室は、1883年にスタンリーホール(ヴントと共に研究した人)によってジョンホプキンス大学に設立された。ただし、ウィリアムジェームズは1875年までにハーバードに小さな実験研究所を立てていた。アメリカで「心理学教授」と呼ばれた最初の人は、やはりヴントの弟子であるマッキーンキャッテルで、彼は1888年にペンシルヴァニア大学でその肩書きを得ている。1890年代が終わる前に、ヴントの弟子達は多くのアメリカの大学に認められた。


もうひとつの現代心理学のルーツ

 心理学研究室の創立の勢いは主にドイツからやってきたが、他の影響もあった。イギリスでは、フランシスガルトンが個人差の研究の草分けで、知能テストの発展に重要な影響を及ぼした。ガルトンは相関の統計的技法を発明し、後に相関係数として知られる指標を発展させた。

 チャールズダーウィンによって提唱された、自然淘汰を通した進化理論の影響もまた、イギリスからきた。ダーウィンの理論は、動物と人間の連続性を立証し、従って心理学における比較研究を導いた。

 心理学に対する他の領域からの影響は、医学、特に精神的病気の治療から生じた。例えば、催眠は治療の形態として長い歴史を持っており、1700年代の後半のアントンメスメルの仕事から始まっている。他には、ウィーンの医者であるジグムントフロイドは、今世紀初頭に精神分析を確立させた。


心理学の学派


構造主義と機能主義

 19世紀後半に科学的心理学が現れたとき、化学や物理において研究者たちは、複雑な合成物(分子)を要素(原子)に分解することによって、大きな進歩を示していた。これらの成功は、心理学者がより複雑な経験を構成している心的要素を探すことを促進した。水を水素と酸素に分解することによって化学者が進歩したなら、恐らく心理学者は、レモネードの味(知覚)を意識経験の分子と考えることによって前進できるであろう。その分子は内観によって認識され得る要素(感覚)−甘い、苦い、冷たいなど何でも−に分解される。これはヴントやその弟子によってとられたアプローチで、アメリカにおける主要な支持者は、コーネル大学でヴントが指導したティチェナーであった。目標は心的構造を明らかにすることであったので、ティチェナーはこの心理学の種類を表すのに構造主義という用語を導入した。

 しかし、構造主義の純粋に分析的な性格に対する根強い反対があった。ウィリアムジェームズ−ハーバード大学の名高い心理学者−は、構造主義者の下で発展するような心理学における制限を許さなかった。ジェームズは、意識の要素への分解になされる強調はより少なく、その流動性、流れ、個人的特徴の理解により多くの強調がなされるべきであると感じていた。彼の主な興味は、生体が環境に適応できるためにどのように心が作用するかを研究することであった。ジェームズは意識の機能の仕方を問うていたので(特に適応過程において)、彼の心理学に対するアプローチは機能主義と名付けられた。ジェームズの著書に書かれた適応様式としての習慣は、研究の中心課題としての学習過程を含む心理学のお膳立てを作るのを助けた。

 適応に対する興味はダーウィンの自然淘汰の理論によって影響された。意識が個人の活動を導くことにおいてある目的を果たすという理由だけで、意識は発展し、議論がなされた。意識の機能的役割にこの強調をおいたために、構造主義の内観法は制限的過ぎるという認識が生まれた。生体が環境にどう適応するかを明らかにするためには、内観から得られたデータは、動物の行動や行動の発達(発達心理学)の研究も含めて実際の活動の観察によって補われるべきであると、機能主義者は主張した。このように、機能主義は従属変数としての行動を含める心理学の領域を広げた。しかし、構造主義者に加えて、機能主義者も今だ心理学を意識経験の科学として、主な調査法を内観として見なしている。

 構造主義と機能主義は心理学の初期の発展においては重要な役割を果たした。それぞれの観点がその分野に対する体系的なアプローチを与えているので、2つは競争している心理学の学派として考えられた。心理学が発展するにつれて、他の学派が進歩し、そのリーダーシップを争った。1920年までに、構造主義と機能主義は3つの新しい学派にとって代わられた:行動主義、ゲシュタルト心理学、精神分析。


行動主義

 3つの新しい学派の一つ、行動主義は、科学的心理学に対して大きな影響力を持った。その創設者、ジョンワトソンは、彼の時代の伝統−意識経験は心理学の領域であった−に反対し、大胆にも内観なき心理学を宣言した。ワトソンは、彼が動物や幼児の行動を研究しているとき、意識に関する主張はしなかった。彼は動物心理学や幼児心理学の結果は、科学としてのそれら自身の立場に立てるだけでなく、それらは成人の心理学がよく従う原型を提示することを決定した。

 心理学を科学にするために、ワトソンは心理学的データは他のいかなる科学と同様に公共の検分に開かれるべきであるといった。行動は公共であり;意識は私的である。科学は公共の事実を扱うべきである。なぜなら心理学者は内観に耐えかねてきていたので、新しい行動主義が、特に1920年代に急速に流行ったのである;一時は、アメリカの若い心理学者のほとんどが自身を「行動主義者」と呼んだ。ロシアでは、パヴロフの条件反応における業績が行動主義者による研究の重要な領域であるとして見なされた。条件反応は行動主義の台頭前は制限された方法においてアメリカでは調査されていたが、ワトソンはその後に心理学に広まった影響を与えた。

 ワトソンはほとんど全ての行動は条件づけの結果であり、特定の習慣を強化することによって環境が我々の行動を形成する、と主張した。条件反応は、最小の分割できない行動の単位、より複雑な行動を作る「行動の原子」として、見られた。特別な訓練や教育から生じている、全ての種類の複雑な行動レパートリーは、条件反応の連結した構造にすぎないと見なされた。

 行動主義者は、心理学的現象を刺激と共に始まり反応と共に終わるものとして論じることが適していることに気づき、刺激−反応(S−R)心理学、という用語を生んだ。S−R心理学者は初期の行動主義者よりも、刺激入力と反応出力との間の、仲介変数と呼ばれる仮説的過程を、すすんで推論した点において越えている。

 もし広い定義が用いられるのなら、「刺激」が先行条件のクラス全体を指し、「反応」が結果(実際の行動や行動の所産)のクラス全体を指すのなら、S−R心理学は単に独立変数と従属変数の心理学になる。この様にみると、S−R心理学は特定の理論ではなく、心理学的情報を明白にし伝達可能にするために用いられる言語である。そうして、S−Rの観点は今日心理学に広く行き渡っている。


ゲシュタルト心理学

 ワトソンが行動主義をアメリカで発表したのとほぼ同時期に、ゲシュタルト心理学はドイツに現れた。ゲシュタルトという単語はドイツ語から「形態form」や「形態configuration」として翻訳され、マックスウェルトハイマーによって1912年に発表された心理学は心的過程の機構と関係した心理学であった。その位置づけはウェルトハイマーや彼の同輩クルトコフカ、ウォルハングケーラーに最も近いと認められるようになった。彼らは全てアメリカに移住した者達であった。初期のゲシュタルトの実験は、知覚された運動、特にファイ現象を扱った。2つの光が連続して光ったとき(タイミングと空間的な位置が適当な条件で)、被験者は単独の光が最初の光の位置から次の光の位置まで移動したように見える。仮現運動の現象はよく知っているが、ゲシュタルト心理学者は効果を生み出すときの刺激のパターンに理論的重要性を感じた。我々の経験は、刺激によって形成されたパターンと、経験の体制に依存している。我々が見ているものは背景や、全体の中の他の側面に関係している。全体はその部分の総和ではない;全体は関係における部分から成る。

 ゲシュタルト心理学者は当時の内観心理学に、ワトソン同様に同意しなかったけれども、彼らは行動主義とは非常に対立していた。彼らは、現象学の名で通っている一種の自由内観を捨て去りたくはなかった。彼らは人に何に見えるか、何を意味するかを尋ねることができるようにしたかった。彼らは運動の知覚、人がどのように大きさを知覚するか、照明の変化の下での色の現れ、に興味を持った。全ての心理学的事象における知覚の重要性は、ゲシュタルト心理学に影響を受けた心理学者を、学習、記憶、問題解決のいくつかの知覚中心の解釈に導いた。認知理論の形態として話されるこれらの解釈は、認知心理学の現在の発達の基礎を築いた道具であった。


精神分析

 ジグムントフロイトは、1909年に心理学者スタンリーホールにクラーク大学に招待された際の一連の講義において、アメリカに精神分析的心理学を紹介した。この様に、アメリカにおけるフロイトの業績の最初の学問的な認識は、心理学者からもたらされた。フロイトの影響はとても普及し、心理学について知らない人も少なくとも精神分析に関しては皮相的な知識を持っていた。

 フロイトの理論の一つが行動主義とゲシュタルト心理学に加えて考察において選り抜かれるなら、それは彼の無意識の解釈である。無意識のフロイトの理論の基礎は、幼児期の受け入れがたい(禁じられた、罰せられた)願望が気づくことから閉め出され、影響を及ぼし続ける無意識の一部となるという概念である。無意識は、表現を見つけるよう迫り、それはいくつかの方法で行われる。夢、会話の言い間違い、無意識的癖などを含む。精神分析の方法−分析家の指導下の自由連想−は、それ自身が無意識的願望が言語的表現の発見を助ける方法である。古典的なフロイト学派の理論において、これらの無意識的願望はほとんど性的なもののみであった。この幼児期の性の強調は、それらが初めて発表されたときのフロイトの理論の受容に対する障壁の一つであった。


近年の発展


 ゲシュタルト心理学や精神分析の重要な寄与にも関わらず、心理学は第2次世界大戦まで、特にアメリカにおいて行動主義に支配されていた。戦争が終わると、心理学に対する興味は増大し、多くの人々がその分野の職業に引きつけられた。精巧な器具や電子的設備が手にはいるようになり、より広範囲の問題が調査された。この拡大された調査のプログラムは、初期の理論的アプローチが余りに制限的であったことを明らかにした。

 この観点は1950年代のコンピューターの発達によってより強化された。適切にプログラムされたコンピューターは、以前なら人間だけにしかなされ得なかった課題−チェスをしたり、数学の定理を証明したりすることなど−を遂行することができた。コンピューターは、心理学者に心理学的過程を理論化するための強力な道具を与えたことが、明らかになった。ハーバートサイモンと彼の同僚によって1950年代に出版された一連のすばらしい論文は、どのように心理学的現象がコンピューターを用いてシミュレートできるかを示したものである。多くの古い心理学的問題は情報処理システムの点から、再び見直された。感覚は情報の入力のチャンネルを供給する;心的操作が入力に適用される;変形された入力が記憶内に貯蔵された心的構造を作る;その構造は反応を生む記憶の中の他のものと相互作用がある。コンピューターの力は、心理学者が複雑な心的過程を理論化したり、コンピューターにおけるシミュレートによる理論の意味を調べることを可能にする。もしコンピューターシミュレーションの反応(出力)段階が、観察された実際の人々の行動と一致したら、心理学者は理論に対する信頼をもてる。 情報処理アプローチは、仲介変数を持つS−R心理学よりも豊富で力動的なアプローチを心理学に与える。同様に、情報処理アプローチは、ゲシュタルト心理学と精神分析の考察のいくつかが、コンピューターにおけるプログラムとして正確な様式で公式化されることを許す;このように、心の性質についての初期の観念は具体化されることができ、実際のデータに対して照合され得た。

 1950年代における心理学の観点の変化を導く他の要因は、近代言語学の発達である。その時期より以前は、言語学は主に言語の記述に関係していた;今は、言語を理解し話すために必要とされる心的構造に関する理論化を始めた。この領域の研究はノウムチョムスキーによって開拓され、1957年に出版された彼の著書、統語構造は、心理学と言語学の積極的な共同作業の基礎を与えた。心理言語学の分野の急速な発展が後に続き、最初の意義のある心理学的な言語分析を供給した。  同じ時期、重要な進歩が神経心理学において起きていた。脳や神経系についての多くの発見が、神経生物学と心的過程との間の明白な関係を確立した。初期の行動主義者の何人かが言っていたように、心理学の科学は神経心理学とのつながりなしに確立され得ると主張することは、ますます難しくなった。

 情報処理モデルの発達、心理言語学、神経心理学は、その方向において非常に認知的な心理学を生み出した。認知心理学の一致した定義はないが、その主な関心は心的過程や心的構造の科学的分析である。認知心理学は、思考と知識にのみ関心があるわけではない。知識の表象や人間の思考に関するその初期の関心は、「認知心理学」というラベルを導いたが、そのアプローチは、動機づけ、知覚、心理治療学、社会心理学を含む、心理学の全領域に拡大された。

 今世紀の間、心理学の焦点は一周してもとに戻った。科学的調査には不適切として意識経験を拒否し、行動の研究に方向を変えた後、心理学者は再び一度心について理論化したが、この度新しくより強力な道具を用いた。行動主義から得たものは、認知心理学においても位置づけられた、調査結果の客観性、再現可能性の強調であった。

 歴史的な観点から、心理学の近年の発達の長期的な重要性を判断するのは早すぎる。しかし、明らかなことは今日のこの分野には大きな興奮があり、多くの心理学者が心理学は改革的変化、進歩の時代にあることを信じていることである。心がどのように作用するかを理解することは、我々が前進できる最善の知的努力に値する挑戦である。