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推理アニメは詰め将棋に似ている〔注1〕。月曜夜7時30分、人気推理アニメ・『名探偵コナン』を見ていた僕はふとそんなことを考えた。
詰め将棋には、現実の将棋にはない特有のルールが存在する。そのうちの一つに、「攻める側は敵方の王を詰ませたときに、持ち駒を全て使い切った状態にしなければならない」というものがある。
現実の将棋では、とにかく敵方の王を詰ませれば勝ちだ。そのときに持ち駒が残っているかどうかなど勝負とは何の関係もない。しかし詰め将棋は、敵の王を詰ませたときに必ず全ての持ち駒を使い切るようにできている。
推理アニメも同じである。お話の中で起こったことは全て事件に関係している。事件を解決するとき探偵は、そのお話で出てきた事柄を総動員して推理を展開しなければならない。
実際の事件では、警察が収集する膨大な情報の大半は事件とは何の関係もない。事件現場に空き缶が落ちていたり、事件直前に焼いも屋さんが現場を通っていたとしても、おそらく事件とは無関係だろう。しかし推理アニメでは、落ちている空き缶には必ず何らかの意味があるし、事件直前に現場を通った焼いも屋さんは事件解決の糸口を必ず握っているはずだ。
松本清張の推理小説でも『火曜サスペンス劇場』でもこのあたりの事情は同じである。限られたページ数・限られた放送時間の中で、事件とは何の関係もない空き缶や焼いも屋の様子が延々と描写されようものなら、読者としてはたまったものではないのである。
したがって火曜サスペンス劇場では、全ての事柄がきわめて迅速に進行する。事件とは関係のない事柄は全て省かれるし、バールで一発殴っただけで人は簡単に失神する。
はっきり言ってしまえば、推理アニメや推理ドラマの展開は、作者や脚本家の「都合」によって作られるのだ。そのこと自体は実に当然のことであり、悪いことでもなんでもない。ただ、そうである以上、物語の作者や脚本家は、その物語の展開そのものにも責任を負わなければならないのである。
……と以上、自分でもよくわからない話を書き連ねてきた。これも全て、人気推理アニメ・『名探偵コナン』の劇場版第6作・『ベイカー街の亡霊』の脚本を担当された野沢尚さんに一言文句を言うためだ。
結論から言うと、『ベイカー街の亡霊』は、あまりにも人命を粗末に扱いすぎている。
推理アニメを相手にして「人命を粗末に扱いすぎている」? いまさら何を……と、どうか思わないでいただきたい。もしこれが『金田一少年の事件簿』であったり、『火曜サスペンス劇場』であるのなら、僕はいまさら文句を言おうとは思わない。
しかし『名探偵コナン』には、他の推理モノとは一線を画す特有の理念があるはずだ。それは「人命至上主義」である。「殺すな 殺されるな 殺させるな」とでも要約できる、頑ななまでの「人命至上主義」がこの作品ではずっと貫かれてきた。
今から、『名探偵コナン』の「人命至上主義」を決定づけるいくつかの特徴を挙げたいと思う。
1.犯人を自殺に追い込まない
『火曜サスペンス劇場』などでは、最後の最後に犯人が自殺することがしばしばある。『金田一少年の事件簿』では、犯人のほとんどが自殺する。ひどいものになれば、探偵が犯人に自殺を促す推理モノもある。だがコナンは、犯人に対して絶対に自殺を許さない〔注1〕。
コナン(=新一)は、単行本の16巻で次のように述べている。《犯人を推理で/追い詰めて、/みすみす自殺/させちまう/探偵は…//殺人者と/かわんねーよ…》
また、コナンの親友である高校生探偵・服部平次も、19巻にて犯人の自殺を止めている。彼はその後、「なんで/そんな/危ないマネ/すんの?」という問いに対して次のように答えている。
《どっかのアホが/ゆうてたんや…//推理で犯人/追い詰めて/死なしたら/アカン…/てな》
さらに、単行本の28巻では、自殺しようとする殺人犯を止めるため、次の言葉が使われている。
《あんた、また/人、殺す気か?//旦那さん殺して/また人を殺める気か/ゆうてんねや!》
《命に人のも/自分のもあらへん!/奪ったらアカン/大事な物や!!//それを断つアホは/みんな人殺しと/同じやねんで!!/なんぼそれが/自分の物でもな!!!》
また、劇場版第5作・『天国へのカウントダウン』でも、コナンは次の発言を残している。
《悪いな。探偵として、あんたを死なせる訳にはいかねえんだ》
これでもうお分かりだろう。「犯人を自殺に追い込まない」。これこそが、『名探偵コナン』の信条なのだ。
2.殺人を絶対に容認しない
もちろん『名探偵コナン』には、殺人者の事情もかなり詳しく描かれる。被害者の『非』もほとんど必ず描かれる。だが、いかなる事情を目の前にしようと、コナンは殺人を絶対に容認しないのだ。26巻にある、《情けねーが、/人が人を殺した/理由だけは/どんなに筋道立てて/説明されても/わからねーんだ…//(中略)理解は/できても/納得できねーん/だよ…/(中略)全く…》
というコナンのせりふが、そのことを物語っているだろう。
3.命は懸けても投げ出さない
これは単行本を全巻読めばわかることだが、コナンは絶対に命を投げ出したりはしないのだ。もちろん、仲間を助けるために「命を懸ける」ことはある。けれど、「命を投げ出す」ことはない。どんな苦境に陥ったときも、「仲間も助けて自分も助かる」方法を何が何でも探し出す。それが『名探偵コナン』の魅力なのだと僕は今でも信じている。
「犯人を自殺に追い込まない」・「殺人を絶対に容認しない」・「命は懸けても投げ出さない」。これこそが、『名探偵コナン』という作品がずっと守りつづけてきた信条だ。「殺すな 殺させるな 殺されるな」と集約できるこの信条は、あるいは戦後民主主義の合わせ持つ胡散臭さと紙一重であるのかもしれない。よく考えてみれば、コナンの推理で逮捕され、死刑になった人物だっているはずなのだ。
「どんな苦境に陥ったときも、自分も仲間も犯人の命も必ず守ってみせるんだ!」というコナンの信念は、おそらく一つの理想でもあり、幻想でもあり、欺瞞でもある。現実には、仲間の命を助けるためには犯人を殺すこともあるだろう。自分の命を投げ出さざるをえないときもあるかもしれない。もしかすると、自分の命を守るため、仲間を見殺しにせざるをえないこともあるだろう。極限状態に置かれたときにそうした行動をとった人を、僕は批判するつもりはない。
けれどコナンは、「人命至上」の信念を決して捨てたりしないのだ。虚構かもしれない。幻想かもしれない。けれど、「最後の最後まで(犯人をも含む)人の命を守り抜く」という使命感がひしひしと僕には伝わってくる。僕は、そんなコナンにあこがれている。そして、「どれほどの苦境に立たされようと、自分も仲間も犯人も生き残る道は必ずある」という『嘘』に、僕は勇気づけられてきた。
そんなとき、昨年公開された劇場版第6作・『ベイカー街の亡霊』にて、新しい脚本家が抜擢された。野沢尚さんである。彼は江戸川乱歩賞受賞作家であるとのことで、6作目を迎えた劇場版『名探偵コナン』に新しい風を吹き込むために抜擢されたとのことだった。
こうして制作された『ベイカー街の亡霊』は、『名探偵コナン』の原作者・青山剛昌さんがずっと築き上げてきた「人命至上」の信条を物の見事に破壊した。
この作品では、小学生の子供たちが次々と『命を投げ出して』仲間を救う。まだ幼い子供たちが『自己犠牲』の名の下に次々と殺されていくわけだ。
それだけではない。この物語の後半には、ヒロインである毛利蘭が、犯人を道連れにして自殺する。毛利蘭は、ついに自らの手で犯人を殺してしまうのだ。物語はこの行為を、あのシャーロック=ホームズが悪の帝王・モリアーティ教授に述べた次の言葉を引用して正当化する。《君を確実に破滅させることができれば、公共の利益のために僕は喜んで死を受け入れよう》
「公共の利益のために」「喜んで死を受け入れ」る? そうした考え方を否定したところに成立した物語こそ、この『名探偵コナン』だったのではなかっただろうか。
もちろん僕は、毛利蘭の取った行動(犯人道連れ自殺)そのものを否定しているわけではない。現実問題、あの状況下でコナンたちを助けるためには、犯人を道連れに自殺するという選択肢はやむをえなかったと僕も思う。問題は、『道連れ自殺以外に選択肢がない』というような事態に物語を展開させた脚本担当の野沢尚さんの側にある。最初に言ったように、脚本家は物語の展開そのものに大きな責任を負っている。
この『ベイカー街の亡霊』という作品には、野沢さんの考え方が色濃く刻み付けられている。現代教育への批判・世襲制社会への疑問……。この作品に込められたこれらの主張は、賛否はともかくそれなりに考えさせられるものではあった。だが、「自己犠牲の尊さ」などという、『名探偵コナン』の理念と明らかに対立する考え方を前面に押し出してしまったことに僕は疑問を感じている。
野沢さんがご自分の小説の中で「自己犠牲の尊さ」を主張されるのなら結構だ。だが、これは『名探偵コナン』なのである。「犯人をも殺さない」という明確な理念を持つこの作品の脚本を担当する以上、その理念そのものを破壊するような脚本は決して書くべきではなかったと思う。この作品が『名探偵コナン』である以上、原作者・青山剛昌さんの精神はきちんと踏まえてほしかった。
そして何より衝撃を受けたのは、この物語の最後に起きた出来事だ。ここで、この物語の真犯人とでも言うべき人工頭脳・「ノアズ・アーク(ヒロキ)」が自ら活動を停止する。ノアズ・アークが完全に「人格」を持つ存在であったことを考えると、これは「犯人の自殺」そのものである。『名探偵コナン』において、繰り返し繰り返し否定され続けてきた「犯人の自殺」が、ここでは公然と行なわれる。そしてコナンは、この事態を目の前にしながら、これを一切止めようとはしない。ただ、「(酒井注:天国にいる)お父さんに会えるといいね」と笑って答えるだけである。そして最後に彼はつぶやく。「ノアズ・アークが自分の命を絶とうとしているんだ。安らかに眠れ、ヒロキ君……」と。
これでは、ノアズ・アーク(=ヒロキ)の「自殺」を事実上容認しているとしか思えない。本当にこれが、「犯人を推理で/追い詰めて、/みすみす自殺/させちまう探偵は…//殺人者と/かわんねーよ」と言い切ったあのコナン君の言葉だろうか。
以上、作品全体を全否定するような言い方をしてしまったが、推理アニメとしての面白さは決して悪くなかったと思う。だが、『名探偵コナン』と銘打って劇場公開する以上、作品理念はきちんと踏まえてほしかった。4月19日に公開される『名探偵コナン』劇場版第7作『迷宮の十字路』が、原作者・青山剛昌さんの精神を受け継ぐものであることを望む。
〔注1〕単行本25巻ではコナン自身、事件解決の際に犯人に向かって「オメーの将棋は/もう詰んでんだ」と言っており、推理と詰め将棋とを重ね合わせていることがうかがえる。だが一方18巻では、「チェックメイト」(チェスにおける「詰み」)という言葉が、「捜査が行き詰ってしまった」という意味で使われてもいる。
〔注2〕実はコナンは1度だけ、犯人を自殺させてしまったことがある。だがコナンは、その後もそのことを思い出しては、「犯人を自殺に追い込んだ自分」を責めるのである。コナンはたしかに一度だけ犯人を自殺に追い込んだ。だがそのことによって、『名探偵コナン』の「犯人の自殺を許さない」という作品理念はかえって明確化される結果となっている。
タダアキさんからメールにて次のようなご意見をいただきました。ここに掲載いたします。《またここでこう書くのはなんだと思うけれど、酒井君は、右翼とか左翼とか、の議論上の考えをあまり表に出さずに、ほんとに世の中の為になりそうな事をやったほうが良いと思う。僕は、酒井君はホントに世の中の為に行動をはじめたなら、絶対に世の中の為になると思うよ。
自分主義で、色々、社会に議論を吹きかけるのは社会に迷惑を与えてるような物だと思うよ・。
本当に愛国とか憂国って言う事を心の中でしっかりと持っているのなら、社会に変に過激な影響を与えるのじゃなくて、人がしっかり納得できるような考えが、実際に色んな場所で受け入れられている、って言うのを肌で感じさせる事が大事だと思う。例えば、日本政府は公的な物だと言ってるけど、なぜ公的なのか。それは日本で一番、お金を持ってるからだよね。税金を徴収できるからだよね。って事は、みんなそれなりに納得(強制的な面もあるけど)してるって言えると思うんだよね。そう言うと、俺はホントはどうだなんて言い出す人もいるけど。僕が一番思うのは、社会は議論だけで成り立った事は一度もなくて常に実務的な事を通して成り立ったのだと思う。自分の思う事を好き勝手に言葉に出して言ってるうちは、欧米の政府が作り出した、議論は砂上の楼閣だからいくら語らっても良いですよって、言う政略に騙されてると思うよ。議論で、相手が少し納得して、満足する人もいるけど、それで満足すればその人間の議論はそれぐらいの物だとも言えるよね。僕は実行力が人間にとって一番大切な事だと思う。今は特に官僚社会だからね。》