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今週の主張・2002年2月18日
 『大菩薩峠』を読まにゃ、日本人じゃなか!

 〈大菩薩峠は江戸を西に距る三十里、甲州街道が甲斐国東山梨郡萩原村に入って、その最も高く最も険しきところ、上下八里にまたがる難所がそれです。
 標高六千四百尺、昔、貴き聖(ひじり)が、この嶺の頂に立って、東に落つる水も清かれ、西に落つる水も清かれと祈って、菩薩の像を埋めて置いた、それから東に落つる水は多摩川となり、西に流るるは笛吹川となり、いずれも流れの末永く人を湿(うる)おし田を実らすと伝えられております〉

 中里介山の『大菩薩峠』の書き出しであります。日本を代表する文学であり、日本で最も長い、最も高い嶺に位置する小説であります。だから、これを読まない人は日本人であるとは言えないのであります。島崎藤村の『夜明け前』を思わせるようなもの静かな、清らかな書き出しです。この大菩薩峠に、今しも登って来たのが老巡礼と、12、3才の女の子です。峠でお弁当を食べようとし、娘は下の川に水を汲みに行きます。そこから物語は急展開します。

 〈老人は空しくそのあとを見送って、ぼんやりしていると、不意に背後(うしろ)から人の足音が起ります。
 「老爺(おやじ)」
それはさいぜんの武士でありました。
 「はい」
 老爺は、あわただしく居ずまいを直して挨拶をしようとする時、かの武士は前後を見廻して、
 「ここへ出ろ」
編笠も取らず、用事も言わず、小手招きするので、巡礼の老爺は怖る怖る、
 「はい、何ぞ御用でござりますか」
小腰をかがめて進み寄ると、
 「あっちへ向け」
この声もろともにパッと血煙が立つと見れば、なんという無残なことでしょう、あっという間もなく、胴体は全く二つになって青草の上にのめってしまいました〉

 理由なき殺人です。動機なき殺人です。ただ斬りたかったから斬ったのか。太陽がまぶしかったから斬ったのか。ともかく理由はありません。恨みがあるわけではない。金をとるわけでもない。あるいは現代の〈理由なき殺人〉に通じるテーマかもしれません。高橋敏夫はこの本について、『理由なき殺人の物語』(廣済堂出版)を書いています。帯にはこう書かれています。

 〈「理由なき殺人」からはじまる『大菩薩峠』は、血みどろのホラーを希望の通路に換え、怪物だけが切り拓く未来をはるかにさし示す〉。

 果たして「希望の通路」はあるのでしょうか。無くっていいんです。絶望の連続が人生なんですから。
 私が初めて『大菩薩峠』を知ったのは多分、中学の時だったと思います。とても理不尽な話だと思いました。もっとも、「理不尽」という難しい言葉は当時は知りませんでしたから、〈変な話だ〉と思いました。そして悩み、苦しみました。だって、当時のチャンバラ映画は中村錦之助、東千代之助らが活躍する勧善懲悪ものでした。出てきただけで、こいつは善い者、こいつは悪者と、はっきり分かるのです。
 ところが、『大菩薩峠』の主人公・机竜之助は悪党です。映画が始まるやいなや、罪もない老人を斬り殺し、悠然と去ってゆくのです。又、奉納試合では、宇津木文之丞の妻・お浜に「腕が違います。勝ちを譲って下さい」と頼まれ、引き受けるふりをして水車小屋で犯します。そして、試合では相手を殺し、お浜を奪って逃げます。さらに、悪事の限りを尽くします。新撰組に入ったりもします。  「何で主人公が悪党なんだ!」と中学生の邦男少年は激怒しました。正義感が強かったのです。机竜之助は、その後、盲目になりますが、かえって剣に凄味を帯び、強くなり、斬りまくります。こういう小説を「ピカレスク」(悪漢小説)というのだそうですが、勿論、子供の頃ですからそんなことは知りません。
 大学を出てからこの大河小説に挑戦しましたが、途中で挫折しました。もっとも、作者の中里介山だって、挫折して、「未完」のままに終わったのです。でも、日本を代表する大河小説です。これを読まない者は日本人じゃありません。反日です。売国奴です。ですから、この機会に、キチンと通読しようと思い立ったのです。幸い、安くて読みやすい文庫が出ています。ちくま文庫で全20巻です。1巻が757円ですから、全部で1万5千円です。まァ、4、5冊ずつ買ってきては読んでおります。
 昔読んだ時は、分からないながらも仏教的な空、虚無、無常を感じたことを覚えております。大菩薩峠というタイトルからして仏教的です。それに机竜之助には常にニヒルな、捨て鉢な雰囲気が漂っています。
 今読み返してみると、やはりそうなのです。「平家物語」とは又違った意味で、仏教小説を書こうとしたのです。新潮日本文学アルバムの『中里介山』を読んでいたら、アッと驚く発見がありました。

 〈昭和2年(1927年)。介山42才。11月1日、東京会館で、東京日日新聞社、春秋社、介山の共催で、『大菩薩峠』続編掲載の披露宴を開いた。参会者は、岡実主幹、田中智学、神田豊穂、田川大吉郎、堺利彦、武者小路実篤、中村岳陵など百余名が集まった〉

 社会主義者の堺利彦も来たんですね。2.26事件で処刑された北一輝もこの小説の大ファンだったし、北と堺は「老壮会」でよく会っていた。だから北が堺に勧めたのかもしれません。「老壮会」は、老いも若きも、右も左も一緒に集まって勉強しようという思想的バリア・フリーの集まりです。後に、一水会はこの老壮会をモデルにして生まれたと聞いております。
 ところで、この昭和2年の「続編掲載の披露宴」の参会者のうち、注目してほしいのは、田中智学であります。愛国的急進的日蓮主義の団体「国柱会」を作り、主宰した人です。満州事変を起こした石原莞爾や詩人の宮沢賢治は熱烈な国柱会の信者であります。又、『天皇とプロレタリア』『国体に対する疑惑』を書き、天皇論に革命を起こした男・里見岸雄はこの田中智学の息子(三男)であります。田中智学は宗教者にして、維新革命家でありました。その田中が何故、この場にいたのでせうか。
 実は、田中は「単なるファン」として列席したのではありません。この本の宣伝・販売に大きく協力したのであります。前にも何度か紹介しましたが、「少年小説大系」(三一書房)の第19巻『昭和伝奇小説集』に田中智学のことが出てきたのです。ここには、行友李風「破軍星」、濱丘浪三「南蛮小僧」、千葉省三「陸奥の嵐」、畑耕一「剣魔白藤幻之介」が収められておりました。ただ、「解説」のところで高橋康雄が、「伝奇小説のルーツ」として『大菩薩峠』と白井喬二の『富士に立つ影』をあげていたのです。この二つは単なる歴史小説ではないというのです。その上で、『大菩薩峠』について、こう説明しております。

 〈『大菩薩峠』は「都新聞」(大正2年9月〜同10年10月)の連載を経て、大正7年に自費出版。同10年に春秋社から改めて出版された。田中智学や菊池寛などの推輓によって、漸く世間に知られるようになり、版元も全力投球で販売にあたった〉

 菊池寛と田中智学の二人が推薦し、それで世間に認められ、一大ブームを引き起こしたのです。この二人は、『大菩薩峠』が国民文学になる上での大恩人というわけです。菊池寛は小説家にして、「文芸春秋」を作った人です。又、芥川賞、直木賞を作った人でもあります。だから文学界への影響力は絶大でありました。では一方、田中智学は? 田中だって思想界、宗教界には大きな影響力を持っておりました。田中の「国柱会」に入っていた宮沢賢治もだから、この本の愛読者でありました。そして、「大菩薩峠を読みて」という詩を作っております。こんな詩です。

 「二十日づき かざす刃は音なしの 虚空を二つと 斬りさぐる その竜之助 風もなき 修羅のさかひを行き惑ひ…」

 こう書くと、中里介山の小説の底に流れる虚無的、仏教的ムードに田中智学が感動し、その門下生の宮沢賢治が愛読者になった。そう思われるかもしれませんが、違うのです。真相はその反対であります。中里は、田中智学の教えに教化され、本を読みまくり、そして、仏教小説ともいうべき『大菩薩峠』を書いたのであります。その証拠に、田中と会った中里は、感動し、「私は先生のご著書を愛読し、空で言えるほどです」と言って、実際に田中の小さな論文をその場で暗唱してみせたのです。これは国柱会の人から聞いたのですから本当です。
 国柱会ではありませんが、同じく法華経の熱烈な信者・北一輝は、「これを読め」と門下生たちに勧めておりました。北一輝の研究者で有名な松本健一には、『中里介山・辺境を旅するひと』(風人社)という著書があります。その中に、こんな箇所があります。

 〈林不忘の『丹下左膳』のモデルであるともいわれる北は『大菩薩峠』の愛読者でもあった。かれは昭和初年に、嶋野三郎に『大変面白いから読め』といって『大菩薩峠』の一冊を送ってきたりしている〉

 アレッと思った。松本健一も嶋野三郎に会ったんだろうか。僕は30年近く前に会って、北一輝、老壮会、2.26事件の話を聞いた。それは『証言・昭和維新運動』(島津書房)の中に入っている。嶋野によると、北は片目が義眼だ。そこから林不忘は丹下左膳のイメージを思いついたという。嶋野はこう言っていた。
 「丹下左膳のモデルは北さんですよ。林不忘の親父は佐渡中学の校長をしていたとき、北さんをよく知ってたからね。こりゃ面白い話ですよ」
 そして北一輝について、興味深いことを言っている。
 「北さんはまるで、ドイツのゲーテみたいな人だったね。大体、哲学者というのには体系があるんだな。カント、フィヒテ、ベルグソン、ヒューム、デカルトのように。しかしゲーテという人には体系がない。そして広い。北さんと話をしていると、まるでゲーテと話をしているみたいだったよ。美術論あり、科学論あり、哲学論ありでね」
 北一輝はゲーテのような人だった、なんて言ったのは後にも先にも嶋野さんだけだった。ここで話を中里介山に戻す。北一輝は家庭を持ってたが、子供はいない。中里介山は生涯、独身だった。女性は嫌いではなかったが、〈女性不信〉の念が生涯抜けなかったのであろう。
 『大菩薩峠』では、机竜之助は宇津木文之丞の妻・お浜の頼みを退け、お浜を奪って逃げる。子供も出来る。お浜は竜之助に、毎日、恨みごとをいう。「あなたさえいなければこんなことにはならなかった。悪党!」と。しかし竜之助は言う。「そうかな。お前という女がいたから全ての問題は起こったのではないか」と。その後、言い争いの末、お浜を斬り殺す。
 〈悪縁〉に結ばれ、そして破滅した二人だ。この後も、こうした悪縁が次々と出てくる。
 竜之助のニヒルな、絶望的な女性観は、実は、作者・中里介山の女性観だった。又、そう思わせる不幸な女性体験が続いたのだ。「新潮日本文学アルバム」の『中里介山』では、こう書かれている。

 〈…介山の「独身」の問題にからんで、異性関係が気にならないではいない。年少の日の介山が、「壬寅日誌において、久保川きせ子と推定される女性を思慕し悩んでいるさまが確認されるが、「都新聞」記者になったのち、明治四十二年ごろ、近所に住む美しい人妻・斉藤醜女(しこめ)としり、交渉があったといわれ(昭和に入って深い関係になる)、また、「都新聞」の受付嬢の遠藤妙子は、介山が真剣に結婚を考えた女性であったが、彼女が社長のおもいものであったために諦めざるを得なかったといわれている〉

 新潮社の本に書かれているのだから本当だろう。それに、「深い関係」になった斉藤醜女と、「社長のおもいもの」(=妾)の遠藤妙子の写真も出ている。なかなかの美人だ。しかし、こんな形で歴史に名をとどめるというのも何やらあわれだ。他にもこんな不幸な男女関係が介山にはあり、ねじれ、ひねくれた女性観を持つようになる。
 それにしても、「斉藤醜女(しこめ)」というのは何とも凄い名だ。醜女と書いて、今なら、「ぶす」と仮名をふる。みにくい女という意味だ。本名なのだ。今なら親が付けても、役所では絶対に受け付けない。「悪魔くん」でも、もめた位だ。では何故、当時はこんな名前を付けられたのか。多分、「謙遜」の意味で親がつけ、役所もそれを認めたのだろう。「どうせみにくい子供ですが、よろしくお願いします」という日本人の謙譲の美徳の極致なのだ。(大杉栄の子供は「後に悪魔の子と呼ばれるようになるだろう」と「魔子」とつけられた)
 大体、女性の名前に「美」や「貴」や「麗」などを付けるようになったのは最近だ。多分、戦後だろう。電話で自分の名前を説明してる女がいるよね。「美貴子よ。美しいの美に、貴族の貴よ!」なんて。ゴーマンな人間だ。昔は、「こんなブスですが…」と謙虚に付けたのに…。
 渡辺淳一の『遠き落日』(角川文庫)を読んだら驚いた。あの野口英世の辛口の伝記だが、英世の母の名は「シカ」という。長女の名は「イヌ」だ。イヌ年に生まれたからだという。シカにしてもイヌにしても、動物のように丈夫に育ってくれという意味から付けたのだろうが、これも今なら役所で受け付けないだろう。いぬい・ふといち君のお母さんは、いぬいいぬだと言う人がいたが、これはデマだろう。しかし、ふといちと父親が付けたのは謙遜の精神なのか。「細一」なんて付けたら、「嘘つき!」といじめられただろう。だからこれでよかったのだ。でも、赤坂細子がいるって? 彼女は本当に細いからいいんだ。それがもし、デブで、そのくせ細子なんて名前だったら、それこそフテエ野郎だ! ということになる。許せない。
 斉藤醜女に話を戻す。彼女は「美しい人妻」と書かれている。実際、写真も美しい。とすると、両親は、もしかして〈自信〉があったからこんな自虐的な名前を付けたのではないか。両親の顔を見たら、どんな娘になるか分かる。つまり、自分たちに自信があった。だからこそ、ヘリ下って「醜女(しこめ)」と付けた。多分、そうだろう。と、日本のポアロは推理する。
 これが逆に、両親が不美人で、娘も不美人であることが「歴史の必然」として分かっていたら、とても「醜女」と付けられまい。「ヤーイ! 名前の通りのブスだ!」と皆に、いじめられる。だから、謙遜し、自虐するには、それだけの自信が必要なのだ。
 そこで結論。日本も、自信があるんだから、もっともっと謙虚になっていいのだと思う。大国だなぞと威張ることはない。そう思うのだが、どうだろう。
 この「斉藤醜女」については松本健一も気になったらしく、前掲『中里介山・辺境を旅するひと』の中で、触れている。

 〈近所に住む人妻の斉藤醜女は、たいへんな美女だったという。この「たいへんな美女」という表現には、絶世のという意味のほかに、男を快楽地獄にまで引きずりこむといった含みもあるのかもしれない〉

 えっ、そんな含みがあるのかね。でも、松本は確信をもって言うんだ。又、遠藤妙子にしても愛したら社長の妾であったとか、そんな不本意な恋愛事件が続く。そして、松本健一はこう結論づける。

 〈女は女であることにおいて男を頽廃に誘う魔物であるといった介山のねじれた女性観が胚胎する〉

 この、ねじれた女性観は、そのまま『大菩薩峠』に反映している。だから、その点からだけ読んでも面白い小説である。さらに奇妙なことがある。介山は、こうしたねじれた女性観を持ちながら、何と、それらの一切を神経質に自分の経歴から消そうとしたのだ。その辺を松本はこう書いている。

 〈(介山は)堺利彦から女性に対しては「博愛主義」だとさえいわれた。交渉のあった女性の名としても、遠藤妙子、斉藤醜女、石原登美子、北村なみ子など数多くあげられる。そういった女性遍歴の一方で、交渉のあった女性に宛てた手紙はことごとく回収し、焼き捨てるといった、ある意味で臆病な振舞いをしている。
 また、青年期の『壬寅日記』を昭和19年(1944)に編集し直したときに、恋に関するもの、性に関するもの、女性に関するものを、執拗に墨で黒く塗りつぶしたり、また裂きとったりしている。それは一種の偏執である〉

 かわいそうに、「偏執である」とまで言われちゃったよ。でも、それほどまでにして女性遍歴の過去を消そうとしたのに、無駄な努力だったんだね。こうして松本には書かれるし、「新潮日本文学アルバム」には交渉のあった女たちは写真まで載っている。介山も、大小説家なんだからビクビクしないで全て公開し、それをも文学にして書いたらよかったのに。
 さて、小説の『大菩薩峠』の話はこれで終わりだ。皆も、ちくま文庫でぜひ全巻読んでみなせえ。ところで、地名の大菩薩峠は、1969年に、もう一度脚光を浴びることになる。そう、赤軍派ファンの皆さんなら知ってますよね。赤軍派が大菩薩峠の民宿「福ちゃん荘」で合宿をしてるところを警察に急襲され、全員逮捕されたんだ。なんでも、赤軍派は(戦前の5.15事件にならって)首相官邸占拠を計画し、そのための軍事訓練を大菩薩峠で行なっていたという。なぜ大菩薩峠かって? 勿論、革命家たらんとするもの、介山の『大菩薩峠』を愛読しており、そこで軍事訓練をしたかったのだ。
 ところが内偵していた警察に情報はつつ抜け(内部にスパイがいたという)。そして11月15日未明、急襲され、53人全員が凶器準備集合罪容疑で逮捕された。しかし、軍事訓練といいながら、見張りもおかずに全員が熟睡していた。だから、パンツ一丁で逃げまどう「革命家」たちばかりだった。その写真が『一億人の昭和史』などには載っている。みじめだ。大体、赤軍派も人がいなくなり、この時はほとんどが、急遽かり集められた高校生だったという。だったら、首相官邸占拠なんて言っても、どこまでやれるのか分かんない。ひとつ、やらせてみたらよかった。それから捕まえても遅くない。しかし、そんな力はない。だまってたら、「合宿」だけで終わったんだろう。だから、「官邸占拠計画があった」ということで「福ちゃん荘」を急襲したんだろう。
 実は、この10年後、一水会でも大菩薩峠で合宿をやった。この小説にあこがれて、そして、赤軍派にあこがれて。ただ、「福ちゃん荘」ではおこがましいと思い(そこは謙譲の精神で)、その隣りの民宿に泊まりましたよ。名前は忘れた。「亀ちゃん荘」だったかな。
 では、オワリ。ともかく、日本人なら『大菩薩峠』を読みんしゃい。活字離れしとる人は、まずビデオを見て、状況をつかみ、それから読んだらいいだろう。何度も映画化されている。多いのは市川雷蔵主演のやつだ。僕が、ガキの時見たのは片岡千恵蔵だった。その前は阪東妻三郎がやった。この3人が代表的な机竜之助役者かと思ったら、、何と仲代達矢も1966年にやってたんだね。知らなかった。
 この前、岡本喜八監督の作品24本を「ラピュタ阿佐ヶ谷」で一挙上映したので、通って全部見た。その中にあったのだ。仲代の机なんか、と見る前は馬鹿にしてたが、なかなかよかった。自分が斬った人間が幽霊になってあらわれ、それに斬りかかる机。なにやら四谷怪談の伊右衛門を思い出した。凄然だった。又、物語の初めに、老人の巡礼は菩薩像に手を合わせながら、「もう用もない老人です。早く、あの世からお迎えがきますように」といって祈る。その直後、机が現われて斬り殺す。老巡礼の言葉は原作にはない。岡本喜八なりのサービス精神なのか。それとも合理主義なのか。
 岡本喜八監督の作品を見ていて、アッと思ったのが何本かあった。その中でも、これだよね。15年前、赤報隊が、この映画を見て、事件を起こしたといわれる映画だ。無慈悲に記者を射殺した。その事件に影響を与えた映画が、1969年に封切られていた。そう、赤軍派が大菩薩峠の「福ちゃん荘」で一網打尽にされた年だ。因縁だね。さて、その映画とは。待て、次号!

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