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十牛図



十牛図の前半
十牛図、後半


 禅の老師曰く「己を知れ」という。座禅しながら己自身について考えよという。自分がその生涯で出来ること、社会のなかで自分の使命はなんであるのかをよく見極めろということである。見極めたらそのとうりに生きて見ろという。

禅の修行を現したものの一つに「十牛図」というのがある。己の中の真の自分を牛に見立てた漫画のようなもので、十枚の絵から成り立っている。まず最初は牛を探しに出かける。そして牛の足跡を見つける。次に牛の一部、頭を見つける。 遂に牛全体をみつけそれを捕らえる。捕らえて牛を飼い慣らす。ここまでが前半である。各段階が一つの悟りになっており、段階的に真の自分を見つけることが修行を進めて行くことになっている。

六番目の絵では牛の背中にのっかて笛なんぞを吹きながら家に帰えってゆく。まあ完全に牛を自分のものにしたといったところであろう。ここまでは理解できるのだが、それからが難しい。

七番目、家に帰ってきてなにもかもほおりだしてポケッとしている。牛もいない。そして八番目の絵は何も描かれていない。九番目の絵は花咲く木と河が描かれ、最後の絵には荷物をかついで山から下りてくる人が描かれている。

禅では大悟と小悟があり、小悟は数を知れずという。小さな悟り、まあ閃きというか理解というかそんなものは数多くあるといったところである。大悟というのはそんなに数はなく、たとえばニュートンが林檎の実が落ちるのを見て万有引力を悟った、このようなものである。五番目までは小悟が続き、六番目では少なくとも一回の大悟はしている。

それでは七番目は何を現しているのだろうか。やっと見つけた真の自分と見つけようと努力していた自分が渾然と一体となり、最初に戻ったようになる。例えば病気になれば(修行すれば)普段気づかなかった健康(真の自分、牛)がよくわかる。しかし病気が治れば(大悟すれば)もとの健康な体になる。しかし健康というものを良く知った自分になっている。見た目には以前の自分といっしょだが中身が違うというところか。

さて八番目はどうか。なにも描かれていない。消滅してしまっているのか。有るのだが見えないだけなのか。九番目には今までとは無関係の絵が出てくることから推測すれば、八番目は有るのだが見えない、と解釈すべきだろう。例えば芋虫が蝶になるとき蛹という経過をたどる。蛹は芋虫でもなく蝶でもない。蛹のある時期には構造のない単なる液体になるときがある。まさにこれが八番目の状態ではないか。メタモルフィックな変化が人の心身に起こる。人格の変化か?空の悟りか?

そして九番目、花咲く木と河、まさに自然そのものである。芋虫が蝶になったのである。ヒトは自然の一部であり、自然はヒトの一部である。ヒトと自然の根元は同じである。これを大悟することであろう。極言すればヒトの設計図である遺伝子はあらゆる生物の遺伝子と共通項を持ち、さらにその遺伝子を構成する分子や原子は水や岩の分子や原子に含まれており、両者に共通項があることを真に理解することであろう。こうなればヒトの成り立ちや、自然の成り立ちが瞬時にして理解できるはずである。

ここまで解ってしまえばもはやこわいものはない。自分一人の修行を卒業し、人々の悩みを解決しに町へ出てゆこう。これが十番目である。
とまあ理屈ではわかってもこれを体験的にわからねばならない。各自各様の考え方があるだろうが、このように解釈して坐禅をする。そうするとそれなりの小悟が得られるというものである。

以下に十牛図を易しく示したものを見つけたので紹介しよう。

第ー図 尋牛


第二図 見跡


第三図 見牛


第四図 得牛


第五図 牧牛


第六図 騎牛帰家


第七図 忘牛存人


第八図 人牛倶忘


第九図 返本還元


第十図 入廛垂手