石塚啓次に関する実感的覚え書


 石塚啓次をはじめて観たのは私が15歳の時の高校選手権の決勝だった。その年の選手権に私が当時通っていた高校が出場していたこともあって、ふだんは見ないサッカーというものをめずらしく熱心に観ていた。私はそれまで日本のサッカーというものをロクに観たことがなかった。もちろん小学生の時は皆と同じように『キャプテン翼』に夢中だったしマラドーナの真似をしたりなんていうことはあった。しかし中学生になり物心もついた頃から興味の対象は他のことに移ってしまった。とりわけ中学2年生になってからは校内でも有名な帰宅部のエースだったし、スポーツをやってる奴なんて馬鹿ばっかりだなんて思っていた。要するにスポーツに興味などなかったのだ。私の母校が出場していなかったら私がこの選手権観ることもなかっただろう。

 この年の選手権で石塚は最初からかなり話題になっていたと記憶している。ヴェルディ川崎に入団が決まっていたということもその一因だと思われるが、私にとってもっともインパクトがあった話題は石塚の風貌だ。金髪にピアス、そして不良然としたワイルドな面構え、それに加えて彼の風貌が「これは高校生の大会で教育の一環なのだからこんな不良みたいな選手は出場させてはいかん。」といった類いのちょっとした論議を呼んでいたことは私の記憶にかなり鮮明に残っている。この手の反抗的な態度ほど少年をいとも簡単に小躍りさせてしまう代物も他にあるまい。かくして石塚啓次という名前は私の脳裏に焼き付いてしまった。

 私の母校と山城高校がいざ対戦する番になってもまだ彼は私の目の前に現れてこなかった。彼は怪我をしていたのだ。私の母校をPK戦の末破った山城はその後石塚のいないまま決勝まで勝ち進んだ。エースに三浦淳宏を擁する国見高校との決勝戦の舞台、後半半ばから遂に石塚は出てきた。試合中に「石塚はいつ出てくるのか」とアナウンサーが連呼していたこともあり私の期待は相当に高められた。しかし実のところ私はこの時の石塚のプレーをよく覚えていない。あれからもうずいぶんと時が経ったし、当時の私のサッカーを見る目もそれほど成熟したものではなかったからだ。ただ石塚のプレーが他の高校生プレーヤーとは明らかに毛色の違う詩的な美しさを持っていたことだけは鮮明に記憶している。

 その後プロとなった石塚のこれまでのキャリアは彼のその高い技術と比すれば「不遇」と言うより他はないだろう。かつてヒーローインタビューで質問に対し「意味分かりません。」を連発し「優勝したかったら僕を使うことですね。」と締めくくって一躍話題になったこともあった。ありきたりの受け答えに耳にタコができていた私には新鮮で潔く感じられたが、それをステップにしたというよりもむしろそれ以後話題にのぼらなくなっていったという印象が強い。また、背番号10を貰ったこともあったが、周囲の期待に応えることはなかった。かつて少年時代から注目を浴び「天才」と言われながら周囲の期待に応えることなくサッカーの表舞台から去っていった選手がどれほどいたことか、私は回顧せずにはいられない。そして石塚に代表される若き期待の星に我々は常に期待し過ぎるあまりその実力以上の評価を与えてしまってはいなかったか、その「天才」ゆえの不運に私は同情を禁じ得ない。ともかく、1998年の終わりまでに石塚啓次という名前は忘れ去られてしまった。彼を知る多くの人にとっては過去の選手として脳内記憶装置のジャングルへと葬り去られてしまった。

 1999年になり石塚がレギュラーポジションを獲得することを一体誰が予想しただろうか。彼に対し特別な期待を持っていた私にとってもそれはある種の驚きを禁じ得ない出来事だった。李国秀との出会いが彼に何を与えたのか、彼の何を変えたのか、今の私には知る術がない。ただある哲学者はかつてこう言った。「現実とは上下に揺れ続けるヨーヨーであり、変化こそ唯一の定数である。」と。

 我々は過去を知ることによってのみ現在、未来を生きることができる。過去なくしては現在そして未来は無である。自らの過去が如何なるものであったか、そしてそれらをどう捉えるか、そのことによって現在や未来は劇的なまでに変わってゆくのだ、と石塚は私に語りかける。1998年までの消せない過去がある。だが過去という文脈に於いてその意味を自分の手で作り直していくことだけは石塚に可能である。またそこにしか石塚啓次の生きる道は無い。