3月17日(火)
March 17th (Tue), タンペレ通信に
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(お好み焼き)
月曜日は、お好み焼きと巻き寿司を研究室のメンバーに振る舞った。ハイパーメディア研究室は人(研究員の大学院生)の移動が頻繁で、情報にうとい私は、これまでも、休憩室に置かれたケーキを見て初めて、誰かがグループを去ることを知らされたものだ。フィンランド全体の習慣かどうかは知らないが、職場を去るメンバーはいつも、最終日に大きなケーキを焼いて、持ち込んでいたからである。それ以上儀式も、それ以下の別れもなかった。これらのケーキは、こってりとした華やかな味わいながら、くどくなく、甘いもの好きでない私も楽しませてもらっていた。
自分の番が回ってきたとき、彼等の味覚に合ったケーキを作ろうと苦労するよりも、日本の(庶民の)料理を作った方が、お互いに印象深いのではないかと考え、ケーキの代わりにお好み焼きを作ることにしたのである。一度、マラさんにワサビを食べさせてみたいという気持ちがあったことも理由のひとつであるが。幸い、オタフクソースは、まだ貯えがある。研究室のメンバーには電子メールで通知した。
月曜日はいつものように6時に起床、お好み焼きの準備を始めた。もちろん、ほとんどの行程は家内が担当、私は専ら下地を混ぜる役か、子供達の最終登校に家内が付き添ったとき、フライパンの番をする程度にすぎないが。お好み焼きは、キャベツ、(日本のものより大きく固いが)ねぎに豚肉のシンプルな構成、巻き寿司はフィンランド人にも違和感の少ないようにと、ツナ缶のマヨネーズあえに卵焼きとキュウリを巻き込んだもの。緑茶にしょうゆと練りワサビも忘れてはならない。お好み焼きと巻き寿司は分けて、私は研究室に、家内はミーティングプレースに運んだ。予告した11時なると、研究室のほとんどのメンバーが義理堅くも集まってくれた。
マラさんは、ワサビを気に入ってくれたようだ(その他の人々には、受け入れられた様子はなかったが)。海苔を食べるのが初めてなのか、単なる包み紙と勘違いされたようで、きれいに残す人もあったが、準備した料理はほぼ1時間で売り切れた。いずれも日本の庶民の食べ物であり、ヘルシンキの日本料理店(行ったことはないが)で出される料理とは違って洗練された味付けではないとの前置きはしたが、フィンランド人にとっては確実にめずらしい味付けであり、少なくとも興味を持って迎えられたようだ。午後からは、荷物の整理、後片付けを続けるため、アパートに戻った。
(帰国準備)
帰国準備は進まない。月曜日のお別れパーティ(研究室のみならず、数学科のスタッフも集まってくれた)用の料理(巻き寿司とお好み焼きに緑茶を準備した。ワサビも準備したが、試した人は数人、マラさんだけは、わさびがウマイと言ってくれた)は、当日早朝から準備を始めたものの、郵便小包の段ボール多数、持ち帰るトランク、リュックサック等の他に、かなりの食材も残っている。この日と帰国当日の二日間、アハヴェニス湖を渡ってヘルヴァンタ郵便局まで何度も往復し、小包を送りおえた。Unoはないので、輸送には子供用のソリを使う。雪が残っていることが有り難い。雪がなければ、この小包輸送も大変なことになっていたことだろう。食材のほとんどは、みどりさんに無理矢理引き取ってもらった。荷造りを終え、アパートの掃除を完了したのは、昼前である。午後1時にはタクシーを呼んでタンペレ/ピルッカラ空港に向かわなければならず、ギリギリといえる。
荷物をアパートの玄関前まで降ろし、部屋の点検をして、あとはタクシーを呼ぶだけとなったが、最後までトラブルが待っていた。タクシーが呼べないのだ。タンペレのタクシーは、電話番号も一つだけ、呼び出し方法は間違えようもないのだが、電話がつながらない。呼び出し音を20回待っても、相手が出ないのである。タンペレでタクシーを呼ぶのは、これが初めて、全く様子も分からない。最後の助けは、ミーティング・プレイスしかないと、家内は助けを求めに出ていった。しばらくして、戻ってきた家内が言うには、結局、相手が出るまで、いつまでも待つ必要があったとのこと。時間帯(ちょうど、昼休み?)が悪かったのかもしれない。
ようやく、やって来たタクシーの運転手さんは、ご機嫌だった。なにしろ、ヘルヴァンタから空港までは結構距離がある。アパートの鍵を返すため、途中で大学に寄ってくれるよう頼んだが、きわめて愛想が良かった。秘書のリーッタさんに出会えず廊下でうろうろしていると、エーリッキさんが歩いてきた。10ヶ月前、我々を空港からアパートまで送ってくれた人である。研究室とアパートの鍵を返して、さようならを言った。昼食中か、他のメンバーには会えなかった。
大学を出ると、スーパーを左手に、スキー場を右手に、ヘルヴァンタ・タンペレ街道を北に向かい、高速道路に乗れば、空港までは一直線である。遠く右手には、ピルッカラ・ハッリの向こうにタンペレ中心部の町並みとサルカンニエミの展望塔が見える。「再びこの景色を見ることがあるだろうか」と感傷に浸る暇もなく、景色は飛ぶように流れていく。例年より寒い3月(にしては、寒さが安定して続いている)と言われたが、この日は、日差しも暖かく(感じ)、幹線道路では路肩の雪が一部溶け始めていた。日中の気温も零度近くまで上昇していたのだろう。
(残雪) (ピルッカラ空港のタクシー) (タンペレ)
(ヴァンタ−空港へ)
タンペレからヘルシンキ/ヴァンター空港までは30分弱、乗合バスのような雰囲気のプロペラ機の旅となる。往路より一回り大きい機体だが、小型機では「落ちるかもしれない」という感覚がより現実的でスリルがある。この日は雲がなく、滞空中ずっと下界を見ることができた。飛行機が飛び立つと、ナシとピュハの両湖(といっても、完全に凍結した湖は、単に白い平板なのだが)に挟まれたタンペレ市街と森に囲まれたヘルヴァンタが目に入る。最後の別れである。
飛行機は、細長いピュハ湖を視界に納めながらヘルシンキに向かう幹線道路、鉄道上空を飛ぶ。10分も飛ぶと、ハメ城を持つハメリンナの町が小さく見えてくる。「あれがハメ城だろう」、「どれが?」、「あれだよ」と言っている間に、早飛行機は着陸準備に入る。みるみる地上の木々が近くなり、滑走路も見えてきた。ヴァンター空港に到着である。
(チェックイン) (待合い室) (飛行機)
(25番ターミナル)
成田行きフィンランド航空直行便は、25番ターミナルから出発する。10ヶ月前に、我々が日本から到着したのも同じ25番だった。ここに来ると、多くの日本人に囲まれて、異国に居ながらにして帰国したような気楽な気分になれる。たぶん、フィンランド中で最も日本人の密度が高い場所だろう。滞在中、家族との会話以外では、ほとんど聞くことのなかった日本語が、あちらこちらから極当然のように聞こえるのは、不思議なものである。国内便からの乗り継ぎはスムーズだった。往路のように荷物移送でおたおたすることもなく(荷物はタンペレ/ピルッカラ空港で預けたものが成田で出てきた)、旅券チェックだけで国際ターミナルに移動、あっけないほど簡単だった。国内便から国際便への乗り換え客も少なく、所要時間は5分程度か。
手持ちのフィンランド・マルッカを日本円に両替し、職場への土産としてラピン・クルタ(ビール)も1ケース買った(この買い物のため、成田で関税300円を支払い、空港からの宅配便では、受け付けてもらえず、結局、蒲郡まで持って帰ることになるのだが、このときは、そこまで、深く考えていなかった。いつものことだが)。ここまで来て、往生際が悪いと言われそうだが、「帰りたくないなあ。」というのが実感である。もちろん、多くの日本人に囲まれてホッとしたから、湧いてきた気持ちだろうが、フィンランドでの生活と帰国後の生活の落差を考えると、「帰国が嬉しいか?」と問われて、素直に「はい」という言葉が出てこないのは事実である。
帰国便では眠れなかった。帰国後一日おいて勤務校の卒業式に出席するつもりでいたので、体を休めておくべきなのだが、薄暗がりの中、眼下に見えるフィンランドの湖(ついに訪ねることのなかったサイマー湖周辺の東部地方)と森の織りなす複雑な模様から、目を離すことができなかった。国境を越えてロシア上空に入ると地上は夜の闇にとけ、何も見えないのだが、眠れない。タンペレ滞在中は、ほとんど聴かなかったシベリウスの曲を繰り返し聴いているうちに、空は再び明るくなり、朝食の時間となる。眼下は一面雲の海だった。日本上空に入るといきなり雲がとぎれ、陸地がはっきり見えてくる。三国山脈を越え、遠く富士山の出迎えを受けたとき、ようやく、帰国の覚悟ができた。
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